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多良崎城(茨城県ひたちなか市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0603.JPG←ニノ郭土塁と堀切
 多良崎城は、江戸氏の庶流足崎氏の居城である。元々は、鎌倉時代末期に常陸大掾吉田太郎広幹の3男、三郎里幹が多良崎氏を称し、多良崎城を築いたと言われている。しかし南北朝期に南朝側に付いたため、没落した。その後、江戸通重の次男平沢通村の裔、足立通義・通定兄弟が城主となり、足崎氏を称した。1590年、江戸氏攻略を目指す佐竹義重・義宣父子に攻められて落城し、廃城となった。

 多良崎城は、比高25m程の半島状台地に築かれている。周囲は現在は水田地帯となっているが、往時は真崎浦と呼ばれる湖が広がっていた。即ち、多良崎城は湖上に突き出した半島状台地に築かれた要害であった。遺構は完存しており、城址公園として整備されているので、夏でも訪城可能である。基本的には連郭式の城で、土塁で四周を囲んだ方形の主郭と、その前面に土塁続きの二ノ郭が、数mの段差で連なっている。主郭の西辺内側と二ノ郭内の主郭前面には浅い堀があるが、機能は良くわからない。更に二ノ郭の前面に堀切を介して三ノ郭が広がっているが、削平は甘く郭内は傾斜している。三ノ郭の北西は入江の様になっており、明らかに船溜まりになっていたことが想像される。三ノ郭の西に張り出した尾根先端は、この船溜まりと湖上を監視する物見台であったろう。三ノ郭から細尾根を北に辿ると、やや離れて平坦な平場が広がっており、北の出丸となっており、先端近くに烽火台の土壇が残っている。この他、主郭南側にも小郭と小堀切、主郭の東西に腰曲輪があり、東麓には水の手が残っている。城に続く南側の尾根筋には、2つの木戸跡の表示があるが、明確な遺構は見られない。何を以って木戸跡と特定したのか不思議に思ったが、発掘調査で確認されたものであろうか?比較的単純な構造の要害であるが、中世の湖上の城らしさをよく残しておりお勧めである。
 尚、多良崎城は、その道では有名な心霊スポットらしい。その道の人に言わせると地縛霊がウヨウヨしているらしいが、そんなこと言ってたら中世城郭巡りなんてできないよなぁ・・・。玉砕した城なんて、全国至る所にあるし。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.432211/140.572343/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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津賀城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0512.JPG←主郭虎口と蔀土塁
 津賀城は、この地の土豪津賀氏の居城であったと考えられている。津賀氏については系図不明であるが、大永年間(1521~27年)に津賀大膳、天正年間(1573~92年)に津賀大炊介が居たことが『鹿島治乱記』に記されており、津賀大膳は1524年、鹿島氏の内訌である高天原の戦いで、鹿島氏宿老で鹿島神流を創始した高名な武芸者でもあった松本備前守尚勝(政信)(剣豪、塚原卜伝の師でもある)と戦い、これを破ったと伝えられている。

 津賀城は、北浦東岸の比高25m程の丘陵上に築かれている。現在は城址公園として整備されており、夏でも訪城可能である。ほぼ単郭に近い小規模な城で、主郭は横方向に長い形状で、外周を土塁で囲み、南東辺の中央付近に虎口を向け、虎口を入ってすぐのところに蔀土塁を設けて視線を遮っている。また南西端には物見櫓の張り出しを設けている。主郭周囲は腰曲輪が一周し、虎口付近には空堀が穿たれ土橋が架けられている。この腰曲輪は公園化で改変を受けている可能性があり、どこまで往時の形状を残しているか不明な部分もあるが、外周には一部土塁も築かれていた様である。腰曲輪の南東の台地基部には堀切が穿たれ、その先にL字状の土塁を構築しており、馬出し的な土塁囲郭の様である。しかし不思議なのは、周囲の平場との分断はなく、意図が不明である。津賀城はその形態から見る限り、北浦の水運を監視する物見であると同時に、あくまで有事の際の詰城の位置付けだった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.037370/140.580776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鳳凰台城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0457.JPG←城址の現況
 鳳凰台城は、大生城とも呼ばれ、この地の国人領主大生氏の居城と伝えられている。伝承によれば大生氏は、桓武天皇の皇子葛原親王の流れを汲む一族ということで、多くの鹿行地域の豪族と同じく、大掾氏の庶流であったと思われる。その14代の後裔大生八郎玄幹(はるもと)を祖とし、この玄幹が平安末期の1183年に鳳凰台城を築いたとされる。小田原の役の後、佐竹氏が所謂「南方三十三館の仕置」で常陸南部を制圧すると、大生氏も佐竹氏に服属した。玄幹より19代の大生弾正定守は、1614年の大坂の役に出陣する途中、駿河藤枝で流行病によって病没したと言う。

 鳳凰台城は、北浦西岸の比高35m程の半島状台地に築かれている。城内は全面的に耕地化されており、遺構は完全に湮滅している。どのような縄張りの城だったのかも、現状からでは推測不能であるが、昭和20年代の航空写真を見ると、畑の中に堀らしい跡が何ヶ所か見受けられる。東西方向に長い曲輪を南北に連ねた、基本的には連郭式の城だったらしい。北端が主郭であったと思われるが、昔の航空写真とGooglaMapの現在の航空写真と見比べると、主郭の北西部は採土で大きく削られてしまっていることがわかる。現在は先端近くの祠の奥にある城址碑だけが歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.996393/140.554469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖橋城
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堀之内大台城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0447.JPG←校庭脇の土塁っぽい土盛
 堀之内大台城は、佐竹氏が築いた新鋭城郭である。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した小高治部大輔ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。その後、常陸南部の支配拠点として1594年頃から堀之内大台城の築城が開始された。1596年に完成し、重臣の小貫頼久を城代として置いた。しかし佐竹氏は、関ヶ原の戦いの際の去就から、1602年に出羽秋田に移封となり、堀之内大台城はわずか7年で廃城になった。

 堀之内大台城は、比高10m程の半島状台地に築かれていた。しかし現在は開発により、遺構は湮滅している。主郭は南端にあったが、現在は牛堀中学の校地に変貌している。地勢は残っており、外周を急峻な崖で囲まれている。校庭脇に僅かに土塁らしい土盛が見られるが遺構であろうか?主郭以外の曲輪は大半が採土で消滅してしまっている。校門前に城址碑が建っているが、その文章によれば、主郭・二ノ郭・三ノ郭と出城で構成された城で、廊下橋や三重櫓を有し、二重堀切を穿ち、曲輪外周に土塁を廻らし、更にその周囲に二重の犬走り(帯曲輪)を築いていたと言う。主郭には、枯山水庭まで造作されていたと言うことで、まさに中世城郭と近世城郭を繋ぐ位置にあった城であった様である。主郭に庭園を有した城の類例としては遠江鳥羽山城があり、これも中世と近世を繋ぐ位置にあり、庭園を持つ城は当時の流行りであったのかもしれない。尚、湮滅前に発掘調査が行われた結果に基づいて、大台城の主殿が逆井城内に復元されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.966389/140.525565/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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江戸崎城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0380.JPG←四ノ郭北側の土塁
 江戸崎城は、常陸南部の戦国大名、江戸崎土岐氏の居城である。江戸崎土岐氏は、元は土岐原氏を称し、美濃の守護大名土岐氏の一族である。土岐光定の子蜂屋定親の子師親を土岐原氏の祖とし、師親の孫の秀成が、関東管領上杉憲方に従って関東に下向し、常陸国信太荘の代官として入部した。この土岐原秀成が江戸崎土岐氏の初代である。江戸崎城の築城は、室町前期の応永~永享の頃(1400年代)と推測されており、秀成の孫景秀によるとされている。以後、5代に渡る居城となった。景秀の子景成が1497年に嗣子なく没すると、十数年間の当主不在の後、土岐原氏は美濃守護である土岐惣領家より治頼を養子として迎えた。その後、美濃では斎藤道三が治頼の兄、土岐頼芸を追放して美濃一国を横領すると、惣領家は没落し、代わって土岐原氏が土岐氏を称するようになった。治頼の子治英の代になると、江戸崎城を中心とした地域と龍ヶ崎城を中心とした地域に分割して、土岐領を二つの行政単位で統治した。その子治綱の代になると、佐竹氏の南下に対抗するため、土岐氏は小田原北条氏の傘下に入った。1590年の小田原の役では、江戸崎・龍ヶ崎両城は、豊臣方の軍勢によって攻め落とされ、土岐氏は没落した。その後、江戸崎城には蘆名盛重(義広、佐竹義宣の実弟)が4万5千石で入部したが、1602年に佐竹氏が秋田に移封となると、盛重もこれに同行し、江戸崎城は廃城となった。

 江戸崎城は、比高20m程の南北に連なる独立丘陵上に築かれている。一番南の台形の台地に主郭があり、南東に一段低い二ノ郭が築かれている。東に向かって車道が降っているが、大手の登城道の跡と思われ、主郭側斜面に腰曲輪が築かれて防御している。また主郭の東から北にかけても腰曲輪が廻らされ、主郭にもこちら側だけ土塁が築かれており、東面と北面からの攻撃を意識していることがわかる。主郭の北には10m程低い三ノ郭があるが、江戸崎小学校のグラウンドに変貌しており、進入も憚られる。三ノ郭の北は四ノ郭で、鹿島神社が鎮座している。四ノ郭北側には大土塁が残っている。その北の車道は堀切の名残であろうか。更に瑞祥院の北東側の小丘陵も出丸で、改変を受けているものの土橋と竪堀が確認できる。市街化の波に飲まれて改変されている割には、比較的旧状を残している。
主郭東側の腰曲輪→IMG_0355.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.954283/140.319185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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吉生砦(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0289.JPG←主郭背後の横堀
 吉生砦は、小田氏の重臣小幡入道道三が築いた砦の一つである。小幡氏は、常陸の名族小田氏麾下の12人の城持ち武将の一人と言われ、小幡宿に館(堀の内館)を構え、その周辺に手葉井砦・菅間古城・諏訪山砦・古久保砦・青柳要害などの城砦を築いて防衛しており、吉生砦も永禄年間(1558~69年)にそうした城砦群の一つとして築かれたと言う。

 吉生砦は、比高20m程の丘陵上に築かれている。吉生小学校の南西に隣接して位置しており、小学校の校庭から散策路が伸びている。城内は整備されており、夏でも訪城できる。東西に長く伸びた城で、中央に段差があって2段の平場に分かれている。上段が主郭、下段が二ノ郭で、全体を横堀でぐるりと囲んでいる。土塁は主郭の北東辺のみに築かれている。曲輪の塁線は数ヶ所に凹凸があり、横矢掛かりを意識しているのがわかる。また横堀は、主郭の背後に当たる北東側が最も幅が広く、台地基部と分断している。この他、二ノ郭の付け根の南側に、堀底に通じる虎口が築かれている。単純な構造の砦であるが遺構は完存しており、良好な姿を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.231622/140.161943/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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八代城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9223.JPG←校地に現存する土塁
 八代城は、屋代城とも記載され、屋代氏の居城であったと伝えられている。元々は、鎌倉時代に東条社氏の居館として築かれたと推測されている。東条社氏の没落後、14世紀後期頃に信濃の豪族屋代氏がこの地に入部して城を再興し、15~16世紀にかけて改修を重ねて城を拡張した様である。
 八代城は、広く平坦な台地の中程に築かれている。現在は市街化が進み、八代城跡は城ノ内中学校の校地に変貌している。後者の西側にL字状の土塁が残っているのが唯一の現存遺構である。訪城した時には残念ながら先生らしい人がおらず、敷地内に入る許可が得られなかったので、周りから遠目に土塁を眺めることしかできなかった。解説板もあったが、コンデジでは最大望遠で撮っても何が書いてあるのかわからなかった。戦後間もなくの航空写真でも、残っていた土塁は現存のものと湮滅した北側のものぐらいで、耕地化によりかなり湮滅が進んでいたようである。そういう意味では、校地内に入ったおかげでそれ以上の湮滅を免れたのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.922316/140.207283/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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龍ヶ崎城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9198.JPG←二ノ郭周囲の急斜面
 龍ヶ崎城は、江戸崎城を本拠とした江戸崎土岐氏の支城である。元々は、下河辺氏の流れを汲む龍ヶ崎氏の居城であったと伝えられている。龍ヶ崎氏滅亡の後、1567年に江戸崎城主土岐治英が改修し、翌年次男の胤倫を城主にして守らせた。1583年には佐竹氏に攻め落とされたが、間もなく土岐氏は龍ヶ崎城を奪還した。土岐氏は小田原北条氏に属したため、1590年の小田原の役の際に豊臣方の佐竹氏の攻撃を受けて落城し、そのまま廃城となった。役後、龍ヶ崎は常陸一国を安堵された佐竹氏の支配下となり、佐竹義重の次男葦名盛重(義広)が入部した。盛重は、間もなく江戸崎城に居城を移した。

 龍ヶ崎城は、比高15m程の紡錘形をした独立丘陵上に築かれている。往時は堀切で分断された東西に連なる3つの曲輪で構成され、中央が主郭、西側が二ノ郭であったが、主郭は採土で消滅し、二ノ郭と先端の笹曲輪だけが地勢を残している。しかし残った二ノ郭も龍ケ崎第2高校の校地となって大きく改変されている。曲輪の西端には鹿島神社があり、その周辺だけ辛うじて旧状を残しているようにも思われるが、明確な土塁もなくよくわからない。笹曲輪は御嶽神社があり、由緒によれば土岐氏時代に氏神として大日社が祀られていたらしい。ここも残っているのは地勢だけで、形状は大きく変えられてしまっている様だ。結局、城址の高台のみが城としての痕跡である。この地域には珍しい丸馬出しまで備えた城だったらしいが、現状が残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.908466/140.191834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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泊崎城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9186.JPG←船着き場への小道か?
 泊崎城は、牛久城を本拠とする岡見氏を攻撃するため、多賀谷氏が築いた城である。戦国後期になると、佐竹氏と結んだ下妻城主多賀谷政経・重経父子は小田氏・岡見氏に対する攻撃を強め、1570年には岡見氏の有力支城であった谷田部城が落城し、城主岡見頼忠は牛久城に逃れ、小田原北条氏に救いを求めた。北条氏政は、最前線に位置する牛久城を防衛するため、近隣の他国衆を交代で在番衆として送り込んだ(いわゆる牛久番)。しかし1587年には、多賀谷氏が牛久城・東林寺城の西隣に泊崎城を築城し、岡見氏の牛久・東林寺両城と足高城の間に楔を打ち込み、連携を封じることに成功した。孤立した足高城は間もなく落城し、岡見氏は更に危殆に瀕することとなった。しかし牛久城は守りきったまま、1590年の小田原の役を迎えることとなった。

 泊崎城は、牛久沼に突き出した半島状台地に築かれている。先端ではなく、台地の中ほどに主郭が築かれているのが珍しい。対岸に牛久城を望む位置にあり、主郭同士は直線距離でわずか1.6km程しか離れていない。私がよく参考としているHP「城郭図鑑」に「牛久城と目と鼻の先の距離であるこの地で城普請を行った重経の豪胆さには驚くばかりである」と記載されているが、誠にその通りである。遺構自体は高度成長期に宅地化され、今では完全に湮滅しているが、昭和20年代の航空写真には、出枡形を伴う空堀で囲まれた方形の主郭と、大きく屈曲した西側の堀切、食違い虎口を伴った直線的な東側の堀切がはっきりと写っている。遺構は期待できないが、先端の泊崎大師堂からの眺望に優れ、また住宅団地北西端には船着き場への降り口かとも思える小道が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.950948/140.116947/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖橋城
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高井城(茨城県取手市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9073.JPG←主郭の虎口
 高井城は、千葉氏の庶流下総相馬氏の支城である。その創築は不明であるが、1336年、鎌倉府執事であった斯波家長により相馬親胤宛に発給された奉書に高井の地名が見えることから、既にこの時期には相馬氏の所領となっていたことが判明している。その後の歴史は必ずしも明確ではないが、相馬氏の一族が城主となって、いつの頃からか高井氏を称し、天正年間(1573~92年)まで存続した。永禄年間(1558~69年)には、高井治胤が相馬宗家の家督を継いでおり、宗家に近い家柄であったことがわかる。高井胤永の時、小田原の役で小田原北条氏が滅ぶと、その傘下に入っていた相馬氏と高井氏も没落した。しかし、胤永の3男胤正の子孫が横瀬伊勢守保広と名乗って江戸時代前まで高井城に居住したが、江戸時代に入ると広瀬氏と改めて帰農し、廃城となった様である。

 高井城は、小貝川南岸の比高15m程の河岸段丘上に築かれている。現在、城址公園として主郭を中心に整備されているので、夏でも訪城可能である。現地解説板の縄張図によれば、方形の主郭を中心に、南北に二ノ郭・三ノ郭があり、更に台地東側に外郭が広がっていたらしい。主郭は外周を土塁で囲まれ、南に堀切が穿たれ、土橋の架かった虎口が築かれ櫓台が付随している。また主郭の西側斜面に腰曲輪が築かれ、二ノ郭付近まで伸びている。この腰曲輪は、主郭から出た部分が独立した曲輪となっており、虎口郭であったと思われる。主郭と二ノ郭は、現在は土塁でしか区切られていないが、縄張図には堀があったとされている。埋められてしまったのだろうか?三ノ郭は主郭と堀切で分断され、やはり西側斜面に腰曲輪を伴っている。三ノ郭や外郭には櫓台もあったらしいが、現在は僅かな痕跡しか残っていない。本城の守谷城と比べると素朴な縄張りで、これが下総相馬氏の本来の築城レベルであったのかと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.930170/140.040021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖橋城
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高野城(茨城県守谷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9037.JPG←公園内に残る土塁状地形
 高野城は、今城(いまんじょ)とも呼ばれ、歴史不詳の城である。伝説では、938年に平将門は高野に興世王の分城を築き、「今城」(今造られた城という意味)と名付けたとされるが定かではない。一方、城の形態が極めて素朴なものであることから、戦国期以前の城と推測されている。この守谷地区では、南北朝期の1340年に守谷城主相馬忠重が南朝方に付き、城を築いて春日顕国を迎えたという記録があることから、その時の城が高野城ではないかとも考えられている様だ。

 高野城は、比高15m程の半島状台地の先端に築かれている。現在は台地自体の形状が大幅に改変・拡張され、一面が住宅団地に改変されてしまっており、往時の姿はほとんど失われてしまっている。住宅地内にある「うららか公園」が唯一の城の名残で、土塁と思われる地形が残っている。公園内は2段の平場に分かれているが、下段の平場はどうも採土で失われた跡らしい。住宅地の高さも採土で削られた後の高さであるらしく、公園よりも数m程低い。というのも、公園の北側は以前は谷戸になっていたが、1970年代に住宅地造成のために谷戸を埋めてしまっているのである。おそらく谷戸を埋める土を確保するため、城のあった元の台地を大々的に削ったのではないかと推測される。破壊される以前に城址を調査した結果の図によれば、台地のくびれが3ヶ所あり、そこを堀切で分断していたらしい。台地続きに当たる主郭の北東部にだけ土塁が築かれ、公園内に見られるのはその名残の様である。いずれにしても様々な伝説に彩られた謎の多い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.931438/139.992149/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖橋城
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守谷城(茨城県守谷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8932.JPG←屈曲する大規模な空堀
 守谷城は、下総相馬氏の居城である。伝説では、平将門が築いて居城としたとされるが、相馬氏による仮託であろうとされる。相馬氏は平将門の裔を自称しているが、実際には下総の名族千葉氏の庶流に当たる。千葉介常胤の2男師常を祖とし、下総国相馬御厨を相続して相馬氏を称した。師常は、源頼朝の奥州合戦での軍功により陸奥国行方郡を与えられ、これによって宗家である下総相馬氏と、庶流である奥州相馬氏に分かれて発展することとなった。現在有名なのは「相馬の野馬追」で有名な奥州相馬氏であるが、本来は下総相馬氏が宗家であった。室町時代には、下総相馬氏は守谷城を居城とし、筒戸氏などの庶流を周囲に分封して所領支配を行った。基本的には、千葉宗家の一族衆として活動していたと見られているが、1455年に勃発した享徳の大乱で鎌倉公方であった足利成氏が古河に移り、古河公方と呼ばれて周囲に奉公衆を配して勢力を固めると、相馬氏もその奉公衆となったらしい。戦国時代に入って小田原北条氏が勃興し、勢力を拡張させてくると、古河公方奉公衆筆頭の簗田氏に従って活動していた相馬治胤も、1566年に北条氏に服属した。北条氏政は、北条氏の血を引く古河公方足利義氏のために守谷城の明け渡しを要求し、8月には義氏の母芳春院(北条氏2代氏綱の娘、北条氏康の妹)が守谷城に入り、相馬氏の居城としての歴史を終えた。その後、北条氏の手によって拡張整備され、北下総の要衝にふさわしい戦国城郭となった。1590年の小田原の役では、治胤の子秀胤は小田原城に籠城し、一方の守谷城は徳川家康に攻められて落城した。北条氏が滅亡すると、相馬氏は関東に入部した徳川氏の旗本となり、守谷城は徳川氏の家臣菅沼(土岐)定正が1万石で守谷城主となった。その後、一時期を除いて菅沼氏の支配が続いたが、1628年に菅沼頼行が出羽上山城に転封となると、守谷城は廃城となった。

 守谷城は、低湿地帯に張り出した半島状の台地に築かれた城である。大きく城山地区と城内地区に分かれ、城山地区が要害としての守山城の主城部、城内地区が戦国後期に拡張された外郭である。芳春院が居たのは、この外郭の本丸(現在の守谷小学校の校地)であったと推測されている。外郭部は市街化が進み、一部の土塁を除いて遺構はほとんど湮滅しているが、主城部は城址公園として整備され、遺構がよく残っている。先端から、妙見郭・主郭・二ノ郭・三ノ郭と連なり、それぞれ堀切で分断した縄張りとなっている。北条氏の城らしく、随所に横矢掛かりが設けられ、土塁で囲まれた枡形虎口など技巧的な縄張りである。特に素晴らしいのは二ノ郭の空堀で、深く大きな堀が屈曲している様は、まさに北条流の築城術そのものである。また、主郭の堀切は、二重堀切となり、馬出し機能を兼ねた中間の土塁にも横矢を設けている。公園として整備されているので夏でも訪城可能であるが、これらの素晴らしい遺構を堪能するには、やはり冬場が良い。また、外郭土塁も小学校脇のものしか確認していないが、その他にも数ヶ所残存している様なので、又折を見て確認してみたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.949836/140.006440/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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筒戸城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8880.JPG←主郭北側の堀跡と切岸
 筒戸城は、1559年に守谷城主下総相馬氏の庶流、筒戸氏によって築かれた城である。1589年、筒戸城は、多賀谷氏とその重臣の大曽根城主白井全洞らの攻撃を受けた。時の城主は筒井衛門とも、守谷城主で相馬氏の当主であった相馬治胤が城主を兼ねていたとも言われる。1590年、小田原の役の際に再び多賀谷氏に攻められて落城し、その後廃城になったと伝えられている。

 筒戸城は、小貝川とその支流の小河川に挟まれた、比高わずか2~3m程の段丘先端に築かれた城である。周辺も城内も宅地化や市街化が進んでおり、往時の景観は失われているが、地勢は残っている。主郭は台地南東端のくちばし状に尖った部分にあり、民家となっているが、その北側の車道は往時の空堀跡で、主郭側には切岸や土塁が残っている。この空堀は、往時は主郭西側まで掘り切っていたが、西側はほとんど埋められてしまっていて、堀跡らしさは残っていない。主郭の北には二ノ郭が広がっており、現地解説板の略測図によれば二ノ郭北辺にも外堀が廻らされていたようだが、現在はほとんど湮滅してしまっている。以上のような感じで、僅かな土塁と堀跡のみを留める以外は、ほとんど城跡らしさを残さない城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.965485/139.993780/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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多賀城(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0353.JPG←政庁まで伸びる南大路の跡
 多賀城は、多賀柵とも呼ばれ、律令国家によって造営された陸奥国府である。奈良時代前半に創建され、国府であると共に鎮守府としての機能も有した古代城柵でもあった。多賀城碑の碑文と発掘調査の結果などから、4期に渡る変遷と次の歴史が明らかになっている。即ち、多賀城の創築(第1期)は、724年、按察使兼鎮守将軍の大野東人による。第2期は762年、藤原朝獦により大改修が施された。しかし780年に伊治公呰麻呂の乱で焼き討ちにあって焼失した。その後再建され(第3期)、802年、征夷大将軍坂上田村麻呂によって北方に胆沢城が新たに築かれると、鎮守府機能は多賀城から胆沢城に移された。869年の貞観大地震で多賀城は破壊を受け、城下には津波が押し寄せて1000人以上が溺死したと言う。被災後に復興されたが(第4期)、10世紀半ばには城柵としての機能を失った。
 古代城柵としての歴史はここで一旦終りを迎えるが、その後の前九年の役・後三年の役でも軍事拠点として使用された。1333年の建武の新政では、後醍醐天皇の命により北畠顕家が陸奥国司・鎮守府大将軍に任じられ、皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、父北畠親房と共に多賀城に下向して奥州府を統治した。しかし発掘調査ではこの時期の遺構は確認されておらず、南北朝期の陸奥国府の正確な所在は不明である。尚、作貫地区では中世の豪族の居館跡が検出されており、建武期の奥州府がここに置かれた可能性もあるのではないだろうか。足利尊氏が後醍醐天皇から離反し、南北朝の抗争が始まると、多賀城は北朝方の激しい攻勢に晒され、1337年正月、顕家は遂に多賀城を放棄して霊山に陸奥国府を移した。その後、奥州探題として入部した大崎氏が大崎地方を本拠とするようになると、多賀城は歴史から姿を消した。

 多賀城は、現在国指定の特別史跡として整備されている。砂押川と加瀬沼の間にある丘陵一帯を城域に取り込んだ広大な城柵で、外周には築地塀の跡が土塁状の高まりとなって延々と残り、北東部には東門跡、南面には南門跡が発掘復元(基壇のみ)されている。また中央には政庁跡があり、やはり基壇などが復元整備されている。そこから谷戸を挟んだ東の丘陵上(作貫地区)には古代の役所跡とともに中世の豪族居館も確認されており、広い城柵内でここだけ、土塁と空堀が残っている。江戸時代にはここに、鹽竈神社の神官の屋敷も置かれていたらしい。外郭南西部には西門もあったようだが、そこは民有地のせいか整備されていない。この他では、城内の石敷き道路や、政庁跡から南門を貫通して一直線に南に伸びる大路も復元整備されている。城内は起伏に富んだ丘陵地で、宮沢遺跡と同様な構想で作られていることがわかる。私は、古代城柵フリークではないので、あまり強い感慨は抱かなかったが、日本古代史好きの人には必見の史跡であろう。日本三古碑の一つである多賀城碑も必見。
外郭北東の隅櫓跡→IMG_8686.JPG
IMG_8734.JPG←作貫地区に残る空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.306574/140.988386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古代城柵
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小曾沼城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8666.JPG←城址とされる高玉神社
 小曾沼城は、南北朝期にこの付近に勢力を持っていた大河戸氏の出城である。北にわずか600m程しか離れていない一名坂城と共に、一体となって機能したと見られ、その経緯は一名坂城の項に記載する。結局大河戸一族は、頽勢が濃くなると一名坂城・小曾沼城に立て籠もってこれを死守したが、衆寡敵せず間もなく北朝方の吉良貞家の軍勢に攻略され、大河戸氏の本拠山村城も陥落したと言う。
 小曾沼城も一名坂城と同様、その位置は明確ではないが、現在の高玉神社付近にあったのではないかと推測されている。なんでも、城名も元は「獺(カワウソ)の住む沼(獺沼)」の転訛だとのことだそうだが、往時の地形は七北田川の氾濫等で変わってしまっているらしい。『泉市史』では「高玉稲荷社が、小曾沼の城跡に営まれたものとの伝承がある」と記載しているそうだ。周囲一帯は完全に市街化されており遺構は望むべくもない。推定地のすぐ西側には奥州街道が通っており、小曾沼城と共に七北田川の渡河点を押さえる出城であったと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.317720/140.891955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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一名坂城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8662.JPG←城址推定地南の傾斜地
 一名坂城は、南北朝期にこの付近に勢力を持っていた大河戸氏の出城である。大河戸氏は武蔵大河戸氏の後裔で、源頼朝の奥州合戦の軍功により陸奥国宮城郡山村の地を賜った。南北朝期には山村城(山邑城)を本拠とし、一名坂城・小曾沼城を出城として築いていた。室町幕府の内訌「観応の擾乱」が生起すると、それにつけ込んで各地の南朝方が一斉に反攻を開始し、大河戸氏も南朝方に付いて皇子山村宮を奉じ、北朝方の吉良貞家と交戦した。1352年、宇津峯宮を奉じた北畠顕信も、北朝方を打ち破って進軍し、国府多賀城の奪還に成功した。しかし、翌年には吉良貞家は勢力を盛り返し、多賀城を攻撃した。多賀城救援のため大河戸一族と共に出撃した山村宮は、北朝方の優勢な軍事力の前に討死し、多賀城は再び北朝方の手中に帰した。宇津峯宮・北畠顕信らは宇津峯城に逃れて抗戦を続けた。山村宮の討死後、大河戸一族は一名坂城・小曾沼城を死守したが、衆寡敵せず間もなく北朝方に攻略され、更に本拠の山村城も陥落したと言う。

 一名坂城は、その位置は明確ではないが、現在の七北田小学校付近にあったのではないかと推測されている。位置も明確ではないぐらいであり、しかも周囲一帯は完全に市街化されており遺構は望むべくもないが、推定地付近は七北田川北岸の丘陵地で、大きな傾斜地の上にあり往時は要害であったことが伺える。また推定地のすぐ西側には奥州街道が通っており、小曾沼城と共に渡河点を押さえる交通の要衝であったことも伺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.322602/140.892448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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