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石原城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1107.JPG←土塁と空堀
 石原(いさ)城は、高津城主大槻氏の一族の城である。天文年間(1532~55年)に、大槻安芸守政治によって築かれたと伝えられている。政治は、後に隠居して法名を「洞玄」と名乗って草庵を営み、死後長らく廃墟となっていたが、石原の僧華翁が寺を造って、政治の法名にちなんで洞玄寺と名付けたと言う。
 石原城は、前述の通り洞玄寺の境内となっている。比高10m程の台地辺縁部にあり、寺の周囲に土塁と空堀が残っている。特に南辺の土塁には横矢の張出し櫓台が築かれている。規模・構造から考えれば、国人領主一族の居館と言った趣で、一部破壊を受けて改変されているものの、往時の雰囲気はよく感じられる。
 尚、南東の山稜上にはヌクモ山城があり、「上城」と称されていたと言われ、石原城の有事の際の詰城であった可能性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.298411/135.177906/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鬼ヶ城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0950.JPG←山上の曲輪群
 鬼ヶ城は、明智光秀の丹波平定に頑強に抵抗した国人衆が立て籠もった城と伝えられている。1575年、明智光秀は織田信長の命により丹波に入ると、口丹波亀山城主内藤忠行は、光秀の入部を祝し、忠行の主従は光秀に従った。そして各地の土豪は光秀に降る者と、徹底抗戦する者とに分かれ、久下・中沢・並河・釈迦牟尼仏(にくるべ)・河田らの各氏は退いて、鬼ヶ城・高見城に拠って抵抗を続けたと言う。その後、光秀の丹波攻略に抵抗していたのは、八上城の波多野氏と黒井城の赤井氏となったが、赤井直正の弟幸家は、安芸毛利氏の一族吉川元春と通じてその来援を請い、元春来援の際の本陣とするため、鬼ヶ城に砦を築いたと言う。しかし元春の来援がないまま丹波は平定され、鬼ヶ城も光秀の陥れるところとなった。『信長公記』によれば、1579年7月に明智光秀が鬼ヶ城を攻めて近在に放火し、付城を築いたとあると言う。

 鬼ヶ城は、標高544mの峻険な山上に築かれている。東麓の観音寺から登山道が整備されている。登頂比高は340mもあるので登るのは一苦労だが、山頂からは360度の大パノラマで、疲れは吹き飛んでしまう。遺構も見事で、峻険な山城なので小さい城だと思っていたが、普請はかなり大規模である。『図解 近畿の城郭Ⅰ』所収の縄張図は、なぜか大手の曲輪群や北東尾根の曲輪群が抜けてしまっているが、実際はそれらも遺構であることは明白で、従って実際の城域はもっと広いのである。登山道を登り南尾根に至ると、その北側に平場群と明確な虎口が見られ、ここから城域に入る。この大手郭の坂虎口は両側に櫓台を設けており、黒井城東出丸の虎口に酷似している。この大手郭の東にも段曲輪が3段ほど築かれている。更に登ると側方に石垣の残った虎口を設けた曲輪に至る。この上に城の中心部がある。頂部に主郭があり、南東斜面に沿って3段の腰曲輪が設けられ、ここにも石垣の跡が見られる。この腰曲輪から西に向かって武者走りが伸び、南西の腰曲輪を経由して、北尾根の曲輪群に繋がっている。北尾根曲輪群は南北に長い曲輪を連ねており、山上の主郭部が狭く居住性がないのに対して、そこそこの広さがあり、城兵の居住区になっていたと考えられる。この他にも前述の通り、主郭の北東尾根に連なる曲輪群があり、この東郭群は全部で9段もの馬蹄段が築かれている。鬼ヶ城は、福知山市街全域を一望できる要地にあり、しかも予想以上に規模の大きな遺構群で、赤井氏が光秀に抵抗するために構築したという伝承も十分説得力がある。山上の眺望も素晴らしく、苦労して登る価値は十分ある。
大手郭の虎口→IMG_0901.JPG
IMG_1057.JPG←東郭群の馬蹄段
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.341481/135.142307/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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中村城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0797.JPG←南郭周囲の横堀
 中村城は、この地の土豪塩見氏の居城と言われている。中村城主塩見氏については2説あり、横山城主塩見頼氏の子であるとも、或いは播磨守護赤松満祐の後裔で、嘉吉の乱で満祐滅亡後に遺児若松丸(満義)が何鹿郡沢之庄に落ち延び、その子義近が一尾城主大槻佐渡守の女を娶って中村に移住し、塩見に改めたとも言う。

 中村城は、猪崎城の北北西わずか900m程の位置にある、南北に長い丘陵上に築かれている。遺構の名称は、丹波の城歩きではよく拝見しているHP「山城賛歌」の呼称に従って記載する。城内は大きく、北郭・主郭・南郭から構成されおり、南郭には薬王寺社が祀られ、その参道から訪城できる。低丘陵で、かつ参道があるので、何の苦労もなく城に至るのはあっという間である。しかし遺構は見事で、社殿の建てられた南郭は外周を横堀で囲繞しており、南に土橋の架かった虎口が築かれている。南郭の北には堀切を挟んで主郭がある。南郭の北西角にはこの堀切に降りる虎口が付いている。主郭内は段差で2段に分かれ、南端に土塁を築いている。主郭の東側は、南郭から続く横堀を穿ち、西側には2段の腰曲輪を築いている。主郭の北側には堀切を挟んで北郭群があるが、北郭背後は大土塁となっており、主郭北側の堀切の分断効果を大きくしている。北郭群は3~4段の馬蹄段より成り、特に最上段の北郭1は広く、削平も見事である。北郭から大土塁の西側を迂回する城道が残り、腰曲輪の段を経由して主郭に登る動線も明瞭に残っている。遺構としては以上で、形態は比較的単純な直線連郭式の城であるが、普請はしっかりしていて見応えがある。
主郭~南郭間の堀切→IMG_0814.JPG
IMG_0844.JPG←北郭1と大土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.315379/135.128939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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