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神吉城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7205.JPG←本丸跡の常楽寺
 神吉(かんき)城は、この地の土豪神吉氏の居城である。神吉氏の出自には諸説あるが、播磨守護赤松氏の一族であるとされる。少なくとも『太平記』に多数登場する赤松氏の一族郎党の中には神吉氏の名は見えないので、太平記以後の時代に分出された庶家の様である。戦国期には、三木城主別所氏と代々気脈を通じており、1578年2月に別所長治が突如織田方から離反すると、神吉城主神吉民部大輔頼定も別所氏に呼応して神吉城に立て籠もり、志方城・野口城と共に織田勢の大軍の攻撃を受けた。『信長公記』によれば、織田勢は信長の嫡男織田信忠を筆頭に、その弟神戸信孝、重臣の林秀貞、細川藤孝、佐久間信盛、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、荒木村重などそうそうたるメンバーが率いた約三万の大軍に対し、頼定はわずか千名ほどの城兵で果敢に抵抗し、何度も攻撃を撃退したと言う。しかし衆寡敵せず、織田勢の総攻撃を受けて頼定は討死し、神吉城は落城した。尚この際、西の丸を守備していた頼定の叔父神吉貞光(藤大夫)は、荒木村重・佐久間信盛が藤大夫の詫言を取次いで奔走し、志方城降参の説得を条件に助命され、志方城へ退去したと言う。

 神吉城は、常楽寺の地に本丸があった。周辺は全て市街化し、遺構は完全に湮滅している。『信長公記』の記載によれば、中の丸(本丸)・東の丸・西の丸で構成され、中の丸には天守も上げられていたと言うが、往時の面影はほとんど失われている。本丸跡の常楽寺境内は周囲より3~4m程高くなっており、往時の地勢を僅かに残しているに過ぎない。尚、常楽寺本堂裏の墓地には城主神吉頼定の墓があるが、非常に立派な墓所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.795083/134.829519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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