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古城めぐり(神奈川) ブログトップ
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小杉陣屋(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

IMG_8128.JPG←陣屋跡に建つ陣屋稲荷
 小杉陣屋は、徳川家康の家臣小泉次大夫が築いた陣屋である。小田原の役で北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東に入部し、関東各地の再開発を計画した。この時、小泉次大夫は家康に用水開発を進言して、用水奉行に任命された。そして1597年より、稲毛領・川崎領に「二ヶ領用水」の建設に着手した。この時、小杉陣屋を築き、この地で14年間に及ぶ難工事の指揮に当ったと言う。
 小杉陣屋は、小杉御殿の北東に隣接する地に建っていた。時期からすれば、小杉御殿の造営より陣屋の創築の方が早いので、陣屋の地に隣接して御殿が建てられたものだろう。残念ながら御殿同様、陣屋も遺構は完全に湮滅している。僅かに陣屋のあった場所に、陣屋稲荷が建っており、町名にも陣屋の名が冠され、往時の名残りを残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.584508,139.655628&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:陣屋
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小杉御殿(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

IMG_8125.JPG←御主殿稲荷
 小杉御殿は、1608年に2代将軍徳川秀忠が造営した御殿である。東海道が整備される前は、中原街道が江戸と西方を結ぶ主要街道で、中原御殿との中継点として築かれたと言われている。鷹狩りの休息所としてだけでなく、父家康の送迎の御殿としても使用された。また中原街道は、この御殿の前で「鈎の手」となってクランクしており、防御もしっかり考えられた御殿であった。1640年に安藤市郎兵衛・小俣平右衛門を奉行として改修されたが、1672年、4代将軍家綱の時代に完全に撤収された。
 小杉御殿は、西明寺の北東に隣接する区画に築かれていたが、現在は全て宅地化されており、遺構は残っていない。しかし御主殿のあった場所には、御主殿稲荷が建っている他、前述の通り中原街道は「鈎の手」を残し、町名にも御殿の名が冠され、往時の雰囲気をわずかに漂わせている。尚、御殿の北東に隣接して小杉陣屋があり、時期からすれば、御殿の造営より陣屋の創築の方が早いので、陣屋の地に隣接して御殿が建てられたものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.583688,139.654255&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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和田屋敷(神奈川県秦野市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC02957.JPG←大堀の跡
 和田屋敷は、小田原北条氏の家臣和田兵庫・石見父子の居館である。和田兵庫は大永年間(1521~27年)に北条氏綱に仕え、その子石見は氏康に仕えて天文年間(1532~55年)に没するなど、4代に渡る北条氏の家臣であった。五郎兵衛の時に小田原の役で北条氏が滅亡し、そのまま当地で帰農したと言う。
 和田屋敷は、現在は耕地化や宅地化でかなり湮滅が進んでいるが、現在でも当地の家主である和田氏宅の周囲に、わずかに土塁らしき地形が残っている。元は、上下2段の曲輪から成っていたとされ、その間には大堀と呼ばれる空堀が穿たれていた様である。この大堀も現在はかなりわかりにくくなっているが、辛うじて段差を隔てる小道としてその名残を残している。近くには和田氏関連の館と思われる浄円寺囲郭がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.13.4.5N35.21.54.6&ZM=9
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中村宗平館(神奈川県小田原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC02943.JPG←居館のあった殿ノ窪
 中村宗平館は、現地解説板では中村氏居館と表記され、桓武平氏、平良文(村岡五郎)の流れを汲み、中村郷の豪族であった中村庄司宗平の居館である。宗平は、良文の6代の孫に当たり、平治の乱で敗れて伊豆に配流となった源頼朝に早くから心を寄せ、1180年に頼朝が挙兵すると、自身は老齢のため参陣できなかったが、次男の土肥実平、三男の土屋宗遠、嫡孫中村景平・盛平、女婿岡崎義実、その嫡男佐奈田与一ら、一族を挙げて石橋山の戦いに参加した。宗平の一族は、石橋山で討死した与一を始め、鎌倉幕府の創業に大いに貢献し、宗平は頼朝の覚えがめでたく、頼朝は鎌倉開府後しばしばこの館に宿泊したと言う。
 中村宗平館は、三方を山で囲まれ、東向きに開いた谷戸状の地形に築かれており、鎌倉期の豪族の居館として典型的な立地である。この地は殿ノ窪と呼ばれ、北側に屋敷神を祀り、一族の墓所を納めたとされ、現在でも一族のものと思われる五輪塔群が置かれている。遺構はないが、三方を山で囲まれた窪地がよく残っており、往時の姿を彷彿とさせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.13.34.0N35.18.39.4&ZM=9
タグ:居館
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曽我城(神奈川県小田原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC02924.JPG←4人の墓の建つ土塁跡
 曽我城は、「曽我物語」などで知られる日本3大仇討ちの一つ曽我兄弟の仇討で有名な曽我氏の居城である。仇討ちに至る経緯は、河津氏館の項に記載する。殺された河津三郎祐泰の妻満江御前は、曽我城主曽我祐信と再婚し、満江の連れ子であった一萬丸と箱王丸はこの地で成長した。元服して、十郎祐成・五郎時致と名乗った兄弟は、源頼朝が富士で巻狩りをした際に、父の仇工藤祐経を討ち取って、宿願を果たしたと言う。

 曽我城は、城前寺の後背地にあったとされ、城の大手前にあったことから城前寺の名がついたとされる。城地は宅地化されていて遺構らしきものは確認できないが、西向きに傾斜した丘陵地の中腹にあり、周囲を一望できる地勢であったことがわかる。城前寺の本堂背後には、曽我祐信・満江夫妻と祐成・時致兄弟の墓が建てられているが、墓の建つ墳丘は曽我城の土塁の跡であると言う。
 尚、この周辺には、曽我兄弟にまつわる史跡が多数散在しているらしい。城前寺から東に800m程の丘陵上には、曽我祐信のものと伝えられる巨大な宝篋印塔がある。高さは2.2mもあり、中世のものではこれまで私が見た中で最大級の宝篋印塔である。春先に曽我梅園の梅を見ながら、ゆっくり時間を掛けて史跡散策をするのもいいかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.11.27.2N35.18.6.9&ZM=9
タグ:居館
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下堀方形館(神奈川県小田原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC02892.JPG←宅地に残る土塁と堀跡の水路
 下堀方形館は、甲斐武田氏の家臣志村氏が、主家滅亡後に小田原北条氏に仕えて築いた居館と伝えられるが、定かではない。元々この地は北条一族の長老北条幻庵の内室の知行地であったことから、一説には幻庵に関係した館とも言われている様だ。
 下堀方形館は、現在は市街化が進んでおり、館内部も民家となっていり遺構の湮滅が進んでいるが、一部の土塁と四周の堀跡が水路となって残っている。近年、館の北に新道が建設され、建設に当たって発掘調査が行われたところ、館の北側には二重の堀があったことが判明している。市街化の只中で奇跡的に遺構の残存する中世居館であるが、現在でも宅地造成が進行中で、残った僅かな遺構を大切に保存してもらいたいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.11.14.0N35.17.8.6&ZM=9
タグ:居館
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間宮氏笹下中里陣屋(神奈川県横浜市磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00235.JPG←陣屋のあった谷戸の現況
 間宮氏笹下中里陣屋は、かつて小田原北条氏の重臣で笹下城主であった間宮氏が、江戸時代に徳川家旗本となってから築いた陣屋である。この地域は、戦国期以来の間宮氏の所領で、一説には永禄年間(1558~69年)に間宮氏が築いた陣屋とも言われるが定かではない。江戸時代のものは1703年に開設されたとされ、古屋敷と呼ばれる谷戸にあったと推測されている。
 間宮氏笹下中里陣屋は、笹下川の西岸、上中里神社のある丘陵地北麓の谷戸にあったとされるが、現在は全て宅地化されてしまっており、その痕跡は全く残っていない。近くの笹下川には、「陣屋橋」と言う小橋が架かっていたとも言うが、見つけられなかった。全ては開発の波の中に飲まれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.36.46.2N35.22.13.4&ZM=9
タグ:陣屋
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間宮氏氷取沢陣屋(神奈川県横浜市磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00228.JPG←陣屋付近の現況
 間宮氏氷取沢陣屋は、小田原北条氏の重臣で笹下城主間宮氏が築いた陣屋で、江戸開府以後は一族の間宮若狭守綱信の隠居所であった。綱信は、1510年の権現山合戦で活躍した間宮彦四郎の子孫とされている。綱信は、間宮豊前守信盛の孫で、1533年に生まれ、滝山城主北条氏照や北条氏政に仕えた。天正年間(1573~92年)には、氏政の命で織田信長の元に向かう途中、三河岡崎城で徳川家康に謁見した。1590年、北条氏滅亡後に関東に入部した徳川家康に召されたが、綱信は出仕せず、代わりに子の重信を仕えさせ、徳川家旗本となって幕末まで存続した。綱信は隠居料として氷取沢一円を与えられたと言う。
 間宮氏氷取沢陣屋の位置は正確にはわかっていないが、宝勝寺の西方にあったらしい。付近は市街化が進み、陣屋らしい跡は微塵もないが、宝勝寺付近の地勢を見ると、背後に山地を控え、前面に笹下川が天然の堀となって流れており、陣屋を置くに格好の地であったことは想像に難くない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.36.35.7N35.21.30.7&ZM=9
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竹ヶ谷城(神奈川県鎌倉市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00194.JPG←腰曲輪らしき平場
 竹ヶ谷城は、鎌倉幕府の首府鎌倉を防衛する馬蹄形連丘、いわゆる「鎌倉城」の更に西方の外郭を成す山地に防衛拠点として構えられた砦の1つであると考えられている。古東海道から鎌倉への出入口を防衛する役目を負っていたと推測される。
 竹ヶ谷城は、現在は鎌倉広町緑地という公園になっていて、ハイキングコースが整備されている。全体に緩い勾配の丘陵で要害地形ではなく、遺構も不明瞭でどこからどこまでが城跡とされているのか、さっぱりわからない。しかし地元では、竹が谷城跡としてはっきり認知されているようである。丘陵頂部の「うさぎ山」は、普通に考えればここが主郭と考えられるが、ただの平坦地が広がっているだけである。唯一、腰曲輪が確認できたが、うさぎ山は太平洋戦争の時に対空高射砲台が置かれたらしいので、その時の改変の可能性もある。しかし中世でも物見ぐらいは置いた可能性は充分あるだろう。戦国時代にも、もしかしたら三浦半島と玉縄城の繋ぎの烽火台ぐらいには使われたかも知れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.30.52.2N35.18.37.1&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.51111111056&latitude=35.313648374907
タグ:中世山城
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一升桝遺跡(神奈川県鎌倉市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00098.JPG←台形曲輪の土塁
 一升桝遺跡は、HP「土の古城探訪」では「一升枡陣城」と呼称され、鎌倉時代後期に築かれた鎌倉の交通路を監視・防衛する防御施設と考えられている。極楽寺地区と大仏切通を結ぶ尾根筋にあり、標高約90mの位置に築かれている。南に位置する五合桝遺跡と共に、鎌倉を囲む馬蹄形連丘の内、西方面を防衛していたと考えられている。1333年5月の新田義貞の鎌倉攻めでは、義貞軍は軍勢を3隊に分け、化粧坂口・巨福呂坂口・極楽寺坂口の3道から一斉に攻めかけた。つまり主戦場は鎌倉西部の山稜であり、その只中に位置していた一升桝遺跡も、この時重要な攻防の場となったことが推測される。

 一升桝遺跡は、五合桝遺跡に比べるとかなり遺構が明瞭で、重厚な防衛陣地となっていたことがその遺構から推測できる。遺構は、標高99mの山稜頂部から100m程南に下った尾根の分岐点に構築されており、土塁で囲まれた台形の曲輪がはっきりと残っている。この曲輪の南西角には虎口があり、そこから尾根道を下って行くと、途中に木戸口跡や平場・土塁などがあり、更にその下まで降って行くと、山麓の虎口遺構が残っている。一方、台形の曲輪の南東側にも古道の通る木戸口らしい遺構があって。古道は曲輪の東側下方を抜けており、台形の曲輪は古道を監視していたことがよく分かる。台形の曲輪の北東部の土塁は一段高くなっており、櫓台があったと考えられる。この曲輪の北側は一段高い平場になっているが、冬でも笹薮が酷く遺構が判然としない。その背後には土塁と掘切が明瞭に残っている。その上の山稜頂部は自然地形である。中世鎌倉を守る防衛陣地として鎌倉幕府の築いた貴重な遺構であり、国の史跡に指定されているので、今後の整備に期待したい。
堀切→DSC00138.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.31.52.1N35.18.39.0&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.52783333297&latitude=35.314459786945
タグ:中世山城
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五合桝遺跡(神奈川県鎌倉市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00045.JPG←平場に見られる土塁跡
 五合桝遺跡は、HP「土の古城探訪」では「五合枡陣城」と呼称され、鎌倉時代後期に築かれた鎌倉の防衛施設と考えられている。極楽寺坂南側の山稜部にあり、稲村路、極楽寺坂を防衛する施設と推定されている様だ。また往時この地には「仏法寺」という寺院があり、執権北条氏の支援の下で栄えた極楽寺の有力末寺であり、現在は「仏法寺跡」として国の史跡に指定されている。1333年の新田義貞による鎌倉攻めの際には、激戦地の一つでもあり、この方面では、新田氏の一族である大館宗氏が極楽寺坂の切通しから(一説には稲村ヶ崎からとも)府内へ攻め込んだが、幕府方の反撃に合い、宗氏以下11人、稲瀬川で討死にしたと伝えられている。
 五合桝遺跡は、比高60m程の山稜上にある。尾根上に数段の平場があり、土塁や土壇(塚?)も確認できるが、全体に藪が多く遺構が不明瞭である。しかしこの地からは鎌倉市街が一望でき、絶好の防御陣地であったことを伺わせている。史跡指定はされているので、今後の整備を期待したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.32.4.3N35.18.15.3&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.53122222204&latitude=35.307789506758
タグ:中世山城
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津久井館(神奈川県横須賀市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC10022.JPG←「峯の屋敷」の段丘
 津久井館は、平安末期から鎌倉初期にかけての相模の豪族で、衣笠城主三浦義明の弟津久井次郎義行の居館である。義行以降、高行、義通、高重と4代に渡る津久井氏代々の居館であった。高重は承久の乱で後鳥羽上皇方に付いて討死し、津久井氏は滅亡したと言う。
 津久井館は、衣笠城の南方4.6kmの位置にあり、三浦氏にとって三浦半島南部の東京湾側の開発拠点であったと推測されている。「峯の屋敷」と呼ばれる比高15m程の丘陵上にあったとされているが、現在は住宅地と果樹園に変貌している。内部に入ることはできないので、周囲を見ただけであるが、遺構は残っていない様である。ただ、周囲の平地を見下ろせる段丘であり、地勢的に中世初期の居館を築くには好適であったことが伺われる。
 尚、館跡の北にある東光寺には津久井氏一族の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.40.1.4N35.12.6.3&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.66365277777&latitude=35.205073950486
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根府川城(神奈川県小田原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC06122.JPG←山中に残る土塁
 根府川城は、根府川要害とも言い、江戸時代の文献では「氏直之構」と記載される城である。豊臣秀吉との関係が極度に緊迫してきた小田原の役前夜の状況の中で、北条氏直が小田原城防衛の為に築いた城と言われている。城主は、北条氏の重臣で田原城主であった大藤氏の一族であったらしい。1590年に、秀吉が諸大名に大号令を掛けて北条征伐を始めると、序戦で箱根第一の要害山中城を大兵力で猛攻し、わずか半日で落城させた。山中城を抜かれた北条方は、兵力分散を避けて小田原城に諸城の兵を撤収させ、根府川城兵も足柄城兵等と共に小田原城に退き、根府川城は北条氏の滅亡に伴ってそのまま廃城となった。

 根府川城は、箱根山中の多くの城がそうであるように、古道を扼する要害であった。その形態は、城と言うより古道を防衛する長塁で、「要害」と言う方が実情に合っている。小田原城カントリー倶楽部へ向かう林道から分岐した山中の車道から、尾根を東に下って行くと、古道は堀底道状となって尾根筋を走り、その脇に高土塁を並走させている。そこを更に数百m下って行くと武者隠しとされる枡形の平場があり、その先に数段の広大な緩斜面が広がっている。この斜面の南北の辺縁部には土塁があり、櫓台らしき土檀も散在している。また薮がひどいものの空堀も確認できるほか、土塁の屈曲部付近の上部には小石が散乱し、戦闘用の石であったと思われる。全体的には、中心的曲輪がはっきりせず、防御構造も中途半端に感じられ、急ごしらえの城という印象が強い。また車道の上方にも遺構があるらしいが、荒れていてよくわからなかった。

 尚、根府川城の訪城に当たっては、HP「土の古城探訪」を大いに参考にさせて頂いた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.7.12.3N35.12.9.7&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.11713888824&latitude=35.205808003953
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荒井城(神奈川県真鶴町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC06019.JPG←空堀跡
 荒井城は、1083年の後三年の役の際に、源義家に従って活躍した荒井実継の居城であったと言われている。その後、土肥氏の出城となり、下って戦国時代には小田原北条氏の烽火台が置かれたとも言われている。しかしその歴史には不明な点が多く、正確なところはわかっていない。
 荒井城は、真鶴半島の付け根部分にある丘陵地に築かれた城である。しかし山上ではなく、北に開いた谷戸地形の中に築かれている様で、周りの方がぐるりと高くなっており、三方を山で囲まれた窪地に造られた居館の様である。類似の形態は、神奈川県内の居館跡ではありふれたもので、周囲の丘陵を背後の防衛線としているのであろう。現在は荒井城址公園となって改変され、明確な遺構は少ないが、唯一屈曲した空堀が残っている。ここには石積みらしい跡も見られる。居館跡は、その東側上部の平場だと推測されている。城と言っても鎌倉期頃の古くささやかなもので、遺構から考えると戦国期にはその役目を終えていたと思われる。
居館跡とされる平場→DSC06026.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.8.15.0N35.9.7.1&ZM=9
タグ:居館
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土肥氏館(神奈川県湯河原町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC05977.JPG←駅前に建つ館跡の石碑と銅像
 土肥氏館は、鎌倉幕府創業の功臣土肥二郎実平の居館である。実平は、1180年、源頼朝が平家打倒の為挙兵すると、早くからこれを援け、石橋山合戦では土肥椙山に敗走した頼朝を匿ってその危急を救い、鎌倉幕府の創設に当たっては、軍監・追捕使・宿老として多くの功績を残した。尚、戦国時代に中国の覇者毛利氏の重臣となり、吉川氏と並んで「毛利の両川」と謳われた小早川氏は、実平の後裔とされている。
 土肥氏館は、現在のJR湯河原駅の付近にあったとされているが、早くに遺構を失い、江戸時代後期には既に伝承のみとなっていた。駅付近は10m程の段丘上に位置し、段丘上の館であったと思われる。背後の谷戸には土肥一族の菩提寺、城願寺があるが、この付近は地名を城堀と言い、館跡に由来する地名であると推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.6.20.8N35.8.32.9&ZM=9
タグ:居館
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土肥城(神奈川県湯河原町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC05957.JPG←二重堀切部の櫓門らしい跡
 土肥城は、標高563mの城山山頂に築かれた山城である。明確な歴史は不明であるが、鎌倉幕府創業の功臣土肥実平の詰城であったと言われている。しかし現在残る遺構は明らかに戦国期のものであり、小田原北条氏が相模防衛の為に箱根外輪山系に整備した山城と考えられる。

土肥城は、湯河原市街地からの比高が523m程にもなる高所に築かれた城であるが、西の山中を走る県道75号線からハイキングコースが整備されており、そこからの比高は160m程で比較的楽に登城できる。土肥城は、最上部に主郭を置き、そこから東に伸びる尾根上に掘切を介しながら合計6つの曲輪を連ねた連郭式の縄張りとなっている。各曲輪は削平が明確で、虎口には土塁が設けられて防御を固めている。ただ、虎口構造は基本的には平易な坂虎口であるが、要所で動線を曲げて敵の侵入を阻んでいる。そしてニノ郭虎口には、石積みの跡が明確に残っている。その他の曲輪の虎口付近にも石が散乱しているので、もっと石積みがあったのかもしれない。堀切はどれもかなり埋まっているのか、かなり浅くなっているが、やや薮に埋もれているものの形ははっきりと捉えることができる。五ノ郭と六ノ郭との間は二重堀切になっていて、堀切間は動線両側に土塁が盛り上がっており、櫓門が構えられていた可能性がある。六ノ郭先端にも土塁と堀切があり、実質的にここで城域は終わる様だが、その先も自然地形の緩斜面が広がっており、馬場か何かだった可能性がある。この他、主郭南にも3段の段曲輪と堀切がある。縄張りとしては比較的簡素な城で、全体から受ける印象は湯坂城によく似ている。湯坂城と同様、山中を通る古道を扼する要害だったのかもしれない。
ニノ郭虎口の石積み跡→DSC05929.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.5.16.5N35.9.10.7&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.08475000004&latitude=35.15627145067
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黒川丸山城(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC01201.JPG←城址付近の現況
 神奈川と東京の県境近くにある丸山城は、歴史不詳の城である。中世の通信基地として物見や烽火台が置かれたと考えられている。多摩丘陵の北辺に位置する丘陵上にあり、西側には鎌倉街道が通り、また飛鳥時代から平安時代にかけては、相模国府と武蔵国府を結ぶ古代東海道がこの付近を通っていたとされ、この街道沿いに併設された烽火台であった可能性も指摘されている様である。
 丸山城は、比高僅か20m程の円丘の上にあり、現在は黒川配水場が建てられている為、城内に進入はできない。当然破壊も受けており、遺構は確認できない。大丸城と同じく単郭の砦だった可能性もあるが、本当に中世以前の城であれば、はっきりした城郭遺構は元々無かったかもしれない。
 尚、丸山城という城の名は各地にあり、神奈川県下でも3つあるため、ここでは地名の黒川を付して「黒川丸山城」と記載した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.27.24.4N35.36.50.8&ZM=9
タグ:中世山城
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矢部氏館(神奈川県相模原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC01065.JPG←祠部分付だけ残る西側の土塁
 矢部氏館は、武蔵七党横山党の一流矢部氏の居館である。横山新太夫孝兼の孫で、粟飯原(藍原)二郎太夫孝遠の三男義兼が矢部三郎を称した。義兼は、1213年の和田合戦の際に、横山宗家と共に和田義盛方に付いて敗北し、滅亡した。しかしその一族は、その後も名跡を保っていたらしく、室町時代の上杉禅秀の乱の際にも、禅秀方に付いた武将の中に「矢部伊与守・嫡子三郎」がいたことが「鎌倉大草紙」に見えると言う。しかし室町期の矢部氏と、矢部氏館の関係は不明である。
 矢部氏館は、現在上矢部交差点の北の道路沿いに土塁が残っている。西側半分は道路のため削られているが、明瞭に残っている。発掘調査ではその外側に箱薬研堀も見つかっている。また交差点から西に150m程の所にも土塁が残っている。頂部には祠が祀られ、以前は道路に沿って東西に延びていたが、現在は祠の部分だけが辛うじて残っている。付近には矢部義兼の追善供養のために建てられたと推測される板碑も残っていて、矢部氏の痕跡を色濃く残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.23.47.7N35.34.48.2&ZM=9
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淵辺義博居館(神奈川県相模原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC01038.JPG←居館跡に建つ石碑
 淵辺伊賀守義博は、足利氏の家臣である。太平記によれば、中先代の乱の時、後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉府執権であった足利直義(尊氏の弟)は、鎌倉防衛の最後の砦井出の沢でも敗れて危殆に陥り、鎌倉放擲を決断した。その際、鎌倉に幽閉されていた護良親王が敵軍に奪取されて奉じられることを恐れ、淵辺義博に護良親王暗殺を命じた。護良親王を殺害した義博は、その後三河に向かって敗走する直義軍に合流したらしく、駿河国手越河原の合戦で討死したと言われている。

 しかし淵辺義博についてわかっているのはこの程度で、その他の事績は明らかではない。ただ、直義が親王暗殺という重大事を任せた程であるから、足利の家臣団の中でも信頼の厚い武士だったものと推測される。名乗りについても一説には淵辺「甲斐守」とも言われ、苗字を「淵野辺」とするものもある。今川了俊の『難太平記』では、「淵辺という年来の者が、「まず御前に討死つかまつろう」と言って、ただ一騎大勢の中に馳せ入って討たれた。」と簡潔に記されているのみである。

 淵辺義博居館は、東京都と神奈川県の県境を流れる境川西岸の台地上に築かれており、江戸時代後期までは馬場や土塁の跡が残っていたとされる。しかし現在は市街化で遺構は確認できない。しかしそれでもアパートの裏の空き地に、立派な石碑が建てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.24.38.2N35.34.8.9&ZM=9
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落合館(神奈川県綾瀬市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC01009.JPG←稲著社の境内
 落合館は、渋谷氏の一族落合氏の居館である。高座郡渋谷庄を本拠とした渋谷庄司重国の嫡子光重の六男重貞は、深谷郷落合に分知されて落合六郎を称した。重貞は1248年、薩摩の地頭となった父光重と共に薩摩に下向して土着し、高城氏の祖となったと言う。重貞の薩摩下向後も、落合にはその一系が在住していたらしいが、その事績は不明である。
 落合館は、一説には現在の稲著社の付近にあったと推測されている。蓼川とその支流比留川に囲まれた丘陵上に位置し、周囲をキツツキの森という鬱蒼とした森林に囲まれている。遺構はなく、現在残るのは伝承のみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.26.46.1N35.24.56.4&ZM=9
タグ:居館
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渋谷氏長後居跡伝承地(神奈川県藤沢市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC01003.JPG←天満宮西側の斜面
 現在、長後天満宮が建っている場所は、渋谷氏が長後に構えた城或いは居館跡であると伝わっている。渋谷氏は坂東八平氏の一、秩父氏の庶流で、渋谷庄司重国の祖父秩父六郎基家が長後に入部して築城したとも、渋谷重国入道長後坊がこの地に住んだことから長後の名が付いたとも言われるが定かではない。その後の渋谷氏の本拠となった早川城は、この地から西北西4.5kmの位置にあり、渋谷一族との強い関連があったことは十分考えられる。尚、渋谷氏の事績については早川城の項に記載する。
 渋谷氏長後居跡伝承地とされる長後天満宮は、引地川東岸の丘陵上に位置し、境内西側は引地川流域の低地に向かって落ち込む斜面となっている。眺望の利く地であり、遺構はないが、中世の居館を置いた可能性は十分に考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.28.0.2N35.25.1.0&ZM=9
タグ:居館
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富士塚城(神奈川県横浜市泉区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00987.JPG←城址碑のある富士塚公園
 富士塚城は、飯田五郎家義館とも言い、石橋山合戦の時に源頼朝を救った飯田五郎家義の館である。家義は、平家方の関東総大将大庭景親に従いつつ、危地に陥った頼朝を、夜陰風雨の中、箱根山まで導き、安房に逃れさせた。同じ年の黄瀬川の戦いでは一子太郎を失いつつ奮戦して伊藤小次郎の首級を挙げ、「前には我が生命を救い、今また戦功をなす。本朝無双の勇士なり。」と頼朝から賞され、この地を与えられた。家義は、鎌倉に近い相模野台地の要地に館を定め、一族の墳墓の地としたと言う。
 富士塚城は、現在は一面の住宅地となっており、遺構は残っていない。台地西側の富士塚公園に解説板と大きな石碑が建っており、その歴史を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.28.58.2N35.23.50.3&ZM=9
タグ:居館
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石巻下野守康敬陣屋(神奈川県横浜市泉区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00983.JPG←陣屋付近の現況
 石巻下野守康敬陣屋は、玄蕃城とも呼ばれる。石巻下野守康敬は三河出身の武士で、小田原北条氏に仕えた。1590年の春、豊臣秀吉が北条氏直に上洛して謁見するよう要求した時、氏直の使節として康敬が京に派遣され、上洛の遅れを咎められて監禁された。北条氏が滅ぼされると、康敬は徳川家康に預けられ、後に中田村を与えられて陣屋を構えたと言う。康敬の子康貞の代から江戸の屋敷に移った様である。
 石巻下野守康敬陣屋の地には、石巻氏以前に玄蕃守屋敷があったと言われている。しらゆり公園南側の丘陵地が陣屋跡地で、かつては東から南西にかけて低湿地が三日月状の堀となっていたと伝えられている。現在は一面の住宅地に変貌してしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.31.7.7N35.24.23.0&ZM=9
タグ:陣屋
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畠山六郎重保居館(神奈川県横浜市戸塚区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00981.JPG←屋敷地の戸塚高
 畠山六郎重保は、坂東武者の鑑と謳われた畠山重忠の嫡子である。北条時政の婿平賀朝雅と争ったことがあり、それが元で北条氏に讒訴されて、鎌倉由比ヶ浜で攻め滅ぼされた。その翌日、父の重忠も謀略によって二俣川で討死した。
 畠山重保は鎌倉の屋敷以外に戸塚にも居館を構えていたと言う。現在の戸塚高校の地に当たっているため遺構はないが、斜面上にあり眺望に優れた場所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.31.13.2N35.23.46.5&ZM=9
タグ:居館
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俣野五郎景久屋敷(神奈川県横浜市戸塚区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00965.JPG←屋敷伝承地1付近
 俣野五郎景久は、大庭景宗の末子で、俣野郷に分知されたため俣野氏を称した。源頼朝が挙兵すると、兄の大庭景親と共に石橋山で叛乱鎮圧のため戦い、源氏方の真田与一と暗夜の格闘をしたと伝えられている。その後、頼朝が安房で再起し、関東諸豪をその傘下に収めて鎌倉に入り、大庭景親を梟首にすると、景久は京に奔って平維盛の軍に合流した。そして倶利伽羅峠で木曽義仲の軍に敗れ、再度決戦を挑んだ加賀篠原の戦いで討死した。
 俣野五郎景久屋敷は、正確な場所は判明していないが、幾つかの伝承地が存在する。その内有力なものの一つは、国道1号線の藤沢バイパス出口交差点近くの台地上である。山林になっているがフェンスで周りを囲まれており、中に入ることはできない。日本城郭大系によれば、既に地形が改変されて旧状を失っていると言う。もう一つの伝承地は、そこから北に2.5km程の上俣野地区である。俣野神社の西側付近であるらしい。民家や畑となっていて、伝承地という以上のものはないが、近くには景久にまつわる観音堂がある。
上俣野地区の伝承地2→DSC00978.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【屋敷伝承地1】
     http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.29.43.9N35.21.24.5&ZM=9
     【屋敷伝承地2】
     http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.29.40.0N35.22.49.1&ZM=9
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平子平右馬允屋敷(神奈川県横浜市磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00804.JPG←屋敷地付近の真照寺
 平子氏は、武蔵七党横山党の一流とも、桓武平氏の一流とも、また相模の豪族三浦氏の庶流とも言われるが定かではない。1193年、源頼朝が富士で巻狩りを行った際、日本3大仇討ちの一つに謳われる曽我兄弟の討ち入りがあったが、平子平右馬允有長は曽我十郎と切り結んで勇名を馳せた。この後平子氏は、磯子に在住した有長の系統と、その弟で本牧石川を領した石川経長の系統に分かれた。磯子平子氏は、室町時代を通して鎌倉公方足利氏や関東管領山内上杉氏に従って活動したことが古文書などに見られる。しかし小田原北条氏の勢力が伸長してくると、徐々にその圧迫を受け、1516年に北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)が三浦氏を滅ぼし、更に2代氏綱が江戸城を支配した頃には、平子氏は相模から追われて越後に逃れたらしい。

 平子平右馬允屋敷は、現在の磯子小学校・真照寺の近辺にあったと推測されている。上屋敷・下屋敷の2つがあったとされ、上屋敷は真照寺の境内を含む北側に、また下屋敷は真照寺より400m程南の磯子旧道沿いにあったと言う。現在は市街化で遺構は全く残っておらず、日本城郭大系の要図に記された上屋敷地は、真照寺の墓地となっている。尚、真照寺は平子平右馬允有長が再興した寺で、平子氏の菩提寺となり、そこに伝わる毘沙門天像は有長の肖像と伝わっていると言う。それにしてもこの寺、変わった形の寺堂である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.37.27.5N35.24.41.0&ZM=9
タグ:居館
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玄蕃屋敷(神奈川県横浜市磯子区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00801.JPG←屋敷伝承地の現況
 玄蕃屋敷は、伝承未詳の城館で、玄蕃という人物についても不明である。ただ、すぐ南には平子氏の屋敷の伝承地があり、すぐ北にも平子氏の一族石川経長の居館推定地があるので、おそらく玄蕃という人物も平子氏の一族か家人であろうと、日本城郭大系では推測している。
 玄蕃屋敷のある地は、丸山台と呼ばれる丘陵地に南から入り込んだ谷戸の中にある。周囲一帯は完全に宅地化されていて、遺構はない。しかしかなり急峻な斜面に囲まれており、背後の要害性はかなり高かったことが現状からでも想像できる。それにしてもこんな急斜面にもところ狭しと家が新築されており、よくこんな地形に家を建てられるものだと驚いてしまう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.37.14.6N35.25.13.4&ZM=9
タグ:居館
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太田道灌屋敷(神奈川県横浜市南区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00793.JPG←屋敷地とされる太田小学校
 太田道灌屋敷は、扇谷上杉氏の家宰太田道灌が屋敷を構えた場所と伝えられている。また日本城郭大系では、「新編武蔵国風土記稿」の記事から、小田原北条氏の家臣で1519年に当地に入部した桜井玄蕃重政の居館があった可能性を指摘している。桜井氏は重政・将監重信・将監宗信・将監宗重と4代にわたって北条氏に仕え、1590年に北条氏が滅びると、当地で帰農したと言う。
 太田道灌屋敷があったとされる地は、現在の太田小学校の建つ場所とされている。この地は大岡川北岸に位置する比高30~40m程の段丘上で、周囲をかなりきつい傾斜の急坂で囲まれている。遺構は残っていないが、大岡川を天然の外堀とし、海を望む事のできる高台で、江戸城品川御殿山城等と共通した選地であり、道灌の築城のセンスが感じられる場所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.37.14.1N35.26.15.5&ZM=9
タグ:居館
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観音堂砦(神奈川県横浜市神奈川区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00782.JPG←宗興寺の裏に残る大井戸跡
 観音堂砦は、小田原北条氏の家臣間宮四郎左衛門が築いたと言われる砦である。権現山城からわずか200~300m程しか離れておらず、また権現山合戦の際に奮戦した北条方の武将の中に間宮彦四郎の名が見えることから、後に笹下城を築いて本拠とした間宮氏の一族が関与した城砦であったことはほぼ確実と思われる。おそらくは権現山城の出丸として機能したものであろうか。
 観音堂砦は、現在の宗興寺の建つ場所にあったとされている。現在の地勢から見ると、権現山のある段丘の東麓の微高地であったと思われるが、宗興寺の裏には江戸時代を通して使われた大井戸の跡が残っていることから、水の手として機能していたのかも知れない。いずれにしても市街化で遺構は湮滅している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.38.4.2N35.28.9.2&ZM=9
タグ:中世平城
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権現山城(神奈川県横浜市神奈川区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00740.JPG←権現山城遠望
 権現山城は、伊勢宗瑞(北条早雲)が初めて山内・扇谷両上杉氏と言う関東の大勢力に戦いを挑んだ権現山合戦の舞台となった城である。その創築は明確ではなく、一説には南北朝期の武蔵野合戦の際に、新田義宗・義興らに攻められて鎌倉を逃れた足利尊氏が籠った「狩野川の城」が権現山城であるとも言われ、またその後、伴氏の居城であったとも言われるが、定かではない。権現山城がはっきりと姿を表すのは、前述の権現山合戦の時である。1510年、関東管領山内上杉顕定が越後で敗死し、それを好機到来と見た伊勢宗瑞は、両上杉氏に反旗を翻した。そして扇谷上杉氏の家臣上田政盛を調略して権現山城で反旗を翻させ、自身は住吉の城を取り立てて後詰めとして出陣した。しかし権現山城は2万の上杉勢に囲まれ、衆寡敵せず10日後に落城したと言う。その後、権現山城は姿を消すが、多米氏の築いた青木城は、権現山城の一部本覚寺山を中心郭として、新たに取り立てられたと考えられている。

 権現山城は、現在の幸ヶ谷公園にあった。当然、市街化と公園化で明確な遺構は確認できない。しかし周囲より10m程切り立った段丘で、公園内には段差があり、城らしさを感じさせる地勢である。公園の段差は、ニノ郭であったものかも知れない。また、公園の東側の道路は切通し状になっていて、堀切跡かもしれない。周辺の道路も空堀の名残を感じさせるものがあるが、果たしてどうであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.37.55.2N35.28.6.5&ZM=9
タグ:中世平山城
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