So-net無料ブログ作成
古城めぐり(岩手) ブログトップ

高館(岩手県平泉町) [古城めぐり(岩手)]

IMG_9174.JPG←東面の曲輪
 高館は、判官館とも呼ばれ、源義経最期の地と伝えられている。『吾妻鏡』に言う「衣川館」ではないかともされる。平家討伐に抜群の戦功を挙げた義経であったが、政略に疎い浅慮な性格を後白河上皇に乗ぜられ、兄頼朝と不和となり、遂に追討を受ける身となった。北国の王、奥州藤原氏3代秀衡は奥州に逃れてきた義経を匿うが、まもなく秀衡は病没し、跡を継いだ泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経を高館に襲撃した。義経は妻子を道連れに自刃したと言う。1189年のことである。時代は下って江戸時代の1683年、伊達藩4代綱村は、高館に義経堂を建立した。

 高館は、北上川西岸にそびえる比高40m程の細長い独立丘に築かれている。柳之御所から僅かに700m程しか離れておらず、宗教都市平泉を俯瞰する防衛陣地であった可能性がある。高館は、後世の改変は多いが、明らかに城郭の形態を残しており、義経堂の建てられた頂部の東側に段々に曲輪群が築かれ、また頂部の背後には掘切が穿たれ、更に西側に曲輪が広がっている。ここには給水施設があって改変を受けている。その先にも掘切があり、その先も曲輪の可能性があるが、藪がひどく確認していない。簡素な構造の要害で居住性もあまりないが、この地を任された義経は、平泉を護る、文字通り最後の砦であったのかもしれない。
義経堂背後の堀切→IMG_9192.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.997274,141.113098&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

久慈城(岩手県久慈市) [古城めぐり(岩手)]

IMG_8913.JPG←東の木戸口
 久慈城は、奥州の名族南部氏の庶流久慈氏の居城である。久慈氏の祖は、南部氏初代光行の4男朝清と言われているが、12代信実以前については諸説あって明確ではない。いずれにしても300年程に渡って久慈地方を支配した様である。宗家の三戸南部時政の3男信実が婿養子となって久慈氏を継ぎ、文明年間(1469~86年)の頃に久慈城を築いたと考えられている。その後も、周辺諸豪と姻戚関係を結んで、広い地域に勢力を持ったまま戦国期を乗り越えた。しかし1591年、18代直治とその女婿19代政則は、正則の兄の九戸城主九戸政実が三戸城主南部信直と争った時(九戸政実の乱)、政実に味方して九戸城に立て篭もり、政則は九戸城搦手の副将として奮戦した。南部氏の要請により、豊臣秀吉は大軍を乱鎮定のため派遣し、上方勢は謀略を巡らして九戸政実を降し、政実や久慈父子ら7人の重臣は総大将豊臣秀次の待つ三ノ迫(宮城県)で斬首された。こうして久慈氏の嫡系は滅亡し、秀吉の諸城破却令により久慈城も廃城となった。

 久慈城は、慈光寺の東に張り出した比高40m程の丘陵先端部に築かれている。市の史跡となっており、登城道などある程度の整備はされているので、夏場でも遺構を確認することができる。山頂に平坦で広い主郭を置き、その東側にニノ郭を築き、これらの周囲に腰曲輪を巡らした構造となっている。またニノ郭の東尾根にも曲輪群を築き、木戸口とそれを防衛する小郭も築かれている。その下方の山裾には平坦な平場が広がっており、井戸跡が残る他、外堀が渓流となって残っている。一方、主郭の背後には掘切があり、その後ろに三ノ郭が築かれている。三ノ郭の先端は物見台があったらしく、現在は土壇の上に稲荷社が祀られている。また三ノ郭北側にも腰曲輪が備わり、前述の掘切が城道を兼ねており、ここから腰曲輪に通じている。比較的簡素な構造の城であるが遺構がよく残っており、夏場でも予想外に遺構の確認ができたのは嬉しい。
主郭の掘切→IMG_8993.JPG
IMG_8934.JPG←山裾の外堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=40.192496,141.709943&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

伽羅御所(岩手県平泉町) [古城めぐり(岩手)]

IMG_8855.JPG←御所跡付近の現況
 伽羅御所は、奥州藤原氏3代秀衡の居館である。秀衡は、北方の王者として奥六郡に君臨し、清衡以来3代の居館であった柳之御所を大改修して政庁と為し、新たな居館として伽羅御所を築いたと言われている。秀衡の死後は、その後を継いだ4代泰衡に受け継がれたが、1189年に源頼朝によって平泉は攻め滅ぼされ、その繁栄は永遠に消え失せた。
 伽羅御所は、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』によれば、無量光院の東門に一郭を構えていたとされる。現在は宅地に変貌し、往時の面影は見る影もない。現地解説板には「わずかに内濠の跡や土塁の一角をとどめる」とあるが、どれが遺構だかはっきり言って全くわからない。あったとしても民家の敷地内で、見ることは困難であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.990687,141.118269&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

柳之御所(岩手県平泉町) [古城めぐり(岩手)]

IMG_8796.JPG←復元された空堀
 柳之御所は、奥州藤原氏の政庁、平泉館と考えられている遺跡である。古くから奥州藤原氏の初代清衡・2代基衡の屋敷跡であったと伝えられてきたが、近年の発掘調査の結果により、その規模と質的充実性から考えて、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』に見える「平泉館」と想定されている。清衡は、当初父経清の代からの居館である豊田館を本拠としていたが、嘉保年間(1095~97年)の頃に衣川の南、平泉に居館を造営して移り住んだと言われている。そしてこの地を拠点に奥六郡を支配し、豊かな産物と産出される黄金を背景に中尊寺を建立して奥州藤原氏繁栄の基を築いた。2代基衡の時に新たに毛越寺の造営に着手し、3代秀衡の時に毛越寺の堂塔が完成した。また秀衡は、これまでの居館であった柳之御所を大改修して政庁と為し、新たな居館として伽羅御所を築いたと言われている。こうして繁栄を誇った奥州藤原氏であったが、大きな時代のうねりに飲み込まれていくことになる。即ち、平家の衰退と東国における源頼朝の台頭である。そして藤原氏の命運を決することになったのが、秀衡が頼朝の異母弟源義経を庇護したことである。奥州に君臨した秀衡の存命中は、武家政権を樹立した頼朝も奥州に迂闊に手出しはできなかったが、秀衡は1187年に病に倒れ、そのままこの世を去った。巨星が落ちたのを好機とばかり、頼朝は秀衡の跡を継いだ4代泰衡に圧力を掛け、それに屈した泰衡は1189年、義経を衣川館(高館)に攻め滅ぼした。しかし頼朝は、却って義経を匿っていたことを口実に奥州征伐の兵を興し、大軍を率いて奥州に侵攻した。泰衡は、阿津賀志山から続く丘陵地帯に二重の堀と三重の土塁を備えた長大な防塁を築いて必死の抵抗を図ったが、激戦の末に山岳地帯を迂回した紀清両党に側背を突かれて大敗を喫し、鎌倉勢に防塁を突破された。逃れた泰衡は平泉に自ら火を放って逃亡し、柳之御所も焼亡した。泰衡は家臣の裏切りによって殺害され、奥州藤原氏は滅亡した。

 柳之御所は、北上川西岸に築かれている。堤防工事で破壊される運命にあったが、破壊前の発掘調査により極めて貴重な遺構であることが判明し、急遽堤防計画が変更され、現在は国の史跡となって整備が進められている。北東側は北上川による侵食で形が変わっていると思われるが、南西部は空堀で囲まれて防御しており、その堀が復元されている。曲輪の内部には、庭園の池跡が復元整備され、建物跡は発掘調査の結果に基づいてその位置が示されている。古い城館なので、建物の規模は現代的感覚からすればかなり小さく、強勢を誇った奥州藤原氏の政庁と言っても、この時代のものとしてはこの程度のものだったかと思わせる。まだ周辺での発掘調査は続けられているので、今後の成果に期待したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.993689,141.119621&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
nice!(4)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

一戸城(岩手県一戸町) [古城めぐり(岩手)]

DSC06956.JPG←北館の腰曲輪と虎口
 一戸城は、奥州の名族南部氏の庶流一戸氏の居城である。一戸南部氏は、鎌倉時代初期に糠部郡に入部した聖寿寺館主南部光行の庶長子行朝を祖とし、その子摂津守義実が一戸に進出して一戸城を築いたと言われている。一戸氏の事績は明確ではないが、広く諸族を輩出した豪族だったらしい。しかし1581年、一戸兵部大輔政連父子は、南部宗家に叛意を持った九戸城主九戸政実に唆された弟の平館信濃守に刺殺され、一戸本家は断絶した。その後、南部氏と九戸氏の争いの中で一戸城の攻防戦が行われ、九戸政実の乱鎮定後、一戸城は破却された。

 一戸城は、馬淵川東岸に東から張り出した半島状の段丘に築かれた城である。天然の沢を挟んで南北に連なった3つの台地上に築かれた、北館・八幡館・神明館の3つから構成され、更に外郭として小型の常念館があった様である。北館は、先端に小さな公園とその背後に水道施設が置かれて破壊を受けている。南に腰曲輪があって神社が建てられており、虎口状の遺構が存在している。天然の堀を挟んで南にある八幡館は、背後を堀切で分断しており、現在は堀底を車道が通っている。八幡館内部は民家の敷地となっていて入ることができない。更に南の明神館は、現在畑となっており、3段の平場に分かれている。発掘調査の結果では、この明神館が主郭であったらしい。中世の古い形態を残した城で、九戸城外郭の様な、独立した台地上の郭群から構成された、群郭的な縄張りの城だった様である。地勢は残っているが、改変が多く、余りパッとしない城という印象である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E141.18.33.1N40.12.48.7&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=141.30536363505&latitude=40.21610566063
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

九戸城(岩手県二戸市) [古城めぐり(岩手)]

DSC06747.JPG←本丸追手虎口の枡形と筋違木橋
 九戸城は、福岡城とも呼ばれ、南部氏の庶流九戸氏の居城である。そして奥州戦国最後の戦いである九戸政実の乱の舞台ともなった城である。明応年間(1492~1501年)に九戸光政が築いたと考えられている。戦国時代の九戸氏は、宗家である三戸南部氏に匹敵する勢力を有していたらしく、1580年に三戸城主南部晴政が死去すると、その継嗣擁立をめぐって南部信直と対立した。この時は、九戸政実の推す晴継が僅か13歳で謎の死を遂げ、抗争は表面上収まったが、南部宗家に対する叛意は続いていた。1590年に豊臣秀吉は小田原の役で北条氏を滅ぼし、引き続いて奥州仕置を行って、小田原の役に不参した葛西・大崎・和賀らの諸豪を改易すると、各氏の遺臣団が反乱を起こすなど情勢が不穏となり、政実はこの動乱に乗じて翌91年3月に南部氏に対して挙兵した。緒戦は九戸方が優勢であったが、8月に入って秀吉の派遣した蒲生氏郷を主将とする奥州仕置軍が九戸氏討伐の為に参着すると、9月2日、政実は九戸城に城兵5000余と共に籠城した。対する上方勢は、3万とも6万とも言われる大軍であった。上方勢は謀略を巡らせ、九戸氏の菩提寺長興寺の和尚を使者として城兵の助命を条件に政実を説得し降伏させた。しかし開城後、上方勢は助命の約束を反故にして城内を撫切りにし、政実と7人の重臣は総大将豊臣秀次の待つ三ノ迫(宮城県)で斬首された。この九戸政実の乱鎮定後、九戸城は蒲生氏郷らの指揮の元、近世城郭に改修された。和賀・稗貫・志和の3郡を加封された南部信直は、居城を三戸城から九戸城に移し、名も福岡城と改めた。その後、盛岡城が完成して居城を移すと、九戸城は廃城となった。

 九戸城は、馬渕川とその支流白鳥川の合流点にそびえる段丘上に築かれた崖端城で、現在は国指定史跡として整備されている。近世城郭として改修された城らしく石垣が多い城で、各曲輪は広く、広大な城域を有している。本丸・二ノ丸を主城部とするが、その周囲に外郭として石沢館(外館)・若狭館・松ノ丸を有し、段丘の下には三ノ丸があって、それぞれの曲輪は広い空堀で分断されている。これらの空堀はいずれも鉄砲戦に備えた広さを有している。本丸には2つの虎口があって、いずれも枡形を備えた造りとなっているが、特に追手虎口は斜めに掛かった筋違い木橋となっている。筋違い木橋は讃岐高松城でしか見たことがなく、現存する類例の少ない形状である。本丸は仕切り土塁で区画され、他の各曲輪内も数段の平場に分かれている。外郭部の曲輪では、南部氏居城時代に主殿が置かれたとされる松ノ丸だけ南西部に枡形門と土橋跡があるが、それ以外には石垣も枡形虎口もないので、ほぼ中世の姿を留めていると考えられる。また石沢館東側には腰曲輪が見られるなど、遺構はほぼ完存に近い。このまま末永く遺構を大事に保存してもらいたい。
二ノ丸~石沢館間の広い空堀→DSC06792.JPG
DSC06803.JPG←石沢館の腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=40.267673,141.303449&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

江釣子城(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSC03385.JPG←空堀跡?
 江釣子城は、和賀氏の屈指の重臣江釣子氏の居城である。江釣子氏は高橋氏とも称し、1600年の岩崎一揆の時にはその発頭人の一人であった。
 江釣子城の比定地は二説あるらしく、一つは江釣子小学校の敷地、もう一つが江釣子神社の地である。今回私が訪れたのは後者であるが、和賀川に近い河岸段丘上で城を築くには適した地勢である。また神社の境内東側に空堀らしい跡が残る。とりあえずここを江釣子城址としておきたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E141.4.27.7N39.17.33.5&ZM=9
nice!(3)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

黒岩城(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSC03334.JPG←主郭周囲の空堀跡
 黒岩城は、千曳城や岩崎塞とも呼ばれ、北上川左岸の台地上に築かれた和賀氏の城館跡である。城跡は北半分と南半分に大きく大別され、北半分には空堀で囲まれた主郭を中心に家臣達が屋敷を構えた区画が南に連なっている。南半分は下岩崎と呼ばれ、空堀で二つに区画された元館跡があり、台地の南端に向かって家臣の館跡が連なっていた。この元館は、和賀氏が最初に和賀郡に入封した時の岩崎塞と考えられている。その後、幾多の変遷を経て最後の城主は飛勢城主和賀義忠の兄、義信(黒岩月斉)である。義信は盲目であった為、弟に家督を譲らされ分家となったと言う。1590年豊臣秀吉の奥州仕置きで和賀氏が改易されると、黒岩城も廃城となったと言う。
 黒岩城は現在宅地や耕作地となって改変を受けているが、主郭周囲の空堀が比較的良好に残っている。この空堀はそれほど規模は大きいものではないが、それでも最大で7~8mの幅がある。また元館地域では空堀跡が道路などに変貌しているものの、その形状は堀を思わせるものがある。全体にあまり城という雰囲気は無いが、現在まで残る貴重な遺構であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E141.9.31.7N39.18.31.6&ZM=9
nice!(3)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

飛勢城 その2(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSC13266.JPG←白鳥神社の裏の空堀
 飛勢城を再訪した。前回は時間が無く、要害地域だけ駆け足で見て回っただけであったが、今回は周囲の居館地域なども一通り見て、また西の森と呼ばれる物見跡も見て歩いた。
 館跡には大空堀が数本見ることができ、最も規模が大きく素晴らしいのが白鳥神社の裏の空堀である。白鳥神社が建てられているのは古館と呼ばれ、和賀氏の居館白鳥館があったのだろう。神社背後には土塁が築かれ、その後ろには北上川に臨む断崖まで、幅10m程の空堀で掘り切っている。また北上北中学校の東側にも斎藤掘と呼ばれる空堀が残る。西の森の物見は平坦地となり現在神社が建っているが、その北西下にも空堀らしい地形が見られた。しかし夏場でクモがいそうだったので、それ以上の探索はしなかった。
 この城は、要害地域より居館地域の方が遺構の規模が大きいようだ。
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

高水寺城(岩手県紫波町) [古城めぐり(岩手)]

DSC03072.JPG←広大な主郭
 高水寺城は、北上川右岸の独立丘陵に築かれた平山城で、高水寺斯波氏の歴代の居城である。斯波氏は、足利一門中でも特別の家格を誇った名門で、鎌倉時代には宗家と同様に足利の姓を称していたほどであった。斯波の姓を称したのは室町時代に入ってからで、これは足利将軍家から足利の姓を使うことを禁止された為だと考えられるようだ。斯波氏は足利泰氏の長男家氏を祖とし、家氏は陸奥国斯波郡の所領を譲られた。家氏の母は北条氏傍流の名越氏の出で、北条得宗家の出の母を持つ弟頼氏が足利氏の家督を継いだ為、庶流に甘んじることとなった。しかし家氏が源氏にとって聖地とも言うべき斯波郡を譲られたことで、特別の家格として遇される根拠になったとも言われる。

 南北朝時代には斯波高経が、宗家の足利尊氏・直義に従って越前守護となり、越前金ヶ埼城の戦い、藤島城黒丸城等における足羽七城の戦いで新田義貞討伐に功績を挙げた。またこれより先、高経の長子家長は建武の新政期に奥州総大将に任じられて高水寺城に拠り、多賀城に拠る鎮守府大将軍、北畠顕家牽制の任に当たった。尊氏が幕府を開くと、家長は関東管領に任じられて鎌倉の押さえの大役を担ったが、1337年8月に北畠顕家率いる奥州軍が二度目の西上戦に立ち上がると、家長は鎌倉東方の要害杉本城に籠って戦い、12月24日に奥州軍に攻められて自刃した。高水寺斯波氏はこの家長の系統である。高水寺斯波氏は、足利将軍家につながる名門として尊崇され、「斯波御所」と称されるようになった。そして一時は南岩手から雫石方面へも勢力を伸張したが、三戸南部氏との抗争で次第に圧迫され、1588年8月南部信直に高水寺城を攻め落とされて没落した。高水寺城を占領した信直は、城名を郡山城と改称して城代を配し、一時期は南部利直の居城となったが、1667年に城代制が廃されて城も破却された。

 高水寺城は、現在城山公園として整備されている。公園化に伴って一部に改変が見られるものの、概ねの遺構は良好に残っている。さすがは足利一門の有力庶家の城で、一つ一つの曲輪が広く城が大きい。中世城郭としては、並みの城の2倍以上の規模がある。主郭を中心にして周囲に多数の主要な曲輪や腰曲輪を配置し、全山を要塞化している。天童城成沢城などと同じく、曲輪を多数連ねただけで堀切などは少なく、防御構造としては至ってシンプルな印象である。それでも南西中腹には横堀が構えられ、要所には防御力を増す努力が払われている。

 それにしてもこの城の広大さ。名族だけあって多数の家臣団を従えていたのだろう。斯波家長が多数の家臣を引き連れて下向した情景が目に浮かぶようだ。
南西中腹の横堀→DSC03193.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E141.10.35.4N39.33.44.8&ZM=9
nice!(5)  コメント(4) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

徳丹城(岩手県矢巾町) [古城めぐり(岩手)]

DSC03024.JPG←外郭西側の柵列・櫓台跡
 徳丹城は、古代律令国家の城柵跡である。812年、時の征夷将軍文室綿麻呂によって築かれた、律令制最後の城柵と言われている。当初、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討後に志波城を築いて最北の地の統治拠点としたが、雫石川の水害で被害を受けた為、これを解体して新たに徳丹城を築いた。この造営工事には2千人もの鎮兵が動員されたが、外郭の大きさは約350m四方となり、志波城の840mと比べると、大幅に縮小されている。また外郭の塀も、築地塀から北を除く3辺を柵列とし、大幅に簡略化されている。9世紀の中頃に至って、徳丹城は衰退したと考えられている。
 徳丹城は、志波城と同じ古代の政庁跡であり、その構造も真四角な外郭の中心に四角い内郭を設けており、基本構造は軌を一にしている。しかし前述の通りその規模は大幅に縮小・簡略化されており、このことは大規模な蝦夷の民の動員がもはや困難になっていて、朝廷による律令国家体制が大きく揺らいでいたことを物語っているのだろう。城跡は内郭北側に徳田小学校が建ち、内郭西を国道4号線が南北に縦貫している。その為制約が多く、志波城の様な大規模な復元はされていないが、西側外郭の跡や内郭の建物跡の遺構が公園化されて見える様になっている。また発掘作業も続いているようだ。主要幹線国道沿いにあるので、通り掛かったついでに寄るのが良いだろう。丁度、城跡を見下ろせる場所に歩道橋が建っているのもありがたい。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E141.10.33.1N39.36.16.8&ZM=9
タグ:古代城柵
nice!(6)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

志波城(岩手県盛岡市) [古城めぐり(岩手)]

DSC02993.JPG←志波城の広大な外郭
 志波城は、古代の城柵である。京の朝廷より派遣された征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を征討し、803年に北上川と雫石川合流地近くに志波城を造営した。志波城には政庁が置かれ、陸奥国最北端の城柵として蝦夷の統治に当たり、朝廷は北上川以北にまで支配領域を延ばすこととなった。しかし雫石川に近い志波城は度々水害に遭い、結局新たに徳丹城が築かれて政庁機能を移し、志波城は約10年で廃城となった。

 志波城は、外郭に840m四方の築地塀とその外側に930m四方の二重大溝をめぐらした真四角の広大な城柵で、各辺の中央には門が構えられ、60m毎に櫓を建てて守りを固くしていた。また城の中央には150m四方の政庁が置かれていた。この城は基本的に古代律令国家の政庁跡であるので、純粋に戦うための城ではない。しかし復元された遺構を見ると、広大な平野部に高い築地塀をめぐらして要所には櫓台を築き、周囲には大溝を二重に設けていて、そこそこの防御力は持っていたと思われる。塀は高く、復元された南門もかなり規模が大きい。しかしこの城を見る限り、あまりに広すぎ、守備兵が足りなかったろうと想像される。守備兵は、中央から派遣された出張組も多少はいただろうが、ほとんどは現地徴集だったろう。最果ての地で、人口も現代とは比べ物にならないぐらい少なかったろうから、そこで大量の兵を徴収したらものすごい反感を現地民から買ったであろうことは想像に難くない。蝦夷の側からすれば、それはいわれの無い支配であり、税と共に大量の壮健な男子を取られることは暴政に他ならなかったであろう。そんな中で、少数の現地徴収兵に守らせた広大な城では、攻められたら守りきれないだろうに。律令国家崩壊の一因が垣間見えた気がした。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E141.6.35.1N39.41.1.2&ZM=9
タグ:古代城柵
nice!(4)  コメント(4) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

安倍館(岩手県盛岡市) [古城めぐり(岩手)]

DSC02915.JPG←本丸の土塁と空堀
 安倍館は、厨川柵又は厨川城とも言い、前九年の役で源頼義と戦って滅ぼされた俘囚の長、安倍貞任の終焉の地である。1052年、陸奥守として下向した頼義は、陸奥の豪族安倍氏と友好的に振舞っていたが、1056年の陸奥守の任期が切れる直前、些細な事件をきっかけに対立するようになり前九年の役が発生した。これは、京の中央政界での進出が遅れていた源氏の棟梁頼義が東国に活路を求め、奥州に地盤を築こうとした謀略によるとも言われる。その後長い戦いの後、1062年に豪族の清原氏を味方につけることに成功した頼義は、厨川柵で最後の戦いに挑んだ安倍貞任とその一族を攻め滅ぼした。時代は下って1189年、源頼朝は平泉の奥州藤原氏を滅ぼし、御家人の工藤行光をこの地の地頭とし、以後1592年の廃城までの400年間に渡って岩手郡を治める拠点であった。現在残る遺構は、この工藤氏時代のものとされる。

 安倍館は、北上川右岸の断崖上に築かれており、安倍館町というそのものずばりの名前の町にある。盛岡中心街に近い住宅地の真ん中だというのに、大きな空堀跡が何本も残っているのでかなりの驚きである。川沿いに北から順に6つの曲輪を直線的に並べ、西側周囲に帯曲輪を設けた縄張で、帯曲輪は現在市街化で湮滅しているが、城の主要部は宅地化されつつも本丸を中心に良好に空堀が残っている。特に本丸は三方を囲む空堀がほぼ完存し、見事なものである。その他にも北館・中館の空堀が残っている。堀はいずれも幅10m程もあり、本丸西側はだいぶ埋まっているが、東の崖面に近づくにつれてその深さを増している。単純な縄張であるので面白みにはやや欠けるが、街中でこれほどの遺構が残っているのは奇跡に近いだろう。それだけ盛岡の人は、よそ者に滅ぼされた地元の安倍氏に愛着を持ち、破壊するに忍びなかったのだろう。それは、曲輪内に民家がひしめいているにも関わらず、堀跡にはほとんど手を付けていない事や、その地名からも推し量ることができるのである。
空堀→DSC02939.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E141.7.47.7N39.43.4.6&ZM=9
タグ:中世崖端城
nice!(6)  コメント(4) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

盛岡城(岩手県盛岡市) [古城めぐり(岩手)]

DSC09950.JPG←腰曲輪南側の重厚な石垣
 盛岡城は、不来方城とも言い、盛岡藩南部氏の居城である。南部氏は、新羅三郎源義光の4代の孫加賀美遠光の3男光行が、甲斐国巨摩郡南部郷を領して南部氏を名乗ったのに始まる。源頼朝の奥州征伐に従って軍功を挙げ、陸奥北部の糠部郡に所領を得て下向した。南部氏は、南北朝期には、鎮守府将軍北畠顕家に従って奥州南朝側の有力武家として活躍した。全国の南朝方武家が多く没落していく中で、南部氏は生き残り、戦国期を生き抜いて豊臣政権下の近世大名として存続することに成功した。南部氏は三戸城を居城としていたが、1591年九戸の乱討伐の援軍として来た浅野長政の助言に従い、時の当主南部信直は不来方の地に築城を開始した。この地には元々、南部氏の家臣福士氏の不来方城(淡路館・慶善館)が存在したらしい。こうして盛岡城の築城は始まったが工事は難航し、なんと3代41年間掛けて城を完成させ、以後、幕末まで南部氏歴代の居城となった。

 盛岡城は日本100名城に選ばれただけあって、壮大な石垣群が圧巻の近世城郭である。旧北上川と中津川の合流点の丘陵上に築かれた城で、南から北に向かって本丸・二ノ丸・三ノ丸を一直線に並べた連郭式の縄張を基本形とし、その周囲に幾つもの腰曲輪を設けた構造である。面白いのは、近世城郭には珍しく、三ノ丸が城の中枢部の中に取り込まれていることである。普通の近世城郭は、中枢部の一回り外側に広大な三ノ丸があり、大抵は市街化して遺構が湮滅しているものだが、盛岡城の三ノ丸は非常に小振りで、第二の二ノ丸とも言うべきものである。各曲輪は全周壮大な石垣で囲まれ、虎口の石垣も良く残っている。ただこれらの石垣は、よく見ると所々外側に膨らんでおり、地盤の弱さを感じさせる。難工事の所以であろう。本丸と二ノ丸の間は石垣で築かれた深い堀切となっていて、本丸への侵入を阻止する構造となっている。城の外周は、かつては全周水堀で囲まれていたが、現在では半分以上が埋め立てられて公園化し、北側と東側に残るだけとなっている。

 広さとしては山形城二ノ丸の1/3程しかなく、近世城郭としては比較的こじんまりとまとまった城ではあるが、東北で石垣の城を見るなら、弘前城とこの盛岡城がベストであろう。
本丸と二ノ丸の堀切→DSC09919.JPG
DSC09906.JPG←東側の外堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E141.9.13.3N39.41.49.2&ZM=9

花巻城(岩手県花巻市) [古城めぐり(岩手)]

DSC09796.JPG←本丸と馬出し間の堀跡
 花巻城は、かつては鳥谷ヶ崎城と呼ばれ、奥州の大名稗貫氏の居城であった。言伝えでは、前九年の役の際に、安倍頼時が築いた城柵とも、清原武則の城柵とも言われるが、定かではない。稗貫氏が鳥谷ヶ崎城に入った経緯も諸説あってはっきりしないが、1559年に小瀬川館(城)から移ったとも、享禄年間(1528-32年)に本館(十八ヶ城)から移ったとも言う。いずれにしても、稗貫氏がこの城に本拠を定めたのは、戦国後期のことだったと思われる。1590年小田原の役が起こったが、稗貫氏は参陣しなかった為に、奥州仕置で改易されて没落し、一時期浅野長政の家臣浅野重吉が鳥谷ヶ崎城に城代として入ったが、1591年には南部領となり、城代として南部信直の家臣北秀愛が入って、城の名を花巻城に改め、稗貫・和賀郡の支配拠点とした。秀愛が死ぬと、その父で信直の重臣北信愛(入道して松斎)が城代となって、南の守りに当たった。関ヶ原の戦いの折には、南部利直が出羽に出陣中の虚を衝いて、改易された和賀氏などが蜂起して花巻城を攻めたが、信愛は見事に寡兵で守り切り、南部氏のこの地の支配を決定的なものとした(花巻城の夜討ち)。以後、南部藩の支城として南の伊達領に備える要衝として城代が置かれ、幕末まで存続した。

 花巻城は、北上川右岸の比高20m程の河岸段丘上に築かれた平山城である。南部領となってから近代城郭として大々的に整備されたらしく、中世城郭の面影はほとんど見られない。北を流れる瀬川沿いの断崖上に本丸を置き、南に二ノ丸・三ノ丸を順に並べた梯郭式の縄張である。現在、本丸は公園、二ノ丸は花巻小学校、三ノ丸は市街地と変貌しているが、全体に遺構はよく残っており、本丸周囲の土塁・水堀・復元西御門はもとより、馬出しや二ノ丸の土塁などもかなり明瞭に残っている。そして、なんと言っても驚くのは、かつての外堀跡が駐車場などに変貌しつつも、ほぼ往時の面影を残した地形のまま掘り下げられていることだ。普通ならば完全に埋められて、痕跡しか残していないところだが、花巻城の場合は、堀底に駐車場が作られたりしているのである。また、街中の至るところに親切に標柱が立っているので、当時の城の遺構を追うのが非常にわかりやすい。

 近世城郭としては規模は小さめであるが、市民から大切にされていることが伺われる良い城跡である。
濁り御堀(外堀)跡→DSC09833.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E141.7.23.6N39.23.19.6&ZM=9

飛勢城(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSC09777.JPG←横掘跡
 飛勢城は、二子城とも言い、和賀氏の本城である。和賀氏の出自には諸説ありはっきりしないが、武蔵七党の内の横山党に属する中条氏から分かれたものの様である。鎌倉時代には和賀郡に入部していたようで、苅田系和賀氏の弟小田島氏が姓を和賀と改め、飛勢城を本拠としていた。兄の刈田系和賀氏は、黒岩の岩崎城を本拠とし、やはり和賀氏を称し和賀郡半の惣領地頭であった。南北朝期に入ると、多くの武家に見られるように、和賀氏も一族内で北朝方、南朝方に分かれて相争うこととなった。小田島系和賀氏は南朝に付いた為、次第に勢力を失い、黒岩和賀氏は庶流の鬼柳氏と協力して北朝方で活躍し、1400年から飛勢城に移って、和賀郡一円を支配する和賀氏の本城として確立されていったようである。室町時代には、一族間の抗争やそれに乗じた大崎氏、南部氏の侵攻に大いに悩まされたが、それでも奥州の大名として、奥州探題大崎氏の御所に集まれば、上席の地位を占める名門として遇された。しかし豊臣秀吉の小田原の役に参陣しなかった為、戦後改易されて没落し、城も廃城となった。

 飛勢城は北上川右岸の丘陵上に築かれた平山城で、城主の平時の居館は白鳥館と言い、北上川沿いの平地に置かれていた。飛勢城自体はその詰城に当たるが、比高は50m程しかなく、それほど要害性が高いとは思われない。本郭は公園化されているため、若干の改変を受けていると思われるが、そこそこの広さを持っている。本郭北には堀切・土塁を挟んで段曲輪が2段ほど続き、本郭東側には数段の狭い帯曲輪、西側には横堀が築かれている。しかし、全体に縄張はシンプルである。それ以外には、道を挟んで西の山上には物見が設けられ、平地の居館周辺には家臣団の屋敷が並んでいたようである。屋敷地跡にも堀跡などが残存するようだが、この日は時間がなく見て周ることはできなかった。

 横堀は見事だが、やや面白みに欠ける縄張と感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E141.8.30.8N39.19.44.6&ZM=9

※その後の居館地域などの再訪はこちら
古城めぐり(岩手) ブログトップ
メッセージを送る