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伊治城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3015.JPG←外郭の土塁と堀跡
 伊治城は、奈良時代後期に律令政府が造営した古代城柵である。『続日本紀』に767年に造営されたことが記載され、初期の造営は三旬(30日間)に満たずに完了したと伝えられている。征夷政策を積極的に進めるための拠点としての造営であった。その後も整備拡張が続けられ、優遇政策によって入植者を募って開拓を進めながら780年頃まで続けられたと見られている。780年、胆沢地方の蝦夷征討の拠点かつ蝦夷南下を阻止する拠点として、按察使の紀広純によって覚鱉城の造営が計画され、伊治城はこの新城造営の基地ともなった。しかし同年、伊治城を統治していた上治郡(此治郡の誤記との説が有力)大領の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)は、伊治城を訪れた按察使紀広純・牡鹿郡大領の道嶋大盾を怨恨によって殺害し、反乱を起こした(宝亀の乱)。反乱軍は、多賀城国府をも攻撃制圧し、略奪をほしいままにして火をかけ、律令政府を震撼させる事態となったと言う。これによって伊治城は中央の手を離れ、蝦夷の郡司の掌中に帰したが、翌年の5月頃迄には政府軍の支配下に戻ったと推測されている。その後の伊治城は、歴史から姿を消してしまうが、796年頃には反乱以前の状態に復旧整備されたと考えられている。

 伊治城は、一迫川西岸の比高10m程のなだらかな丘陵地に築かれている。内郭は宅地や耕地に変貌して地上からは姿を消し、外郭の内、北辺の一部にわずかに土塁・堀跡が残っている。内郭の政庁部分は、発掘調査の結果、東西約55m、南北約60mの広さを持ち、正殿・脇殿・後殿・前殿・南門などの建物群の跡が見つかっている。面白いことにこの城柵では、内郭は城域の南端近くに大きく偏して配置されている。これは北方の蝦夷からの攻撃を強く意識してのこととも考えられる。ちょうど国道4号線脇に城の解説板が建っているのが、内郭の中央付近に相当するが、解説板以外には城柵の形跡は微塵も感じられない。遺構は僅かであるが、古代史の好きな人には歴史的経緯のある城なので、お勧めかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.764708/141.038404/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古代城柵
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阿久利川事件跡(宮城県栗原市) [その他の史跡巡り]

IMG_3001.JPG←解説板の建つ一迫川畔
 阿久利川事件は、前九年の役において、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義と俘囚長安倍氏との本格的な戦闘が始まる画期となった事件である。朝廷への貢納を怠るようになった安倍頼良は、1051年の鬼切部の戦いで勝利した翌年、朝廷からの大赦布告によって罪を免ぜられ、新任の陸奥守源頼義に服属して名を頼時と改めた(頼義と同音であるのを避けるため〔避諱〕)。しかし1056年の夏、任期が間もなく終わる頼義が、鎮守府の胆沢城から国府多賀城への帰途、阿久利川のほとりに宿営した際、頼義配下の権守藤原説貞の子光貞・元貞の陣屋が何者かに襲撃され、元貞の人馬が殺傷される事件が発生した。将軍頼義は詮議の結果、安倍頼時の子貞任の仕業と断定し、一方的に貞任を罰しようとした。貞任の出頭を命ぜられた頼時はこれを拒絶したことから、武力衝突が始まった。
 尚、この事件は、早くから西国に勢力を扶植して中央政界でも立場を強めつつあった平家に対し、出遅れていた源氏の棟梁頼義が、源氏の勢力を伸ばすために奥州制覇の野望があり、陸奥守の任期を伸ばして安倍氏を攻撃するために仕掛けた謀略との説が古くから根強い。そしてその野望は、子の源義家に引き継がれ、頼朝に至って結実することとなる。

 阿久利川事件跡は、正確な場所は必ずしも明確ではないが、近年の研究によって宮城県栗原市の築館と志波姫の境、一迫川畔の「阿久戸」という地域が比定地として有力とされている。この地から川を挟んですぐ北西には奥州街道が通り、古代城柵でもある伊治城があることから、古くからの交通の要衝でもあり、軍団の宿営地として考えるには十分な説得力がある。現在は一迫川の堤防内を通る車道脇に解説板が建っている(以前は標柱もあったようだが、現在は失われている)。伊治城に行く途中で、知らずにたまたま通りかかって解説板を見つけたのだが、こんなところで日本史の画期となる事件が起こっていたとは、地元の人にもあまり知られていないであろう。尚、解説板には「古戦場跡」と記載されているが、合戦があったわけではなく襲撃事件であるので、一般に広まっている「事件跡」という呼称を採用した。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.762399/141.041965/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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刈敷館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2074.JPG←微高地の主郭塁線
 刈敷館は、刈敷氏の居館である。刈敷氏は、南北朝期に真坂楯に下向した狩野氏の一族で、嶋躰館の狩野兼親から分流してこの地に入部し、地名を取って刈敷氏を称したと言う。本家の狩野氏と共に大崎氏の家臣であったと考えられ、1590年の奥州仕置で大崎氏が改易になると、刈敷氏も滅亡した。

 刈敷館は、一迫川東岸に築かれた居館で、白山神社の南東に隣接して、方形の空き地となって残っている。周りの耕地より僅かに高くなっていて、曲輪跡であることが想像できる。往時は土塁で囲まれていたのではないかと個人的に推測しているが、昭和20年代の航空写真を見ると既に土塁の痕跡はなく、方形の空き地が主郭で、南に横長の長方形の二ノ郭があったらしい。しかし二ノ郭は水田になっていて、今ではその痕跡は見出だせない。主郭は一応公園になっているらしいのだが、若干の植え込みとベンチがあるぐらいで、公園なのかどうかも一目ではわからないぐらい中途半端である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.766900/141.046708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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佐沼合戦旧蹟(宮城県登米市) [その他の史跡巡り]

 登米市の佐沼地域には、葛西大崎一揆の際に伊達政宗による凄惨な掃討戦の舞台となった佐沼合戦に関わる史跡が残されている。佐沼城を訪城した折、これらの旧蹟を巡り歩いた。

【伊達政宗陣場】
IMG_0024.JPG←陣場跡
 豊臣秀吉より葛西大崎一揆討伐の命を受けた政宗は、米沢城を出陣して6月25日に加美郡宮崎城を攻略、同月28日には一揆勢の本拠である佐沼城への攻撃を開始した。頑強な抵抗を排して、7月3日の朝には城を占領したと言う。この時政宗が本陣を敷いたのがこの陣場で、佐沼城西館の目と鼻の先にある。石碑が建てられている頂部は土壇となっているが、遺構であろうか?この他、周囲にも腰曲輪状の平場が確認できるが、非常に小規模な陣場である。佐沼城外郭の外堀となっていた長沼川を挟んで、西館の要害と指呼の間に対峙する比高10m程の丘陵地で、いかに伊達軍といえど、最初からここに本陣を敷くことはできなかったであろう。おそらく、もはや残るは本丸だけとなった佐沼合戦の最終盤に、合戦の最後を見届けるために政宗が本陣をここまで進めてきたのだろう。それは一揆を裏で扇動した自身の謀略の痕跡を消し去るために、一揆勢が一人残らず殲滅されるのを見届けるためであった。戦国武将とはいえ、これ程冷徹に何千もの民衆を葬り去るというのは、政宗とは恐ろしい男である。背筋が凍る思いである。尚、国道398号線から脇道に入った右手上方にも「伊達政宗陣地跡」の石碑が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.696178/141.191826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

【首壇】
IMG_0279.JPG
 1591年7月、伊達軍は佐沼城に立て籠もった一揆勢を討伐し、城を落城させると「屈強の侍500余人、その他百姓など2000余人」(政宗文書)を撫で斬り(要するに皆殺し)にし、その首を塚を築いて葬った。登米市役所北西の丘陵上の車道脇にあるが、案内板などが何もなく、場所が非常にわかりにくい。もう少し誘導標識などを設置してくれるとありがたい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.692712/141.185668/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

【兵糧山】
IMG_2054.JPG←長沼に突き出た丘陵地
 佐沼合戦の際に、伊達軍は長沼の水運を利用してこの地に兵糧を運んで集積したことから、兵糧山と呼ばれるようになった。先日、東京オリンピックでのカヌー競技の候補地として話題になった、長沼ボート場のすぐ北東にあり、長沼に突き出た丘陵地である。周りを沼で囲まれているので、敵襲を受けにくいことからこの地が選ばれたのだろう。現在は公園となっており、遺構は特にないが、史跡看板が立っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.698824/141.147151/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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佐沼城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1909.JPG←本丸の天守台
 佐沼城は、葛西大崎一揆の際に伊達政宗による凄惨な掃討戦の舞台となった城である。城の歴史は必ずしも明確ではなく、伝説では奥州藤原氏の家臣照井太郎高直の居城であったとも言われるが、県内各地に同様の伝承があるので俄には信じ難い。南北朝時代には、鎮守府大将軍北畠顕家が摂州阿倍野で討死し、奥州軍が四散した後、奥州に戻った葛西氏が寺池城と佐沼城を築いたと言われており、葛西氏の支城として築かれた。しかし室町中期には大崎氏の支配下に入り、天文年間(1532~55年)には大崎氏の家臣石川氏が城主であったと伝えられている。この城が明確に姿を表すのは、1590年の奥州仕置以後である。即ち、小田原不参の故を以って葛西・大崎両氏が改易となり、葛西・大崎の旧領は豊臣秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられた。しかし木村氏の圧政によって岩手沢城での蜂起を皮切りに、「葛西大崎一揆」が勃発した。蜂起は燎原の火の如く瞬く間に領内全域に広がり、寺池城で父吉清と対策を協議した清久は、名生城への帰途、佐沼城で一揆勢に取り囲まれ、救援に赴いた吉清も佐沼城に包囲された。命を受けた伊達政宗により、吉清・清久父子は救出されたが、翌91年、一揆勢は佐沼城に立て籠もった。実はこの一揆は、政宗による煽動によって惹起されたものであり、それが露見しかかって秀吉への釈明に追われた政宗は、許されて秀吉の命で一揆鎮圧に向かうと、証拠隠滅を図るために佐沼城の一揆勢を女子供に至るまで撫で斬りにしたとされる。その後、一揆の主だった者達を謀略によって桃生郡須江山に呼び寄せ、残らず惨殺した(須江山の惨劇)。こうして証拠を残らず消し去った政宗は、出羽・会津の本領を没収されたが、一揆の責任を問われて改易となった木村氏に代わって、葛西・大崎の旧領13郡を与えられた。佐沼城には、出羽大橋城主湯目民部景康が移封された。景康は後に政宗の命で津田氏に改姓した。佐沼城は、藩政時代には佐沼要害と称され、津田氏は7代丹波定康の時代までこの地を領したが、1756年に改易された。津田氏の後には、高清水城より亘理伯耆倫篤が移封され、以後亘理氏の居館として幕末まで存続した。

 佐沼城は、迫川西岸の比高10m程の高台に築かれている。現在鹿ヶ城公園となっており、改変を受けているが、本丸部分はよくその形状を残している。梯郭式に近い環郭式の縄張りで、城の東側に偏した本丸を囲むように二ノ丸があり、更にその外周に三ノ丸が取り巻いていた。本丸は外周に低土塁が残り、東端に横矢張出しの大型の櫓台(おそらく天守台)を備えている。南東角にも隅櫓台が築かれている。本丸は広めで、十分な居住性があったと推察される。本丸の周りには大きな空堀が廻らされているが、残念なことにコンクリートの護岸で改変されてしまっている。しかし形は往時のままなので、城の雰囲気はよく残っている。二ノ丸・三ノ丸は市街化で改変され、二ノ丸部分がやや高くなっている以外、ほとんど形状を追うことができないが、往時は迫川周囲の沼地を水堀として取り込んだ、浮島の様な要害であったらしい。城の西側を流れる長沼川が外堀の役目をしていた様である。三ノ丸の北西端には独立性の高い丘陵地があり、西館と呼ばれている。津田家・亘理家の支配時代には各家の墓所となり、現在も両家の墓が残っている。西館は、それ自体が佐沼城西方を守る出城であり、高台上に堀切や横堀が残り、高台の北東下方にも横堀・土塁が築かれている。この下方の横堀は三ノ丸内にあることから、往時は城内通路を兼ね、土塁は城門を構成していたのだろう。
 佐沼城は、改変が進んでいるものの、街中の城にしては主要部の遺構がよく残っており、鹿ヶ城大橋の上から見た本丸の姿も、城以外の何物でもない。季節を問わず訪城出来る城である。
西館に残る横堀→IMG_1993.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.694839/141.196203/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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八幡館(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1888.JPG←住宅地内に残る土盛り
 八幡館は、伝承では留守氏の祖伊沢家景の家臣、八幡兵庫の居館と伝えられている。八幡氏は代々留守氏に仕え、陸奥介を称して鎌倉幕府の御家人として宮城郡八幡庄内に地頭職を与えられていた。室町時代に入ると八幡介と称するようになったが、一説には平安後期以来の在庁官人の流れを汲む陸奥介平景衡の系統から、鎌倉前期にこの地に移住してきた保田景家の系統に取って代わられ、その際に名乗りを八幡介と称するようになったともされている。室町時代には、八幡氏は一時留守氏を凌ぐ勢力を持ち、留守氏と抗争することもあったが、戦国時代に入って伊達氏に服属した留守氏が勢力を回復すると、留守氏の家臣団に組み込まれた。戦国後期には八幡景廉と弟の下間業継が家督を巡って対立し、景廉が主君留守政景に事態収拾を訴え出ると、これを聞いた政景は激怒し、1578年、下間館を攻撃して業継を追放し、八幡氏の内訌を平定した。以後、八幡氏は安泰となり、景廉は政景に忠節を尽くすようになった。一方、追放された業継は、姉の嫁ぎ先である岩沼の泉田重光を頼って身を寄せた。このことが、大崎合戦の際に伊達勢を率いた留守政景・泉田重光2将の対立の遠因となったとも言われている。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって、伊達氏と共に留守氏が所領替えとなると、八幡氏も留守氏に従って八幡の地を去った。

 八幡館は、砂押川南岸の比高10mにも満たない小丘陵に築かれている。丘陵上の主郭は現在配水場となっており、周囲一帯も完全に宅地化されており、地勢以外の遺構はほとんど残っていない。僅かに主郭の南の住宅地脇に、主郭南側の曲輪の一部と思われる土盛が残っているだけである。尚、付近には「末の松山」「沖の井」など、古今和歌集にも詠まれた史跡があるが、八幡館と何らかの関係があったのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.287579/141.001604/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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築館城・館越城(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1740.JPG←堀跡と腰曲輪群
 築館城・館越城は、2つの城から成る複合城郭と推測される。この付近には、花楯城・大楯城・小館丸館や石原城館群など複数の城館で構成された城が多い。
 築館城は、詳細は不明であるが、室町時代の頃に岡山城という武士の居城であったと伝えられている。岡氏は、一説には川内小屋館の館主であったとも言われ、現在の大郷町内の羽生・川内地区を領していた土豪であったと推測されている。鎌倉時代以降、この地域は菅原氏・吉良氏・大崎氏・留守氏・葛西氏等によって支配権を巡る闘いが繰り広げられた。岡氏は、これら周辺諸豪の狭間にあって、その傘下に与して支配領域を形成したが、戦国末期には黒川氏・葛西氏・留守氏らの勢力の狭間で消滅していったものと推測されている。
 館越城については築館城以上に歴史不詳であるが、築館城と隣接していることから強い関連があった城であったと思われる。現地の築館城標柱には「古城」と表記されている。

 築館城・館越城は、吉田川南岸の比高40m程の丘陵先端に築かれている。北から築館城・館越城と並び、2つの城の間は堀切で分断されている。築館城の方は現在築館公園となって整備されている。頂部に主郭を置き、東西北の3面に腰曲輪群を段状に連ねた比較的小規模で単純な縄張りの城砦である。城全体の規模と比較すれば多くの腰曲輪が綺麗に構築されており、ほとんど居住性はなかったと考えられるが、有事の際の臨時の詰城としては申し分なかったものと推測される。腰曲輪群の西側下方には堀跡らしい低地も見られる。台地基部は大堀切で分断されており、現在は小道が通っている。堀切の南には館越城があるが、山林となっており、夏場は藪で遺構の確認が困難である。そのため訪城時には、僅かに北端に祠の祀られた平場と虎口らしい形状が確認できただけであった。築館城の方は、遠目にもいかにも城だという形を現しており、近くを通った時には寄ると良いだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.432346/141.019864/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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花楯城・大楯城・小館丸館(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1709.JPG←大楯城中間の堀切
 花楯城・大楯城・小館丸館は、3つの城が連郭式に配置された複合城郭である。この付近には、築館城・館越城や石原城館群など複数の城館で構成された城が多い。花楯城・大楯城・小館丸館は、天文年間(1532~55年)の頃に葛西氏一族の金沢長門守が城主であったと言われ、大崎氏・黒川氏に対する備えとして築かれたと言う。その他の事績は不明であるが、1590年の奥州仕置で葛西氏が没落すると、廃城になったのだろう。

 花楯城・大楯城・小館丸館は、吉田川南岸の比高30m程の丘陵先端に築かれている。北から順に花楯城・大楯城・小館丸館と並び、大楯城が本丸に当たり、それぞれの城の間は堀切で分断されている。普通に考えれば3つをまとめて一つの城として扱うべきだと思うのだが、なぜそれぞれに別の城の名が付いているのかはよくわからない。また花楯城の「花」は「端」の転訛であろう。即ち「突端の城」の意味である。2つの堀切には現在車道が通っており、改変を受けている。またそれぞれの城も、ほとんどの曲輪は畑になっているため、多少の改変を受けている可能性がある。いずれの城も堀切跡の車道脇に標柱が立っているが、花楯城の標柱が立っているところから登ったところにある頂部の大きな曲輪は、「宮城県遺跡地図」によれば花楯城ではなく、大楯城の曲輪であるらしく、それを正とすれば大楯城の主郭に当たるのだろう。即ち大楯城は車道となった堀切で南北に主郭・二ノ郭を並立させた一城別郭であったらしい。大楯城の主郭の急峻な切岸の下にある北側の曲輪群が花楯城の様である。遺構としては曲輪群や一部に土塁らしいものも民家裏に見られるが、改変された可能性もある。民家裏の畑地であるので、立ち入りには注意を要することもあって、少々消化不良気味になる城である。
大楯城の主郭→IMG_1721.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.437674/141.032073/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大窪城(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1660.JPG←主郭切岸と横堀
 大窪城は、藩政時代に伊達家一族格に列した大松沢氏の居城である。大松沢氏は、飯田八郎左衛門吉実を祖とし、伊達郡宮沢を治めていたため後に宮沢氏を称したとされる。1495年、大松沢郷が伊達尚宗の領地となり、吉実の後裔、宮沢掃部時実を大崎・葛西両氏に対する北方の押さえとして大松沢に入部させ、大窪城を居城としたと推測される(一説には、宮沢氏の大松沢入部は伊達稙宗の時ともされる)。戦国末期、伊達政宗の時の領主は宮沢元実で、大崎合戦や摺上原の戦いで軍功を挙げ、1592年には朝鮮の役に従軍するなど、伊達軍の一翼を担って活躍した。その功により、政宗より大松沢氏を称する様命ぜられ、伊達家一族の家格を与えられた。以後、江戸時代を通して大松沢所に鎮し、幕末まで存続した。大松沢氏15代衛実は、戊辰戦争において白河口軍事総督に任じられて戦ったと言う。

 大窪城は、鶴田川北岸の比高70m程の丘陵上に築かれた城である。現在城址公園として整備されており、山上まで車で行くことができる。東西に長い不正多角形の主郭を丘陵頂部に置き、高さ7~8m程の切岸の周囲に腰曲輪を廻らした構造となっている。主郭の北辺と南辺の塁線は内側に歪んでおり横矢を意識している。南辺だけは斜面の斜度がきついため、腰曲輪が置かれていない。主郭東側には横堀を挟んで土壇を有した曲輪があり、一方主郭の西側はやや広い面積の腰曲輪で二ノ郭とされている。二ノ郭の北側にも土壇があり、北西の台地基部を分断する堀切に対する櫓台であったと思われる。二ノ郭の南西斜面には腰曲輪群が築かれ、その南北両端は両側を竪土塁で囲み防御し、腰曲輪群の最下段には横堀が穿たれている。従ってこの腰曲輪群は、側方を竪土塁で、下方を横堀で囲んで防御した構造となっている。更に腰曲輪同士の横矢掛かりが多数あり、かなり厳重に防御していたことが伺われる。訪城した時は晩夏であったが、ちょうど雑草が伐採されたばかりで遺構が非常にわかりやすく、幸運だった。
南西斜面の腰曲輪群→IMG_1602.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.468223/140.991969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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八谷楯(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1471.JPG←そびえ立つ主郭南端の櫓台
 八谷楯(八谷館)は、伝承では八谷冠者が永禄年間(1558~69年)まで居住したとも、或いは八谷越前守が天正年間(1573~92年)まで居住していたとも言われている。しかし八谷氏についての記録がなくその事績は不明である。一方、勢力圏から考えれば鶴楯城主黒川氏に属していたものと推測され、八谷楯から谷戸を挟んですぐ北の山上に黒川氏の初期の居城御所楯が築かれていることから、八谷楯は御所楯の出城だったと考えるのが自然だろう。

 八谷楯は、東北自動車道脇の比高20m程の南北に長い丘陵上に築かれている。現在は八谷館緑地公園として整備されているが、公園化に伴う破壊を受け、また北半分は東北道の建設で破壊されてしまっており、旧状はかなり変わってしまっている。細長い丘陵を利用しているため、縦に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、曲輪間は堀切で分断している。主要な曲輪は4つで、南から順に笹曲輪・主郭・二ノ郭・三ノ郭と仮に呼称すると、三ノ郭は前述の通り消滅しており、残っているのはそれ以外の3つの曲輪であるが、公園化で土塁などはかなり改変されている。『日本城郭大系』の縄張図には、笹曲輪と主郭の間も堀切があった様だが、ほとんど埋まっている。その上には主郭南端の櫓台がそびえている。主郭内は数段の平場に分かれており、腰曲輪を伴っている。この城で最も明瞭な遺構は主郭北側の堀切で、改変を受けているものの横矢掛かりでクランクした堀の形状がよく分かる。二ノ郭は3段に分かれた平場で城内最大の曲輪である。主郭よりやや低い位置にあり、西側には腰曲輪を伴っている。城の大手は南にあったと推測されるが、そうなると笹曲輪から大手道を登ってすぐに主郭があることになってしまうので、もしかしたら私が二ノ郭としたのが主郭であったかもしれない。そうすると、主郭の方が二ノ郭より低くなってしまうので、判断に迷うところである。城址公園としては、非常に残念な部類に入る遺構の状況である。
主郭北側の堀切→IMG_1509.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.439842/140.914507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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大衡城(宮城県大衡村)

IMG_1356.JPG←主郭南の物見台
 大衡城は、越路館とも呼ばれ、大崎氏の一族黒川氏の庶流、大衡氏の居城である。下草鶴楯城主黒川下総守景氏の次子、大衡治部大輔宗氏が1544年に築城した。黒川氏は大崎氏の一族として大崎氏との強い紐帯で繋がっていたが、戦国期に入り南の伊達氏の勢力が北上してくると、大崎氏を離れて伊達氏に属し、その為北の大崎領に対する備えとして、黒川氏領の北方防衛の拠点として築かれたものと思われる。その後1590年、宗氏の子氏胤の時に豊臣秀吉の奥州仕置で廃城となった。

 大衡城は、善川とその支流の合流点北側にそびえる比高30m程の丘陵先端に築かれている。現在は主郭部分が城址公園として整備され、大衡城青少年交流館という建物が模擬天守風の造りで立てられるなど、一部破壊を受けている。しかし主郭内部は改変されているが、周囲は旧状を多く残している。主郭外周部はほぼ完存し、横矢掛かりの塁線の張出しや土橋で連結された南の物見台などが確認できる。殊に南斜面の腰曲輪群は見事で、最下段付近にはL字状の横堀もある。また、この腰曲輪群には一部に縦堀も見られる。南に付いている公園への登城路も、往時の大手道をそのまま残しているということで、枡形状の屈曲や登城路側方の土塁、大手門の櫓台などもよくその形状を残している。しかし、この登城道や城内見学路は全て舗装されているため、遺構は一部破壊されているのは城址公園としては好ましくない。この他、主郭の北側は、腰曲輪状の二ノ郭で一部土塁が残存しているものの、駐車場に改変されてしまっている。昭和20年代の航空写真を見ると、主郭北東に現在住宅地が広がる台地基部に三ノ郭があり、その東側に堀切を穿って防御していたらしい。改変されてしまった城址公園にしては、中世城郭としての雰囲気をよく残しているが、失われた部分については惜しいという他はない。
南腰曲輪群中の横堀→IMG_1346.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.461436/140.880260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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桑折城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1231.JPG←東尾根曲輪群
 桑折城は、大崎氏の重臣渋谷氏の居城である。古文書には、城主として渋谷相模守の名が記されている。渋谷氏は、大崎氏の入部前から河内四頭(渋谷氏・大掾氏・泉田氏・四方田氏)と称される国人領主で、大崎氏の入部後は徐々に大崎氏の勢力に組み込まれ、大崎四家老の一に数えられる重臣となった。桑折城が歴史に大きく現れるのは、1588年の大崎合戦に於いてである。大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦が生起した。留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、対する大崎方は中新田城・桑折城・師山城の備えを固めて伊達勢に抵抗した。この時、渋谷相模守が守る桑折城には、その甥に当たる鶴楯城主黒川月舟斎晴氏が加勢に入った。大崎勢の激しい抵抗に攻めあぐねた伊達勢は、天候の急変(大雪)を受けて撤退を始めると、大崎勢は各所の城から出て猛変撃に転じたことで、伊達勢は退路を失い、泉田重光率いる残兵は命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。また留守政景の軍勢は雪原に孤立して危殆に陥ったが、黒川月舟斎は政景の舅であったことから、月舟斎の温情にすがって帰陣を許され、虎口を脱して千石城に戻った。新沼城に孤立した泉田重光、長江月鑑斎らは大崎氏に捕らえられ、大崎合戦は伊達勢の大敗で幕を閉じた。その後、1590年の奥州仕置で大崎氏が改易となると、桑折城も廃城となった。

 桑折城は、鳴瀬川南岸の標高55m、比高30m程の丘陵上に築かれている。城域は、本城と出城の南楯と、大きく2つの区域に分かれており、本城は丘陵北端の東西に長い尾根上に築かれている。主郭は東のピークに築かれ、西・北・東の三方の尾根に曲輪群を連ねている。メインになるのが西尾根で、主郭の西に長い二ノ郭が続き、土橋の架かった堀切を介して三ノ郭、更に前面を小掘切で防御して四ノ郭群が連なり、西端は段曲輪群で登城道を防御している。四ノ郭群の北切岸には、内枡形虎口や畝状竪堀風な地形がある。一方、北尾根も第2の二ノ郭とも呼べるような長い曲輪であるが、北端は開発で削られてしまっている。東尾根には、片堀切を介して段曲輪群が連なっている。本城から南に堀切を介して尾根伝いに進み、ピークから東に降っていくと、東端のピーク上に南楯がある。2つの曲輪だけで構成された小規模な城砦で、いかにも出城という造りである。ピーク上に主郭があり、北東に舌状の二ノ郭が長く伸びている。主郭周囲には腰曲輪と虎口もあり、西尾根は堀切で分断している。以上の遺構がほぼ完存し、しかも館山公園として整備され、晩夏でも遺構の確認が全く問題なく出来る。主郭の城址標柱に「きれいな公園、郷土の誇り」と書かれているが、このきれいに遺構が残る城址公園は、まさしく郷土で誇るべきものであろう。予想以上に素晴らしい城址公園だった。
二ノ郭手前の土橋と堀切→IMG_1204.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.524499/140.950062/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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千貫森楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1129.JPG←主郭下方の横堀
 千貫森楯(千貫森館)は、歴史不詳の城である。伝承では早川民部の城であったと言われるが、詳細は不明である。

 千貫森楯は、鳴瀬川南岸の比高30m程の丘陵上に築かれている。現在は住宅地と高速道路に挟まれて独立丘陵の様になっているが、開発されるまでは南の丘陵地帯と繋がっていた。城址は千貫森桜公園となって整備され、登り道が付いているので、夏でも訪城可能である。頂部に小さな主郭を置き、南に小郭、更に堀切・土塁を介して南の曲輪に繋がっている。また主郭の北西にも出曲輪があるようだが、南の曲輪ともども削平が甘く、どれほど曲輪として機能していたのかよくわからない。一方、主郭の南東斜面には前述の堀切から繋がる形で円弧状に横堀が穿たれている。よく見ると、横堀の起点には枡形空間があり、枡形虎口を形成していた様である。またこの枡形の下方には腰曲輪が築かれている。従ってこの横堀は、実は城内通路を兼ねた塹壕であったことがわかる。小規模な城砦で、主郭には給水設備、南曲輪には鉄塔が建っていて改変を受けているが、遺構は比較的よく残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.519983/140.931094/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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駒犬城(宮城県塩竈市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1063.JPG←腰曲輪状の墓地
 駒犬城は、岩切城主留守氏の支城である。古くは駒崎城とも呼ばれたらしく、南北朝期の1351年に観応の擾乱の余波で奥州管領であった吉良貞家・畠山国氏両氏が戦った際、吉良氏が「駒崎」に在陣していたことが『余目記録』の記述から知られており、『日本城郭大系』ではこの駒崎が駒犬城のことであろうと推測している。その後、留守氏の重臣佐藤氏が城主となり、城主の名として佐藤左近・佐藤信高が伝えられている。また、塩竈神社の明応六年(1497)銘の鐘に佐藤宗高の名が見られ、信高の一族と推測されている。戦国期に、伊達晴宗の3男政景が留守氏に入嗣した際には、駒犬城主佐藤太郎左衛門は村岡氏らと共に強く反発し、政景は村岡氏を攻め滅ぼして家中統一を図った。この時、駒犬城も落城し、以後廃城になったと思われる。

 駒犬城は、塩釜港の南西にある比高30m程の独立丘陵上に築かれている。眼下の塩釜市街地は多くが埋立地であり、往時は内湾に突き出た岬だったと推測され、寺ヶ崎と呼ばれたと言う。東園寺の裏山に当たり、現在城内は全て墓地に変貌している。頂部は南北に長い平場となっているが、外周には数段の腰曲輪状の平場があり、やはり墓地に変貌しているものの、往時の腰曲輪の名残と推測される。改変が激しいので、腰曲輪らしい地形しか確認できないが、墓地の入口には城址の石碑が建ち、城があったことをわずかに伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.315245/141.021731/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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今泉城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0819.JPG←堀跡の道路と郭内への傾斜
 今泉城は、天正年間(1573~92年)に国分氏の家臣須田玄蕃の居城であった。築城年代は定かではなく、発掘調査では鎌倉後期から南北朝期の陶器が出土しており、その時期まで築城時期が遡るのかどうか、考究が待たれている。
 今泉城は、名取川北岸の平地に築かれた城で、現在住宅地となっている。遺構はほぼ湮滅しているが、堀跡が円弧状の道路になっており、概ねその形状を追うことができる。道路から郭内に向かって僅かに高くなっていることからも、道が堀跡であることがわかる。また堀跡と思われる水路も残っており、朧気ながら城の痕跡を追うことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.210332/140.928047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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北目城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0807.JPG←城址付近の現況
 北目城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の城である。茂ヶ崎城主粟野大膳が北目城に移り、天正年間(1573~92年)まで居城した。1600年の関ヶ原合戦の際には、南の上杉景勝と対峙するための伊達政宗の拠点とされた。後に伊達氏家臣屋代勘解由兵衛が置かれたと言う。平成4~5年の発掘調査によって、江戸時代初期の障子堀が確認されており、堀の上幅10~14m、深さ3m以上あったと言う。障子堀ということは、小田原の役の後に北条氏の築城技術が全国の城に導入された一環であろうから、小田原の役後に改修を受けたと推測される。

 北目城は、広瀬川南岸の微高地に築かれた城である。微高地の先端近くに築かれたと考えられ、「館ノ内」などの地名が残っているが、遺構は早くに失われたらしく、昭和20年代の航空写真では既に明確な遺構は確認できない。広い車道の脇に解説板があるのが、城跡を伝える唯一のものである。この解説板に「この遺跡の現状を変えようとするときは・・・」の注意書きがあるが、ここまで何もないと虚しく聞こえてしまう。勿論、前述の障子堀の様に地下には遺構が眠っているのであろうが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.223280/140.897341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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河合城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0685.JPG←北辺の土塁跡?
 河合城は、歴史不詳の城である。総築時期も不明であるが、応永年間(1394~1427年)には佐竹氏の譜代家臣「久慈西東之奉公衆」で、この地を発祥とする川井氏の城であったと考えられている。いずれにしても佐竹氏の勢力圏内であり、佐竹氏の支城の一つであったろう。
 河合城は、JR水郡線河合駅の付近にあった。現在城内は宅地化・耕地化され、遺構は完全に湮滅している。ちょうど駅がある位置が主郭とされる。普通なら道の形などに城の形態を残すことが多いが、この城ではそれすらほとんど明確ではなく、わずかに城の南北にある水路が堀の名残とされる。この水路に沿って土塁跡らしい土盛があるが、これすら本当に遺構かどうか明確ではない。早い時期に失われてしまった、幻の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.508274/140.517068/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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