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古城めぐり(山梨) ブログトップ

御坂城(山梨県富士河口湖町) [古城めぐり(山梨)]

DSC08212.JPG←二重横堀
 御坂城は、天正壬午の乱の際に小田原北条氏が相模・駿東方面から御坂峠を越えて甲府盆地に通じる鎌倉街道を確保する為に築いた城である。元々の創築は明確ではないが、北条氏築城以前から国中地方を守る要衝として城砦が構えられていたと推測されている。御坂城がはっきりと歴史上にその姿を現すのは、前述の通り1582年の天正壬午の乱の時である。
 この年の3月に甲斐武田氏を滅ぼした織田信長であったが、わずか3ヶ月後に本能寺の変で横死し、織田領に併合されたばかりの旧武田領の甲斐・信濃両国は、権力の巨大な空白地帯となった。この機に乗じて北条・徳川・上杉が三方から甲斐・信濃に進撃し、周辺大名の草刈り場と化した。この時、北条氏直率いる北条勢2万余の大軍は、神流川で織田方の大将滝川一益を撃破して敗走させ、そのまま西上野・碓氷峠を越えて進軍し佐久方面を制圧、南下して若神子城まで進出した。一方、徳川家康は甲斐府中に入った後、8月10日に前線の新府城に本陣を進め、北条勢と鋭く対峙した。新府城の軍勢は2~3千、徳川勢全体でも1万程度と兵数では北条勢に対し圧倒的に劣勢であった。北条方は、北条氏忠率いる別働隊が武蔵から甲斐郡内に侵攻し、8月12日、徳川本陣の背後を衝く様に都留郡から甲府盆地へ進撃したが、甲府の徳川勢が迎撃して黒駒で合戦となり、徳川方の勝利に帰した。敗北した北条勢は、本拠の小田原とを結ぶ街道を確保するため、御坂峠に城を築いた。これが御坂城である。その後も北条方は兵数では優勢であったが、新府城を攻めあぐね、更に家康の巧みな策略によって真田昌幸が北条方から離反し、北条本軍は退路を脅かされることとなった。この事態は北条氏政が「当家の滅亡」を意識する程の重大事で、更には常陸の佐竹義重の策動もあり、次第に北条方は追い込まれることとなった。しかし徳川方としても決定打を欠き、また北信濃での上杉氏との攻防もあって一方的に有利という状況ではなかった。そして10月までの3ヶ月間に渡る対陣の後、織田信雄の仲介によってようやく和睦し、両者の対立関係は一転して新たな同盟関係に転換した。その後、御坂城の名は歴史の表舞台から消えた。

 尚、黒駒合戦での徳川方の勝利に関連して、天正壬午の乱が徳川方の圧勝の様に記載する文献やHPが一部にあるが、これは間違いである。まず黒駒合戦については、北条方は万一の際の本軍の退路確保の為、御坂峠の死守が至上命令であり、無理をせず兵を退き、それを徳川勢が追撃し勝利を収めたというのが実状に近いと思う。また黒駒合戦でも獅子吼城の戦いでも、あくまで局地戦の勝利に過ぎず、大勢は変わっていないことはその後も対陣が長く続いたことからも明らかである。それよりも北条方に大きな衝撃となったのは、やはり退路を扼する真田氏の離反であった。その結果、和睦に際して領土分割は徳川方に有利、しかし人質を兼ねて家康の娘督姫が北条氏直に輿入れするという、全体として徳川方にやや有利という程度の条件となった事実を付記しておく。

 御坂城は、この様に劣勢に陥った北条氏が生命線確保の為に築いた城で、「御本城様」の万一の場合の退路確保の為に絶対死守するという緊張度の高さが、その縄張りからも如実に伝わってくる。御坂城は、標高1520mの御坂峠を挟んだ南北の稜線上に築かれた、全長600m程にも及ぶ長大な長城形式の陣城である。城内最高所では1600m近くにも達するこの標高は、城郭としては国内で最も高い城であろう。しかも並みの山城2つ~3つ分にも及ぶ広大な城域を有している。尾根上に累々と連なる曲輪の外側下方には、数百mの長さに及ぶ豪壮長大な横堀・土塁が築かれ、一部は見事な二重横堀となって防御を固めている。また特に峠付近の城の中央部では、横堀と竪堀を複雑に絡めた堀のネットワークを巡らし、要所に櫓台を設けて、特に北側の徳川方への備えを厳重にしている。また二重馬出しの構造も見られるなど、まさに「城の北条」の面目躍如といった精緻な縄張りである。但し短期間に築かれた陣城なので、曲輪の削平など普請がやや荒いのは仕方のないところであろう。この城では、峠のある中央部が最も低く、そこから両翼に展開する曲輪群に向かって高度が増していく地勢と、長城形式である特殊性から、どこが主郭として機能したのか判断が難しいが、北の頂部の広い曲輪が主郭であろうか。その他多数の腰曲輪があり、かなりの兵数が駐屯できる拠点として機能していたことが伺われる。実質的に機能したのはわずか3ヶ月という短命の城であるが(しかも完成したのは和睦の直前!)、危急存亡の淵に立った北条氏が築いた屈指の陣城である。
屈曲する横堀→DSC07905.JPG
DSC07953.JPG←鎌倉道沿いに築かれた櫓台
堀切と土橋→DSC08044.JPG
DSC08134.JPG←南端にそびえる曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.556451&lon=138.763666&z=16&did=std&crs=1
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教来石民部屋敷(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSC04965.JPG←小川沿いの腰曲輪状の張出部
 武田信玄の重臣として知られる馬場美濃守信房(信春)は、元の名を教来石民部影政と言い、その才知を愛した信玄より名門馬場氏の名跡を与えられ、馬場信房と改名した。教来石民部屋敷は、信房の教来石氏時代の屋敷跡である。現地解説板に拠れば、教来石氏は武田家支流の一条氏から派生した在地の武士団、武川衆の一員で、武田宗家に忠誠を尽くし、幾多の合戦で勇猛な働きをしたと伝えられている。武川衆は、信濃諏訪口の国境防衛にも大きな功績があり、その中で教来石氏の封地は最も国境に近く、この館の持つ重要性がわかるとされる。
 現在はほとんど遺構らしい遺構は残っておらず、見た目はただの原っぱだが、良く見て歩くと東と南に堀跡らしき跡があり、南の小川沿いには腰曲輪状の張出し部も見られる。サントリーの白州蒸留所に近いが、標識が出ていないので場所が非常にわかりにくく、探すのに苦労した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.18.12.2N35.49.43.5&ZM=9
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馬場氏屋敷(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSC04953.JPG←居館北西の切岸らしい傾斜地
 馬場美濃守信房(信春)は武田信玄の重臣で、武田騎馬隊を率いて不敗を誇った勇将で、山本勘助から城の縄張を教わったとされ、多くの武田氏の城郭を縄張りしたことでも知られている。そして鬼美濃と恐れられた原虎胤の死後、その武名にあやかるようにと信玄より美濃守の名乗りを許された。信玄の子勝頼の時代に、長篠の合戦で多くの重臣と共に討死した。
 その馬場氏の屋敷が、現在の自元寺付近にあった。この地は、信玄が治水したことで知られる釜無川南岸の丘陵地で、居館を築くには好適な地であったと思われる。居館があった地域には民家が立ち並び、遺構は全く残っていないが、北西側には外郭ラインと思われる傾斜と堀の名残と思われる水路が残っている。また自元寺には屋敷門が移築されて残っているほか、信房の墓もある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.20.14.5N35.48.30.0&ZM=9
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谷戸城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSC04758.JPG←二ノ郭の土塁と横掘
 谷戸城は、甲斐源氏武田氏の祖、逸見清光が築いた城と言われている。清光は新羅三郎義光の孫で、逸見の地を本拠として多くの一族子弟を甲斐国内に分封し、甲斐に源氏の勢力を扶植した。特に武田信義は源頼朝に従って平家討伐に功を挙げ、後に戦国大名となる武田氏の基礎を築いた。その後の谷戸城の歴史は定かではないが、戦国期にも武田氏の北信攻略の中継点として活用されたと考えられる。1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされ、そのわずか3ヵ月後に信長も本能寺で横死すると、旧武田領を巡って小田原北条氏・徳川氏による天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が生起した。この時、北条氏直率いる北条勢は、碓氷峠を越えて信濃から甲斐へ侵攻し、若神子城に本陣を置き、谷戸城をも占拠して、新府城に拠った徳川家康と対峙した。しかし戦いは、獅子吼城等で勝利した家康が有利に進め、間もなく北条・徳川の間に和議が成立し、甲斐は徳川領となった。

 谷戸城は、八ヶ岳南麓の独立丘陵に築かれた平山城で、現在は公園として整備されている。変な公園化による遺構の改変がされていないため、遺構は良く保存され、雑草が繁茂する夏場でも往時の状況をよく推定することができる。頂上に主郭を置き、それを取り巻くように二ノ郭・三ノ郭が置かれ、更に周囲に四ノ郭・五ノ郭や多くの腰曲輪が取り巻き、山麓に六ノ郭を置いている。各曲輪には空堀や土塁が良く残り、虎口の食違い構造なども明瞭である。二ノ郭と三ノ郭では、土塁の内側に空堀が築かれるという珍しい構造となっている。北側から東側に掛けての外周には長い横堀ラインが築かれているが、東端で直角に曲げて竪堀にして落としている。横堀を直角に曲げて竪堀に変化させる構造は、北条氏鉢形衆の城に良く見られるので、もしかしたら天正壬午の乱の際に北条氏によって修築されたものかも知れない。南西麓には枡形虎口の石積みも残っている。全体に土塁も堀も規模は小さいが、中世城郭の姿を良く残しており、城址公園の好適な例であろう。また、麓に近年新設された谷戸城ふるさと歴史館は無料で、城の歴史がよく分かるほか、北杜市の中世城郭の配置図がGETできるのはありがたい。
主郭虎口→DSC04773.JPG
DSC04850.JPG←外周の横掘ライン

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.23.20.8N35.51.12.5&ZM=9
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若神子城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSC04584.JPG←大城で唯一残る遺構、薬研掘の跡
 若神子城は、甲斐武田氏の祖、新羅三郎義光が居を構えたと言われる城である。源義光は八幡太郎として知られる後三年の役の総大将源義家の弟で、苦戦する兄を助ける為奥州に下って戦功を挙げたと言われている。義光はその後甲斐守に任ぜられ、若神子に城を築いたと言われるが、確証はない。その後の歴史もはっきりしないが、佐久往還の要衝であったので、信玄の時代には情報や兵站の中継地点として活用されたと考えられる。1582年、武田氏が織田信長に滅ぼされ、そのわずか3ヵ月後に、その織田信長も本能寺の変で横死すると、旧武田領には政治権力の巨大な空白地帯が生まれ、この領土を巡って北条・徳川の2大勢力が争奪戦を繰り広げた。世に言う天正壬午の乱である。この際、北条氏直率いる北条方本軍はこの若神子城に本陣を置き、徳川家康の拠る新府城と対峙した。この時に若神子城は、北条方によって修築されたようである。戦いは、真田昌幸を北条方から離反させて北条勢の退路を脅かすことに成功した家康が有利に進め、3ヶ月の対陣の後、北条・徳川の間に和議が成立し、甲斐は徳川領となった。和議成立によって北条方は若神子城から撤退し、その後若神子城は廃城となったと考えられる。

 若神子城は、本城となる「大城」と、出城である「北城」「南城」の3つから成る複合城郭である。眼下に佐久往還の街道を扼する要衝で、麓には天然の外堀となる西川が流れ、城を築くには絶好の地勢であろう。現在大城は公園となっており、北条方によって築かれたと思われる薬研掘がわずかに残っているが、その他の土塁らしき遺構等は公園化に伴う改変も多く、はっきりしない。或いは徳川との講和成立後に破却したものかも知れない。一方、北城はほとんど藪化しており、だだっ広い平坦地の周囲に土塁が残っているだけである。土塁は良好に残っているが遺構はそれだけで、広い単郭の城の様である。大城を後方から支援する兵站拠点だったのかも知れない。いずれにしても、その名の割りにパッとしない遺構だった。尚、南城は遺構があまり無い様なので今回はパスした。
北城に残る土塁→DSC04633.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【大城】
     http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.25.19.1N35.47.26.7&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.41874752798&latitude=35.794221402908
     【北城】
     http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.25.30.8N35.47.39.4&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.42183743277&latitude=35.797545651567
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