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田野辺城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1338.JPG←高台となっている主郭跡
 田野辺城は、那須七騎の一、千本氏の支城である。千本氏8代美濃守資家が1505年に、益子氏の村上城に対する備えの為に千本城の出城として築き、弟の田野辺三郎資重を置いて守らせた。その後、左衛門尉資辰・将監重之と田野辺氏は3代続いたが、1585年、重之が城主の時に主家の千本資俊・資政父子は烏山で謀殺され、田野辺城は千本城と共に落城し、そのまま廃城となったと言う。

 田野辺城は、桜川西岸の段丘上に築かれた城である。慈眼寺の東側から北側一帯にかけて城域が広がっていたと考えられる。城域は、慈眼寺の境内以外はほとんど畑に改変されているが、地勢が往時の面影を残しており、何となく土塁や切岸、堀の形跡が確認できる。主郭は、畑の一番高い位置にあり、周りを切岸で囲まれた方形に近い平場である。以前は土塁が綺麗に残っていたが、耕地化でほとんど削ってしまったそうである。主郭の西側の一段低い畑が二ノ郭と推定されており、西端に僅かに土塁が残っている。二ノ郭と寺との間は高さ3m程の切岸で区画されている。この他、主郭の北側にも平場が広がっており、三ノ郭と推測されているが、何段かの平場に分かれ、しかも西側と北側に堀状の地形が残っているが、現状からでは曲輪の形状はわかりにくい。

 田野辺城では、慈眼寺ご住職と近所のお婆さんからいろいろとお話を伺うことができ、小学生向けの資料などもいただくことができた。伺ったところでは、千本氏の弟が村上城に対峙するために城を築いたと伝えられ、以前は田野辺城址から千本城が見えたが、間の木が大きくなって見えなくなってしまったそうだ。千本城から狼煙が上がり、千本城が落城した時に同時に田野辺城も落城したと伝えられているそうだ。

 尚、最後の城主田野辺重之の供養塔は宇都宮市内の浄鏡寺にあり、後日お参りした際に浄鏡寺ご住職の奥様からお話を伺うことができたので、ここに合わせて記載する。近代の田野辺家は、浄鏡寺の裏近くで医者をやっていたそうで、現在は鎌倉に移って医者をやっているらしい。しかし近年ではもうお墓参りに全く来なくなってしまい、音信不通のままで、3.11震災の時もお寺の方で倒れた墓を修復したとのことである。旧家に相応しい立派な供養塔であり、こうした文化財が忘れられていってしまうのは、非常に残念に思う。
田野辺重之供養塔→IMG_20170609_111049.jpg

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.572354/140.128255/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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村上城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1186.JPG←土塁で囲まれた主郭
 村上城は、益子氏の一族村上氏の居城である。古文書によれば、1187年に平宗清の守る村上城が落ちたとあることから、 築城時期は平安時代末頃と思われる。その後、1378年に益子正宗の次男村上新助良藤によって、現在の遺構のような城が築かれ、以後、丹波守則光・丹波守光義と3代約50年にわたり居城したと伝えられている。しかし現在残る遺構や、『水谷蟠龍記』にある1583年の高塩合戦(益子氏と山本城主高塩氏の戦い)において、村上丹波・子息弥六左衛門の名が見えることから、戦国後期まで城は存続していたと推測される。位置的には益子氏の支配領域の北端にあり、千本城主千本氏に対する備えを固めていたと考えられる。

 村上城は、標高172.1mの観音山に築かれている。西麓を流れる桜川を天然の外堀としていたと考えられる。県指定史跡であり、主郭部は公園化されて梅林となっているが、外周の曲輪は草茫々である。しかし主要部の遺構はよく確認できる。主郭を中心に、大きく三重の堀で囲んだ環郭式の城である。主郭は傾斜面に築かれた曲輪で、3段程の平場に分かれている。外周は土塁で囲まれ、北端部は三角点のある櫓台が築かれ、土塁の外側には空堀が全周している。この一ノ堀は、外側の二ノ郭側にも土塁を築いている。この外周土塁には茨が繁茂しており、非常に歩きにくい。主郭南西部は横矢の屈曲が見られ、これによって主郭南端は出枡形形状の虎口となっている。二ノ郭は、主郭の北から東面にかけて広がっており、空堀で囲まれているが、二ノ堀は雑草でわかりにくい。この二ノ堀は、西端部で直角に曲がって竪堀となって三ノ堀に落ちている。二ノ堀の外側は三ノ郭であるが、曲輪内の傾斜が大きく、外堀(三ノ堀)沿いのみ帯曲輪状の平場がある。三ノ堀は、綺麗に整備されており、全周を散策できる。三ノ堀の規模はさほど大きいものではないが、北西部に横矢張出しの櫓台が築かれて防御を固めている。
 村上城は、遺構が完存しており、非常に素晴らしい。春の主郭は、まだ梅の花が咲き残っており、美しかった。
三ノ堀→IMG_1274.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.557429/140.119028/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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政府とマスコミの醜態 [日記]

今朝、Jアラートが鳴り、北朝鮮が弾道ミサイルをぶっ放した。
国内で警報を出すのはよいのだが、その後の対応が全くよろしくない。

マスゴミは、例によって政府の肝いりで、ずーっとミサイルの話ばかり緊急ニュースでやっていた。
(テレ東だけはアニメを普通にやって、賞賛されているが。)
おまけに国民が、ミサイルに不安でおののいているかのような呆れた報道ばかり。
政府も長い時間かけて記者会見やっていたが、こんなのコメントだけ出してスルーすればいいのに。

大体、ミサイルが飛んできたとして、一般人に何ができる?
ビルの中にいたって、ミサイルが直撃したら9.11のWTCの様にビル自体が崩壊するから、
確実に助かるわけではない。

かと言って、政府が地下シェルターを真面目に準備するわけでもない。
(アベ自民は、集団的自衛権の発動と憲法改悪への布石のため、
 大変だ!大変だ!と国民の不安を煽っているだけ。
 支持率回復させるために、ちゃんとやってますポーズを取っているだけだ。
 真面目にミサイル被害のことを考えたら、ミサイルからとても守りきれない日本の原発なんて、
 着弾した時の被害が空恐ろしくて再稼働できるわけがない。)

そんなカラ騒ぎが、どれほど北朝鮮の連中を喜ばせているか、奴らを利しているか、
理解していないのか?
政府も、マスコミも、このような時は毅然として平静を失わない態度を取ることが肝要なのに。
北朝鮮の妄動に迷わされること無く、何事もなかったかのように普通でいることが何故できない?

第2次世界大戦の際に、ドイツの空襲を受けても逞しかったイギリス国民を見習うべきだ。
ただの脅しに軽挙妄動し、狼狽しているさまを全世界に発信するなんて、
国の恥を世界に晒すだけだ。
実害が国に及んだ時、初めて決然とした断固たる態度を取ればいい。(自衛権の発動!)
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赤埴城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1082.JPG←主郭の土塁と土橋
 赤埴城は、益子氏の一族、赤埴氏の城と言われている。城の歴史は明確ではないが、1570年に赤埴右京之進宗勝が築城し、周防守宗重がその後を継いで居城としたとの説がある。

 赤埴城は、小河川に挟まれた低台地に築かれた平城である。耕地化などでかなり湮滅が進んでいるものの、残存している部分だけ見ても、市貝町付近の平地に築かれた平城としては屈指の規模を有している。主郭の主要部は消滅したが、前面(南側)の土塁・空堀が良好に残っている。土塁は3mほどの高さで鋭い切岸でそびえており、中央に土橋を架けた虎口が築かれている。主郭の南側はおそらくニノ郭の一部と思われるが、南東部の土塁と空堀が残存し、東側には虎口と土橋が残っている。この他、西にやや離れて南北に長い土塁の一部が確認できるが、改変されている様だ。残っているのはこれだけなので、現状からでは往時の縄張りを推測するのは難しいが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、外郭まで含めて非常によく遺構が残っていた事がわかる。主郭は北西部に出隅を持っていたようで、主郭全周を囲むように二ノ郭があったらしい。二ノ郭は現在残っている堀形状から考えても、空堀で何ブロックかに区画されていた可能性がある。二ノ郭の北辺部には横矢掛かりの折れを持った土塁と空堀が、はっきり航空写真に写っている。これらの特徴を考えると、戦国期まで使用された城だと考えられる。この他、西側に外郭があった様に見受けられるが、北辺部しか輪郭らしいものを確認できない。このような感じで、現在残る土塁や空堀の規模から考えると、往時はさぞかし壮観だったろうと惜しまれる。湮滅は正に勿体無いの一言に尽きる。
 またこれほどの遺構であるのに、解説板はおろか城址標柱さえ無いのもどうかと思う。どうも栃木県内の市・町は、他県と比べて史跡整備に消極的で、どうにかならないものかと一県民として疑問に思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.514810/140.066435/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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多田羅館(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1073.JPG←遠目に見た土塁と水堀
 多田羅館は、鎌倉時代に築かれたと伝えられる歴史不詳の城館である。小貝川東側の低台地上に位置し、現在は宅地化で遺構の湮滅が進んでいる。館跡は民家となっており、周囲の道路を一巡りしてみたが、宅地には近づけず、あまり遺構が見られなかった。唯一土塁と水堀跡が見られる南西部は、南側が広大な畑地となっており、近づく術がなく、遠目に見ただけとなった。かなり残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.515465/140.087056/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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草の館(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1056.JPG←山頂の現況
 草の館は、那須氏の一族千本十郎為隆が築いたと伝承されている。為隆は源平争乱での軍功によりこの地を与えられ、1190年に最初に築いた居館が草の館であったとされる。その後、九石城を築いて移ったとされている。
草の館は、『栃木県の中世城館跡』によれば、場所は所草地区の観音堂裏と称される山に築かれたらしいが、場所が特定できず、外にいる地元の方に行き会うこともなかったので、とりあえず221.8mの三角点のある山に登ってみた。この山は南斜面に青龍神社があり、神社社殿の隣に観音堂が付随しているので、確実ではないがここが観音堂裏と言う山ではないかと思われる。山の上は平坦な自然地形の平場が広がっており、木が伐採されてきれいになっていた。特に土塁などの城郭関連遺構は確認できなかった。場所の特定も含めて、今後の考究に待ちたい。

 お城評価(満点=五つ星):-(場所が確実ではないので評価なし)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.580126/140.166256/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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九石陣屋(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1012.JPG←東側の土塁
 九石陣屋は、江戸時代に九石郷を領した旗本梶川氏の陣屋である。九石郷は、江戸時代初期には茂木細川氏の所領となったが、1698年に幕府旗本の梶川与惣兵衛頼照の領地となった。以後、幕末まで梶川家の所領で、梶川氏は当地の名主、九石家の屋敷を陣屋としていたと言う。尚、梶川頼照は、忠臣蔵の発端となった江戸城「松の廊下」での刃傷沙汰の際、たまたま吉良上野介義央と立ち話をしていて事件に出くわし、即座に浅野内匠頭長矩を取り押さえており、その際の顛末を後世に記録として残した人物である。

 九石陣屋は、現在も旧家九石家の屋敷地となっている。そのため勝手に入ることはできないので、遠目に確認しただけであるが、北の谷戸に向かって張り出した舌状台地の上にあり、東辺部に土塁が確認できる。台地上は西に向かって何段かの平場に分かれており、往時の姿を留めていると思われる。尚、南の車道脇には県の天然記念物でとちぎ名木百選に選ばれた「九石のけやき」があり、梶川氏が領地巡見の際は必ずこの樹の下で休み、まれに見る大木であると賞賛してからは、以後、この地を大木の下と称せよと命じたとのことである。

※他のHPでは「九石館」と呼称されていますが、陣屋として機能したことに鑑み、「九石陣屋」と呼称することにしました。しかし通常は名主の屋敷であったため、「九石家屋敷」とする方が良いのかもしれませんが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.565547/140.170398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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九石城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0904.JPG←大型の枡形虎口
 九石(さざらし)城は、1193年に那須与一宗隆の兄千本十郎為隆が築城したと伝えられている。為隆は、1190年に最初の居館を所草の山口の里(草の館)に構えたと言う。3年後の1193年、九石城を築いて新たな居城としたらしいが、4年後に千本城を築いて居城を移し、その後は戦国期まで千本城の支城となった。廃城時期は不明である。

 九石城は、千本城南東2kmの山あいの丘陵先端に築かれている。大きく4つの曲輪から構成されている。東側の台地基部から畑の中を西に進むと、目の前にいかにも城、という感じの切岸が現れる。その奥は主郭の腰曲輪で、右手の切岸の奥に枡形虎口が現れる。虎口を入ったところが二ノ郭で、南北に長い曲輪で南は前述の城道を監視し、北側は竪堀状の虎口があって腰曲輪に繋がっている。腰曲輪を東に進むと堀切があり、その北側に自然地形の北出曲輪がある。一方、前述の枡形虎口を二ノ郭に入ってからすぐに左(西)に進むと、そこが主郭である。主郭は広くきれいに削平された曲輪で、虎口脇に枡形跡と思われる土塁が残り、曲輪北辺には土塁が築かれている。この土塁は西端でL字状に折れている。主郭の外には一段低く腰曲輪が取り巻いており、西側の腰曲輪では土塁が築かれて横堀状となっている。西側腰曲輪の北端は竪堀状の虎口となっている。また南端にも内枡形があって、南出曲輪に繋がっている。南出曲輪は上下2段と東側方の腰曲輪で構成されている。

 以上が九石城の遺構であるが、もう一つ北出城とも言うべき城郭遺構が存在する。北出城は、九石城本城の北東300m弱に位置にある。畑になっている頂部の広い主郭と、藪に覆われた東斜面の数段の腰曲輪群で構成されている。主郭北辺には土塁が築かれ、その北側には横堀が穿たれている。遺構としてはこの程度の、簡素な構造の出城である。

 九石城(本城)は、大型の枡形虎口を備えた近世城郭的な構造であり、豊臣秀吉の宇都宮仕置で主家那須氏が改易になった後も、大身旗本として存続した千本氏によって改修され存続していた可能性もある。
横堀状の西側腰曲輪→IMG_0973.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【本城】
     http://maps.gsi.go.jp/#16/36.564530/140.165505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
     【北出城】
     http://maps.gsi.go.jp/#16/36.566323/140.167909/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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坂井御城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0864.JPG←主郭東側の腰曲輪
 坂井御城は、歴史不詳の城である。境川東岸の比高30m程の丘陵突出部に築かれている。単郭の小規模な城館で、縦長の主郭の周囲にグルリと腰曲輪を巡らし、南には段差で区切られた数段の曲輪、更に西麓の民家のある平場までの数段の腰曲輪で構築されている。主郭周囲の腰曲輪は、西側では土塁を築いて横堀状になっており、また北東角部にも土塁が築かれている。位置的には茂木城から2.2kmとほど近く、茂木城と那須氏の千本城とを結ぶ街道沿いにあるので、那須氏の侵攻に備えた茂木氏の出城と考えるのが妥当であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.544605/140.162973/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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石下城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0808.JPG←西側上段の横堀
 石下城は、関東の南北朝史に名を刻む城である。一説には、康平年間(1058~64年)に石下七郎右衛門によって築かれたと言われている。この城が明確に姿を現すのは、南北朝の抗争の中である。吉野に逃れて南朝を樹立した後醍醐天皇であったが、北畠顕家、新田義貞ら南朝の柱石たる諸将が相次いで討死し、南朝勢力の再建が急務となった。ここで南朝は、1338年9月、重臣の北畠親房(顕家の父)を常陸に下し、常陸南朝方の結集を図った。神宮寺城から阿波崎城を経由して小田治久の小田城に移った親房は、ここで神皇正統記を著して立場曖昧な武士たちの説得を図ると共に、一族の春日顕国に下野まで侵攻させた。顕国は1339年、北朝方の八木岡城・益子城を攻め落とし、西明寺城を下野攻略の拠点に据えた。そして顕国は勢いに乗って、1340年8月、芳賀氏の飛山城の管理下にあった石下城を攻撃して落城させ、守備の兵は全員討死し、石下城はそのまま廃城になったと言う。翌41年8月には飛山城まで陥落させるなど、一時南朝方は猛威を奮った。しかし室町幕府が派遣した高師冬(将軍執事、高師直の従兄弟)が反撃に転じると南朝方も徐々に逼塞を余儀なくされ、1343年、常陸最後の拠点大宝両城を陥とされた親房は吉野に戻り、顕国は捕らえられて殺された。その後の歴史は不明だが、戦国期に市塙十郎政利の4男貞良が石下越後守と称して石下峠三百丁を領したとの記述が『益子系図』にあり、市塙氏が石下城を使用した可能性が指摘されている。

 石下城は、国道123号線の石下口付近に突き出た標高170m、比高70mの山上に築かれている。基本的には単郭の城で、主郭は縦長の台形状を呈し、西側斜面に二重横堀を穿っている。上段の横堀は北面では腰曲輪になり、北東角には腰曲輪に繋がる虎口郭を備えている。またこの横堀の南西端は竪堀状の城道となって落ちている。竪堀の上には雨溜まりの様な窪みも見られる。一方、主郭の南東角には段曲輪群が築かれ、東斜面にも細い帯曲輪が一段築かれている。この他、北東にやや離れた丘陵地は、自然地形の広い平場で、外周に帯曲輪らしい段が散見されることから、外郭として使われていた可能性がある。城の形態としては、南北朝期の素朴な形態を残していると思われる一方、主郭は思ったより広く、ある程度の兵数が籠もれるレベルの広さがあり、南朝方の攻撃に備えて街道筋を守備していたものと推測される。南北朝時代の歴史を伝える遺構として貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.520001/140.127718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小宅城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0653.JPG←ダイナミックな横矢掛かりの空堀
 小宅城は、『日本城郭大系』によれば、芳賀氏の家臣小宅兵部左衛門高宗によって天文年間(1532~55年)に築城されたとされている。しかし小宅氏の系図には諸説あり、益子氏3代頼宗の子高勝が小宅郷を領して小宅を名乗ったとも、或いは芳賀氏11代高俊の3男高真が小宅郷を領して1294年に小宅城を築いたともされ、明確にできない(時代の異なる2系の小宅氏が存在していた可能性もある)。また廃城は、1597年の宇都宮氏改易の時で、時の城主は小宅高良と言われるので、いずれの説にしても小宅城が宇都宮氏勢力下の城であったことは間違いないだろう。

 小宅城は、国道123号線の北側の、比高15m程の丘陵南斜面に築かれている。遺構は山林内に完存している。ほぼ単郭の小規模な城であるが、大きな横矢掛かりの櫓台と空堀を持った城である。私は西側斜面からアプローチしたが、腰曲輪状の平場が散見される斜面を登っていくと、ダイナミックに横矢が掛かった空堀が眼前に現れる。主郭の切岸は堀の向こうにそびえ立っている。空堀は、南面以外を大きくコの字に囲んでおり、北面では櫓台が張出している。空堀の南西端にも小さな横矢のクランクがあり、外側には物見台と思われる小丘がある。この小丘を古墳と解する意見もあるが、それにしてはサイズが小さすぎるので、塚だったものを物見台に転用したと推測される。この南西端の堀の屈曲部から、城内に通じる虎口が築かれている。主郭は斜面上に築かれているため、内部は大きな段差で上下2段に分かれている。高低差が大きすぎるので、1つの曲輪が2段になっていると言うよりも、上下2段の別の曲輪(主郭と副郭)と見るべきだろう。主郭内北端の張出し櫓台は文字通りそびえ立っており、その脇には謎のL字型の空堀と物見台が付随している。これは他に類例のない遺構で、どのような意図で城内への防御を固めていたのか判断しかねる。この他、東側に外郭と思われる空堀で囲まれた空間があるが、後世の改変の可能性があり、遺構かどうかは微妙である。小さいが素晴らしい遺構なので、永く後世に残してもらいたいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.510705/140.119050/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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館宮坂城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0492.JPG←Ⅲ郭外周の横堀
 館宮坂城は、館坂城とも言い、伝承では大沢和泉守が築城したと言う。伝承の真偽やその他の歴史は不明であるが、いずれにしても益子氏の重臣の城であったものだろう。尚、城の南西に鎮座している北中八幡宮の社伝では、「平安末期の治承年間(1177~80年)に益子城主益子因幡守之宗の子孫石岡三郎右衛門尉が平家征討から帰還した後、石清水八幡宮の御分霊を勧進して建立した」とされており、北中八幡宮が位置的に館宮坂城の裏鬼門に当たることから、この益子氏庶流の石岡氏の居城であったとも考えられる。

 館宮坂城は、国道123号線と芳賀広域農道が交差する北中交差点の北東にある、標高122m、比高30~40m程の丘陵地に築かれている。なだらかな丘陵地全体を城域に取り込んだ広大な城であるが、藪が多いせいもあって何となく掴み所がない。よく参考にさせていただいているアオさんのHP『北緯36度線付近の中世城郭』の呼称に従うと、丘陵南西端から北東に向かって順に、Ⅲ郭・Ⅰ郭・Ⅱ郭を連ね、東に張り出したⅣ郭、更にⅠ郭の南東斜面に広がったⅤ郭で構成されている。Ⅲ郭・Ⅰ郭・Ⅱ郭の西側外周は横堀で防御しているが、この外周横堀は浅く、ほとんど腰曲輪に近い感じである。Ⅲ郭・Ⅰ郭・Ⅱ郭はそれぞれ外周横堀に接続した堀切で区画されているが、これもかなり浅く、おかげで架かっている土橋が辛うじて分かる程度になってしまっている。またⅠ郭~Ⅲ郭の外周の切岸もわずか1m程しかない。一方で、東出曲輪と言うべきⅣ郭だけは、北・東。南の三面外周に土塁と横堀がしっかりと構築されており、他の曲輪より堀幅も広く、切岸の高さもあるが、それでも高さ2m程である。その他、Ⅴ郭はダラっと広がった緩斜面の腰曲輪で、外縁部に何段かに分かれた腰曲輪群を伴っている。現在畑になっている南斜面にも段が付いているので、ここも城域であったかもしれない。いずれにしても、ダラダラとした緩斜面に築かれた取りとめのない城と言う印象で、城域は広いが普請の規模がささやかでパッとしない。そのため、どこまでが城域であったのかも、明確ではない。
 尚、館宮坂城が築かれた丘陵は、そのまま北東にやや離れた円通寺裏まで伸びている。円通寺裏の丘陵上には前方後円墳があり、周りに周濠だけでない地形も見られることから、もしかしたら古墳を物見の外郭として利用していたかもしれない。
Ⅱ郭北側の堀切と土橋→IMG_0559.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.480949/140.099802/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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七井城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0448.JPG←北遺構の土塁
 七井城は、益子氏の支城である。益子氏の家臣七井勝忠が1576年に築城し、1586年に主家宇都宮氏と戦い、敗れて廃城になったと言う。

 七井城は、小貝川の支流大羽川と小宅川に挟まれた、比高10m程の低台地上に築かれている。城域は市街化が進み、多くの改変を受けているので、往時の縄張りを推測することは極めて難しい。しかし宅地の合間を縫うように北・南・西の3ヶ所、土塁と空堀が残存している。北遺構は駐車場裏に立派な土塁が20m以上、姿を表している。南遺構は、かなり浅くなっているがクランクした空堀と土塁が綺麗に整備されて残っている。西遺構は一直線状の空堀・土塁で、空堀は深さ3m・幅7m程の規模がある。台地上のやや西寄りに広い空き地があるが、ここは周囲の道路面よりやや高い位置にあるが、主郭の跡であろうか?いずれにしても、既に縄張り不明の城である。南遺構はせっかく綺麗に整備されているので、ここに城址碑や解説板があればいいのにと感じた。
南遺構の空堀・土塁→IMG_0471.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.493509/140.098472/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小貫城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0389.JPG←主郭背後の土塁と堀切
 小貫城は、芳賀入道禅可の次男駿河守高家が築城したと言われている。築城年は不明とされているが、芳賀禅可は南北朝期に宇都宮氏の重臣として勇名を馳せ、将軍足利尊氏が弟直義を破った薩埵山合戦や、鎌倉公方足利基氏に抗戦した苦林野合戦で力戦している武将であるので、小貫城築城は南北朝期であろうと推測される。時代は下って1507年、小貫信高が城主の時、笠間城主笠間右京綱親に攻められ、一旦は宇都宮・芳賀両氏の救援を得て撃退したものの、後に綱親に再度攻撃を受け、信高は討死し小貫城は廃城になったと言う。

 小貫城は、逆川西岸に山稜裾野が張り出した台地上に築かれている。城域の東麓部と南側は民家や畑に変貌しているが、城の主要部は山林となっており、遺構が良く残っている。綺麗に作成され、しっかりした切岸で区画された曲輪群で構成されている。上段の主郭は、背後をクランク状の屈曲を持った土塁と中規模の堀切で防御し、前面も横矢掛かりを持った切岸で区画している。居住性のある広い曲輪であるので、城主の主殿があったと考えられる。主郭の南東部には竪堀状の窪地空間があるが、後世の改変でなく往時の遺構であるとすれば、大手の虎口跡であろうか。主郭の前面には二ノ郭があり、綺麗に整備された空地になっているが、二ノ郭の前面にも数段の腰曲輪が築かれている。一方、主郭後部には横長の三ノ郭があり、ここも背後に土塁と堀切を築いて防御しているが、横矢掛かりのない一直線状の土塁と堀切で、規模も主郭のものよりかなり小さい。この他、主郭背後の堀切の北端部には、北の沢筋(殿入沢と言うらしい)方面からの城道が通じていたらしく(往時は沢に木橋が架かっていたのだろう。現在も小橋が掛かっている)、堀切の下に内枡形の虎口が築かれている。基本的には居住性を持った居館を要害化した城で、よくその形態を残している。尚、北の民家脇から城に登るので、民家の方に立入りのお断りをする必要がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.429104/140.185032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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飯村根古屋城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0304.JPG←主郭背後の二重堀切の内堀
 飯村根古屋城は、益子氏の家臣飯村氏の初期の居城である。1392年に飯村備前守則宗が当主の時、新たに飯村城を築いて居城を移したと伝えられている。しかし現在見られる遺構は戦国期のものと考えられ、飯村城へ移城後も有事の際の詰城として存続していたのではないかと思われる。

 飯村根古屋城は、飯村城から真東に750m程の位置にある比高35m程の丘陵先端部に築かれている。民家の真裏の山で、入山にはこの民家の方の了解をもらう必要がある。私が訪城した時は最初留守だったが、たまたま小母さんが帰宅したので、了解をもらって登城した。登り道を登っていくと、数段の腰曲輪群を経由して主郭手前まで達する。途中、城道は土塁で側方を画し、上方には塁線と櫓台があってそこから監視されている。この櫓台は、主郭周囲に廻らされた横堀外周の土塁上にある。主郭は急峻な切岸で囲まれ、南側に横堀を穿って防御している。主郭の虎口は、ちょうど前述の櫓台から横堀を挟んだ向かいにあり、位置関係から考えて主郭虎口と櫓台は木橋で連結していた可能性がある。また主郭横堀はこの櫓台を巻くように屈曲して横矢掛かりを設けている。主郭は後部1/3を土塁で囲んでおり、特に背面は高土塁で、その背後には稜線を分断する二重堀切が穿たれている。二重堀切の北側は急な斜面だが、南側は腰曲輪が築かれており、武者溜まり的な機能を有していたように思われる。この他、主郭の西側から南側にかけて数段の腰曲輪群を築いている。藪もあまりひどくなく、遺構もよく残っているので、規模は比較的小さいが見応えのある城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.474203/140.179260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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飯村城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0236.JPG←唯一明確な遺構、空堀と土塁
 飯村城は、益子氏の家臣飯村氏の居城である。1392年、飯村備前守則宗が築城して根古屋城から居城を移したと言われ、戦国末期に益子氏が主家宇都宮氏に反旗を翻して攻め滅ぼされた際、飯村城は廃城になったと伝えられる。

 飯村城は、逆川曲流部に張り出した比高15m程の台地上に築かれている。この台地上は宅地化などで大きく改変されており、城郭遺構はごくごく断片的にしか残っておらず、往時の縄張りを把握することも困難である。古い航空写真と照合すると、特別養護老人ホームが現在建っている部分が城内で一番高い位置に当たり、主郭であったと思われる。以前はここには学校があった様で、おそらく主郭の形状に合わせて校地を割り振っていたらしい。この主郭の東側には一段低く大楽寺や畑・ゲートボール場のある平場があり、腰曲輪であったと推測される。そのさらに東に一段低く民家があるが、ここがニノ郭であった様である。前述のゲートボール場から民家裏に回ると、唯一の明確な遺構である空堀と土塁が確認できる。またここには4基の五輪塔が建っている。この他、主郭の西側斜面にも段々の平場が見られ、おそらく往時の腰曲輪群であったと推測される。かなり遺構が湮滅してしまっているのが残念である。
西斜面の腰曲輪らしい段→IMG_0217.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.474220/140.170612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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木幡城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0156.JPG←二ノ郭外周の空堀
 木幡城は、築城年代不明であるが、益子氏の家臣と推測される飯村内記の築城と伝えられている。戦国期には益子氏の支城であったとされ、北東1.6kmの位置には茂木氏の高岡城があり、境目の城として互いに対峙していたと推測されている。

 木幡城は、木幡集落の背後にある比高20m程の丘陵先端に築かれている。長円形に近い主郭の周囲に二ノ郭を環郭式に廻らしており、二ノ郭外周に空堀を巡らして台地基部と分断し、更に前面と右翼に腰曲輪を巡らした構造となっている。主郭と二ノ郭はいずれも藪が酷くてほとんど内部の確認ができない。そのため、主郭の北側は二ノ郭との間に空堀が穿たれているようだが、全く確認できなかった。二ノ郭外周の空堀は規模が大きい。空堀外周の土塁には、物見台と思われる小ピークが確認できる。二ノ郭の前面・右翼の腰曲輪群は、竹藪が伐採されてその姿を現しているが、重機で破壊的な伐採をしたようで、遺構の一部が破壊されてしまっている。かなり荒い整備の仕方で、城跡整備という感じではなく、今後の破壊が心配である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.499460/140.155098/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高岡城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0077.JPG←3郭のL字型の空堀
 高岡城は、茂木氏の支城である。詳細は不明であるが、一説には茂木氏の隠居城であったと言われているらしい。南西1.6kmの位置には益子氏の木幡城があり、境目の城として互いに対峙していたと推測されている。尚、『日本城郭大系』『栃木県の中世城館跡』では北高岡城と呼称されている。

 高岡城は、比高40m程の丘陵上に築かれている。なだらかな丘陵地で、丘陵北西部は耕地化されているので、どこまでが城域であったのかは明確ではない。しかし畑が段々になっている部分もあり、外郭の曲輪群であった可能性はあるだろう。丘陵中央部に主郭があったと考えられ、西側には土塁を伴った腰曲輪が確認できるが、主郭内部は藪が酷く突入不能なので、主郭東辺部の遺構は未踏査である。主郭の周囲には派生する丘陵部に曲輪が置かれており、城歩きの大家余湖さんの表記に従うと、3郭(南西郭)の外周にしっかりとしたL字型の空堀と土塁、また4郭(南郭)には土橋の架かった堀切・土塁が確認できる。明確な遺構はこのぐらいである。この他、北西の日枝田ノ神神社は出城であったとも考えられ、南側に段状の堀切地形が確認できる。肝心の主郭部が踏査できないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.510843/140.166750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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城峰城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_09986.JPG←主郭北側の帯曲輪群
 城峰城は、歴史不詳の城である。伝承によれば、時期不明であるが兵部卿和久某が築城したと言われ、南北朝期の1359年に結城氏と戦って敗れ廃城となったと言う。この伝承が確かだとすれば、南朝方(宮方)の城で、北朝方の下総結城氏に攻め落とされたということなのだろう。1359年といえば、将軍足利尊氏が没した翌年に当たり、2代将軍義詮が、尊氏の宥和政策から一転して南朝方に軍事攻撃を掛け始めた時であるので、そうした中央の情勢変化と連動していた戦いであった可能性もある。

 城峰城は、標高160m、比高60m程の山稜上に築かれている。南東麓の県道51号線脇は藪が伐採されて整備されているので、そこから直登するのが手っ取り早い。ここから登ると、南東の張り出した尾根の小ピークの先に僅かな浅い堀切があり、更に進むと南のピークに至る。明確な普請はされていないが、二ノ郭的な空間であったと思われる。ここから北に尾根を登っているクと、小規模な二重堀切があり、ここから主城域に入る。山頂に綺麗に削平された主郭を置き、周囲に数段の帯曲輪を廻らしただけの簡素な構造である。主郭北側には一段低い段があり、虎口郭であったと推測され、そのまま帯曲輪に接続している。帯曲輪群は北西方向に重点配置されていることから、北西の茂木城方面からの侵攻を想定して築かれたと推測される。小規模な砦だが、遺構は比較的明瞭で探索もしやすい。形態としては、伝承の通り南北朝時代の素朴な姿をそのまま留めていると思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.518190/140.210996/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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小館楯(茨城県大荒町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9762.JPG←主郭北西の櫓台の張出し
 小館楯は、歴史不詳の城である。位置的には大掾氏と江戸氏の勢力圏の接壌地帯に当たり、両者のいずれかによって構築されたと推測されている。南には隣接して大館楯があり、小館楯より規模が大きい城であることから、大館楯を本城とし、その出城として小館楯が築かれていたのではないかと考えられる。

 小館楯は、涸沼東岸の比高17mの丘陵上に築かれている。大館楯とは谷戸を挟んだ独立小丘である。単郭の城で。全周を土塁で囲んだ小さな主郭の周囲に、横堀(一部は腰曲輪)を廻らしただけの簡素な構造となっている。しかし外周横堀に対する横矢掛かりや、南麓からの登城道が繋がる竪堀状虎口に対する前面の櫓台など、防御構造は厳重である。特に北面では櫓台が両翼で張り出して相横矢を掛けている。腰曲輪の削平は綺麗にされている他、竪堀状の虎口は2ヶ所に築かれて、大手虎口には櫓台を備えるなど普請はかなりしっかりしている。また主郭土塁に切れ目があるが、下に城道がないので、堀底に対する射撃口であろうか?
 小館楯は、単郭の小規模な城砦であるが、発達した横矢掛かりを持っている。藪も少なくて遺構の確認がしやすく、小兵力で効率よく守備できるように考えられた縄張りであることがよく分かる。
主郭南東の櫓台と横堀→IMG_9808.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.271110/140.530694/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城北部では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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大館楯(茨城県大洗町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9731.JPG←主郭南側の横堀
 大館楯は、歴史不詳の城である。位置的には大掾氏と江戸氏の勢力圏の接壌地帯に当たり、両者のいずれかによって構築されたと推測されている。北には隣接して小館楯が築かれている。

 大館楯は、涸沼東岸の比高17mの台地上に築かれている。台地上に4つの曲輪を「田」の形に配置していたと推測され、曲輪内部は畑と藪になっている。北西の曲輪が主郭とされ、防備が最も厳重である。北辺・西辺・南辺の三方を土塁で防御し、北斜面には横矢掛かりを持った横堀、南から西にかけてもクランクした横堀を廻らしている。北東の曲輪が二ノ郭で、北面のみに土塁を築き、北斜面には主郭北側から繋がる横堀で防御し、隅櫓台が張り出して横矢を掛けている。南の三ノ郭・四ノ郭も、南辺等に土塁を築き、南斜面に横堀を穿って防御している。三ノ郭の南東には隅櫓台が張り出し、ここでも横堀に対して横矢を掛けている。また三ノ郭・四ノ郭の接続部南に、台地下からの登り道がついているが、これは往時の大手虎口だったと考えられ、側方に腰曲輪を伴い、南斜面に竪堀を落として防御している。各曲輪の辺縁部の土塁は、いずれも内側が絶壁型になっていて、おそらく畑にした際に削られたのだろう。遺構は比較的よく残っているが、斜面の遺構や主郭の空堀はガサ藪に覆われていて確認が大変である。大館楯は、小館楯と比べるとまとまった広さを有しており、それなりの兵力を駐屯させることができたと考えられる。
南斜面の竪堀→IMG_9650.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.269795/140.530200/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城北部では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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Canon Ni-CdパックMAの内蔵バッテリー交換 [日記]

かつてのフィルム式の、いわゆる銀塩カメラが、その主役の座をデジカメやスマホに譲ってから既に久しいが、私は40年近く前の名機『Canon A-1』を実働状態で今でも保有している。今となっては貴重なこの銀塩カメラを、中世城郭のヤブ探索に引っ張り出すなどは論外としても、それ以外の場面でもこのカメラを持ち出すことはまず無く、ほとんどお蔵入りの状態となっている。しかし、唯一このカメラを使わないといけない場面があって、それがF1のようなレース観戦で連写機能が必要な時である(私はデジタル一眼は持ってないので)。今年は、アロンソとライコネンというスーパースターが、F1最後のシーズンになるかもしれないこともあって、相方と相談して鈴鹿の日本GPに行くことにしている。そこではモータードライブ付きのA-1に大活躍してもらう必要があるのだが、問題になるのはモータードライブの電源「Ni-Cdパック」の充電池の寿命切れである。

Ni-Cdパックというのは、当時の一眼レフA-1やAE-1 Program用に販売された「モータードライブMA」の電源パックの一種で、モータードライブMAの電源パックにはアルカリ単3乾電池12本(!)を使用する重量級の「バッテリーパックMA」(最高連写速度 秒間5コマ)と、はるかに軽量コンパクトで充電式の「Ni-CdパックMA」(最高連写速度 秒間4コマ)の2種類があった。販売されていた当時、Ni-Cdパックの方が値段は少々高かったのだが、貧乏学生だった私はアルカリ乾電池12本などそう簡単に買える身分ではなかったのと、さすがに乾電池12本使い捨ては忍びなく、充電再利用可能なNi-CdパックMAを購入して持っていた。
IMG_7810.JPG

しかし2012年のF1鈴鹿(小林可夢偉が3位表彰台をゲットしたレース!)を観戦した際、Ni-CdパックMAの老体に鞭打って連写した結果、内蔵のNi-Cd電池が完全に死んでしまったのである。何しろ買ってから30年にもなる古い充電池だから、酷使すれば死んじゃうのが当たり前だった。それ以後、モータードライブを(というかA-1自体を)使うことはなかったが、今回再び出番が来るので、Ni-CdパックMAをどうやって蘇生させるかが問題となった。

ネットで調べたところ、やはり今の世の中、自分で分解・交換している人がいて、そのHPを参考にして内蔵Ni-Cd電池の交換にチャレンジした。用意したのは、タブ線付きの単5型Ni-MH電池12本。1本当たりの容量300mAhなので、12本で合計3600mAh。これでどれだけのフィルム枚数を送れるかがよくわからないのだが(取扱説明書などを調べたが、バッテリー容量の記載がなかった)、3~40年前のNi-Cd電池と比べれば、まず電池容量が下回っていることはないだろうと思う。以下、備忘録として交換手順を残しておく。

交換は、まずNi-CdパックMAの分解からスタート。
①まずドライブ端子の側の表面鉄板を、ビス3本を緩めて外す。
IMG_7811.JPG

②この時、プラ製の黒ピンが、端子板の上に乗っているだけなので、失くさないように注意する。
IMG_7813.JPG

③次に本体の上蓋の取り外しの準備。背面左側にリモートコントローラー用のカニ目端子を緩める。

④本体上蓋の4本のビスの内、右側2本を外す。(左の2本は、分解には関係なかったのが後で判明)

⑤上蓋に掛かっているゴムの貼り皮を、破れないよう注意しながらマイナスドライバーをゆっくり差し込んで剥がす。

⑥これで上蓋は外れる。左側に爪が付いていて本体にハマっているので、右側から持ち上げていけば簡単に外れる。
IMG_7814.JPG

⑦白いのが内蔵されていたNi-Cd電池の固まり。タブ線付きの単5充電池12本を組み合わせている。容量などの記載がどこにもないので、元の電池容量は確認できなかった。
IMG_7816.JPG
+側をマーキングして配線を根本でカット。
※参考にしたHPとは電池に繋がる配線の色が違っていた。私のは、+:赤、-:黒 だった。
IMG_7815.JPG

⑧次に外した電池と形状を合わせるように、新しいNi-MH電池を仮組みし、タブ線を相方の電池にハンダ付け。この作業が一番めんどくさかった。

⑨電池を組み上げたら、強電屋さん御用達の自己溶着テープで絶縁を兼ねて回りをテーピングし、電池組み上げ完了。私はこの自己溶着テープ、結構重宝して使っている。このテープだけで、絶縁・防水・多少のクッション性、の3つの機能が賄えるので・・・。

⑩組み上げた電池末端のタブ線に、本体の配線をハンダ付け。この時、予定外のトラブル発生。ハンダ付けが中々うまく行かず、悪戦苦闘していたら、本体の-側配線が基盤から切れてしまった!配線が基盤につながっていた位置を写真取っておけばよかったのだが、記録が残っておらず。どこにつながっていたかわからなくなってしまった。ここでガックリして一旦作業中断orz

⑪翌日、気を取り直して配線作業に再チャレンジ。ルーペで基盤をじっくり見て、切れ残った配線の感じから、配線がつながっていたはずの端子を探り当て、ハンダで固定。これも狭いところでハンダ付けをするため、他の配線を熱で傷つけないように注意が必要なので、結構大変な作業。

⑫ようやく電池の配線繋ぎ込み完了。電池の末端端子部分にも自己溶着テープを巻いて絶縁。
IMG_7826.JPG

ケース内部のクッションは劣化しているので、新しいのと交換し(以前にカーオーディオに付属してきた両面テープ付きクッションスポンジを有効利用)、電池をケースに収める。こうゆう時、厚みと多少のクッション性のある自己溶着テープは、電池のズレ防止にもなって有り難い。
IMG_7824.JPG

⑬組立て。①~⑥の逆順で進めれば良い。

⑭次に試運転。A-1、モードラと組み合わせて、きちんと稼働することを確認。無事に充電池交換成功!

⑮最後にNi-CdパックMAを充電して作業完了。
IMG_8493.JPG
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網掛館(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9617.JPG←土塁と空堀
 網掛館は、歴史不詳の城館である。山林内に遺構が眠っており、館の輪郭は追うことができるが、全体に土塁は低く、空堀も浅くわずかであり、特に北辺はわずかな段差(空堀のみで土塁は無し?)しかない。しかし居館の面積はかなり大きく、土塁・空堀の普請の程度と比べると不釣り合いである。どのような位置付けの館であったのか、判断に迷う城館遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.263670/140.491104/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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宮ヶ崎古館(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9603.JPG←東側の土塁
 宮ヶ崎古館は、鹿島氏庶流の宮ヶ崎氏の初期の居館である。宮ヶ崎氏の事績は宮ヶ崎城の項に記載する。
 宮ヶ崎古館は、南北に長い長方形の単郭方形居館で、郭内は畑に変貌しているが、外周の土塁と空堀が、全体の約2/3程残存している。郭内への進入は憚られるが、藪に突っ込めば、北側と東側の土塁・空堀が確認できる。しかし土塁も空堀もそれほど大きなものではなく、比較的ささやかな規模の遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.262131/140.477157/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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宮ヶ崎城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9536.JPG←主郭外周の土塁
 宮ヶ崎城は、大掾氏の庶流鹿島氏の流れを汲む宮ヶ崎氏の居城である。鎌倉前期の1220年代に鹿島三郎成幹の孫、三郎家幹がこの地に分封されて宮ヶ崎氏を称した。宮ヶ崎氏初代家幹の居城は、宮ヶ崎城の南方550mの位置にある「きゅうでん堀」と呼ばれる方形館(宮ヶ崎古館)であったとされ、鎌倉末期の頃に宮ヶ崎城が築かれて居城を移したらしい。南北朝期の1338年に南朝方の柱石北畠親房が南朝勢力再建のため常陸に入ると、宮ヶ崎又太郎幹顕は北朝方として、佐竹義篤の家臣小野崎正通・二方左衛門尉や大掾氏一族の鹿島幹寛・烟田時幹らと共に神宮寺城阿波崎城攻撃に参加している。こうして南北朝期~室町初期には勢力を拡大し、鹿島氏本宗家に並ぶ勢力を持つに至り、鹿島大使役として3度、鹿島神社七月大祭の祭司を務めた。その後、1416年の上杉禅秀の乱の際、宮ヶ崎氏は禅秀方に付いて烟田氏・江戸氏らに敗れて滅亡し、宮ヶ崎城は一旦廃城となった。時代は下って戦国中期の1550年頃、江戸氏の支配時代に宮ヶ崎城は再整備されて現在の姿になったと推測されている。

 宮ヶ崎城は、涸沼南岸に突き出した比高25mの段丘先端に築かれている。北端に五角形状の主郭を置き、その南から東にかけて二ノ郭・三ノ郭を梯郭式に配置した縄張りであった。現在は城内は耕地化によって改変され、しかも県道16号線が三ノ郭を貫通しているため、かなり破壊を受けている。それでも主郭は比較的遺構がよく残り、外周の土塁や空堀がかなり残存しており、特に主郭背後は大土塁となっている。また主郭周りの空堀の北西の外側に、外周を防御する土塁が残存している。しかしいずれも未整備の薮に覆われて、踏査が大変である。二ノ郭・三ノ郭は全面的に畑に変貌している。二ノ郭・三ノ郭の間には堀がなく、段差だけで区画されていた様である。三ノ郭は郭内が何段かの平場に分かれており、東の畑の中には「宮崎氏寺跡」という標柱が立っている。三ノ郭の南東部には、自然地形の大きな谷戸があり、外堀の役目を果たしていたようで、土橋状の地形が確認できる。宮ヶ崎城は、全体に地勢はよく残っており、往時の雰囲気は比較的わかりやすいが、遺構の改変が進んでおり、残った遺構も未整備の藪に埋もれているのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.267010/140.475612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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海老沢城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9471.JPG←そびえ立つ大土塁
 海老沢城は、海老沢氏の居館である。『日本城郭大系』によれば、海老沢幹家が居住していたと言う。海老沢市の事績については、天古崎城の項に記載する。

 海老沢城は、比高20m程の河岸段丘先端近くに築かれた方形居館で、谷戸を挟んだ北側には内手館が築かれている。方形居館という点では内手館と同じであるが、本城だけあって海老沢城の方が規模が大きい。柴田花木園の南西端の小道を、南西の山林の方に進んでいくと、右手の林の奥に大きな土塁が障壁のようにそびえているのに出くわす。居館としての面積は普通程度であるが、外周を取り巻く土塁は北西辺以外の3辺では高さ5m程もあり、非常に規模が大きい。土塁の外側は、北東辺以外は浅い空堀が穿たれている。また曲輪内部は、郭内の段差としては非常に大きな段差によって上下2段に分かれている。虎口は2ヶ所に築かれており、大土塁がそびえ立つ南東辺のものが大手虎口と推測される。海老沢城は、方形居館にしてはかなり大型の土塁がそびえた城館で、屈指の遺構である。ただ全体に藪が多く、見栄えが悪いのが残念である。
 尚、昭和20年代前半の航空写真を見ると城址北西に外郭があったらしく、堀らしい線が見られるが、帰ってから気付いたため未踏査である。
北西辺の土塁と空堀→IMG_9497.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.257892/140.447953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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内手館(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9460.JPG←土塁
 内手館は、海老沢城主海老沢氏の支城と言われている。海老沢城から谷戸を挟んだ北側の向かいの位置にあり、比高20m程の河岸段丘先端近くに築かれた単郭方形居館である。海老沢氏の知行地を支配する拠点の一つであったと推測されるが、海老沢城に極めて近い位置にあることから、防衛拠点というより政庁機能を補完する何らかの施設があったのではないかと思われる。現在残っているのは三辺の高さ2m程の土塁と外周の空堀で、西側の土塁は湮滅しており、既に昭和20年代前半の航空写真でも湮滅しているのが確認できる。また南側には腰曲輪を伴っていたらしい。郭内は耕地化されている一方、土塁は草茫々であるが冬場ならば踏査できないほどではない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.260158/140.446665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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天古崎城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9410.JPG←主郭の土塁と堀切
 天古崎城は、海老沢城主海老沢氏の支城と言われている。海老沢氏の事績はあまり明確ではないが、一説には小幡城を築いた小幡氏や鳥羽田氏と同族であったとも言われる。室町・戦国期には、江戸氏の家臣となっていたことが知られている。
 天古崎城は、涸沼川北岸の比高20m程の段丘先端に築かれている。主郭・二ノ郭を東西に並べただけの直線連郭式の小さな城で、主郭には現在稲荷神社が鎮座している。主郭・二ノ郭はいずれも西側を土塁で防御し、堀切で分断しているが、いずれも規模が小さく、特に二ノ郭の堀は埋もれて僅かなものになってしまっている。西側土塁の中央には虎口があるが、食い違い虎口になっていた様である。この他、主郭北側の斜面に帯曲輪・横堀が築かれ、主郭北東部の櫓台が、帯曲輪に対して張出し、横矢を掛けている。遺構としては以上で、地方の小土豪が築いた簡素な城砦の趣を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.269968/140.435529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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石崎城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9367.JPG←主郭背後の大土塁と堀切
 石崎城は、親沢館とも呼ばれ、大掾氏の庶流で石崎保の地頭、石崎禅師房聖道の居城であったと言われている。石崎氏に関わるHPを拝見したところ、平国香の6代後に石河家幹がおり、その長子が馬場資幹、7男が聖道で石崎氏を称したらしい。一方、『日本城郭大系』では城主として石崎幹経の名を挙げている。いずれにしても最初に築城されたのは古く鎌倉時代らしいが、現在残る遺構は戦国期のものと推測され、涸沼周辺の城砦群の一つとして、存続していたものと考えられる。

 石崎城は、涸沼に突き出た親沢鼻(鼻=端の意味)という岬背後の比高25mの丘陵先端に築かれている。単郭の小規模な城であるが、遺構は良く残っている。主郭は背後に大土塁を築き、背後を堀切で分断している。土塁中央部には外側に張り出した櫓台があり、堀底に対して横矢を掛けている。主郭は背後の大土塁以外も全周を低土塁で防御している。大手虎口は西端にあり、堀切脇から城道が明瞭に残っている。また搦手虎口が北東端にあり、その外側には腰曲輪が築かれている。主郭の中には大きな土壇があるが、櫓台の遺構なのか、耕地化による改変なのかよくわからない。簡素な城砦であるが、水運を監視する物見として絶好の位置にあったことが窺われる。涸沼の対岸には宮ヶ崎城が見え、江戸氏と大掾氏の接壌地帯として対峙していたものかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.279379/140.478101/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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阿波崎城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9299.JPG←外丸の腰曲輪群
 阿波崎城は、南北朝時代の一時期、南朝方の柱石であった北畠親房が拠った城である。建武の新政が瓦解し、吉野で南朝を樹立した後醍醐天皇であったが、1338年に主戦力であった新田義貞、北畠顕家(親房の嫡男)を戦場で失い、勢力再建が急務となった。そこで閏7月に自らの皇子である義良親王・宗良親王・懐良親王を伊勢を経由して、それぞれ奥州・遠州・九州の各地の南朝勢力の元に派遣し、勢力挽回を企図した。この内、義良には親房とその次男顕信を付けて海路奥州に下したが、9月に途中の遠州灘で暴風に遭い、兵船は四散、義良は伊勢に吹き戻されて、翌年吉野に戻って皇太子となった(後の後村上天皇)。一方、親房は常陸に漂着し、南朝方の地頭東条氏に迎えられて神宮寺城に入り、ここを東国経営の拠点として活動を開始した。しかし間もなく、北朝方の武家である佐竹義篤(常陸守護)・大掾高幹・烟田時幹・鹿島幹寛・宮崎幹顕らの軍勢に攻められ、10月5日あえなく神宮寺城は落城した。逐われた親房が阿波崎城に逃れると、残存する南朝方の勢力が参集して北朝方と戦ったが、阿波崎城も程なく落城し、親房は更に小田城関城へと転戦した。しかし1343年、鎌倉府執事の高師冬の軍勢によって関・大宝両城は陥落し、常陸の南朝方は壊滅、失意の親房は吉野に舞い戻った。その後の阿波崎城の歴史は不明であるが、戦国期の改修の痕跡が残っていたとも言われる。

 阿波崎城は、霞ヶ浦南方の比高25m程の丘陵上に築かれている。かつては丘陵を広く取り込んだ城であったとされるが、城の中心部はゴルフ場造成によって破壊されてしまっており、現在残っているのは丘陵北東端部の「外丸」「八幡台」と呼ばれる部分だけである。外丸は公園化されており、主郭ではないものの大きな曲輪となっており、北東斜面に段々になった明確な腰曲輪群を構築している。この曲輪群は、中央部が谷戸状に窪んだ地形で、その脇の城道には、原初的な桝形虎口が築かれ、側方上部に櫓台を築いている。一方、八幡台は未整備で藪化しているが、中を探索すると土塁による枡形状の遺構があり、また先端に土塁を伴った曲輪も確認できる。しかし全体的には技巧性に乏しく、古い南北朝期の形態を色濃く残していると思われる。
 『日本城郭大系』の縄張図には、主郭として凸字状に土塁で囲まれた曲輪を載せているが、昭和30年代の航空写真を見ると、そうした明確な遺構は確認できない。そもそも『大系』の縄張図は地形からしても不正確なので、あまり当てにならないと言ってよい。どうも大系の茨城編は記述が全体に不正確で困る。
 いずれにしても、短時日で落城していることから、阿波崎城はそれほど大規模な城ではなかったと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.950652/140.416045/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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