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古城めぐり(千葉) ブログトップ
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平山城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6810.JPG←妙見社裏の大土塁
 平山城は、長谷部城とも呼ばれ、一時期千葉氏の居城となったと言われている。15世紀の後半、鎌倉公方足利成氏と関東管領山内上杉憲忠の対立から、享徳の大乱が勃発した。その余波で千葉氏内部に内訌が生じて千葉宗家が滅ぼされ、その後は庶流の馬加康胤の系統が千葉氏を称した(後期千葉氏)。この馬加系の千葉宗家を継いだ輔胤(康胤の庶長子とされる)が平山城を取り立てて居城とし、その子孝胤の時に平山城から本佐倉城に居城を移したらしい。しかしこの辺りの歴史は、当時の大乱による混乱もあってか、諸説あっていずれが正しいか明確ではない。ちなみに平山城周辺には家臣の屋敷伝承地が散在していることから、一時期とは言え千葉宗家の居城として整備されていた様だ。本佐倉城移城後の平山城の歴史は不明である。

 平山城は、都川支流の北岸にそびえる標高43m,比高23m程の長方形をした台地突出部に築かれている。城の主要部は民家奥の畑地であり、入口の家の方に断って入る必要がある。そこのお婆さんに城跡探訪ということで話をしたが、どこでもそうなのだが、しっかり遺構がある所に限って「何もない」と力説されるのは何故なのだろう?平山城もそうで、妙見社の背後や台地辺縁部など、立派な大土塁が各所に確認できる。かなり広大な城で、畑の周りによくこれだけ土塁が残っていたものだと感心する。ただ城郭遺構が断片的なので、往時の縄張りがどうなっていたのか、想像するのが難しい。台地中央には周囲を土塁や切岸で囲んだ方形の広い空間があり、周囲より高くなっていることから、ここが主郭と想定される。その南西に広がる畑地を、ここでは仮に二ノ郭とする。二ノ郭には前述の妙見社があるが、その背後の大土塁は何の役目を果たしていたのか、わかりにくい。一方、二ノ郭の南西端には南と西の二辺を土塁で囲んだ一段低い曲輪があり、その脇に二ノ郭隅櫓台の土塁が繋がっている。そのには腰曲輪があり、前述の櫓台下に竪堀状の城道があり、途中に木戸口らしい遺構も見られる。しかしこの城道から上の二ノ郭への動線が切れてしまっている。また二ノ郭の南東角には小堀切と土壇を有した小郭が築かれている。二ノ郭の東辺にも土塁が散見される。主郭は南東側に大土塁を築き、虎口が残っている。この他、周囲には腰曲輪らしい平場が広範囲に残っているが、民家や畑への改変がされていて、どこまでが遺構なのかは微妙である。平山城は、居館的色彩の強い城で、本佐倉城と比べると戦国期以前の素朴な縄張りの城であったことが窺える。
主郭周囲の大土塁→IMG_6839.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.571602/140.192714/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


日本城郭大系〈第6巻〉千葉・神奈川 (1980年)

日本城郭大系〈第6巻〉千葉・神奈川 (1980年)

  • 作者: 平井 聖
  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 1980/02
  • メディア: -


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城の腰城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6719.JPG←大堀切
 城の腰城は、歴史不詳の城である。伝承では、板倉筑後守が築城したと言われているが、筑後守は1638年の島原の乱で戦死した板倉内膳重昌の次男重直と比定されており、1639年にこの地を知行している。そうなると元和の一国一城令の後に、わざわざ中世城郭的な城を築いたことになり、時代背景が合わない。中世城郭の色彩の濃い城の造りと、千葉氏の勢力圏の真っ只中の地域であることを考えれば、千葉氏かその家臣が戦国期に築いた城と考えるのが自然であり、一説には都川支流に点々と所在する城山城立堀城平山城と共に連携して機能した城ではなかったかとも推測されている。

 城の腰城は、都川支流の北岸に突き出した比高15m程の段丘上に築かれている堀切で分断した城で、単郭ではあるが曲輪の面積は大きい大規模な城である。北限の堀切も規模が大きく、長さ100m以上に渡って幅15m、深さ10m程の堀が穿たれている。残念ながら主郭部は千葉東金道路が貫通して、大きく破壊されてしまっているが、東金道路脇から主郭の南端部に登ると、道路の向こうに見える城域北限までかなりの距離があり、大きな曲輪を有した城であったことがわかる。また前述の堀切は藪化しているものの、ほぼ無傷で残っているので、遺構の規模をよく推し量ることができる。堀切は一直線ではなく、横矢掛かりの折れが見られ、塁線が中央部で内側に折れ込んでいる部分に虎口が辛うじて残存している。虎口から堀切に向かって、土橋状に土塁が伸びている様であるが藪でわかりにくい。また堀切北側には土塁の張り出しも見られる。堀切の主郭側には土塁がそびえ、東西両端部は物見台となっている。この他、残存する主郭南端部の東側には低土塁も確認できる。城の腰城は、その規模から考えて、軍団の中継基地か兵站拠点であったことが窺われ、千葉氏やその重臣の原氏、或いはそれらを傘下に収めた小田原北条氏などによって使われた可能性は十分に考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.600413/140.157781/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


図説 房総の城郭

図説 房総の城郭

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2002/09
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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飯野城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6621.JPG←主郭の枡形虎口
 飯野城は、歴史不詳の城である。位置的には印旛沼を挟んで臼井城師戸城と相対する位置に築かれており、臼井城の支城群と連携して湖沼の水運を扼する要害ではなかったかと想像される。

 飯野城は、印旛沼東岸の比高20m程の南北に細長い丘陵上に築かれている。地形図を見ると本当に細長い尾根となっているが、現地に実際に行くと城内は思った以上に広い。城は県立印旛手賀自然公園の西端にあり、野鳥観察の為の散策路が整備されている。しかし遺構はよく残っており、公園化による破壊は少ない様である。北に主郭、南に二ノ郭を置いた連郭式の縄張りの簡素な城砦である。主郭先端は細尾根となって降っている。主郭南には枡形虎口の土塁が築かれ、二ノ郭との間にはかなり浅いが堀切が確認できる。堀切の西端は竪堀となって落ち、東端は東斜面の腰曲輪に繋がっている。二ノ郭は広く、南東にやはり枡形虎口が築かれ、虎口脇に土塁や腰曲輪が築かれて防御を固めている。また二ノ郭の東斜面には帯曲輪が延々と伸びている。南東にも2段ほどの腰曲輪が構築され、その先は台地基部を繋ぐ幅広の尾根となっている。尾根は自然地形のままで、特に堀切などの普請は見られない。飯野城は、大した城ではないものの、主郭・二ノ郭の桝形虎口がよく残っており、遺構面からすると戦国期の城であったことが推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.751084/140.201275/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


図説 房総の城郭

図説 房総の城郭

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2002/09
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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志津城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6593.JPG←神社のある高台
 志津城は、千葉氏の一族臼井氏の居城臼井城の支城である。臼井昌胤の次男胤氏がこの地に分封されて志津氏を称し、志津城を居城とした。鎌倉後期の1314年、臼井氏10代祐胤(胤氏の兄)が25歳の若さで病没し、わずか3歳の嫡子竹若丸(興胤)が、叔父の志津胤氏の後見を受けて家督を継いだ。しかし胤氏は、竹若丸を暗殺して臼井氏惣領の座を奪おうとした。それを知った一族の岩戸胤安は、竹若丸を臼井城から脱出させて自らの居城岩戸城に匿い、更に鎌倉建長寺に竹若丸を隠した。これを知った胤氏は、岩戸城を攻めて岩戸胤安・胤親父子を滅ぼし、臼井氏を乗っ取り臼井城を居城とした。後に成長した興胤は、南北朝の騒乱の中で足利尊氏に従った軍功により臼井氏の惣領と認められ、1338年、尊氏の命で胤氏は興胤に臼井城を明け渡した。しかし内心不本意な胤氏は、興胤を侮って非礼が多く、遂に興胤は胤氏討伐を決意し、1340年に志津城を攻撃して志津氏を滅ぼした。以後、志津城は廃城となったと考えられている。

 志津城は、小河川に面した比高5m程の低台地に築かれていたと考えられている。城址周辺一帯は市街化でかなり改変されており、天御中主神社の付近だけが城址の雰囲気を残している。神社境内は、2段ほどの平場を持った小さな高台となっており、往時の城の櫓台の様な感じである。この高台の脇には水堀らしい跡も残っている。確認できるのはそのぐらいで、あとはやや起伏のある地形に住宅地が広がっているだけである。志津城は、師戸城・岩戸城と並ぶ臼井城周辺の三大支城の一であったと言われているらしいので、この周囲を城域とした広大な城であったと思われるが、戦後の航空写真を見ても既にどの様な縄張りだったのか、追うことができなくなってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.709366/140.147202/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

  • 作者: 千野原 靖方
  • 出版社/メーカー: 崙書房出版
  • 発売日: 2004/02
  • メディア: 単行本


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井野城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6577.JPG←二ノ郭の桝形虎口
 井野城は、歴史不詳の城である。戦国時代のこの地域は下総の名族千葉氏の勢力下にあり、千葉氏の一族で重臣であった原氏が臼井城の支城として井野城を築いたのではないかと推測されている。

 井野城は、ユーカリが丘という住宅団地の一角にある。ユーカリが丘は、もうかれこれ40年程前、私がまだ小学生で八千代市の近くに住んでいた頃に、住宅団地と一緒にユーカリが丘線という新交通システムができたということで、友達とわざわざ京成線を乗り継いで乗りに行ったことがある、思い出の地である。まさかこんな開けてしまったところに、城址遺構が残っているとは思わなかった。周辺は市街化で往時の面影は全く残っていないが、城跡部分の丘だけが周囲から隔絶された異次元空間の様に残っている。昭和30年代の航空写真を見ると、南に向かって張り出した台地先端部の小山となっていたが、周辺台地の地形はかなり変わってしまっている。そうした地形の改変を考慮した上で遺構を見る必要があるだろう。南側の谷戸は、現在宮の杜公園という調整池となっている。丘の上には八社大神という神社があり、その脇に窪地状の広い空間があり、これが主郭とされている。窪地状の曲輪という、珍しい形である。その周囲は削り残しの土塁らしく、外周には横堀が遊歩道となって残っている。また主郭の東側にニノ郭があり、前述の横堀はこの二ノ郭手前で東に折れている。この折れの部分に二ノ郭の虎口があり、一種の枡形虎口を形成していた様である。虎口脇には土塁もはっきり残っている。二ノ郭は、主郭より小さい曲輪だがなぜか主郭より一段高い位置にある。しかし周囲の土塁の防御性では主郭より劣っていることを考えると、やはり高い位置にある方が二ノ郭なのかな?という不思議な感じの縄張りである。井野城は、この様にあまり城跡らしさを感じさせない遺構であるが、おそらく陣屋的な機能が主体の城砦だったのではないかと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.739084/140.148983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

  • 作者: 千野原 靖方
  • 出版社/メーカー: 崙書房出版
  • 発売日: 2004/02
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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柳戸砦(千葉県柏市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6461.JPG←東側の空堀
 柳戸砦は、歴史不詳の城砦である。この地は、鎌倉~室町前期頃には、下総相馬氏か、新田岩松氏(相馬氏2代義胤の娘土用御前の嫁ぎ先)が領したことが、『新田岩松文書』から推測されている。戦国後期には、小金城主高城氏がこの地を支配していたらしい。しかし柳戸砦との関連は不明である。
 柳戸砦は、下柳戸集落背後の丘陵地に築かれている。六所神社の東側に隣接しており、山林内に南に開いたコの字状に、浅い空堀と低い土塁が廻らされている。北側の空堀には土橋のようなものも見られるが、かなりささやかなもので、実際に遺構であるかどうかはわからない。東側の堀・土塁は、比較的しっかり普請されているものの、全体的にはかなり小規模なものなので、どこまで城砦としての防御性を有したかは疑問がある。どちらかと言うと、屋敷地の区画という意図で作ったもののように見受けられる。遺構を見る限り、意図不明の城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.837307/140.063581/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

  • 作者: 千野原 靖方
  • 出版社/メーカー: 崙書房出版
  • 発売日: 2004/02
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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手賀城(千葉県柏市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8376.JPG←外郭に残る土塁跡
 手賀城は、下総の名族千葉氏の重臣原氏の一族、手賀原氏の居城である。手賀原氏は、戦国中期の頃に臼井城主原胤貞が千葉勝胤より手賀郷600貫を与えられ、胤貞の2男筑前守胤親が手賀城に入って手賀原氏初代となったと伝えられるが、時代的に合わないなど信憑性に乏しく、詳細な系譜は不明である。胤親の子久胤の時に小田原の役となり、手賀城も上方勢の攻撃を受けて落城した。その後、手賀原氏は当地に隠棲していたが、久胤死後にその後を継いだ弟胤次の時に徳川家の重臣板倉勝重に召し出され、1617年、勝重の推挙によって江戸北町奉行所の与力に抜擢されたと言う。その後、幕末まで代々江戸町奉行の与力として続いた。

 手賀城は、手賀沼南東の比高15m程の段丘上に築かれている。広い台地の広範囲を城域としていたらしいが、宅地化で遺構の湮滅が進んでいる。主郭は段丘北端の中央部にあり、現在は畑となっている。畑の中に小さな神社が建ち、神社への入口に城址碑が建っている。主郭の東側などに僅かに土塁が残存し、その脇を通る車道は往時の堀底道であろう。この他にも宅地の脇や外郭南東部の市道脇に、部分的に土塁が残存している。明確な遺構はその程度であるが、城の地勢はよく残っている。


【2018年1月再訪】
前回手賀城を訪れたのは真夏で、見逃していた遺構もあった為、近くまで来たついでに再訪した。主郭の東側斜面に腰曲輪があり、先端には木戸口と思われる地形が確認できる。腰曲輪から谷戸を挟んで、東側に土塁を伴った段曲輪がある。一方、主郭の南西には斜面に沿って円弧状に横堀と土塁を築いた曲輪跡がある。この他、前回は気付かなかったが、主郭南西の民家の中に土塁が見られ、ちょうど道路の屈曲部に当たり、土塁はL字型をしているようである。どうも枡形虎口の跡の様である。そうすると、道路の左手の民家の敷地境界に見られるわずかな土盛も、もしかしたら虎口土塁の遺構なのかも知れない。
主郭の東側腰曲輪の木戸口→IMG_9518.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.845761/140.072100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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夏見城(千葉県船橋市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8326.JPG←寺背後に残る土塁囲郭
 夏見城は、この地の在地領主夏見氏の居城である。『長福寺縁起』によれば、城主夏見加賀守政芳は、1564年に不意に敵の攻撃を受けて落城、討死したと伝えられている。尚、夏見氏についてはこの伝承の他に、長福寺の木造聖観世音菩薩の胎内銘に、1536年12月24日付で「夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定」なる者が旦那となって造立したことが記されており、船橋市内の城館の中で唯一城主又はその近縁者の名が一次史料によって判明していると言う。この夏見豊嶋勘解由左衛門尉は、「豊嶋」の名乗りにもある様に、長尾景春の乱で太田道灌に滅ぼされた武蔵の名族豊島氏の一族が、この地に逃れ来たったものではないかとの説がある。

 夏見城は、海老川西岸の段丘辺縁部に築かれている。急峻な崖で囲まれた地勢で、主郭は現在、長福寺の境内となっている。寺背後の高台(墓地の東側)に土塁で囲まれた曲輪があるが、主殿を建てるほどの広さはないので、寺境内を主郭とし、高台を詰丸としていたと思われる。寺周辺は市街化しているため往時の縄張りはよくわからないが、戦後の航空写真を見ると寺周囲の円弧状の車道に沿って並んでいる宅地部は、広い堀跡であったらしい。その周りには二ノ郭があったと推測されるが、戦後でも既にその形状はわからなくなっている。尚、詰丸北東部の土塁の上には妙見尊が祀られた「雪解塚」があるが、ここには往時井戸があり、戦いで討死した城兵の遺骸を埋めたとも、城の女中らが身を投げたとも言われ、雪が積もらなかったことからその名が付いたと言う。歴史不詳ながら、しっかりした土塁が残っており貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.712293/139.997599/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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小森城(千葉県白井市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8861.JPG←主郭北東の隅櫓台
 小森城は、歴史不詳の城である。城主については、下総の名族千葉氏の家臣であったと言う伝承があるが、真偽は定かではない。一説には、戦国期には臼井城を本拠とした臼井原氏の支配下にあったとも推測されている様だ。尚、小森城のある地域は平塚郷と呼ばれ、印西庄に属していた。同じ印西庄に属していた高田山城との縄張りの類似性も指摘されている。

 小森城は、下手賀沼南西の比高15m程の段丘上に築かれている。往時は、眼下まで沼地となっていた。方形の主郭とその周りのL字状の二ノ郭から成る梯郭式の縄張りとなっている。横矢掛かりはほとんど無く、直線的な土塁と堀で構成されている。主郭は全周を土塁で囲んでおり、殊に北東角には隅櫓台が築かれ、また主郭背後は比較的規模の大きな土塁となっている。二ノ郭は主郭の東と南に広がっているが、一部小屋が建っていて土塁が崩されている。また二ノ郭外周の土塁・空堀は非常に小さく、一部は不分明なほどささやかなものである。この他、主郭の北と東の斜面に帯曲輪が築かれている。城址近くまで工業団地が広がっており、ここだけ遺構が残っているというのは奇跡的であるが、遺構自体は比較的小規模である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.825242/140.070791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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中野城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9812.JPG←ニノ郭前面の二重横堀・三重土塁
 中野城は、上総北東部に武威を振るった土気酒井氏の、土気城以前の居城であったと言われている。酒井氏の出自は諸説あって明確ではない。一説には、土気酒井氏の祖酒井定隆は、元は遠江国の武士で、房総の地に移り住み、安房里見氏の支援によって中野城を築いたと言われる。しかし定隆は、太田道灌が千葉氏を攻撃した1478年の境根原合戦、翌79年の臼井城合戦の際、千葉孝胤・原胤房に与力していることから、安房里見氏の支援は疑問視されており、実際には千葉氏の勢力を背景として、上総武田氏に対する国境前線の守りとして中野城に封じられ、その後、土気城に進出したと考えられている。定隆は法華宗信仰が厚く、領内全ての寺院を法華宗に改宗させ、「七里法華」と呼ばれる宗教政策を行った。また定隆に迎えられた日泰上人は、旧中野城内に長秀山本城寺を開創して布教に務めたと言う。

 中野城は、現在も本城寺の境内となっている。浸食谷に面した段丘上に築かれており、寺のあるのが主郭で、外周の西・北・南の3面に土塁と空堀が延々と築かれている。城域は境内の外まで広がっていて、おそらく往時は複郭の城であったと思われるが、曲輪の区画は今では湮滅して明確ではない。しかし、仮に主郭の南をニノ郭とすると、ニノ郭前面の斜面上に二重横堀・三重土塁が残っており、大手前面の防御を担っていたと考えられる。しかしこの部分は民有地の山林らしく、2月下旬に訪城した時は一部の土塁が重機で破壊の真っ最中であった!(もう破壊され尽くしているかも。頼むからやめてくれ~!)この他、浸食谷をそのまま天然の空堀としている様だ。想像より、しっかりした遺構が残っており素晴らしいが、民有地部分の破壊だけは何とかしてほしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.582100/140.265648/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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立堀城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9735.JPG←南東角部の城塁と空堀
 立堀城は、歴史不詳の城である。一説には、千葉輔胤が一時本拠を置いた平山城(長谷部城)の出城であったとも言われるが明確ではない。
 立堀城は、支川都川の北岸の比高20m程の丘陵上に築かれている。北東に向かってすぼまった台形状の曲輪だけで構成された単郭の城であるが、城塁は5m程の高さを持つ規模の大きいもので、主郭の面積もこの手の城にしては異例に大きい。主郭は全周を土塁で囲み、更に全周に空堀を巡らして防御を固めている。主郭の塁線は西面と東面で僅かに歪んでいるようだが、ほぼ直線状の城塁のみで築かれている。南東辺にだけ張り出しの櫓台が築かれている程度である。土橋で接続された虎口は北東と南西の2ヶ所築かれているが、土橋への横矢は掛けられておらず、その面では戦国前期までの構築の様に思われる。主郭内部は倒竹地獄で進入は困難である。全体から受けた印象としては、軍需物資を集積した兵站拠点のような使われ方をした城の様に感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.573845/140.178552/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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栄福寺館(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9687.JPG←境内周囲の土塁
 栄福寺館は、平安時代後期に千葉介常重の家臣板尾五郎治の居館であったとされている。寺伝では、1130年に嫡子常長に付き添われてここより西にあった三角山に仮住居を設けて安住地を探し、翌31年にこの地に居城を移し、千葉氏の守護神妙見大菩薩を奉祀安置したと言う。栄福寺館のすぐ西方300mの位置に城山城があるが、両者の関係は明確ではない。

 栄福寺館は、現在栄福寺の境内になっている。城館跡であることを知らなかったが、城山城の帰りに何か城と関連する歴史があるかもと立ち寄ったところ、千葉氏との関連する歴史が残る寺で、境内の周りに土塁遺構の様なものも見られ、帰ってから調べたらやっぱり館跡だったというわけである。寺の石碑に寺伝が記載されており、その中に前述の歴史が記載されていた。周囲には土塁だけで堀跡がなく、城館の遺構であるかどうかは確実ではないが、ここでは一応遺構ということにしておきたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.594786/140.170999/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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城山城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9590.JPG←西尾根の櫓台
 城山城は、歴史不詳の城である。元々この地は千葉庄池田郷に属し、平安時代後期には千葉介常重の家臣板尾五郎治が治めていたとされる。しかし一説には、江戸時代初期の寛永年間(1624~43年)の頃に板倉筑後守重直が築城したとも伝えられる。しかし元和の一国一城令が敷かれた後のことであり、史上疑問も多い。『日本城郭大系』では、東方300m程の位置にある板尾五郎治の居館(栄福寺館)の出城か、都川支流に点々と所在する城の腰城立堀城平山城と共に連携して機能した城との推論を紹介している。

 城山城は、支川都川の北岸の比高20m程の段丘先端に築かれている。南東の腰曲輪には現在、日枝神社が建っており、また城のすぐ北側には千葉東金道路が貫通し、城のすぐ脇まで車道が来ているので、訪城は容易である。しかし城自体は藪城なので、夏場の訪城は無理だろう。遺構はよく残っており、平坦で広い主郭とその北側に一段低い二ノ郭があり、周囲を腰曲輪で防御した構造である。二ノ郭北側には堀跡も残っている。主郭南東部に櫓台を備えた虎口が築かれている。主郭前面に当たる南側は堀底道を介して腰曲輪があり、腰曲輪の西から南にかけては横堀が穿たれている。この腰曲輪にも虎口があって、南に一段低い腰曲輪と繋がっている。一方、南東にも腰曲輪があって前述の通り日枝神社が建っている。神社裏手には土塁や主郭に通じる木戸口らしい地形が見られる。この他、主郭の東西にも腰曲輪があり、一部に土塁が築かれている。また西に伸びる尾根上にも遺構があり、櫓台や堀切、腰曲輪が連なっている。比較的小規模で、大した技巧性もない城であるが、遺構の残り具合は想像より良かった。
西尾根の堀切→IMG_9596.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.594297/140.167716/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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木出城(千葉県四街道市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9538.JPG←北辺の櫓台
 木出城は、歴史不詳の城である。地域としては千葉氏の勢力圏に属していたことから、千葉氏関連の在地領主の城と考えられているが、遺構から推測すると戦国後期のものと考えられることから、三船山合戦以後、反攻に転じた安房里見氏に対して、北条氏が築いた防衛の砦とも考えられよう。

 木出城は、比高15m程の段丘先端部に築かれている。ほぼ単郭の城で、民家裏の山林に遺構が眠っている。民家の優しい老夫婦に断れば、快く見学を承諾頂ける。北に700m程の位置にある福星寺館と構造がよく似ており、主郭はほぼ方形の曲輪で、外周には土塁が築かれて防御を固め、東西南北四辺に横矢掛かりの櫓台張出しを設けており、それに伴って外周の空堀を屈曲させている。外周の堀底から見た城塁は高さ4~5m程で福星寺館よりはやや規模が小さい。しかし主郭の面積は福星寺館より広く、主郭南にも外郭が広がっていて、堀らしい溝状地形が見られる。主郭には西と南に虎口が開かれているが、土橋はなくそのまま堀底に繋がっている。空堀自体が城内通路として機能したらしい。この他、台地の東側下方にも水堀跡らしい田んぼが残っている。横矢の発達や福星寺館との相互関係から推測すると、三船山合戦以後に里見氏の激しい攻勢に曝された北条氏が、防衛線維持のために築いた城砦と考えるのが妥当ではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.640540/140.196941/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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福星寺館(千葉県四街道市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9467.JPG←北辺の櫓台と空堀
 福星寺館は、歴史不詳の城館である。地域としては千葉氏の勢力圏に属していたことから、千葉氏関連の在地領主吉岡氏関連の城館と考えられているが(『図説 房総の城郭』)、遺構から推測すると戦国後期のものと考えられることから、三船山合戦以後、反攻に転じた安房里見氏に対して、北条氏が築いた防衛の砦とも考えられよう。

 福星寺館は、比高20m程の段丘先端部に築かれている。単郭の小規模な城館で、郭内は現在福星寺が建っている。主郭はほぼ方形の曲輪であるが、外周には高土塁が築かれて防御を固め、東西南北四辺の中間部に横矢掛かりの櫓台張出しを設けており、それに伴って外周の空堀を屈曲させている。外周の堀底から見た城塁は高さ6~7mにも及ぶ規模で、城の規模と比べると不釣り合いなほど厳重に防御されている。また東や南に虎口が開かれ、土橋が架かっている。空堀の外周にも一部土塁などが散見される。南に700m程しか離れていない木出城と構造がよく似ており、横矢の発達や厳重な防御構造から推測すると、三船山合戦以後に里見氏の激しい攻勢に曝された北条氏が、防衛線維持のために築いた城砦と考えるのが妥当ではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.646974/140.198271/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo4&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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根古谷城(千葉県八街市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9373.JPG←天満宮裏に残る堀跡
 根古谷城は、千葉氏の重臣円城寺氏の居城である。円城寺氏は、原氏・木内氏・鏑木氏と共に「千葉四天王」と称される程、千葉宗家の中で勢力を持った一族で、享徳年間(1452~55年)に、根古谷城はこの円城寺氏によって築かれたと推測されている。しかし1455年、鎌倉公方足利成氏は、亡き父持氏の仇の子である関東管領上杉憲忠を謀殺し、関東を二分する大乱、享徳の乱が勃発した。この余波で下総では名族千葉氏に内訌が生じ、成氏方の康胤は、同族の小弓城主原胤房と共に、上杉方に付いた宗家千葉胤直・胤宣父子を攻め滅ぼし、宗家を乗っ取った。この時、円城寺氏も滅び、その後根古谷城は、粟飯原氏が城主となった様である。その後の歴史は不明であるが、1590年の小田原の役の際に落城したと言う。

 根古谷城は、弥富川南岸に南から突き出した比高10m程の台地上に築かれている。天満宮の境内が主郭に当たり、外周には土塁が築かれ、台地との間の南東側と南西側にそれぞれ二重の堀が穿たれている。主郭は天満宮が建っているところが高台になっていて、往時の櫓台の跡らしい。また北に向かって数段の平場に分かれており、最下段が屋号「要害」の民家となっている。主郭以外は宅地化で改変が進んでいるため、遺構はあまり明瞭ではないが、車道沿いに土塁らしい痕跡を一部に残している。城の中心から南西に500m程離れた位置に西御門神社があるが、ここもその名の通り西の木戸口を防衛する出砦であったと思われる。あまり期待していなかったが、主郭部は思ったよりも遺構が良好に残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.637767/140.259340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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岩富城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9280.JPG←主郭に残る土塁
 岩富城は、下総の名族千葉氏の重臣原氏の一族、弥富原氏の居城である。1470年頃に原左衛門尉景廣が築城したと言われ、以後子の胤行らが城主を務めた。弥富原氏も千葉宗家と共に小田原北条氏に属した為、1590年の北条氏滅亡と共に滅んだ。その後、玉縄北条氏の当主氏勝が、関東に入部した徳川家康より岩富1万石に封じられて城主となった。氏勝は、小田原の役の際には要衝の山中城主となって激戦の指揮をとったが、上方勢の猛攻の前に落城を免れず、自害しようとしたところを松田康長ら重臣達に説得されて城を脱出し、本拠の玉縄城に立て籠もった。その後、説得を受けて玉縄城を包囲した家康に降り、以後は家康に従ったものである。1614年、養子の氏重が下野富田城に移封となり、岩富城は廃城となった。

 岩富城は、鹿島川東岸の比高20m程の段丘上に築かれている。城域北西端に五角形をした主郭を置き、その周囲に二ノ郭などの曲輪を配している。現在明確に残っているのは主郭だけで、東側に土橋の架かった虎口を構え、外周を土塁で防御している。特に虎口部では土塁上の幅が広くなっており、櫓門が築かれていたことが想像される。主郭の東と南の空堀もはっきりと残っている。主郭東側が二ノ郭であったと思われ、段状に平場が築かれている。ニノ郭の北西斜面の下方に腰曲輪があり、主郭下方の腰曲輪との間は、空堀から落ちる竪堀で分断されている。この竪堀はどうも城内通路を兼ねていた様である。この他、本宿の地名が残る付近に方形の土塁の一部が残るらしいが、主郭以外の曲輪は宅地化されているので、確認はできない。城内はかなり改変されているが、教蔵寺北側に東から谷戸が入り込み、そこに古道が残っている。見るからに堀跡・虎口跡らしい地形で、搦手虎口だった可能性もある。いずれにしても、明瞭な遺構は主郭周りだけなのは惜しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.655448/140.235801/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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大須加山砦(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6746.JPG←馬加康胤の首塚
 大須加山砦は、歴史不詳の城砦である。千葉氏の有力支族馬加氏の居城馬加城に近く、往時は砦の下を通る国道14号線の際まで海岸線が迫っており、馬加城を防衛し、海岸線防備も兼ねた砦であったと推測されている。
 大須加山砦は、浜田川西岸の比高10m程の大須賀山と呼ばれる段丘先端に築かれている。往時は前述の通り眼下近くまで海岸線が迫り、浜田川の河口も間近に位置していた。丘の中腹には大日堂があり、台地上には馬加康胤の首塚と伝えられる方形の塚が残っている。この塚は、櫓台ほどの大きさがあり、古の方墳であったものがいつの頃からか康胤の首塚と伝えられるようになったのかもしれない。塚の周囲には腰曲輪らしい平場があり、土塁と物見台らしき土盛りも見られる。詳細不明であるが、物見の砦を置くには絶好の場所であったことはうなづける。
土塁らしき土盛り→IMG_6741.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.66345,140.045707&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平山城
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若宮館(千葉県市川市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6657.JPG←外周に残る土塁
 若宮館は、日蓮の代表的な門下であった富木常忍の居館である。常忍は元々、下総守護千葉頼胤に仕えた豪族で、八幡荘若宮と呼ばれたこの地に館を構え、幕府のある鎌倉との間を往復していた。その中でたまたま布教活動をしていた日蓮と出会い、熱心な信者となった。日蓮との繋がりの強さは、1260年に日蓮が鎌倉松葉ヶ谷で焼討ちされた際に、常忍を頼って若宮館に難を逃れたことからも推測できる。この時常忍は、館内に法華堂を建て、日蓮に説法を願い出た。1264年に安房小松原で、日蓮が地頭東条景信に襲撃され重症を負った後にも(小松原法難)、日蓮は若宮館に身を寄せた。1282年、日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺とし、後に法華経寺の奥之院と称されるようになった。

 若宮館は、よくある単郭方形居館であったと思われ、現在でも奥の院の周囲に土塁が残っている。かなり改変されている部分もあるが、土塁の痕跡は明瞭で、周囲の道路も空堀跡であることが城館巡りに慣れた人ならばひと目で分かるだろう。この館には、法華経寺に行こうとして車で通りかかり、たまたま道路脇の解説板を見つけて訪城した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.721326,139.953547&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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幸谷城(千葉県柏市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6611.JPG←林の中に残る土塁
 幸谷城は、歴史不詳の城である。鎌倉時代には幸谷城のある増尾村が千葉氏の一族相馬氏の所領であったこと、また幸谷城の規模・構造が近くの増尾城と比べて単純で要害性に劣ることなどから、鎌倉時代に相馬一族の城館であった可能性が高いと考えられている。

 幸谷城は、増尾城の南方わずか600mの、地元で「きつね山」と呼ばれる比高10m程の段丘上に築かれている。松ヶ崎城などと同じく段丘の上の平地に方形の土塁を築いており、段丘の要害性を活かした単郭方形居館であったと思われる。民有地の屋敷林の中にあるが、現在は地元の有志「柏ふる里つくり隊」によって整備され、年1回の地元イベント「カシニワフェスタ」の中で公開されている。人目を気にせず大手を振って遺構の探索が出来る貴重な機会なので、今年の開催に合わせて訪城した。遺構としては、南と西の土塁がかなり明瞭で、特に西側には空堀と外側の土塁もはっきり確認できる。一方、東の遺構は湮滅しており、北側にも土塁と空堀が残るがかなり不明瞭になってしまっている。あまりはっきりしないが、北側も西と同様二重土塁になっていたように見受けられる。土塁の切れ目は西と南に見られるが、南のものは後世の改変の可能性が拭い切れず、西のものは食違い土塁になっていることから往時の虎口であったと思われる。この他、南東に物見台らしい土壇も見受けられる。「柏ふる里つくり隊」のHPに掲載されている遺構図は、実物とは左回りに90度回転して記載されてしまっている様だ。小規模な城館であるが、こうして大切に遺構が守られているのは素晴らしいことである。「柏ふる里つくり隊」には今後も頑張ってほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.834828,139.98436&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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松子城 その2(千葉県成田市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8984.JPG←腰曲輪から見た隅櫓台
 松子城には、昨年一度訪城しているが、遺構は湮滅したばかりだと思っていた。その後の確認で、稲荷馬場と呼ばれる外郭遺構があるらしいことがわかったので、改めて訪城した。
 稲荷馬場は、松子城北西に位置する比高30m程の長円形の曲輪で、本城とは車道に変貌した堀切で分断されている。頂部の曲輪内は稲荷神社が鎮座する他は畑となっている。この曲輪の北から西にかけての山腹には腰曲輪が延々と築かれている。この腰曲輪は、一部は土塁を築いて横堀状となっている。腰曲輪は南西部で何段かの段差で区画され、虎口跡らしい土塁も散見される。これらの腰曲輪に対して、頂部の曲輪には北端と西端の2ヶ所に隅櫓台が築かれている。大規模な遺構ではないが、湮滅した松子城の名残を伝える貴重な遺構である。
横堀の土塁→IMG_8963.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.838281,140.419232&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平山城
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須賀山城(千葉県東庄町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8810.JPG←主郭の空堀
 須賀山城は、森山城の外郭として機能した城である。元は、森山城同様、鎌倉初期の1190年に、千葉常胤の6男東胤頼によって築かれたとされる。胤頼は、源頼朝の挙兵に尽力した功績により、1185年、東荘33郷・三崎荘55郷を拝領した。当初は桜井城を居城としたが、1190年に須賀山城を築いて居城を移し、更に1218年に隣接地に森山城を築いて移ったと言われている。その後も須賀山城には一族が拠ったと思われ、東頼数・教頼・常綱等の在城が伝えられていると言う。戦国後期には、小田原北条氏の支援を受けた千葉胤富によって森山城が整備拡張されると、隣接する須賀山城もその外郭として取り込まれたことが、「原文書」という同時代資料から知られている。1590年の小田原の役で、森山城と共に廃城になったと思われる。

 須賀山城は、森山城の台地続きの南東端に築かれた城で、大規模な森山城と比べると比較的コンパクトにまとまった城である。東端に主郭を置き、その外周にニノ郭・三ノ郭等を配置した、梯郭式に近い縄張りとなっている。主郭は方形に近い曲輪で、現在は整備されて公園化されている。背後に土塁を築き、外周に空堀を廻らし、ニノ郭との間に土橋を架けている。主郭の東側と南側には腰曲輪も築かれている。二ノ郭は畑となった小さな曲輪で、北に位置する西曲輪(Ⅳ郭)との間を堀切で分断し、ここにも土橋が架かっている。西曲輪も畑となっており、外周に空堀が廻らされているが、一部を除いて藪がひどく、上からではほとんどその形を把握することができない。西曲輪北端には横矢掛かりの櫓台が残っている。一方、二ノ郭の南側には三ノ郭に相当する大六天曲輪がある。大六天は、相模の城を巡り歩いた人ならばわかると思うが、小田原北条氏が信仰した神で、北条氏の城郭やその近くに多く存在する。このことからも、須賀山城と森山城が北条氏の強い影響力の下に整備されたことが伺われる。大六天曲輪は土塁が残り、周囲に腰曲輪が廻らされている。須賀山城は、横矢は部分的にあるが、比較的オーソドックスな縄張りである。尚、主郭は、「須賀山城再生」ということで町ぐるみで昨年整備・開園したばかりらしく、現在は非常に見易くなっている。こうして薮に埋もれていた城と歴史が整備されるのは、地方再生に向けた最も素晴らしい取り組みだと思う。
主郭背後の土塁→IMG_8828.JPG
IMG_8887.JPG←横矢の掛かる西曲輪空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.830331,140.650696&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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森山城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8776.JPG←主郭の空堀
 森山城は、千葉氏の東総支配の拠点城郭である。伝承では、元々の創築は鎌倉初期の1218年に、千葉常胤の6男東胤頼が築いたと言われている。東氏が美濃に移住すると、その後は東氏の支族海上氏が森山城を支配したとみられる。天文年間(1532~55年)には、海上氏を継いだ千葉胤富が森山城を居城としたが、1557年に千葉宗家の親胤が家臣に殺害された為、胤富は宗家を継いで本佐倉城に移り、粟飯原胤次が代わって城主となり、その後千葉氏の重臣原親幹が城主となって、以後は原氏の居城となった。この間も、小田原北条氏の支援を受けた千葉胤富の主導で森山城は改修され、東の台地続きの須賀山城を取り込んだ大城郭へと整備され、千葉氏領国の北辺を守備する拠点へと変貌を遂げた。戦国末期の1585年に宗家の千葉邦胤が家臣に殺害された後は、原若狭守・大炊助父子が小田原北条氏と直接結びついて自立化した。この頃には北条氏の影響力が浸透し、森山城は北条氏の支城へと変貌した。1590年の小田原の役で森山城も廃城となった。

 森山城は、比高50m程の台地を広範囲に城域とした城である。「原文書」という同時代資料により、東の須賀山城を外郭として取り込んだ巨大な城郭であったことが判明している。城内は畑や牛舎となって改変されているが、全体に遺構は良く残っている。基本的には台地の形に沿って曲輪を一列に配置した連郭式の縄張りで、先端から順に主郭・ニノ郭(1)・ニノ郭(2)・三ノ郭・鳳凰郭が並んでいる。鳳凰郭の南東にやや距離を置いて須賀山城が築かれている。鳳凰郭はただの一面の畑で明確な遺構に乏しいが、中央北部に東常縁の墓と言われる鳳凰社の祠と塚がある。三ノ郭から本格的な城域に入り、大空堀が穿たれている。車道となった土橋の両側に幅15m・深さ8m程の空堀が穿たれ、三ノ郭側には土塁が築かれ、左袖の横矢が掛かっている。続くニノ郭(2)との間も幅15m程の空堀が穿たれ、三ノ郭同様に左袖の横矢が掛かっている。ここの空堀は、箱堀状で腰曲輪を兼ねていたらしく、堀の南北両端は腰曲輪に繋がっている。特に南側では大きな堡塁が築かれ、南端の防衛陣地となっていた様である。ニノ郭(2)とニノ郭(1)の間にも空堀があったらしく僅かな窪地が見られるが耕地化でほとんど湮滅している。わずかに北側1/4程だけ藪の中に残存している。ニノ郭(1)は牛舎と畑となっているが、北の辺縁部に土塁が残り、腰曲輪が築かれている。ニノ郭(1)と主郭の間には、この城最大の特徴である角馬出が築かれているが、周囲の堀との境界がかなり不明瞭になってきている。この先が主郭で、一部が畑の他は藪化している。主郭の東辺は土塁と櫓台が築かれ、馬出しに対して左袖の横矢が掛かっている。主郭の北側半周には腰曲輪が廻らされて台地下方からの防御を固め、主郭東側は幅広の空堀が穿たれ、南側は空堀を挟んで出曲輪が築かれている。この他、腰曲輪や主郭に切通し道等があるが、往時からのものか後世の改変か、よくわからない。森山城は、それ程技巧的縄張りとは言い難いが、空堀には全て左袖という横矢掛かりが徹底されており、鉄砲戦を想定した規模の空堀と合わせて、中々に見応えがある。
三ノ郭の大空堀→IMG_8525.JPG
IMG_8562.JPG←ニノ郭(2)の腰曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.834889,140.636276&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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桜井城(千葉県旭市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8054.JPG←主郭外周の土塁
 桜井城は、下総の名族千葉氏の庶流上代氏の居城と言われている。伝承では、千葉常胤の6男東胤頼が築いたと言われ、胤頼は後に須賀山城を築いて居城を移したと言われるが確証はない。戦国後期には千葉氏の庶流上代氏が城主であったとされ、1565年に里見氏の重臣正木大膳が東総に侵攻した際には、上代掃部之助胤正は桜井城に籠って防戦したが、武運拙く落城したと伝えられている。小田原北条氏の滅亡後に徳川家康が関東に移封となった後、1592年に徳川氏の家臣松平家忠が武蔵国忍城から桜井城に移封となった。しかし1594年に家忠が小見川城に移されると、桜井城は廃城となった。

 桜井城は、比高40m程の独立丘陵に築かれている。山稜はL字状に曲がっており、南北に伸びる尾根に主城域を構築し、東西に延びる尾根に出城(南郭群)を有している。この山稜に囲まれた内懐の緩斜面に家臣団居住区があったものと推測され、その形態は一宮城などの上総式細尾根城郭の一部に近い。山稜上の遺構へは、この東側の緩斜面からガサ藪の中へと小道が伸びており、そこから登ることができる。山稜の中央部には方形に近い主郭があり、比較的大きな土塁で三方を囲繞している。主郭南東端には虎口が築かれており、下の腰曲輪群へと通じている。主郭の北側がニノ郭群となる。斜面に段々に曲輪群を築いており、主郭との間は城道を兼ねた堀切で分断しているが、二ノ郭群は倒竹地獄で全体を踏査できない。一方、主郭から細尾根を南に辿ると、途中に小堀切や腰曲輪を眺めつつ、南郭群に至る。この南郭群は、東西に伸びる尾根上に曲輪群を直線的に配置し、側方に帯曲輪を巡らした簡素な構造となっている。曲輪間は一応掘切で区画されているが、いずれの掘切も浅く大した分断効果をもたらしていない。曲輪も削平が甘く、主城部の遺構群と比べると時代的にかなり古い印象である。鎌倉~南北朝期頃の古い遺構ではないかと推測され、戦国期には使用されていなかったか、使用されたとしても物見台程度で積極的な使用はされていなかったと思われる。桜井城は、全体に藪が多く、遺構も思ったほどのものではなく、ややがっかりする。
主郭~ニノ郭間の掘切→IMG_8026.JPG
IMG_8105.JPG←南郭群の浅い掘切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.784129,140.64826&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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長部城(千葉県旭市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7980.JPG←東郭・西郭間の掘切
 長部城は、府馬城の支城と言われている。千葉氏の庶流国分常朝の子松沢朝胤が築いたと言われ、以後松沢氏の歴代の居城となった。その歴史には不明な点が多いが、おそらく1590年の小田原の役の際に廃城となったと思われる。

 長部城は、現在国指定史跡「大原幽学遺跡」となっている。これは、江戸時代の後期にこの地で革新的な農政を広めて農民を教導した大原幽学が、かつての城址に庵を構えたことに由来する。この為、城域は近世以来の改変を受けていると思われるが、概ねの遺構は残っているものと思われる。中腹の居館的な曲輪部分と、「龍ヶ谷」(要害の転訛)と呼ばれる山上の曲輪から構成されている。現在、林家住宅が移築されているのが居館的曲輪で、外周に高土塁が廻らされ、南に切通し状の虎口が築かれている。この土塁をまたいだ南西の平場に幽学の旧宅があり、ここも曲輪の一つだったと思われる。一方、山上の曲輪は東西に曲輪があり、間に掘切が残っている。東郭は史跡の一部として整備され、石碑などが建っている。西郭は山林で未整備である。更に東郭から北東に延びる尾根の先端は物見だったとされているが明確な遺構はない。かなり様変わりしているので城郭遺構とは言い難い部分もあるが、断片的に城址の名残を残している。
居館部の高土塁→IMG_7949.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.781222,140.619518&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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鏑木城(千葉県旭市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7815.JPG←主郭の空堀跡
 鏑木城は、下総の名族千葉氏の庶流鏑木氏の居城である。鏑木氏は、千葉常胤の孫胤時の子九郎胤定が下総国鏑木郷に分封されて鏑木氏を称したことに始まる。原氏・円城寺氏・木内氏と共に「千葉四天王」と称される程、千葉宗家の中で勢力を持った一族であった。戦国時代に入っても斜陽の千葉宗家を支え続けて活躍した。1565年、里見氏の重臣正木大膳が東総に侵攻して森山城を攻め、米野井城をも攻略した時には、松子城主大須賀氏らと協力して正木勢を撃退した。1590年の小田原の役の際には、宗家の千葉重胤は小田原城に籠城したが、鏑木胤家は嫡子成胤と共に鏑木城を守った。北条氏の滅亡と共に鏑木城は廃城となり、鏑木氏は帰農した。

 鏑木城は、比高40m程の台地上に築かれた城である。城の南は現在は一面の水田となっているが、中世の頃には椿海と呼ばれる広大な内海があり、鏑木城は椿海に面し、城の背後の窪地に「内宿」の地名が残る家臣団居住地を置いていたらしい。城内はほとんど畑と化しているが、堀跡がわずかに窪地となって残り、3つの曲輪が並んでいたことがわかる。一番西が主郭で、主郭には隅櫓台があって周囲の腰曲輪を睥睨している。一部の腰曲輪にも櫓台が築かれている。また主郭南西角部から伸びた尾根に二重掘切と出曲輪・物見台が築かれている。城址標柱は立っているが、三ノ郭の東側は民家裏の畑であるので、不法侵入にならないよう注意が必要である。
主郭南西下の物見台→IMG_7833.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.755681,140.585014&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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大浦城(千葉県匝瑳市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7695.JPG←主郭東側の横堀
 大浦城は、下総の名族千葉氏の庶流椎名氏の一族大浦氏の居城である。千葉常重の子胤光が椎名郷を領して椎名氏を称し、その孫の長岡五郎行胤の弟胤基が匝瑳郡大浦村を領して大浦氏を称したと言われている。

 大浦城は、借当川南岸に張り出した比高30m程の南北に細く伸びた丘陵上に築かれている。城内はほとんどが未整備の薮に埋もれているが、遺構は比較的良く残っている。周囲には民家が多いので、民家がなく山に取り付きやすい北西部から訪城した。最高所に主郭を置き、北尾根に数段の段曲輪を配置し、掘切の先は平坦な尾根をそのまま曲輪としていた様である。主郭は北側に前衛の物見台となる小郭と櫓台を置き、その下に主殿があったと思われるまとまった広さの平場を置いている。主郭東側には内枡形の虎口が築かれ、そこから繋がる腰曲輪の先に横堀が穿たれて主郭東方の防御を固め、上方には主郭の隅櫓台が睨みを効かせている。主郭背後は広い窪地となり、ニノ郭との間を分断する掘切を兼ねた腰曲輪となっている。ニノ郭は浄華段の平場で構成され、周囲に腰曲輪を伴い、背後をやはり大堀切で分断している。この掘切に面したニノ郭西側の腰曲輪には物見台が築かれ、城道を兼ねたと思われる掘切への備えを固めている。その南にも小高くそびえる曲輪などが続くが、民家の裏でもあり、また竹藪もひどく踏査は断念した。一方、西に伸びた支尾根にも西出曲輪があり、主尾根と西出曲輪を繋ぐ尾根には一騎駆け状の土橋兼用の土塁を背後に築いた腰曲輪が築かれている。大浦城は、民家が近いので不用意に立ち入らない方が無難だが、主郭付近は薮も少なく遺構もしっかりしている。
主郭の枡形虎口→IMG_7687.JPG
IMG_7756.JPG←ニノ郭の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.731717,140.534266&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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飯高城(千葉県匝瑳市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7620.JPG←Ⅲ郭の空堀
 飯高城は、戦国時代後期に匝瑳北条庄の領主平山刑部少輔常時の居城であったと伝えられている。平山氏の出自は明確ではないが、一説には小田原北条氏が家臣の武蔵平山氏を飯高に封じたのではないかとも言われている。常時は日蓮宗への信仰が厚く、1580年に城地の全てを寄進して寺院を建立して学問所(檀林)としたと言われている。小田原北条氏の滅亡後、関東に入部した徳川氏の保護を受け、1591年に日蓮宗の宗門根本檀林として公認した。こうして成立した飯高檀林は、特に家康の側室お万の方(養珠院、勝浦城主正木頼忠の娘)の信仰が厚かった関係で、その子徳川頼房が立藩した水戸徳川家の崇敬が篤く、徳川光圀も度々参詣した。

 飯高城は、現在は飯高檀林跡として史跡整備されている。檀林開山時に大幅な削平工事がされた様だが、幸いにも境内には土塁や空堀、腰曲輪など多くの城郭遺構が残っており、その往時の縄張りが朧気に浮かんでくる。比高20m程の台地を城砦化し、5つの曲輪から構成された広めの城である。最北のⅠ郭は飯高寺講堂の北にあり、外周を土塁で囲まれ、三方に腰曲輪が築かれている。西の腰曲輪には竪堀が穿たれ、Ⅰ郭の東側には側方に櫓台を備えた竪堀状虎口が築かれている。Ⅰ郭の南にはⅡ郭が続くが、Ⅱ郭内部は飯高寺の建物が建ち、大きく改変されているものと考えられる。それでも東側に築かれた腰曲輪が残っている。南に一直線状の土塁があって、その南がⅢ郭、更に空堀を挟んでⅣ郭と続く。Ⅳ郭の西にかなり浅くなった空堀を挟んでⅤ郭があり、その北にも物見として機能したと思われる出曲輪が築かれて城域が終わっている。Ⅲ郭以降は全て腰曲輪を備えており、中世城郭の雰囲気を濃厚に漂わせているが、堀も土塁も直線的で横矢掛かりがあまり見られないことを考えると、当城への小田原北条氏の関連は薄いように思われる。尚、飯高城の近くには、黄門桜など水戸黄門として知られる徳川光圀所縁の史跡が多く残り、水戸徳川家と飯高檀林の関係を今に伝えている。
Ⅰ郭の竪堀城虎口→IMG_7611.JPG
IMG_7591.JPG←Ⅰ郭の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.74525,140.52991&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平山城
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山ノ下城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7315.JPG←府馬の大クス
 山ノ下城は、府馬城の東の台地上に隣接して築かれた城である。詳細は不明であるが、府馬城の外郭として機能したものと考えられる。
 山ノ下城は、国の天然記念物である「府馬の大クス」の北側一帯に広がる台地上にあったと言われる。一部は公園化され、その他は畑になっているが、平場が広がっているだけで明確な遺構は見られない。しかし眺望に優れ、府馬城東方の物見として機能したことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.804475,140.607759&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平山城
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府馬城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7209.JPG←大堀切
 府馬城は、下総の名族千葉氏の庶流国分氏の一族府馬氏の居城である。南北朝時代中期の貞治・応安の頃、本矢作城主国分胤通の曾孫朝胤9代の孫越前五郎時常がこの地を領して府馬氏を称し、府馬城を築いたと言われている。戦国後期の永禄年間(1558~69年)~天正年間(1573~92年)の頃には、府馬左衛門尉時持は安房里見氏と結んで、里見氏の重臣正木大膳と共に東総一帯に進撃し、小見川城森山城鏑木城米野井城等を攻め落とした。しかし間もなく反撃に遭って撤兵し、府馬城への帰城の途中、米野井城付近の激戦で討死したと言う。

 府馬城は、比高30m程の南北に細長く伸びた丘陵上に築かれている。千葉県の城館調査報告書の縄張図によれば、大きく主郭群・ニノ郭群・三ノ郭群に分かれている。三ノ郭は「要害」の地名が残り、民家裏の高台のため断りなく進入はできない。三ノ郭群の北辺部は物見台らしい高台があるのが遠目にわかる。ニノ郭群との間は切り通しの道が通っているが、明らかに掘切の跡である。垂直絶壁切岸の大堀切で、そのまま切岸を登ることは不可能である。ニノ郭群は、頂部の曲輪の南と西に各々数段の腰曲輪を築いており、西に向かって虎口とその防衛用の櫓台も築かれている。主郭群は、城域の北の端にあり、耕作放棄地となった広い平場が主殿のあった主郭で、その西に築かれた高台が物見郭であった様である。物見郭は南に向かって数段の平場に分かれ、土橋状の構造も見られる。府馬城は、多数の曲輪群で構成された中々広い城であった様だが、縄張り的には技巧性に欠け、あまり面白みがないのが残念である。
主郭西側の物見郭群→IMG_7267.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.805711,140.603896&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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