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古城めぐり(静岡) ブログトップ
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向笠城砦(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

IMG_9007.JPG←標柱の立つ法雲寺の裏手
 向笠城砦は、歴史不詳の城である。平城であった向笠城から南に1.2kmの位置にあり、その出城として機能したものと推測される。
 向笠城砦は、法雲寺の裏手付近にあったらしい。比高30m程の段丘の縁に位置しているが、標柱が建っているだけで解説板もないので、由来も縄張りもよくわからない。おそらく物見程度の簡素な砦だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=34.756821&lon=137.878724&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世平山城
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向笠城(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

IMG_9002.JPG←城址付近の現況
 向笠城は、戦国時代に今川氏に属した向笠氏の居城である。向笠伯耆守が築城したと言われ、1508年に、今川氏親の部将伊勢宗瑞(北条早雲)が三河岩津城を攻撃した際、向笠氏も参陣していたと伝えられている。今川氏が滅亡した後は、遠江に進出した甲斐武田氏に属し、武田方の一支城として修築されたが、1573年3月、徳川家康の家臣酒井忠次・平岩新吉らに攻囲され落城した。時の城主向笠彦三郎は、一旦高天神城に逃れたが討死したと言う。

 向笠城は、敷地川西側の平野部に築かれていたとされる。城址一帯は、民家と一面の畑に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。付近には、城屋敷・東門・陣垣戸・奥屋敷など、城にちなむ地名が多く残っているらしい。この他には、向笠史談会が建てた解説板だけが、往時を物語っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=34.768094&lon=137.880473&z=16&did=std&crs=1
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加賀爪甲斐守屋敷(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

IMG_9000.JPG←屋敷跡とされる場所
 加賀爪甲斐守屋敷は、江戸時代前期の旗本加賀爪氏の屋敷跡である。加賀爪氏は元々上杉氏の一族で、加賀爪甚十郎忠郷の時に駿河守護今川氏の被官となって加賀爪氏を称した。今川氏滅亡後、加賀爪政尚は徳川家康に仕え、長久手の戦いや小田原の役で功を挙げ、武蔵国比企と相模国高座に3,000石を領した。政尚の子忠澄は、関ヶ原合戦や大坂の役の戦功により、5,500石に加増され、江戸町奉行に登用され、最終的には9,500石に累進した。忠澄の子、加賀爪甲斐守直澄は、1万1,500石を領して大名格となり、掛塚藩を立藩した。一時期は、武蔵の高坂館に陣屋を構えたと言われ、館跡の高済寺境内に加賀爪氏累代の墓が残っている。その後直澄は、書院番隊長や1661年には寺社奉行となり、幕府の重職を歴任して、1668年には更に3,000石が加増された。また直澄は、旗本中の乱暴者として通り、一方で茶道にも通じていたとされる。1679年、嫡子直清に家督を譲ったが、1681年に成瀬正章と領地問題で争いを起こし、処置不十分を理由に改易された。

 加賀爪甲斐守屋敷とされる場所は、敷地川西側の段丘の麓にある。この付近一帯は民家や畑に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。わずかに向笠史談会が建てた標柱と解説板だけが、往時のことを物語っている。尚、ここから南に1.3kmの位置にある寺田家の門は、加賀爪甲斐守屋敷の門であったと伝えられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=34.774554&lon=137.872555&z=16&did=std&crs=1
タグ:居館
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瀬名館(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC05099.JPG←松寿院に残る2代氏貞の墓
 瀬名館は、今川氏の一族瀬名氏の居館である。瀬名氏の祖今川陸奥守一秀は、遠江今川氏の後裔堀越氏の一族で、父の堀越城主堀越貞延が1474年の小夜の中山合戦で討死すると、海蔵寺の喝食から還俗した。1476年、今川義忠が塩買坂で討死すると、今川家中では幼い嫡子竜王丸と義忠の弟小鹿範満の間で家督争いが起こり、今川一秀が竜王丸の補佐役として抜擢されて駿府に移り、旧領の瀬名郷を与えられて瀬名氏を称した。瀬名氏は今川宗家を補佐する一族として大きな勢力を有し、一秀は二俣城の城将となって遠江斯波氏の勢力を押さえるなど、重臣として活躍した。一秀以後の瀬名館は、氏貞・氏俊・氏詮と4代に渡る居館となった。氏俊は、桶狭間合戦の際には今川軍の先発隊の将となり、その名を残している。尚、瀬名館の付近には瀬名砦があったが(所在不明)、1568年の武田信玄の駿河侵攻の際に落城した。
 瀬名館は、長尾川東岸に広がる瀬名郷に築かれていたが、現在は完全に宅地化され、遺構は完全に湮滅している。西奈図書館の西側一帯が館跡と推測されており、付近には「大屋敷」の字名が残る。尚、館跡推定地の東側には、今川一秀の菩提寺光鏡院や松寿院があり、供養塔や墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.017503/138.422359/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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内牧城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC05072.JPG←畑化した平場
 内牧城は、南北朝時代に駿河南朝方の武将狩野介貞長が築いた安倍城の支城である。元々内牧城には狩野氏の居館が置かれており、その創築・廃城時期は安倍城と同時期と考えられている。
 内牧城は、内牧川西岸に突き出た比高40m程の丘陵突端に築かれている。2つの曲輪から成り、尾根には堀切もあった様だが、現在は畑に変貌している他、城域の一部を新東名が通っており、かなり破壊を受けていると思われる。「思われる」というのも、主郭と思われる先端の平場は、前述の通り民有地の畑で、勝手に入ることはできないからである。柵越しに見たところでは、畑に変貌した平場以外は確認できない。この平場の中央には、台座に「内牧城址」と刻まれた五輪塔と石碑が建っている。いずれにしても南北朝期の城であり、同じ安倍城の支城であった小瀬戸城と同様、素朴な縄張りであったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.020794/138.345073/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小川城(静岡県焼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC05052.JPG
 小川城は、法永長者屋敷とも呼ばれ、1476年に今川義忠が塩買坂で討死した後に今川家中で生起した跡目争いの時、伊勢新九郎長氏(北条早雲)を介して、義忠の正室で長氏の姉妹であった北川殿とその子竜王丸(後の今川氏親)を保護した人物「法永長者」の居城である。その後、法永の子孫は長谷川氏を称して今川氏の家臣となり、今川氏滅亡後は徳川氏に仕えたと伝えられている。
 小川城は、現在は住宅地に変貌しており、遊歩道に石碑と解説板が建つ以外は何もなく、遺構は完全に湮滅している。空中写真閲覧サービス(旧称、国土変遷アーカイブ)の昭和20年代の航空写真では、畑地の中に方形に巡る堀跡がはっきりと残っている。発掘調査の結果からも、方形の単郭居館であったらしく、南側に虎口が2ヶ所築かれ、大手虎口にはわずかに横矢が掛かっていた様である。わずかでも遺構が残っていればよかったのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.856425/138.304771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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城之崎城(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC05007.JPG←球場の周囲に残る城塁
 城之崎城は、徳川家康が築城途中で放棄した城である。一説には、古く平安末期の寿永・建久年間(1182~1190)に遠江守となって当地に入部した安田三郎義定が築いたのが始まりともされるが、定かではない。その後、応仁の乱の時、今川義忠の遠江侵攻により生起した今川氏と遠江守護斯波氏との抗争の際に、一時的に城塁として機能したと推測されている。城之崎城が歴史上に明確に現れるのは、1569年正月に徳川家康が築城した時で、山本帯刀成氏(成行)の縄張りで見付宿の東方山続きの「旧塁」を崩して新城を築こうとした。この頃家康は、武田信玄と連携して東西から今川領を挟撃しており、駿府を逃れて掛川城に籠もった今川氏真を包囲攻撃していた。しかし掛川城の守りは固く、同年5月に氏真と講和を結び、掛川城が開城となると、城之崎城は未完のまま放棄され、1570年6月に曳馬城へ移った。そして曳馬城を一郭として取り込んだ形で新たに浜松城を築城した。

 城之崎城は、磐田原台地の南、今之浦川とその支流に挟まれた段丘上に築かれている。かつての主郭は、現在は城山球場に変貌し、ニノ郭とされる場所は磐田東高校となっている。その為、遺構はかなり破壊されているが、球場の外周には土塁が残り、特に北西角には櫓台があったと思われる高土塁が残っている。その北の外郭らしい高台には小さな神社が鎮座している。球場の東側には空堀跡が広い低地となって残っている。破壊を受けたにも関わらず、思ったより城塁らしい雰囲気をよく残している。
空堀跡の低地→DSC04995.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.722585/137.864975/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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見付端城(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04954.JPG←墓地外周に残る土塁
 見付端城は、今川氏が築いた城である。この地には元々遠江国府が所在し、南北朝時代に足利一門として足利尊氏に従って各地を転戦して今川氏興隆の礎を築いた今川範国は、遠江における拠点として見付端城を築いたと言う。その後、今川範氏・泰範は駿河に進出して拠点を移し、見付端城は庶家今川了俊を祖とする遠江今川氏の数代の居城となった。後に堀越館に移ったものと推測されている。室町時代後期には、今川義忠の遠江侵攻に抵抗した狩野宮内少輔・横地氏・勝間田氏らの拠点となったと思われる。戦国時代には、城主の堀越用山(今川貞基)は、花倉の乱で反義元派となった為、今川義元の命を受けた犬居城主天野氏により、1537年に攻め落とされた。その後、義元の持ち城となり、1563年、堀越氏一族の時に焼失したらしく、後の1569年に徳川家康が城之崎城築城の時に廃城となったと考えられる。

 見付端城は、現在の大見寺から磐田北小学校にかけての一帯に築かれていた。古絵図によれば、東を流れる今之浦川を外堀とし、大見寺境内を主郭、磐田北小敷地をニノ郭として、それぞれ方形の土塁で囲んでいたらしい。現在は市街化で遺構の湮滅が進んでいるが、大見寺境内墓地の南と西側に土塁が残り、西側には堀跡も残っている。しかしかなり改変が激しい。地元のご老人の話では、今川義忠が塩買坂での討死の前に攻め落としたのは、この城であったそうだが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.728281/137.858773/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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井出館(静岡県富士宮市) [古城めぐり(静岡)]

DSC01375.JPG←現在に残る屋敷門
 井出館は、井出の代官屋敷とも呼ばれ、この地の小土豪井出氏の居館である。井出氏は、鎌倉時代以来この地に居住した小土豪で、富士山本宮浅間神社の富士大宮司家に仕えたとされる(富士氏の被官であったことについては、静岡古城研究会著『静岡県の城跡』では否定的見解を示している)。『吾妻鏡』によれば、1193年5月に源頼朝が富士の巻狩をした際、宿泊所となったのが井出館とされており、既にこの頃には将軍に宿所を提供する程の格式を持った名家であったことがわかる。またこの事績から、この地には「狩宿」という地名が付いている。井出氏は戦国時代には今川氏に仕え、今川氏輝・義元・氏真から、安堵状などが度々下されている。1569年、駿河に侵攻した武田信玄は富士氏の大宮城を攻めたが、この時井出氏一族は富士氏の被官として戦功を立て、今川氏真を支援した北条氏政から感状が下されている。その後間もなく今川氏が滅亡し、富士地方が武田氏の支配下に入ると、井出氏の一族は武田氏に従った者と小田原北条氏を頼った者に分かれた。武田氏に従った井出氏は、武田氏滅亡後は徳川家康に仕えて駿河国代官職に任じられ、1606年には井出志摩守が三島代官に任じられ、天領を支配し、その後も幕臣として続いた。

 井出館は、前面に潤井川が流れ、背後に芝川渓谷と丘陵地を控えた平地に築かれている。現在でも井出家の屋敷が構えられており、表には立派な屋敷門(長屋と高麗門)が建てられている。屋敷の前には国の特別天然記念物にもなっている「下馬桜」があるが、「駒止めの桜」とも呼ばれ、頼朝縁の桜である。訪問したのは3月下旬で、静岡では既に桜が開花していたので期待していったが、残念ながら硬い蕾のままだった。それもそのはず、ここは標高435mもあり、咲くのは4月中旬になるらしい。井出館は、遺構はないものの、歴史的遺物が多く興味深い。又付近には、曾我兄弟の仇討ちにまつわる遺蹟も多く残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆ (あくまで城館遺構としての評価)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.301554/138.587948/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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樽山城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01348.JPG←先端の堀切と小郭
 樽山城は、犬居城主天野氏の支城である。天野氏の所領の東端、遠駿両国の山間部を結ぶ街道の要衝に位置し、関所的な機能を有する城であった為、勝坂城と並んで重要な支城であったと言う。天野氏は、今川氏没落後、徳川氏に属したが、武田信玄が遠江に侵攻すると、武田氏に降ってその尖兵となって活動した為、徳川家康は激怒して犬居城に攻め寄せた。一度目の1574年の攻城戦で惨敗した徳川勢は、長篠合戦の翌年の76年に再び大挙侵攻した。一度目の敗戦の経験から、武田方の後方支援を遮断する為、家康はまず周辺の支城の攻略に取り掛かり、樽山城は真っ先に攻め落とされ、城兵は勝坂城に敗退した。この時の城主は、天野兵衛佐とも天野助兵衛とも言われており、いずれにしても天野氏の一門衆が守る重要な城であった様だ。
 樽山城は、樽山南東の敷原沢の蛇行部にそびえる標高629mの山上に築かれている。物凄い山間の奥地に築かれており、ここまで来るのは車でも大変である。大井川沿いから境川ダム近くで国道362号線を西に入り、クネクネ道を10kmほど走り、そこから更に分岐した車道を4km以上走らなければならない。しかもこの分岐した車道は、途中落石も多く、城址まで数百mの所で進めなくなった為、そこに車を置いて歩いて訪城した。登城口に解説板が建ち、道も付いているので登城は容易である。小規模な連郭式の山城で、ニノ郭・主郭・三ノ郭の順に並んでおり、登城道を登ると腰曲輪と枡形虎口を経由して三ノ郭に至る。三ノ郭には僅かな空堀と枡形虎口の土塁が築かれている。主郭は狭小な曲輪で、ニノ郭との間には堀切が穿たれている。ニノ郭の下方の尾根筋には更に小郭が置かれ、堀切を介して尾根先端の物見曲輪に至り、城域が終わっている。いずれの曲輪も狭小で、20人籠もるのが精一杯の感じで、徳川勢に一斉攻撃されたらひとたまりもなかっただろう。しかしこの手の小規模な城にしては、明確な枡形虎口だけが異彩を放つ遺構である。
三ノ郭の枡形虎口→DSC01328.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.013240/138.006597/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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徳山城(静岡県川根本町) [古城めぐり(静岡)]

DSC01244.JPG←「殿屋敷」の大土塁
 徳山城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった城である。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は、居館の東方にそびえる無双連山に徳山城を築き、周囲にも萩多和城護応土城などの城砦群を構築して駿河山間部に立て籠もった。又この時、観応の擾乱で尊氏と争った直義方の武将石塔義房の家人佐竹兵庫入道らも、大津城を攻め落とされた後、南朝方と合力して徳山城に籠もったらしい。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、本城の徳山城に迫り、夜襲により落城させたと伝えられている。

 徳山城は、標高1100mの無双連山一帯に築かれた峻険な山城である。山中まで林道が伸びているが、物凄いガレ道で、RVではない普通車は登るのは止めた方が良い。しかも車を降りた標高823mの四差路からでも、本城まで歩いて登るのに1時間近くも掛かる遠い道のりである。そんなわけで、この城に登るにはそれなりの装備と覚悟が必要である。
 徳山城は、まず北端に「清水砦」とされる小ピークがあり、そこから本城までの間は「犬戻り」と呼ばれる一騎駆けの細尾根となる。この一騎駆けは、明らかに両脇を人工的に削り落としている。本城部は「殿屋敷」と呼ばれ、尾根上に削平の甘い緩斜面が広がっているだけであるが、その北斜面には空堀状の窪地や大土塁、切岸など、やはり明らかに人工的な加工の跡を残した地形が見られる。ここから南西に尾根を降って行くと、やはり曲輪らしき緩斜面などが展開しているが、あまり明瞭ではない。途中にある堀切も、鋭さはなく、多少加工の跡を留める程度である。堀切の先の広い平場には中部電力の反射板が置かれ、更にその南西尾根の緩斜面が「陣屋平」、更に三角点のある小ピークを越えて、「鍛冶屋敷」という平坦地に至る。徳山城は、南北朝期の山城でもあるため、戦国期の山城と違って明確な遺構は少ないが、本城部の腰曲輪と大土塁・空堀は見応えがある。また平場状の緩斜面も多数存在する。しかし、南朝方の一土豪の城に、これらの平場を守備できるだけの多数の兵が籠って戦ったのかは、甚だ疑問である。何しろ、清水砦から鍛冶屋敷まで、全長1.3km程にも及ぶ城域で、更に周辺城砦群を備えていたとされるなど、劣勢にあった南朝方にそれほど広大な城砦群が守備できたのだろうか?今後の考究が待たれる城である。
険しい一騎駆け→DSC01225.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.062425/138.152679/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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堀江城(静岡県浜松市西区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01193.JPG←現在の城址付近の遠望
 堀江城は、この地の豪族大沢氏の居城である。大沢氏は、藤原道長の後裔持明院左中将基盛を祖にすると言われ、室町時代の貞和年間(1362~68年)に丹波大沢から大沢基久がこの地に入部して堀江城を築いたとされている。当初は遠江守護であった斯波氏に属したが、戦国時代に今川氏親が遠江を攻略すると、今川氏に従った。1569年、9代基胤の時、今川氏の弱体化を見て取った徳川家康が遠江へ侵攻すると、基胤は今川方として堀江城に拠って最後まで抵抗した。結局基胤は、和睦の形で降伏したが、その戦いぶりを家康に認められてそのまま徳川氏の旗本となり、その後の武田氏との戦いで功を挙げた。江戸時代、10代基家からは高家として遇され、新しく堀江陣屋を築いて幕末まで存続した。
 堀江城は、現在の舘山寺温泉の場所にあった御陣山と呼ばれた丘陵地にあったとされているが、遊園地などが造成されて景観は一変し、遺構は壊滅しているとされる。国土変遷アーカイブの昭和30年代の航空写真を見ると、現在でもホテル九重の南に残る丘陵地と、浜名湖パルパルという遊園地の造成で消滅した部分と、2ヶ所の丘陵地が隣接していた様である。一説には堀江氏という武士が築いた佐田城がこの地にあったとも言われ、城地には不明の部分も多い。一説には、現在残る丘陵地の方が陣屋跡、遊園地の方が佐田城跡で、より古い堀江城は後者を、新しい堀江城は前者を指すものとも解されている。ホテル九重の係の方に、堀江城のことを伺ったが残念ながら要領を得ず、夕方でもあった為、丘陵へ登って現状を確認するのは断念した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.765007/137.616602/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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堀川城(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01183.JPG←城址碑と首塚
 堀川城は、気賀の土豪、斎藤為吉・竹田右京・新田四郎・山村修理・尾藤主膳らが築いた城柵である。戦国時代、この地は今川氏の勢力下にあり、今川義元が桶狭間で討たれ、今川氏が弱体化すると、1568年にこの地の今川方の土豪達は、徳川家康の遠江侵攻に備えて堀川城と刑部城を築いた。1568年、刑部城を落とした家康は、翌69年3月27日、3千の軍で堀川城を攻めた。土豪達は農民ら2000人と城に立て籠もって抵抗したが、間もなく落城し、男女共1000人がなで斬りにされ、捕虜となった人々も700人余が首を討たれたと、戦いに参加していた大久保彦左衛門の『三河物語』に記載されている。
 堀川城は、浜名湖畔に築かれた平城であったが、現在は耕地化で完全に湮滅している。わずかに城址碑と首塚が残っているだけである。尚、近くの気賀宿には関所跡や気賀宿西入口の枡形、斬首された首が晒された獄門畷などが残っている。又、城址から西に1.5km程の所には、城を逃れた後燃え落ちる堀川城を見ながら切腹して果てた城将山村修理の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.803074/137.646171/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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井伊氏居館(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01158.JPG←解説板の建つ公民館
 井伊氏居館は、井伊谷城を本拠とした遠江の豪族井伊氏の平時の居館である。井伊氏の事績については井伊谷城の項に記載する。井伊谷城南東麓の平地にあったとされ、現在4区公民館の前に、解説板が建っている。解説板に掲載されている古絵図によれば、堀や土塁、井戸跡などがあったらしいが、現在では遺構は全く残っていない。しかし、ちょっと北に行くと、1544年に今川氏に誘殺された井伊直満、直義兄弟の墓「井殿の塚」だけが往時のまま残っている。この直満の孫が、徳川四天王に数えられた井伊直政である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.834501/137.673572/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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中尾生城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01138.JPG←主郭下方の横堀
 中尾生城は、中日向城とも記載され、今川氏の北遠江における拠点の一つである。伝承によれば、南北朝時代に犬居城主天野氏の出城として築かれたとされるが、定かではない。戦国期には、天方城掛川城二俣城光明城・犬居城等と共に、今川氏の北遠における拠点として重視された。1529年には二俣近江守が、また1535年には向坂(匂坂か?)長能が城主となり、1564年には奥山兵部丞・左近将監父子が今川氏真に城の普請を命じられている。その後の歴史は不明で、今川氏が甲斐武田氏に滅ぼされると、そのまま廃城になったのかも知れない。
 中尾生城は、天竜川中流域西方の山間部、標高479mの山上に築かれた峻険な山城である。城山稲荷が鎮座した小規模な主郭と、その南東尾根の数段の曲輪で構成された小規模な城で、主郭の北西下部には1/3周ほどに渡って横堀が穿たれている。主郭は周囲との高低差が大きく、ほとんど切岸だけで防御されていた様である。その他の曲輪は削平が甘く、城域がどこまでかも明瞭ではない。山頂の南西に位置するピークは出丸と思われるが、植林等で損壊を受けており、ここも遺構が明瞭ではない。現存する遺構を見た限りでは、武田氏利用の形跡は確認できない。中尾生城は、位置が山奥で遠いし、途中まで車で登れるが、その先の登り道は入口付近以外には途中の標識がなく、分岐する山道の行き先に迷う。その割に大した遺構ではないので、あまりお勧めはしない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.975474/137.805451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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社山城(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00943.JPG←主郭西側の横堀と帯曲輪
 社山城は、武田氏によって改修された山城である。創築時期は不明であるが、『宗長日記』等によって、1501~03年頃の遠江を巡る斯波氏と今川氏との抗争の際に、両軍争奪の場となったことが知られている。即ち1500年3月、旧遠江守護の斯波義寛が失地回復の為、弟義雄を社山城へ送り込んだが、翌年、義雄は今川氏親によって二俣城に追われた。以後、社山城は今川氏の属城となった。又、1532年には、社山城主匂坂筑前守六郎五郎長能は、菅沼重左衛門定平と城主を交代し、本領匂坂に匂坂城を築いて移ったと伝えられている。1572年10月には、西上作戦を開始した武田信玄が、青崩峠を越えて遠江へ侵攻し、二俣城を攻略する為、社山城の北1.8kmの合代島に本陣を構えた。この時、社山城も武田氏の支配下に置かれたと見られる。その後の歴史は明確ではないが、現在残る遺構からはこの武田氏支配時代に社山城は大規模な改修を受けたと推測されている。その後、武田氏の勢力が遠江から駆逐されると、廃城になったと考えられる。

 社山城は、標高130m、比高100mの丘陵上に築かれた城である。大きく主郭・ニノ郭・三ノ郭から成る連郭式の縄張りで、周囲には腰曲輪を廻らし、更に派生する尾根にも曲輪群を築いた、比較的規模の大きな城である。特に出色なのは主郭西側の遺構群で、まず長い横堀と帯曲輪が外周下方に構築され、その更に下方の腰曲輪群の先には、深さ10mの大堀切や二重堀切が穿たれて厳重な防御線を構築している。主郭北側にも二重横堀が穿たれ、主郭とニノ郭の間も大きな堀切で分断している。ニノ郭と三ノ郭は土橋の掛かった片堀切で分断され、三ノ郭の東端は数段の腰曲輪と数本の堀切で、尾根筋を分断防御している。主郭の北尾根の細長い曲輪にも中間に土橋の掛かった小堀切があり、北端の櫓台には腰曲輪と横堀が築かれている。この他、動線遮断の竪堀が効果的に用いられており、多用された横堀等と共に、丸子城高天神城八幡平の城と共通性を持ち、明らかに武田氏の改修による縄張りで、見応えのある遺構である。北側の車道から登城道が整備されているので苦労なく登ることができ、城内も解説板や標柱などかなり整備されていて、遺構の確認がしやすい。ちなみに、こんなに平地部に近い山なのに、カモシカのつがいに出くわしたのにはびっくりした。
主郭~ニノ郭間の堀切→DSC00988.JPG
DSC00965.JPG←西側遺構群の大堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.815710/137.853598/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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匂坂城(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00861.JPG←道端の城址碑
 匂坂城は、遠江の国人領主匂坂氏の居城である。現地城址碑によれば、1532年、匂坂筑前守六郎五郎長能は、社山城主を菅沼重左衛門定平と交代し、本領匂坂に匂坂城を築いた。1571年3月に武田信玄が高天神城を攻撃した際には、同月3日小田松、匂坂、宮口の3城が落城したと言う。その後、遠江に侵攻した武田信玄は、再び匂坂城を落とし、一門衆の重臣穴山梅雪を匂坂城に置いて守らせた。この頃の匂坂城は、武田軍の二俣城攻めに際し、徳川方の掛川城浜松城の連絡を分断する大きな役割を果たしており、守将の人選にはよくその重要性が現れている。
 匂坂城は、天竜川東岸に広がる平地の只中、岩田小学校南の畑の脇に城址碑が建てられている。開墾によって遺構は完全に湮滅しており、道の形などにも城の形は残っておらず、その姿は今では全く想像することすらできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.765254/137.832381/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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作左曲輪(静岡県浜松市中区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00792.JPG←曲輪跡と思われる高台の平場
 作左曲輪は、浜松城の出丸である。独立した城郭ではないが、形態の上では浜松城とは区別されて扱われる事が多いとされる。徳川家康の重臣本多作左衛門重次が屋敷を構えていた場所である。重次は、家康の祖父清康の代から仕えた老臣で、家康の三河時代に高力清長、天野康景と共に三奉行の一人として活躍し、この3人を称して「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」と謳われ、鬼作左と恐れられた。1572年の三方ヶ原の戦いの前には、家康から武田軍と長期籠城戦に陥った時の兵糧の心配を相談された重次が、「米は十分貯蔵してあります」と返答して家康を喜ばせた。後に家康は、その時の米蔵の位置に重次の屋敷を作ることを許し、1579年にはこの屋敷に城柵を設けて浜松城の搦手を防衛する出丸とし、作左曲輪と呼んだとされる。そしてその後も長く浜松城の西北の護りとなったと言う。
 作左曲輪は、現在浜松城北西の「作左の森」と呼ばれる公園に変貌している。広い窪地の中には起伏があり、高台になっている平場があって、その部分が曲輪だったのではないかと想像される。いずれにしても往時の地形からは大きく改変されており、遺構は不明瞭である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.712390/137.723869/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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曳馬城(静岡県浜松市中区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00821.JPG←城址である東照宮の遠望
 曳馬城は、引間城とも記載され、浜松城の前身となった城である。築城者には諸説あるが、吉良氏の被官、巨海新左衛門尉が築いたとするのが可能性が高いとされる。曳馬城が明確に姿を現すのは斯波氏と今川氏の遠江を巡る抗争期で、1512年には斯波氏の家臣大河内貞綱が曳馬城を占領したが、同年今川氏親は安部山の金掘りを使って曳馬城を攻め落とし、貞綱を滅ぼした。その後は飯尾氏が城主となった。飯尾氏は賢連・乗連・連竜と3代にわたって城主を歴任したが、桶狭間の戦いの後、今川氏が弱体化すると、飯尾連竜は徳川家康に通じて今川氏真と絶縁した為、今川勢に2度にわたって攻撃を受けた。一旦講和したが、駿府に呼ばれた連竜は暗殺され、飯尾氏は滅亡した。その後は江馬氏が城代となったが、内紛で滅亡し、徳川家康は1568年12月に重臣酒井忠次を派遣して曳馬城を接収した。その後家康が遠江を制圧すると、1570年に居城を曳馬城に移し、これを一郭に取り込む形で新たに浜松城を築城した。

 曳馬城は、浜松城の古絵図等に「古城」と記され、現在の東照宮付近一帯に相当する。周囲の町並みより、6~7mの高台となっており、明確な遺構は確認できないものの、城の痕跡をその地勢に漂わせている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.713237/137.728504/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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浜松城(静岡県浜松市中区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00681.JPG←搦手虎口と復興天守
 浜松城は、遠江を押さえるために徳川家康が新造した城である。家康は、この城を居城とした14年の間に、三方ヶ原の大敗の艱難を乗り越え、遠江を甲斐武田氏から奪還し、織田信長と連携して武田氏を滅ぼし、その遺領を併合して駿河・遠江・三河・甲斐・信濃5ヶ国を領する大大名となった。それ故、浜松城は出世城としても知られている。
 浜松城の前身として、この地には曳馬城が築かれていた。1568年12月、徳川家康は武田信玄と連携して遠江の今川領に侵攻し、翌69年には遠江をほぼ制圧し、遠江への本拠地の移動を計画した。当初国府のあった見付に城之崎城を築こうとしたが途中で取り止め、1570年に曳馬城に移り、曳馬城を一郭として取り込んだ形で新たに浜松城を築城した。この時、それまでの居城であった岡崎城は、嫡子信康に譲り渡された。その後浜松城を拠点として、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い等多くの戦いに赴き、前述の通り5ヶ国を領する大大名にのし上がった。そして浜松では領国統治に於いて西に偏することから、1586年に駿府城に居城を移したが、それまでの14年間、浜松城を居城とした。駿府移城後は、家康の家臣菅沼定政が浜松城主となり、1590年に家康が関東に移封となると、豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が浜松城主となった。関ヶ原合戦の戦功により、堀尾氏が出雲松江に移封となると、その後は徳川氏の譜代大名が相次いで城主となった。江戸時代には、東照大権現縁の城として岡崎城と並んで意識され、幕閣への登竜門となる「出世城」となって幕末まで存続した。

 浜松城は、三方原台地の東南端に築かれた平山城である。西から東に傾斜する斜面に、天守曲輪・本丸・二ノ丸・三ノ丸を並べた梯郭式の縄張りであったが、現在は市街化で遺構の大半が湮滅し、わずかに天守曲輪と本丸付近が遺構を残すだけとなっている。それでも天守曲輪と本丸の周囲には、荒々しい野面積みの石垣がよく残り、復興天守が華を添えている。また現在は天守曲輪大手に当たる天守門の復元工事が進められている。こういう近世城郭だと、どうしても天守に目が移りがちであるが、曲輪外周に残る野面積みの石垣はなかなか豪壮な姿を残しており、必見の遺構である。ただ残念なのは、三ノ丸や大手門など、湮滅した遺構の標柱は全くなく、城への市民の愛着が感じられないのはちょっと残念に感じた。
本丸外周の櫓台跡→DSC00761.JPG
DSC00766.JPG←天守曲輪の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.711773/137.724878/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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頭陀寺城(静岡県浜松市南区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00650.JPG←石碑の建つ土壇
 頭陀寺城は、松下屋敷とも呼ばれ、曳馬城(後の浜松城)の支城である。曳馬城主飯尾氏の与力松下嘉兵衛之綱が城主で、之綱は今川方の一部将であった。松下之綱と言えば、少年時代の豊臣秀吉の主人として有名で、わずか3年の奉公であったが秀吉は一生之綱に恩義を感じており、天下人となると之綱を召し出して所領を与え、小田原征伐の後には1万6千石の大名とし、久野城主に据えた。一方、頭陀寺城は、1564年に曳馬城主飯尾連竜が徳川家康に通じたため、今川氏の攻撃を受けて消失廃城となった。
 頭陀寺城は、現在の頭陀寺第一公園の地にあったとされ、周囲に水堀を構えた方形居館であったらしい。公園内の土壇上には「松下嘉平次屋敷跡」と刻まれた石碑が建っているが、ここは屋敷跡西北隅にあった祠の一角であったとされ、土塁跡であった様である。以前は公園内に解説板があった様だが、既に撤去されていた。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.698314/137.755948/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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鴨江城(静岡県浜松市中区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00636.JPG←鴨江寺
 鴨江城は、南北朝時代に遠江南朝方の柱石であった井伊氏の支城である。井伊道政が、後醍醐天皇の皇子宗良親王を三岳城に奉じて立て籠もり、南に鴨江城、北に田沢城、西に千頭峯城、東に大平城と、三岳城を中心として周囲に城砦群を築いて北朝の足利方に抵抗した。1339年、足利尊氏は高一族を下向させ、大将の高越後守師泰(尊氏の執事高師直の弟)は大平城に向かい、高尾張守師兼(師直の従兄弟)は7月26日に鴨江城を陥した。その後、1540年までに千頭峯城、三岳城、大平城を攻め落とし、遠江南朝方の抵抗は潰えた。この後、宗良親王は駿河安倍城に逃れた。その後の鴨江城の歴史は不明である。
 鴨江城は、現在の鴨江寺の地にあったと推測されている。鴨江寺は、古く飛鳥時代に創建された寺院と言われ、南北朝時代には多数の僧兵を擁する大伽藍であったらしい。従って鴨江城は、南北朝期に多い、寺院をそのまま城塞化した寺院城郭であったと想像される。現在は市街化が進み、境内にも明確な遺構はなく、城の痕跡は残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.705299/137.719985/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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横岡城(静岡県島田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00623.JPG←井戸と主郭跡
 横岡城は、志戸呂城とも呼ばれ、戦国時代にこの地を領した鶴見因幡守栄寿の居城である。鶴見氏は、応永年間(1394~1428年)には今川氏に属して掛川に居たが、斯波氏が遠江守護になると斯波氏に従い、応仁の乱では西軍の斯波義廉の麾下となって横岡城を築いて移り住んだ。1496年、鶴見因幡守は勝間田城主勝間田播磨守と共に、今川氏に属する松葉城主河合(河井)蔵人成信を攻め滅ぼした。同年、駿河の今川氏親は遠江に侵攻し、相賀村に偽旗を押し立てて陽動作戦を展開し、長者原から一気に横岡城を急襲し、鶴見因幡守を討ち取ったとされる。
 横岡城は、「城之壇」と呼ばれる比高40mの台地上に築かれた城である。城跡は現在、一面の茶畑に変貌しており、遺構はほとんど湮滅している。しかし南端の大手には、下方への備えの土壇と段曲輪が山林内に残る他、主郭と思われる平場内には石組み井戸が残っている。茶畑内には、わずかに地形の膨らみと窪みがあり、土塁と堀跡の名残かもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.854315/138.112376/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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石上城(静岡県島田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00587.JPG←主郭背後の堀切
 石上城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった徳山城の支城である。代々この地の領主であった石上氏が城主であった。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は本城の徳山城を中心として駿河山間部に立て籠もった。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、徳山城に迫ったと伝えられている。この戦いの中で石上城も今川氏の攻撃を受けて落城し、以後は今川氏に属した。1568年に武田信玄が駿河に侵攻し、今川氏を逐って駿河を併呑すると、石上氏も武田氏に降った。1575年の二俣城の戦いでは、石上城主石上兎角之助が討死し、その後石上城は廃城になったと考えられている。

 石上城は、笹間川の支流の沢筋に挟まれた、標高340m、比高70mの山上に築かれた山城である。かなり小規模な山城で、狭小な主郭とニノ郭、そしてその西側を巡る腰曲輪から成る単純な山城である。ニノ郭前面と主郭背後には堀切が穿たれ、腰曲輪には竪堀も穿たれて動線を遮断している。更に主郭から北に伸びた尾根筋の先にも堀切があって、城域が終わっている。この他、山の南西麓の台地上の、現在穂積神社が置かれている場所は、やや広めの平坦地となり、居館跡とされている。武田氏の関係が考えられる城であるが、その割にはやや見所に欠ける、古風な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.011522/138.149202/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小長谷城(静岡県川根本町) [古城めぐり(静岡)]

DSC00494.JPG←丸馬出
 小長谷城は、小長井城とも言い、この地の土豪小長谷氏の居城である。小長谷氏は、一説には、南北朝時代に徳山城で北朝方に抵抗した鴇氏の後裔と言われるが、明確ではない。室町時代には今川氏に属し、1568年に武田信玄が駿河に侵攻して、今川氏を逐って駿河を併呑すると、小長谷氏は武田氏に降った。その後、1575年の長篠の戦いで武田氏が大敗し、徳川氏が武田領を蚕食すると共に、小長谷城は改修を受けたと推測されている。廃城時期も明確ではなく、1582年の武田氏滅亡の前後ではないかと考えられている。

 小長谷城は、大井川東岸の段丘上に築かれた城である。城域は、主城部が現在の徳谷神社の境内に当たり、副郭部にはB&G海洋センターが建てられている。その為、城地北半の副郭部は破壊を受けて遺構は湮滅しているが、南半の主城部はほぼ遺構を残している。主城部は最上段に本丸を置き、西に階段状にニノ丸・三ノ丸を築いた梯郭式の縄張りとなっている。主城部は外周に土塁を築き、西面と東面に大きな空堀を穿ち、防御を固めている。特に東側は二重空堀となっている。又、西側の三ノ丸大手は参道で破壊を受けているが、枡形虎口の土塁が明瞭に残り、その近くには井戸も残っている。しかし何よりこの城の白眉は、本丸南東裏に築かれた二重馬出しで、内側は武田氏の城でよく見られる丸馬出となって、外周を三日月堀が囲み、外側は角型の馬出しとなって、それぞれ外部と土橋のみで連絡している。この他、二ノ丸の搦手にも枡形が築かれている。基本的には単純な構造の比較的小規模な城であるが、二重馬出し部の複雑な構造が見所である。
主郭背後の空堀→DSC00491.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.102167/138.140400/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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護応土城(静岡県川根本町) [古城めぐり(静岡)]

DSC00416.JPG←クランクする切通し状の古道
 護応土城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった徳山城の支城である。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は本城の徳山城を中心として駿河山間部に立て籠もった。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、徳山城に迫ったと伝えられている。尚、範氏が景宗に与えた感状によれば、護応土城が徳山城を守る「一の木戸」としての重要な役割を持っていたとされる。
 護応土城は、富士城地区の標高955mの山上に築かれている。ここは尾根伝いに南に降ると、高山を経由して徳山城が築かれた無双連山に至る交通の要地で、山頂から南東と南西に伸びる尾根上には古道が現在でも残っている。この古道は、途中で屈曲しており、特に南西尾根ではクランクした切り通しになっており、入口付近は枡形状の空間がある。また、南東尾根では堀切状の切り通しも確認できる。この他、一部は城戸口らしい地形も確認できる。山頂は主郭とされるが(「本丸」の標識がある)ほとんど自然地形で、周囲の緩斜面もほとんど自然地形に近い。一部に平場があるが、かつては畑があったらしいので俄に遺構とは判断できない。いずれにしても明確な遺構には乏しいが、古道が屈曲して枡形状や堀切状になっており、古道を押さえる砦として機能した様である。尚、3月の訪城時には「本丸」「壕」の小さな標識が建っていたが、城址として整備中らしい。
堀切状の古道→DSC00427.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.093788/138.188514/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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尾沢渡城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00354.JPG←ニノ郭背後の二重堀切
 尾沢渡城は、歴史不詳の山城である。静岡古城研究会の考究では、1581年の穴山梅雪の書状から、この時期の武田氏による西駿河防衛の為の城ではないかとの見解が出されている。
 尾沢渡城は、黒俣川とその支流の尾沢の間に突き出した、標高220mの山稜先端に築かれた山城である。この城に登るには、南東斜面の民家裏の茶畑を登らなくてはならないので、地元の方の許可を得て登る必要がある。茶畑からは道が付き、下草が刈られているので、簡単に登ることができる。先端の頂部にやや広めの主郭を置き、その前面と南西側に腰曲輪を配置し、更に東に伸びる尾根と南東の支尾根にも腰曲輪を数段築き、更に主郭背後にはほぼ方形の小型のニノ郭を配置している。その背後には見事な二重堀切を穿ち、更に背後の尾根の少し先にも小堀切がある。背後の尾根には古道らしい道が残っており、尾根筋の連絡路があった可能性がある。主郭とニノ郭には北側を重点防御する土塁が築かれていることから、この方面からの攻撃を想定して築かれた様である。また主郭前面の腰曲輪等には石積みが残るが、遺構かどうかは不明で、植林の際の改変の可能性が捨てきれない。また腰曲輪に数ヶ所竪堀も穿たれている。比較的小ぢんまりした城であるが、この手の城にしては中規模の堀切がしっかりと普請され、また土塁の築かれた主郭とその周囲の腰曲輪の雰囲気は、犬居城によく似た印象がある。静岡古城研究会の考究の通り、武田氏による構築の可能性は十分有り得る様に見受けられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.037606/138.230740/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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一谷城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00298.JPG←堀切状の切り通し
 一谷城は、徳山城の支城である萩多和城の出城とされる。ということは南北朝時代に駿河南朝方の城であったことになるが、その歴史は手元に情報がなく不明である。
 一谷城は、日向集落の中央に北から突き出した台地の先端に位置している。主郭と思われる台地上は民家裏の茶畑になっており、進入は憚られる。城域の一部と思われる福田寺の脇には堀切状の切通しが尾根を分断しており、一応空堀跡とされているらしい。その上の尾根には庚申塔などが祀られている。『日本城郭大系』にも静岡古城研究会の『静岡県の城跡』にも一谷城についての記載がないので、実際にここに城があったのかも不明であるが、現地には「南朝方ノ一谷城跡」と記載された手書きの表示板が付いており、少なくとも地元では城跡と認識されている様である。尚、ここからしばらく尾根筋を登って行くと、「小城ノ段」と呼ばれる平場もあるそうだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.090487/138.242544/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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萩多和城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00282.JPG←萩多和城の遠望
 萩多和城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった徳山城の支城である。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は本城の徳山城を中心として駿河山間部に立て籠もった。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、徳山城に迫ったと伝えられている。一説には萩多和城には、土岐山城守が籠っていたと言われるが確証はない。

 萩多和城は、藁科川の蛇行部に西から張り出した標高290m、比高40mの城山と呼ばれる丘陵上に築かれている。周囲を高い山々に囲まれ、北・東・南の三方を藁科川が天然の堀となって分断した要害である。この城山は私有地らしく、民家の裏にあり、山中に入ることができなかったので遺構は確認できていない。静岡古城研究会の『静岡県の城跡』によれば、頂部から東に向かって雛壇状に平場が広がっている様だが、必ずしも遺構とは確認されていないらしい。城は別の場所との説もある様だ。おまけに春先だった訪城当日は、猟師が山中で害獣駆除をしており、鉄砲の音が間近に聞こえておっかなかったので、早々に撤収した。
 尚、ここからかなり離れた東の山中の林道脇に、「萩多和城址」の石碑が建っているそうで、そこがもう一つの城址推定地なのかもしれないが、時間の都合で訪城はしなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.094515/138.237772/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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朝倉氏屋敷(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00278.JPG←屋敷地付近の現況
 朝倉氏屋敷は、一乗谷を本拠とした越前朝倉氏の庶流、柿島朝倉氏の居館である。越前の戦国大名朝倉貞景の次男景高は兄孝景と不和となり、永正年間(1504~21年)に子の六兵衛在重と共に今川氏親を頼って柿島に移住したと言われている。柿島朝倉氏は、今川氏没落後も一旦は反武田の一揆を起こすが、後に武田氏に従属し、武田氏滅亡後は朝倉宣正が徳川氏に仕え、後に駿河大納言忠長(3代将軍家光の弟)の付家老として掛川城主となったと言う。
 朝倉氏屋敷は、山間部の傾斜地に位置し、現在は茶畑に変貌しており、明確な遺構は残っていない。しかしこの傾斜地南端の高台には朝倉氏歴代の墓所があり、墓に刻まれた家紋は、正に越前朝倉氏の家紋そのものであった。本家の朝倉氏は織田信長に滅ぼされたが、遠い駿河でこうして命脈を保っていたとは、不思議な運命という他はない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.154337/138.328332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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