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彫堂七館(宮城県美里町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3168.JPG←長館の横堀
 彫堂七館は、歴史不詳の城である。古くは「七館八沢」と呼ばれていた。『余目記録』によれば、南北朝期の観応の擾乱の際、奥州管領として派遣されていた吉良貞家(足利直義方)・畠山国氏(足利尊氏方)の両者が中央の情勢に連動して争った時、長世保に拠った畠山氏に対して、吉良方に付いた大崎氏が色麻川(現・鳴瀬川)を隔てた鉢森に陣取り遠矢の合戦をしたと言う。この鉢森が現在の鉢谷森と考えられている。(但しこの伝承には少々疑問がある。大崎氏の初代斯波家兼は、直義方であった兄高経と袂を分かち、終始尊氏方として活躍した武将なので、直義方の吉良氏に付いたとは考えにくい。)いずれにしてもこの地は大崎領の東端に当たり、鳴瀬川対岸に進出した葛西・伊達氏に対する最前線であった。ちなみに葛西・伊達両氏は、北畠顕家の奥州府を支えた東北南朝方の主柱とも言うべき武将であったので、その観点からすれば北朝対南朝の図式でも捉えられる城である。一方、江戸時代にまとめられた『仙台領内古城書上』には彫堂城の記載が見え、伝承では蜂谷筑前守という武士が居城したとされている。現地解説板では、彫堂城は彫堂七館の一郭蜂谷森の別名であろうとし、蜂谷筑前守は大崎氏に関連した武将かもしれないと推測している。彫堂七館は、歴史不詳ながら、大崎氏によって築城された可能性が高いと推測されている。

 彫堂七館は、出来川北岸の東西に連なる比高15~30m程の丘陵上に築かれている。西から順に、山前館・長館・大館・小館・陣館・狼之介館・彫堂館(蜂谷森)・笹館の八館から成るとされる。八館なのに何故七館と呼ぶようになったのかは不明。全長で東西800m程にも及ぶ広い城域から成るが、基本的には単純な縄張りで技巧性には乏しい。小館・陣館・狼之介館・彫堂館の4つは公園化されており、このうち小館・彫堂館には北側半周を取り囲むように空堀が穿たれている。それ以外は単に頂部の平場の周囲に腰曲輪などが築かれているに過ぎない。また陣館・狼之介館の間には堀切があったとされるが、公園化による改変のためか、わからなくなってしまっている。大館は民家と畑になっており、外から見るしかできない。長館は、最も広い館で、主郭の全周を横堀で囲んでおり、更に周りに腰曲輪を築いているようだが、未整備の山林となっている。残りの山前館・笹館はいずれも民家裏の山林で、進入は憚られ、未踏査である。遺構を確認した限りでは、腰曲輪と空堀だけで横矢もなく非常に単純な縄張りで、まるでチャシの様である。南北朝期の城として見ても、少々見劣りする城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.539531/141.053274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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