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茂ヶ崎城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8493.JPG←竪堀と推測される地形
 茂ヶ崎城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の居城と伝えられている。粟野氏は、元々越前を本拠としていたが、1342年に粟野藤三郎駿河守重直が軍功によって、足利尊氏から名取郡2千余貫を賜り、翌年茂ヶ崎城を築いて居を構えたとされる。その後6代国定は、文明年間(1469~86年)に伊達成宗と争い、敗れてその支配下に入った。粟野氏は北目城や沖野城を支城に持ち、一説には戦国後期には粟野氏の本城は北目城に移っていたとも言われる。伊達政宗時代の当主は大膳太夫重国で、伊達氏の重臣として活躍したが、1591年に政宗に抗したらしく、城を逐われ、重国は失意のうちに1623年に死去したと伝わっている。江戸時代には、城跡に仙台藩主4代伊達綱村によって大年寺が建立され、また無尽燈廟・宝華林廟の2つの墓所が造営されたため、多くの改変を受けた。

 茂ヶ崎城は、標高120m程の大年寺山に築かれている。前述の通り江戸時代に大きな改変を受けたため、どのような縄張りの城だったかはあまりわかっていない。東麓から大年寺の参道が伸びているが、途中に千人溜と呼ばれる平場がある。また参道から脇に伸びる小道を南に進むと、山腹を貫通する竪堀状の地形が見られるが、山上の堀状地形から伸びていることから推測して、遺構ではないかと推察される。遺跡調査報告書によれば、主郭は仙台放送のアンテナの建つ丘陵最高所にあったと推測され、その前後に空堀が残っているらしいが、未確認である。その他は丘陵上の改変が激しく、遺構は失われている。少々山容が大き過ぎ、前述の通り丘陵最高所が主郭であったとすると、かなり大型の山城ということになってしまい、粟野氏の勢力から考えるとやや疑問に思う。もう少し小型の城であったと推測するのが普通と思うが、現況と合わず謎が多い城である。
 尚、伊達氏の墓所の内、無尽燈廟は公開されているが、宝華林廟は未公開となっており、塀越しに僅かに望むことしかできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.237371/140.873029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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