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古城めぐり(滋賀) ブログトップ

観音寺城(滋賀県近江八幡市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_7817.JPG←平井氏屋敷の石垣
(2005年3月訪城)
 観音寺城は、南近江の守護大名六角佐々木氏の居城で、中世5大山城の一つに数えられる壮大な山城である。その歴史上の初見は建武の新政期で、1335年に後醍醐天皇に叛して京に攻め上った足利尊氏を追って、はるばる奥州より遠征してきた北畠顕家の軍勢を、足利方の佐々木氏頼が「観音寺の城郭」に立て籠もって迎え撃ったことが太平記に記載されている。六角佐々木氏は、近江源氏佐々木氏の嫡流で、近江北半は庶家に当たる佐々木道誉を祖とする京極佐々木氏に押さえられたが、京都の東の玄関口として重要であった南近江で代々勢威を振るった。応仁・文明の大乱では、東軍に付いた京極持清に対して、六角高頼は西軍の山名方に付いて戦った。高頼は、大乱収束後、幕府に反抗的な態度を取ったため、若き将軍足利義尚が六角氏征伐に親征したが、高頼は甲賀山中に籠ってゲリラ戦を展開した。やがて義尚は鈎の陣にあって酒色に耽り、そのまま陣没してしまった。高頼の子定頼の時が六角氏の全盛期で、1532年に近江に逃れた将軍足利義晴を庇護し、1546年には義晴の子義輝を庇護して管領代に任じられて幕政を主導するなど、権勢を振るった。観音寺城はこの定頼の時代に大改修を受け、詰城から壮大な居城へと変貌を遂げたと考えられている。定頼の子義賢の時代になると、六角氏の勢威は陰りを見せ、家臣団が離反するなど動揺を見せた。その後、1568年に足利義昭を奉じた織田信長が上洛の途に就くと、六角義賢・義弼父子は信長の通過を拒否したために信長に攻められ、観音寺城はあっけなく自落した。以後、観音寺城は廃城となった。

 観音寺城は、標高440m、比高320mの繖山に築かれた城で、ほぼ全山を要塞化した壮大な規模の山城であった。しかし城域があまりに広範囲に渡るせいか、その縄張りはやや求心性に乏しく、幾つもの曲輪が連なっただけの様に見える。特にこの城で変わっているのは、本丸が山頂ではなく、山頂から南西に張り出した尾根上に築かれていることで、本丸が最上部にない山城というのは類例が少ない。この城以外で私が知っているのは、越前朝倉氏の詰城一条谷城ぐらいである。それでもその遺構は素晴らしく、殊に大規模に積まれた石垣は、中世城郭の中では群を抜くものである。本丸や周囲の家臣団屋敷である平井氏屋敷・落合氏屋敷・池田氏屋敷・淡路丸など、いずれも立派な石垣で囲まれており、埋門なども残っている。本丸に登る大手道も石段の登城道で、本丸の裏には石組みの井戸跡も残る。この他、あちこちに石垣が残り、観音正寺の近くには大見付という門跡の石垣もある。私が訪城した当時は、まだネットで地形図を入手する術を知らず、手探りで山城に行っていたが、それでも散在する遺構群に感嘆の声を上げていたのだから、今再訪したらどれほど感動するか、想像に難くない。主城域からかなり離れた場所にも畝状竪堀群があるなど、広範囲に遺構があるらしいので、いずれ1日掛けて山中を跋渉したい城である。
大手道の石段→IMG_7773.JPG
IMG_7863.JPG←大見付の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.9.38.7N35.8.34.0&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=136.15784010012&latitude=35.145986918326
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安土城(滋賀県近江八幡市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_7702.JPG←天守台の石垣
(2005年3月訪城)
 安土城は、戦国時代の革命児織田信長が天下統一の拠点として築いた城である。尾張の守護代織田家の分家筋に生まれた信長は、家督を相続すると同族を討って尾張国内を統一し、桶狭間で東海最大の戦国大名今川義元を討ち滅ぼし、美濃の戦国大名斎藤龍興をも滅ぼして美濃を平定した。美濃を平定して岐阜城に移った信長は、更に足利義昭という飛び道具を手に入れ、1568年、義昭を奉じて幕府を再興するという名目で上洛を果たし、義昭を15代室町将軍に就けて、一躍天下に覇を唱える権力者にのし上がった。その後、信長と敵対する諸大名による包囲網に苦しみながら、敵対する勢力を武力を以って次々と制圧し、1573年には越前朝倉氏・近江浅井氏を滅ぼした。1576年、信長は重臣の丹羽長秀を総奉行として、琵琶湖畔の比高110mの安土山に新たに安土城を築いた。近世城郭の先駆けとされる革新的な城で、全山総石垣で築かれ、山頂には権力を誇示する壮大な天主を建設した。本丸には、天皇の行幸を仰ぐ為の御殿があったと推測されている。これは、天皇を城に呼び寄せ、自らは天主から天皇を見下ろすという、正に自ら日本国王となるための仕掛けであったとされる。しかし1582年、信長の壮大な野望はわずかな油断から脆くも崩れ去ることとなった。即ち、本能寺の変である。明智光秀に宿所の本能寺を攻撃されて、信長は自刃し、二条城にいた嫡男信忠も討たれ、織田家の権勢は大きく傾くこととなった。この騒乱の中で、安土城は焼失された。焼失の原因は不明であるが、織田家次男信雄が焼いてしまったとの説が有力である。天主完成から焼失まで僅か3年。安土城は、信長の野望と共にはかない夢と散り失せた。そして天下の覇権は、信長の一部将に過ぎなかった羽柴秀吉に移りゆくこととなったのは、誰もが知る事実である。

 安土城は、現在も国の史跡として発掘調査が続けられている。荒れ果てていた城跡は、現在ではかなり整備が進められ、一直線に続く広い大手道も復元されている。権力者の城として見せることを主眼として造られた、おそらく日本史上最初の城で、殺(や)る気満々の中世城郭の方が好きな私からすれば、変質した城というイメージが強い。それでもその遺構は素晴らしく、五角形の特異な形状の天守台石垣や、各曲輪の周囲を固める石垣、枡形虎口など、見所には事欠かない。大手口入ってすぐの両側には伝羽柴秀吉邸と伝前田利家邸があり、石垣が復元整備され、主殿に登る階段の他、排水側溝なども残っている。大手道を形作る石は、近隣の集落から多数徴発されたらしく、所々に石仏まで敷かれている。革新的で旧弊にとらわれない、有能な信長ではあったが、石仏まで下敷きにする異様な絶対君主でもあり、同時代の人達からいかに恐れられ、また反感を買っていたかは、こうした遺構を見ても理解できる。この他、山麓にも石垣が積まれた平場が多数残っており、絶対権力者の城らしくかなりの規模で城造りがされていたことが伺われる。訪城から7年もたった今でも未整備で入れない場所が残っているそうだが、今後も頑張って整備復元してもらいたい。
一直線に伸びる大手道→IMG_7652.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.8.31.6N35.9.7.9&ZM=9
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長浜城(滋賀県長浜市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_7178.JPG
(2005年2月訪城)
 長浜城は、織田信長の部将であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が築いた水城である。元々は今浜城と呼ばれ、近江半国の守護であった婆娑羅大名、佐々木道誉が1336年に築城し、今浜氏が守備していたと言われている。1575年、織田信長は北近江の戦国大名浅井長政をその居城小谷城に攻め滅ぼし、小谷城攻めで功を挙げた羽柴秀吉に、浅井領の江北三郡を与えた。秀吉は当初小谷城に入ったが、城下町整備や経済発展に不利な山城を捨て、琵琶湖畔の水運の要地であった長浜に、古城を改修して新たに長浜城を築いた。この時、今浜の地名は秀吉によって長浜と改められた。秀吉は、この時初めて城持ち大名となった。1582年、信長は本能寺で横死し、清洲会議で織田家重臣4人が織田家跡継ぎと所領の処置を決めた際、柴田勝家に長浜城が与えられ、勝家は甥の柴田勝豊を長浜城主とした。同年冬、勝家が越前北の庄城で北国の雪に閉ざされている間に、秀吉は長浜城を攻め、勝豊は呆気無く秀吉に降った。翌年、秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家を滅ぼすと、秀吉の家臣山内一豊が長浜城主となった。関ヶ原合戦後の1606年、内藤信成が駿河から移封されて長浜城主となったが、1615年、子の信正の時に摂津に転封となり、長浜城は廃城となった。その後、彦根城築城の際に、建物・石垣などが移築転用された。

 長浜城は、琵琶湖畔に築かれた平城で、湖水を大々的に引き入れた、水面に浮かぶ水城であったらしい。しかし現在は、市街化・公園化で全て改変され、全くその名残を留めていない。昭和20年代の航空写真ですら、現在の地図にどう当てはまるのかわからないぐらい改変が進んでいるので、戦国時代の城の痕跡は望むべくもない。現在城跡は豊公園となっているが、全く創作の模擬天守が建っているだけで、明確な遺構はない。日本城郭大系には石塁の遺構の写真が掲載されているが、これも現在は残っていない。どのような縄張りの城であったのかも謎で、とにかくこれほど有名な城なのに、これほどその痕跡が残っていない城も珍しいであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.15.51.1N35.22.28.0&ZM=9
タグ:近世水城
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彦根城(滋賀県彦根市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_6967.JPG←天秤櫓前の大堀切
(2005年2月訪城)
 彦根城は、徳川四天王の一人、井伊直政が築いた近世城郭で、国宝4天守の一つである。1600年の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、大阪城の豊臣方に備える為に城郭整備に乗り出した。彦根城もその一環として新造された城である。上野高崎城主であった井伊直政は、関ヶ原の戦功により近江佐和山城18万石に封ぜられた。直政は間もなく関ヶ原合戦の際の負傷が原因で没し、その子直勝の代に佐和山城を廃して新たに彦根城の築城を開始した。幕命により、12の大名が普請に加わったにも関わらず、1622年頃まで約20年の歳月を費やす難工事であったと言われる。その後、江戸幕府の重臣井伊家の歴代の居城となり、幕末には大老井伊直弼などを輩出して明治維新まで存続した。

 彦根城は、比高30m程の彦根山に築かれた平山城である。まずその縄張りであるが、甲州流軍学者の早川弥総左衛門によって縄張りされた。近世城郭では非常に珍しく、堀切を主体とした防御線を張っていることが特徴である。即ち、本丸手前の太鼓丸の前面は、馬出しを兼ねた鐘ノ丸との間に石垣で囲まれた堀切が穿たれている。また本丸後方の西ノ丸にも大堀切が穿たれ、三重櫓が睨みを効かせている。そして斜面上には5ヶ所に登り石垣が構えられているのも、類例の少ない特徴である。山麓外周には、地盤の弱さを補強する腰巻石垣が築かれている。その他、二ノ丸外周の石垣・枡形虎口・中堀がほぼ完存し、外郭に当たる三ノ丸の土塁もごく一部ではあるが残っている。
 一方、現存建築物であるが、彦根城はかなりの部分を旧来の城からの移築に拠っている。天守は大津城天守を、天秤櫓は長浜城大手門を、西ノ丸三重櫓は小谷城の天守を、それぞれ移築したものと言われている。また石垣の石材なども、佐和山城などから多く移築されている様だ。

 近世城郭としては、中世城郭の雰囲気の濃厚な極めて特異な縄張りを持ち、しかも多数の現存建築物を有する彦根城は、極めて貴重である。
西ノ丸三重櫓と堀切→IMG_7018.JPG
IMG_7033.JPG←登り石垣と竪堀
腰巻石垣・鉢巻石垣→IMG_7084.JPG
IMG_7137.JPG←三ノ丸土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.15.18.9N35.16.23.3&ZM=9
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