So-net無料ブログ作成
2017年12月| 2018年01月 |- ブログトップ

鞭楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9334.JPG←榴ヶ岡公園の中段の平場
 鞭楯(鞭館)は、源頼朝の奥州合戦の際、奥州藤原氏4代泰衡が本陣を置いた陣城である。1189年、源頼朝は、自分と対立した源義経を匿ったことを口実に奥州藤原氏の討伐を開始した。泰衡は鎌倉勢を迎え撃つ為、阿津賀志山に長大な防御陣地を構築して異母兄藤原国衡を大将とする2万の軍勢を配し、刈田郡に城を築き、名取・広瀬両河に大縄を張り、自身は国分原鞭楯に本陣を置いて指揮を執った。しかし激戦の末に国衡らの諸将は討死して奥州勢は敗れ、泰衡は鞭楯から本拠地平泉へ撤退した。

 鞭楯は、現在の榴ヶ岡公園がその擬定地とされている。現在は市街化が進み、公園化で大きく改変されてしまっている。公園の南斜面には中段に平場が見られるが、腰曲輪の遺構であろうか?遺構は望むべくもないが、現在でも丘陵端部の公園となっており、南への眺望に優れた地勢であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.260634/140.896912/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=std&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣城
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長喜城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9282.JPG←「屋敷」北の堀跡らしい水路
 長喜城は、歴史不詳の城である。伝承では、中世の豪族である沖野氏らがこの地に館を築き、「喜びに満ちた不朽の城であるように」との願いを込めて命名したとされる。しかし沖野氏の事績についても不明であり、はっきりしたことはよくわからない。
 長喜城は、仙台市街地東端に近い沖積台地に築かれている。「いぐね」と呼ばれる屋敷林が残る景観が、古い農村の風景を残していることで知られているらしい。屋敷、御蔵堀などの地名が残っている。昭和30年代の航空写真を見ると、「屋敷」の部分に方形の主郭があり、その東西に2つの曲輪が、また主郭の南にも2~3つ程度の曲輪があった様である。現在は遺構の湮滅が進んでいるが、「屋敷」の西郭北側に水路の様な堀状地形が垣間見れる。また「御蔵堀」も囲郭であったらしく、堀跡らしい水路が残っている。いずれにしてもあまり遺構は明確ではなく、どのような縄張りの城館だったのかも闇の中である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.239908/140.938582/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

沖野城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9272.JPG←現存する土塁
 沖野城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の城である。粟野氏の事績は、茂ヶ崎城の項に記載する。戦国末期の当主粟野大膳重国は、1591年に伊達政宗に抗したらしく、北目城に立て籠もって抗戦し、重国の弟も沖野城に立て籠もったという。しかし衆寡敵せず両城とも落城した。沖野城はそのまま廃城になったと思われる。
 沖野城は、陸上自衛隊霞目飛行場のすぐ南に隣接する地域に築かれていた。二重の土塁と水堀で囲まれた城だった様だが、現在は宅地化が進んで、ほとんど遺構は湮滅している。明確な遺構としては、北西部の土塁がわずかに残るだけである。その土塁も、周りを生け垣で厳重に囲まれ立入禁止と書かれた畑地の中にあるので、道端から遠望することしかできない。また南西部には円弧状の堀跡と思われる地形が水路と空き地となって残っている。遺構はその程度であるが、北門、中柵、舘など地名として残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.228784/140.919635/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

四郎丸館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9268.JPG←館跡の善徳寺
 四郎丸館は、奥州藤原氏3代秀衡の家臣名取四郎の居館であったと言われている。源頼朝の奥州合戦の際に、主家藤原氏と共に滅亡した。後に曾我氏の居館となり、室町時代末期には伊達氏家臣菅井和泉守実国がこの館に入ったと言われる。
 四郎丸館は、名取川南岸の沖積地に築かれていた。現在の善徳寺境内付近にあったとされ、周囲に水濠と土塁を幾重にも取り巻いた要害であったと言う。現在は宅地化などで遺構は完全に湮滅しており、何らの痕跡も見出すことはできない。城址標柱も何もないので、ここが館跡だとは近所の人は誰も知らないのではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.189060/140.916266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

下野郷館(宮城県岩沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9249.JPG←堀跡の水路と土塁
 下野郷館は、矢野目足軽城とも呼ばれ、当初は奥山民部という武士の居館であったが、伊達氏に滅ぼされたとされる。その後、矢野目足軽と呼ばれる軍団の居住地となった。矢野目足軽は伊達家62万石直属の足軽で、藩祖伊達政宗が豊臣秀吉の命によって米沢から岩出山城に移封となった際に、政宗の従者として米沢の矢野目より移住し、更に1603年に政宗が仙台城を築いて居城を移すと、この地に居を構えた鉄砲足軽であった。その後、この地は仙台藩家臣奥山与市左衛門の知行地となり、矢野目足軽はその配下に組み込まれた。しかし矢野目足軽は伊達家直参として政宗の信頼が厚く、それゆえ水運を扼し、かつ海防の任に当たるこの要衝に置かれたのだと言う。

 下野郷館は、五間堀川北岸の平地に築かれていた。前述の通り近世には足軽軍団の居住地となった為、中世の遺構は表層には残っていないと思われる。現在残っているのは近世の矢野目足軽城としての遺構で、中央集会所周囲に居住地外周を取り巻く土塁や水堀の一部が水路となって残っている。ここは矢野目足軽城の北西隅の部分に相当するらしい。以前は、下野郷駐在所の真向かいに石碑と標柱が建っていたが、現在は中央集会所敷地の西端に場所が移動されていた。それにしても足軽軍団を集住させた城というのも珍しい。野望を抱き続けた政宗らしい用心深さである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.127037/140.902705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    (地図中央は石碑の位置を示す)
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

吉野城(宮城県角田市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9201.JPG←微高地となった主郭跡
 吉野城は、吉野五良という者の城と言われている。現地解説板によれば、吉野五良とは後醍醐天皇の皇子義良親王(後の後村上天皇)のことで、1336年に伊久(伊具?)の国官府として吉野城を築いたとされる。そして、吉野五良の姫が病没後、その霊を祀るために阿弥陀堂を建立したと言う。阿弥陀堂は吉野城址の北西に現存し、前述の解説板はその堂宇の脇に立っている。しかしこれは随分おかしな伝承で、義良親王は後に吉野で父帝の後を継いで後村上天皇となっているし、陸奥国司・鎮守府将軍北畠顕家に奉じられて奥州に下向した先は多賀城であり、その時はまだ7~8歳の幼少であり、もしここに居たことがあったとしても姫など出生できる年齢ではない。おそらく「吉野」と言う名から連想した、随分無理のある仮託であろう。

 吉野城は、阿武隈川西岸の平地に築かれている。現在確認できるのは主郭跡の方形の区画で、民家と畑になっているので旧状をかなり失っていると思われるが、周囲よりこの区画だけわずかな微高地となっているのがわかる。また東側には堀跡らしい溝状地形が確認できる。解説板によれば、往時は内濠・外濠があり、東を搦手・西を西木戸・南を朱雀の木戸・北を松枝屋敷と言っていたらしい。外郭は回字状に主郭の周りを取り巻いていたと推測されているが、改変が激しく、ごく一部に土塁跡らしき土盛を残すほかは、既に塁線を追うことすら困難である。吉野城は、既に往時の姿は見る影もないが、南東角に建つ城址碑と前述の阿弥陀堂だけが歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.995089/140.802777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

助川海防城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9125.JPG←物見番所跡
 助川海防城は、水戸徳川藩が江戸時代後期に築いた海防を目的とする城である。徳川幕府は長らく鎖国政策を採ってきたが、1790年代よりロシア船を始めとする外国船が度々日本近海に現れ、その一部は日本に通商を求めるようになっていた。強硬な攘夷論者であった水戸藩9代藩主徳川斉昭は、天下に率先して海防の重要性を強調し、1836年、家老山野辺義観(出羽の驍将最上義光の4男山野辺義忠の裔孫)を海防惣司という新設の役職に任じて、太平洋を一望できる助川村の高台に海防を目的とする城を築いて居住させ、異国船の侵入に備えさせた。築城に当たっては、新規築城は幕府から禁止されていたため、佐竹氏時代に新城七郎という武士(小野崎氏の庶流介川氏の一族か?)が築いていた蓼沼館を修築して海防惣司の屋敷にするという名目で、許可を受けたと言われる。以後、山野辺氏が歴代の城主を務めた。1864年9月、水戸藩で発生した天狗党の乱の時、城主山野辺義芸は天狗党側と見做されて幕府軍に攻撃され、助川海防城は落城・焼失した。

 助川海防城は、日立の海岸線から約2.2km離れた、標高110m程の丘陵上に築かれている。海防、即ち沿海警備を目的とする城である為、普通に思い浮かぶ城郭とは大いに趣を異にしている。本丸から南東斜面に段々に曲輪群を連ねただけの構造で、一般の近世城郭とはおよそ程遠い。本丸や二ノ丸は現在城跡公園となっているが、曲輪群と切岸のほかは遺構はかなり少ない。本丸には土塁が散在している。本丸正面に内枡形状の空間があるが、公園化による改変の様に見受けられる。というのも、全然違う場所に正門礎石が残っているからである。これらの他、公園内各所に標柱などが建っている。この様に往時の面影を朧気ながら伝えるのは公園部分のみで、公園以外の部分は市街化が激しく、旧状を推し量りにくい。助川海防城は、遠見番所を備えたことからも物見による警備を主目的とした城であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.592006/140.639462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

茅根城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9070.JPG←南側の腰曲輪状の畑
 茅根城は、佐竹氏の家臣茅根氏の居城である。茅根氏は、佐竹氏の重臣であった小野崎氏の一族で、小野崎通長の次男通景が茅根大和守を称して茅根氏の祖となり、茅根城を居城とした。後に茅根氏は大橋城に居城を移したらしいので、この頃に茅根城は廃城となったのだろう。

 茅根城は、里川東岸の河岸段丘に築かれた城である。段丘上は大きく2つの区域に分かれ、旧佐都小学校があった根古屋部とその上の高台の主城部である。いずれもほとんど耕地化しており(一部は耕作放棄地)、遺構はほとんど残っていない。主城部は、よく城巡りの参考にさせてもらっているHP「北緯36度付近の中世城郭」では現在畑中に残るクランクした畑道を空堀跡とし、それを境に東西に2つの曲輪を並べた城であったと推測しているが、現状からでは実際にどのような城だったのかはなんとも言えない。既に戦後の航空写真でも一面の畑となっており、空堀の痕跡は見出だせない。ただ台地南側に何段かの腰曲輪跡らしい畑があり、南と南西に虎口跡らしい地形が残っている。また北側にはわずかであるが土塁の残欠が見られ、その脇に古道が通っていることから虎口跡であったと想定されている様だ。おそらく鎌倉時代に築かれた居館機能を主とした素朴な構造の城館が、茅根氏の移住に伴ってそのまま打ち捨てられたと考えられ、元々あまり城郭らしい遺構を残していなかったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.578635/140.543375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小堤館(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8971.JPG←鱗勝院に残る土塁
 小堤館は、額田城の出城と考えられている。現在鱗勝院と言う寺が建っているが、鎌倉前期に額田城を築いた額田蔵人大夫義直がこの鱗勝院を中興開基しており、その際に有事の際の出城として機能するよう構築したものと推測される。一説には、額田氏が額田城を築く前に一時期居館を置いていたとも言われるが、定かではない。
 小堤館は、額田城の南西に位置し、三角形状に張り出した台地上に築かれている。現在は前述の通り鱗勝院の境内となっている。構造としては非常に簡素で、寺の西側に一直線状に土塁を築き、現在は道路となって湮滅しているが土塁の外側に空堀を穿って防御していた様である。土塁は特に南側でよく残っている。この他、南西の段丘辺縁部などにも土塁や堀、虎口らしい地形が見られるが、実際にそこまで城域が広がっていたかは不明である。尚、鱗勝院の境内墓地には額田佐竹氏の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.485478/140.516253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

平戸館(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8958.JPG←吉田神社西側の堀・土塁跡
 平戸館は、大掾氏の一族、平戸氏の居館である。応永年間(1394~1427年)に、平戸甚五郎久幹が居城したと伝えられている。1426年、大掾満幹が府中に赴いて留守の間に、河和田城主江戸通房は大掾氏の居城である水戸城を奪取した頃には大掾氏一族の勢力は漸減し、平戸館もこの頃に廃城になったものと推測されている。
 平戸館は、涸沼川西岸の平地に築かれた平城である。南北2郭から成る小規模な城館で、南が主郭、北が二ノ郭と推測される。主郭は全周を掘で囲まれた正方形の曲輪であったが、民家と畑に変貌しており、堀は西側に僅かな溝状地形となって残っているのみである。二ノ郭には吉田神社が鎮座し、西側に僅かに堀跡と土塁跡が残っている。いずれにしても非常に小規模な城館で、その規模から考えると、平戸甚五郎が居住した応永年間の頃には大掾氏の勢力はかなり衰退していたことが窺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.324435/140.559211/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

沖宿堀ノ内館(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8918.JPG←堀跡の蓮根畑
 沖宿堀ノ内館は、歴史不詳の城館である。一説には、小田治朝の居館であったとも言うが定かではない。しかし近くの海蔵寺は治朝が開基で治朝の墓も残っていることから、治朝に所縁深い城館であったことは想像に難くなく、或いは治朝の隠棲地であったかもしれない(治朝は、小山義政の乱で敗死した小山義政の子若犬丸を庇護したことから、鎌倉公方足利氏満の討伐を受けている)。
 沖宿堀ノ内館は、霞ヶ浦北岸の平地に築かれている。南北に長い縦長の単郭方形居館であったと考えられる。館跡は現在畑となり、周囲の堀跡は東側以外の3面は残っているが、蓮根畑に変貌しており、夏だと蓮の葉が生い茂っていて蓮の葉のベルトにしか見えない。主郭は周囲よりわずかに高い微高地となっているが、土塁は確認できない。いずれにしても小規模な居館であった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.070981/140.255692/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

高井城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8889.JPG←八坂神社北側の丘陵斜面
 高井城は、歴史不詳の城である。時代は不明であるが、『日本城郭大系』では諸岡盛綱の居城であったと記載されている。また1341年に鎌倉府の執事高師冬が北畠親房を擁した小田治久の小田城を攻撃した際、高井城も攻撃を受けたとされる。その他については不明である。

 高井城は、桜川南岸の独立丘陵上に築かれた城である。元々は三角形に近い形状で、東側にやや張り出しを有した丘陵であったが、現在は中央部を南北に国道6号バイパス(土浦バイパス)が貫通し、八坂神社が建っている部分以外は丘陵が全面削平されてしまっており、往時の姿はわずかしか残っていない。戦後の航空写真を見ると、神社南のアクティオや茨城トヨペット、国道を挟んで東側のスーパー敷地が丘陵となっていた。現在は綺麗に平地になってしまっている。従って、唯一残っているのが前述の通り八坂神社の境内部分だけである。ここは主郭北西側の腰曲輪の一部のようである。八坂神社北側の斜面が、唯一往時の形状を残していると思われる。戦後の航空写真だと、神社の南東に一段高く方形に近い形の主郭があった様だが、現在は消滅している。位置的にはちょうどアクティオから国道までの部分に相当する。また東の張出し部分に舌状曲輪を何段か築いていたようにも見受けられる。結局、丘陵の大半が消滅している為、残っている遺構が断片的すぎるので、何とも評価し難いのが実情である。一応神社の裏に土塁の様なものは残るが・・・。尚、境内には宝篋印塔があるが、南北朝時代のものと推測されており、高井城陥落時の供養塔と考えられているようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.076653/140.177200/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小田城 その2(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4756.JPG←前山城から見た現在の小田城
(写真クリックで拡大)

 私が小田城を最初に訪れてから、ちょうど10年になる。この間、つくば市によって毎年毎年、継続的に発掘調査が続けられ(10年前の訪城時もあちこち発掘中でブルーシートが掛かっていた)、ここ数年はこれらの調査結果に基づいた復元整備が進められてきた。そしてようやく2016年のGWに歴史広場として開園されたので、2017年8月に近くに来たついでに再訪した。ここでは復元整備された内容を抜粋して紹介する。

<本丸の堀と大手土橋>
IMG_8733.JPG
 埋められていた堀はやや掘り下げられ、大手虎口に繋がる土橋が復元された。土橋の北半分の土台には、発掘調査結果に基づいて石積みも復元された。

<本丸外周の土塁>
IMG_8746.JPG
 本丸外周には、往時は全周に土塁が築かれていたが、廃城後に崩されて堀を埋めるのに使われてしまっていた。発掘調査の結果、平安時代以後6層の変遷が確認され、15世紀中葉以降に徐々に土塁が大型化していった様子が判明した(ちょうど関東が戦国時代に突入する画期となった享徳の乱の勃発によるものでしょうか?)。この結果に基づいて、推定される高さまで全周の土塁が復元された。

<東池跡・建物跡>
IMG_8786.JPG
 本丸内には、池を眺める庭園が築かれていることが、発掘の結果判明した。岸辺には庵のような小型建物跡も検出されており、その跡も表示されている。同様な庭園は、武蔵鉢形城・出羽舘山城・遠江鳥羽山城などにも検出されており、戦国の殺伐とした時代でも庭園を眺めて和歌を詠む様な風流は、武将必須の教養であったことが窺われる。特に小田氏は関東八屋形に列せられた名門大名であり、家臣たちとしばしば連歌の会を催したことが伝わっているので、庭園が築かれていても何ら不思議はない。尚、小石を散りばめた「州浜」まで復元されている。

<南西虎口>
IMG_8810.JPG
 以前は形が残っていなかった南西の搦手虎口が復元された。戦国末期の最終段階の普請で築かれたらしい。虎口部分には石垣が築かれていたことが判明しており、その型を取った樹脂製の石垣が、本来の石垣の上に盛土をして保護した上に設置された。

<南西馬出>
IMG_8814.JPG
 南西虎口の前面には角馬出が構築されていた。以前もその形は、なんとなく残っていたが、周囲の土塁も含めて綺麗に復元され、東隣りの曲輪に繋がる土橋も復元された。尚、南西虎口とは木橋で連結されていたことが判明しており、その通りに木橋を架けて復元されている。


 これらの他に、本丸内には建物跡が地面に表示され、通路の石敷き、大溝跡や水路跡なども復元されている。また現時点では本丸以外にも、二ノ丸の一部に当たる本丸東側の曲輪が復元されている(その一部に民家が残ったままというのがすごいが)。とりあえずここまでの整備で一区切りとして歴史公園をオープンしたが、その他の外周の曲輪についても、まだ発掘調査と整備が続けられている様である。

 また近くには案内所が解説されており、パンフレットの他、無料で詳細な情報を得ることができる。ボランティアの解説員までいらっしゃった。その方の話では、なんでも日本のX線天文学の大家であった故・小田稔氏(X線源の位置を精度良く特定できるようにした「すだれコリメーター」の発明者)は、小田氏一族の末裔であるらしい。小田稔氏の娘さんがここに来て、そう仰っていたそうだ。ビックリつながりである。

 ところで角馬出で思い出したが、小田城では障子堀も各所で検出されている。角馬出、障子堀と言えば、小田原北条氏の築城法の代名詞のような技術である。小田氏が築いたのか、それとも小田氏治が城を追われた後に入城した梶原政景が築いたのかは不明だが、小田城に北条氏の築城技術が導入されていることは注意すべきである。これについては他の城の例もあるので、機会を改めて考証してみたい。
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

田土部城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8695.JPG←外郭西端部の土塁
 田土部城は、小田城主小田氏の支城である。元々は、室町初期の頃に田土辺左衛門尉忠貞と言う武士が築いたと伝えられる。戦国期には小田氏14代政治の次男信濃守政秀が田土部城に拠り、田戸部氏を称した。その後、小田氏が佐竹氏の攻勢によって衰退すると、田土部城は廃城になったと言う。

 田土部城は、桜川東岸の田土部集落に築かれていた。集落全体がほぼ城域に一致すると言うことであるが、宅地化で遺構はほとんど湮滅している。集落中心の東将寺付近に主郭があり、その北側に堀跡の様な溝状地形が見られる。またそこから小道を挟んで西側にも堀跡らしい溝が残っているが、夏場だったので草木が生い茂っていて形状を把握することはできなかった。これは大手虎口脇の堀であったらしい。その脇のブロック塀の中に土塁が残っていた様だが、ガサ藪で訪城時は気付かなかった。集落外周部には外堀の名残の水路が廻っており、郭内は周りよりもわずかな微高地となっているのがわかる。そして外郭西端部にも僅かであるが土塁が残っている。しかし城址標柱も解説板もなく、城の歴史は完全に埋もれてしまっている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.127277/140.131302/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

笠松城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8640.JPG←城址碑と主郭
 笠松城は、元は佐谷城と呼ばれ、大掾氏の庶流佐谷氏の居城である。鎌倉中期の正元年間(1259~60年)に大掾(馬場)資幹の孫左衛門尉実幹が佐谷郷の地頭となり、佐谷城を築いて居城としたと伝えられる。しかし佐谷氏はわずか2代で断絶し、その後は廃城となっていたらしい。時代は下って1602年、佐竹氏が秋田に移封となり、代わって秋田の本堂茂親が志筑藩の領主となると、佐谷城の故地に居城を築き、笠松城と称した。以後約40年間この地に居住したが、1645年に志筑城址に新たに陣屋を構えて移り、笠松城は廃城となった。

 笠松城は、天の川とその支流の雪入川に挟まれた比高15m程の舌状台地先端部に築かれている。南から民家に登る道を登るとと、民家手前の右手に解説板が建っている。その脇から東の主郭に登ることができ、入口に城址碑もあるが、明らかに民有地であるのでこの先への進入は遠慮し、遠目に眺めるだけにした。主郭は、一部が畑のほかは現在ソーラー発電所になっている。主郭北辺には高さ1mに満たない低土塁が残るようであるが、現況からするとあまり期待できなそうな感じである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.146738/140.221102/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

中根長者屋敷(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8607.JPG←横堀と土塁
 中根長者屋敷は、中根長者という富豪の屋敷跡と伝えられている。伝承では、天正年間(1573~92年)に中根与衛門という富豪がいて、佐竹氏から軍用金の徴用を受けた時、元々小田氏の庇護を受けてきたことから、敵である佐竹氏の要請を拒絶した為、亡ぼされたと言う。
 中根長者屋敷は、現在の往西寺にあったとされる。中根川と飯田川に挟まれた台地上にあり、境内南側は急峻な斜面で囲まれている。境内の西面から南面にかけて、小規模ではあるが横堀と土塁が残存している。また南側には竪堀状地形と腰曲輪の様な畑地もある。中世の小豪族は半農半武士の開発領主であるので、そうした小豪族の城館として機能したのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.167892/140.244834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

若宮館(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8456.JPG←主郭切岸と腰曲輪らしい畑
 若宮館は、若宮某という者の居館であったと伝えられている。それ以外の詳細は全く不明であるが、茂木城の東方1.6kmの位置にあり、茂木城下への東の入口を押さえる要地にあることから、もし中世の城館であれば茂木氏の重臣の城館であったと推測するのが妥当であろう。
 若宮館は、国道123号線西側の丘陵上に築かれている。最上部に主郭を置き、周辺に腰曲輪を幾重にも築いていた様である。丘陵は一部が宅地となっている他は主郭も腰曲輪もほとんど畑となっている。改変されている可能性があるので確実ではないが、主郭は切岸で綺麗に区画された広い平場で、北東に鬼門除けの入隅が設けられている。主郭の周辺には畑が段々に多数連なっており、切岸で区画された腰曲輪群であろうか。街道を押さえるにはもってこいの適地であることが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.534976/140.203335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

北古屋城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8424.JPG←城址の現況
 北古屋城は、歴史不詳の城である。佐竹氏の出城との伝承もあるが確証はない。位置的には茂木氏領の最東方で下野・常陸の国境に近く、佐竹氏一族の長倉氏の居城であった長倉城に程近いので、佐竹氏が出城を築いたことは十分に有り得る話である。
 北古屋城は、那珂川支流の逆川西岸の台地上に築かれている。城内は現在、一部が宅地のほかは一面の畑となっており、明確な遺構はほとんど確認できない。段々になっている畑がもしかしたら往時の腰曲輪かも、と言う程度である。城の中心と思われる部分は宅地となっている為、現況の確認もほとんどできない。段丘上にあるという地形のみが城の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.556473/140.237496/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

手賀城(千葉県柏市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8376.JPG←外郭に残る土塁跡
 手賀城は、下総の名族千葉氏の重臣原氏の一族、手賀原氏の居城である。手賀原氏は、戦国中期の頃に臼井城主原胤貞が千葉勝胤より手賀郷600貫を与えられ、胤貞の2男筑前守胤親が手賀城に入って手賀原氏初代となったと伝えられるが、時代的に合わないなど信憑性に乏しく、詳細な系譜は不明である。胤親の子久胤の時に小田原の役となり、手賀城も上方勢の攻撃を受けて落城した。その後、手賀原氏は当地に隠棲していたが、久胤死後にその後を継いだ弟胤次の時に徳川家の重臣板倉勝重に召し出され、1617年、勝重の推挙によって江戸北町奉行所の与力に抜擢されたと言う。その後、幕末まで代々江戸町奉行の与力として続いた。

 手賀城は、手賀沼南東の比高15m程の段丘上に築かれている。広い台地の広範囲を城域としていたらしいが、宅地化で遺構の湮滅が進んでいる。主郭は段丘北端の中央部にあり、現在は畑となっている。畑の中に小さな神社が建ち、神社への入口に城址碑が建っている。主郭の東側などに僅かに土塁が残存し、その脇を通る車道は往時の堀底道であろう。この他にも宅地の脇や外郭南東部の市道脇に、部分的に土塁が残存している。明確な遺構はその程度であるが、城の地勢はよく残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.845761/140.072100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

夏見城(千葉県船橋市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8326.JPG←寺背後に残る土塁囲郭
 夏見城は、この地の在地領主夏見氏の居城である。『長福寺縁起』によれば、城主夏見加賀守政芳は、1564年に不意に敵の攻撃を受けて落城、討死したと伝えられている。尚、夏見氏についてはこの伝承の他に、長福寺の木造聖観世音菩薩の胎内銘に、1536年12月24日付で「夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定」なる者が旦那となって造立したことが記されており、船橋市内の城館の中で唯一城主又はその近縁者の名が一次史料によって判明していると言う。この夏見豊嶋勘解由左衛門尉は、「豊嶋」の名乗りにもある様に、長尾景春の乱で太田道灌に滅ぼされた武蔵の名族豊島氏の一族が、この地に逃れ来たったものではないかとの説がある。

 夏見城は、海老川西岸の段丘辺縁部に築かれている。急峻な崖で囲まれた地勢で、主郭は現在、長福寺の境内となっている。寺背後の高台(墓地の東側)に土塁で囲まれた曲輪があるが、主殿を建てるほどの広さはないので、寺境内を主郭とし、高台を詰丸としていたと思われる。寺周辺は市街化しているため往時の縄張りはよくわからないが、戦後の航空写真を見ると寺周囲の円弧状の車道に沿って並んでいる宅地部は、広い堀跡であったらしい。その周りには二ノ郭があったと推測されるが、戦後でも既にその形状はわからなくなっている。尚、詰丸北東部の土塁の上には妙見尊が祀られた「雪解塚」があるが、ここには往時井戸があり、戦いで討死した城兵の遺骸を埋めたとも、城の女中らが身を投げたとも言われ、雪が積もらなかったことからその名が付いたと言う。歴史不詳ながら、しっかりした土塁が残っており貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.712293/139.997599/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

新年あけましておめでとうございます。 [日記]

新年あけましておめでとうございます。

個人的な備忘録として始めたブログですが、
早いもので始めてからもう10年が経ちました。

また昨年は、生まれて初めて「日本城郭史学会」という
城郭専門団体のセミナーに参加させて頂き、
城郭専門家の方々とも親しくお話する機会を得ることができました。

今後も引き続き、歴史に名を留める中世城郭を中心に、
歴史の証言者としての城郭遺構を廻っていきたいと思いますので、
引き続きご愛顧のほどよろしくお願い致します。

世界情勢が不穏さを増している昨今の状況ですが、
皆様にとって本年が良い年となりますように。
nice!(4)  コメント(4) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

2017年12月|2018年01月 |- ブログトップ
メッセージを送る