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師山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8631.JPG←主郭北東角の隅櫓の張り出し
 師山城は、大崎氏の重臣渋谷弥三郎の居城と伝えられている。一説には、大崎氏2代直持が師山城を居城として勢力を拡大したとも言われる。1534年、大崎氏家中で「天文の内乱」が生起し、新田安芸頼遠が中新田・高木・黒沢氏らと共に主君大崎義直に反旗を翻すと、義直は自力で叛乱を鎮圧できず、伊達稙宗に援軍を仰いだ。請いを容れて大崎領内に進軍した稙宗は、師山城を拠点として反義直勢力の拠点古川城を攻撃したと言う。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。留守政景を総大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、対する大崎方は中新田城・桑折城・師山城の備えを固めて伊達勢に抵抗した。結局攻めあぐねた伊達勢は、天候の急変(大雪)を受けて大敗した。その後の城の歴史は不明であるが、1590年の大崎氏の改易によって廃城となったのだろう。

 師山城は、城山と呼ばれる微高地にあった。周囲を小河川の流れる低湿地帯に囲まれ、そこに半島状に突き出した低台地を利用した城であったと推測され、標柱の東にある段々の高台となった畑地は主郭の遺構と思われる。昭和20年代の航空写真と見比べると、現在とほとんど地形が変化していないので、おそらく往時の形状をかなり留めていると思われる。主郭の周囲には腰曲輪の他、隅櫓の張出しまで確認できる。主郭に繋がる台地基部ももちろん城域だったと思われるが、そちらは現在は宅地化で改変され、遺構は確認できない様である。遺構として明瞭なのは主郭部だけであるが、往時の雰囲気は感じられる。
主郭南西部の湾曲する塁線→IMG_8652.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.544708/140.977356/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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新沼城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8594.JPG←主郭跡とされる稲荷神社
 新沼城は、大崎氏の家臣遠藤掃部と上野甲斐の居城と伝えられている。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。留守政景を総大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、中新田城を包囲攻撃したが、守将南条下総守の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、殿を務めた侍大将小山田筑前を討ち取った。大敗した伊達勢は退路を失い、泉田重光率いる残兵は命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。結局、泉田重光・長江月監斎両将を人質に出すことで、大崎氏と伊達氏の和議が成立し、新沼城に孤立していた伊達勢は引き揚げを認められたと言う。その後の城の歴史は不明であるが、1590年の大崎氏の改易によって廃城となったのだろう。

 新沼城は、東北道のすぐ西にある下沖集落に位置している。集落中央付近の畑地の中に建つ稲荷神社付近が主郭とされ、その周辺の東西120m、南北100m程の範囲に主郭が拡がっていたとされる。城内は宅地や耕地に変貌して、遺構は完全に湮滅している。主郭付近はわずかに微高地となっているが、改変が激しく輪郭もはっきりしない。辛うじて堀跡と思われる水路が残っているだけである。稲荷神社脇に城址標柱がなければ、誰もここが城跡とは思わないであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.540278/140.926867/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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中新田城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8588.JPG←神社裏に僅かに残る主郭土塁
 中新田城は、奥州探題大崎氏の居城の一つとされている。大崎氏の事績については名生城の項に記載する。斯波家兼が奥州管領(後の奥州探題)となって奥州に下向し、最初に居城としたのが中新田城とも言われている(一説には師山城が最初とも)。その後大崎氏は居城を幾度か移したと見られ、12代大崎義直と13代義隆が中新田城を居城としたとされている。しかし義隆の時に名生城に居城を移したと言われ、その後は家臣南条下総守が城代として居城したと言う。1588年に大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。南条下総守は中新田城に籠城し、留守政景を総大将とする伊達勢を迎え撃った。伊達勢は中新田城を包囲したが、南条氏の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、殿を務めた侍大将小山田筑前を討ち取った。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって、大崎氏は小田原不参の故を以って改易され、中新田城は廃城となった。藩政時代には2代仙台藩主伊達忠宗が領内巡察の際、城址に仮り舎を設けたことから「御仮屋」と呼ばれた。

 中新田城は、加美町市街北東の国道347号線と457号線が接続する交差点を中心とする一帯にあった。昭和20年代の航空写真を見ると、方形の主郭とその周りの堀跡が確認でき、更に外郭東側の外堀跡も明瞭であるが、現在はほとんど完全に湮滅している。残っているのは、多川稲荷神社の裏の主郭南東角の土塁と北側の外堀跡の水路ぐらいである。つい数年前まで主郭堀跡も低い畑になっていたようだが、それも現在では宅地となってしまっている。ほとんど城跡らしさを残さず、壊滅してしまっているのは残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.573703/140.859854/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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狼塚城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8543.JPG←西辺部の土塁と堀跡
 狼塚城は、上狼塚館とも呼ばれ、大崎氏四家老の一人里見紀伊守隆成の居城である。紀伊守の名は大崎合戦でも現れており、斜陽の大崎氏を支えた武将の一人であった様である。
 狼塚城は、慈恩院の北側に築かれている。低地帯に浮かぶ微高地にあり、城内は宅地化が進んでいるが、城の西辺部は最もよく遺構を残しており、林の縁に土塁と堀跡が確認できる。どこかに城址標柱もあるらしいのだが、発見できなかった。尚、慈恩院には里見紀伊守の墓が建っているが、本当の墓は本堂の須弥壇の下にあると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.579155/140.869639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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茂ヶ崎城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8493.JPG←竪堀と推測される地形
 茂ヶ崎城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の居城と伝えられている。粟野氏は、元々越前を本拠としていたが、1342年に粟野藤三郎駿河守重直が軍功によって、足利尊氏から名取郡2千余貫を賜り、翌年茂ヶ崎城を築いて居を構えたとされる。その後6代国定は、文明年間(1469~86年)に伊達成宗と争い、敗れてその支配下に入った。粟野氏は北目城や沖野城を支城に持ち、一説には戦国後期には粟野氏の本城は北目城に移っていたとも言われる。伊達政宗時代の当主は大膳太夫重国で、伊達氏の重臣として活躍したが、1591年に政宗に抗したらしく、城を逐われ、重国は失意のうちに1623年に死去したと伝わっている。江戸時代には、城跡に仙台藩主4代伊達綱村によって大年寺が建立され、また無尽燈廟・宝華林廟の2つの墓所が造営されたため、多くの改変を受けた。

 茂ヶ崎城は、標高120m程の大年寺山に築かれている。前述の通り江戸時代に大きな改変を受けたため、どのような縄張りの城だったかはあまりわかっていない。東麓から大年寺の参道が伸びているが、途中に千人溜と呼ばれる平場がある。また参道から脇に伸びる小道を南に進むと、山腹を貫通する竪堀状の地形が見られるが、山上の堀状地形から伸びていることから推測して、遺構ではないかと推察される。遺跡調査報告書によれば、主郭は仙台放送のアンテナの建つ丘陵最高所にあったと推測され、その前後に空堀が残っているらしいが、未確認である。その他は丘陵上の改変が激しく、遺構は失われている。少々山容が大き過ぎ、前述の通り丘陵最高所が主郭であったとすると、かなり大型の山城ということになってしまい、粟野氏の勢力から考えるとやや疑問に思う。もう少し小型の城であったと推測するのが普通と思うが、現況と合わず謎が多い城である。
 尚、伊達氏の墓所の内、無尽燈廟は公開されているが、宝華林廟は未公開となっており、塀越しに僅かに望むことしかできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.237371/140.873029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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富沢館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8475.JPG←主郭の堀と土塁(ブルーシート部)
 富沢館は、この地の土豪山岸氏の居館であったと推測されている。史書には、天文年間(1532~54)に山岸肥前宗成が富沢邑に居住していたとされ、戦国時代に山岸氏の支配する村であったことが伝えられている。江戸時代には、入生田氏が富沢館に在郷屋敷を構えた。入生田氏の祖は清康で、その子元康は1636年に伊達政宗に殉死した。その後も、仙台藩士入生田氏の居館として続いた。

 富沢館は、環郭式の平城形式の居館である。新笊川をそのまま外堀に取り入れて、その南岸に築かれている。土塁と堀で囲まれた主郭の周囲に、外郭をぐるりと廻らしていた。ここ2~3年で、区画整理事業のために発掘調査が実施され、外郭は既に整地の重機類によって蹂躙されている。主郭は、半年前には辛うじて西側土塁と堀が、ブルーシートを掛けられたまま残っていたが、現在はどうなってしまったかわからない。既に全面的に破壊されているかもしれない。いずれにしても昭和20年代後半の航空写真ではきれいに残っていた環郭式の平城は、今や開発で風前の灯である。何とか保護の手立てを講じられなかったのかと悔やまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.214632/140.861464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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川崎城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8457.JPG←二ノ丸の土塁と堀切跡の林道
 川崎城は、前川城とも呼ばれ、また藩政時代には川崎要害と呼称され、伊達21要害の一である。この地を領していた中ノ内城(前川本城)主砂金実常が、新たな拠点として1608~10年にかけて築城した。実常は大阪夏の陣に従軍して25貫加増され、伊達家一族の家格に列せられた。以後、砂金氏4代約90年に渡る居城となったが、砂金重常が1702年に病没すると、無嗣断絶となった。同年、宮床伊達氏の当主伊達村興が川崎要害に入り、20年間居住したが、1722年に再び宮床に戻った。同年、伊達綱宗の孫村詮が2000石で川崎要害を与えられて城主となり、伊達一門に列して川崎伊達家を創始した。そのまま川崎伊達家の居城として幕末まで存続した。

 川崎城は、北川の南岸に東西に連なる、比高20m程の丘陵西端部に築かれている。かなり単純な縄張りの城で、東西2郭から成り、先端に当たる西側が本丸で城主の居館があり、東側が二ノ丸で家中屋敷を置いていた。現在本丸は公園となり、二ノ丸は川崎小学校の校地と畑に変貌しており、遺構は湮滅が進んでいる。各曲輪は以前は土塁で囲繞されており、本丸東側の土塁の内側には空堀もあったとされるが、本丸については土塁も空堀も現在では全くわからなくなってしまっている。一方、二ノ丸も改変が進んでいるものの、畑となった東半分は遺構が残存し、城域東端の堀切が林道となって残り、この林道沿いに二ノ丸東辺の土塁がよく残っている。わずかながらも遺構が残り、地勢も往時のままなので、城の雰囲気は感じられる。また城の南方の市街地を貫通する道路には、城下町特有の鉤の手も残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.179320/140.645385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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兵糧楯(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8386.JPG←二重横堀と竪堀の防御構造
 兵糧楯は、歴史不詳の城である。一説には、横尾兵衛という武士が城主であったとも言われることから、兵衛館とも呼ばれる。また別説では、志津摩信濃守(志津戸信濃守?)の居城であったともされる。一方、古代アイヌの「チャシ」ではなかったかとの説もあるほか、南東1.6kmにある西小屋館と関連する城砦との説も提示されている。いずれにしても、多くの謎に包まれた城砦である。

 兵糧楯は、標高228.5m、比高130m程の山稜上のピークに築かれている。山麓からの距離は長いが、幸い車道が城近くまで整備されており、至る所に案内板も出ているのであまり迷うことなく到達できる。非常に特異な形態の城で、北東面と南西面に二重の横堀を穿って防御した縄張りとなっているが、横堀は全周を囲繞しているわけではなく、北西と南東では切れてしまっており、中途半端な防御構造となっている。その一方で、南東には馬出し的な独立小郭が構築され、下方への防衛拠点となっていた様である。また東端部でも横堀沿いに馬出し的な小郭があるが、南東のものほど独立性が高くない。また東端付近は二重横堀に加えて2本の竪堀も穿たれ、これらの組み合わせにより巧妙な防御構造が構築されている。一方、城の中心となる主郭は、曲輪内がやや傾斜した削平の甘い平場で、外周に数段の帯曲輪を廻らしている。西側にも搦手と思われる虎口が築かれ、横堀と帯曲輪の段を貫通して主郭に通じている。全体としては卵型をした単郭の城砦であるが、全体として円形の構造など、確かにチャシっぽい印象を受ける。現地解説板にもある通り、古代の祭祀の場所が中世に地方豪族の合戦の砦に転用されて来たものの様に感じられる。夏場でも公園として綺麗に整備されており、特異な遺構と相俟って非常に興味深い。
南東の独立小郭→IMG_8361.JPG
IMG_8390.JPG←北東辺の二重横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.137223/140.677807/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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勝岡城(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8326.JPG←切岸と大手道跡の車道
 勝岡城は、後に平沢要害とも称され、伊達21要害の一である。伝承では、1402年に国分河内入道が伊達氏よりこの地を賜ったものとされている。また一説には、1591年頃に越後上杉氏の部将甘糟備後守が築城した城とも伝えられるが明確ではない。城の歴史がはっきりするのは、この地が伊達領に復してからで、慶長年間(1596~1615年)末に、伊達家の着座衆の一家、高野家15代光兼が百貫文で平沢を賜り、家中70余を引き連れて伊具郡丸森郷よりこの地に移住し、平沢要害を整備したと言う。その後高野家は9代200余年にわたってこの地を領し、幕末まで存続した。

 勝岡城は、平沢地区の比高20m程の丘陵上に築かれている。往時は、本丸と二ノ丸を土塁で囲み、南方には広く堀を巡らし、家中足軽等の屋敷を区別した約100戸の城下町を形成していたらしい。しかし城地が良質珪藻土の産地だったことから、明治末期から採掘されてしまい、平沢要害を含む丘陵部が根こそぎ破壊されてしまっている。現在は残った丘陵上に公民館が建ち、城跡の石碑と解説板が建っているが、前述の通り地形は大きく変えられてしまっているらしい。従って、車道沿いに見られる切岸地形も、どこまで往時の形状を残しているかは不明である。しかし南の屈曲する車道は、往時の大手道の形状をそのまま残しているようで、それから考えれば東側の斜面は切岸がそのまま残っている可能性がある。一方、広場になった丘陵西側の低地は、珪藻土採掘で削平された跡である。以上の様に、かなり城の遺構は失われており、現状では城の形状を把握するのも困難な残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.127062/140.681155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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西小屋館(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8296.JPG←土塁と堀跡
 西小屋館は、江戸時代の文献によれば、志津戸信濃守の家臣村上左近という武士の居館と伝えられている。真偽不明であるが、いずれにしてもその遺構から考えれば、中世の国人領主の居館であったと考えられている。また北西1.6kmの丘陵上により要害性の高い兵糧楯(館)があり、それとの関連も指摘されている。

 西小屋館は、周囲を丘陵に囲まれた小盆地の中央付近に位置する居館である。現在館跡は民家になっているが、民家の裏側に当たる西側から北側にかけて、土塁と堀跡が残っており、また南側と東側にも堀跡が一段低い水田となって残っている。平成4年に発掘調査が実施されており、五角形の土塁と堀で囲まれた城館で、更にその西側に区画溝のある外郭があって、家臣の屋敷跡と思われる建物跡も検出されている。
 尚、西小屋館のある小盆地を囲む馬蹄形の周辺丘陵には、「~屋敷」という地名があちこちに見られ、西小屋館を中心にして居館群が形成されていた可能性もある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.125881/140.689673/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
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時代錯誤の石碑を建てた日本学協会 [日記]

先日、馴馬城に行ったついでに、来迎寺に行って国重文の多宝塔を見、次いで春日顕国の石碑を見学しました。平成19年に建てられた真新しい碑でしたが、その背面に刻まれた碑文が恐ろしく時代錯誤なもので、一読して呆れ果てました。その碑文は次の通りです。

「常総龍ヶ崎に古城あり 馴馬城と称す 建武中興期に忠臣春日中将顕国公が拠りて尊王の御旗を翻し大義を唱えし処なり 城兵の義憤慷慨の忠勇は凛々として正気にあり 其の顕著な戦果は建武中興に極めて貢献す 時に馴馬城外に国宝来迎院多宝塔が聳え建つ 征夷大将春日顕国公一統の忠魂者御霊碑を納める供養塔なり 嗚呼 風景に古今の変ありと雖も公の盡忠報国の英魂は永久にこの地に留まる 粛然として敬仰の心を起し公の英風を顕彰す」

戦前の皇国史観というものを知らない人も多いと思うので、注釈をつけておきます。

・「建武中興」
後醍醐天皇の始めた建武の新政を、皇国史観では「中興」と称しています。「武家の暴政から朝廷が政権を取り戻し、正しい姿に戻した」ということで「中興」と称していますが、実態とかけ離れた「虚偽観念」の産物であることは明白です。実態は、現実を無視した後醍醐の理念先行の暴政によって、庶民・武家のみならず公家からも支持を得られず、武家の大きな支持を受けた足利尊氏によって失政を覆されるに至ったもの。ですので、全然「中興」していません。それどころかたった3年で政権の座から追われ、賀名生の山奥に埋没しています。そして結局、3代将軍足利義満にその命脈を絶たれました。それ故、このブログでは一貫して「建武の新政」と称しています。

・「忠臣」
南朝方が忠臣であるとすると、その反対の北朝方は即ち「逆臣・逆賊」となります。これも虚偽観念の産物と言う以外の何物でもありません。室町幕府を開いた足利尊氏が逆賊なら、源頼朝も徳川家康も逆賊なんでしょう。南朝は、武家を虐げ、公家一統を無理に進めようとした失政を行って支持を失ったんですが、皇国史観ではそうした事実を無視しているわけです。後醍醐にとっては忠臣かもしれませんが、当時の圧政に苦しんだ武家・民衆の大多数からすれば国賊ものでしょう。

・「尊王」
南北朝時代の尊王の実態は、朝廷を尊ぶというより、後醍醐天皇への個人崇拝の傾向が強いと思います。大体、後醍醐以前に皇統は、大覚寺統と持明院統に分裂していました。この対立を利用して持明院統を担ぎ出したのが尊氏。大覚寺統の後醍醐が失政で転落した以上、持明院統に皇統が移るのは、当時としては当然の成り行き。ちなみに現在の天皇陛下は持明院統(北朝)の後裔。南朝を戴くのを「尊王」と言うなら、北朝の流れを汲む現在の天皇は認められないはずなのですが。それこそが水戸学・皇国史観の最大の矛盾点。虚偽観念により実態を無視した結果、論理破綻しているのです。戦前の日本の歴史学なんて、そんな観念論がまかり通った低レベルのものだったのです。

・「嗚呼」
昭和恐慌の後、日本全体が大きく右傾化した昭和9年~13年ごろに全国に盛んに建てられた南朝顕彰の碑には必ずと言ってよいほど出てくるのが、この言葉。読む人に感動を強制しているんでしょうか。それとも単なる自己陶酔?いずれにしても「虚偽観念」が産んだ言葉の一つなんでしょうねぇ。

・「盡忠報国」
これまたよく戦前・戦中に盛んに喧伝されていましたね。皇国史観の常套句。意訳すると、要は国のためになら個人の事情や財産など差し置いて、全てを投げ出して奉公しろと。国への奉仕を強制する、個人の権利無視、基本的人権無視の思想です。アベ自民が理想としている国民の姿は、この盡忠報国に一身を捧げる愚昧な民衆です。

どうでしょう、この恐るべき時代錯誤の碑文。石田三成すら過去の事実を洗い直して再評価している、実証主義の歴史学が主柱となっているこの時代に、観念論で事実を全て捻じ曲げる皇国史観が全開の石碑とは!この石碑を建てたのが、「財団法人日本学協会 水戸支部」だそうです。調べてみたら、日本学協会の理事長、あの皇国史観の総元締めだった平泉澄の孫がやってるんですね。戦前暗黒社会の亡霊がまた見つかりました。

このドブネズミのように地下に隠れて生き延びている連中が、アベ自民を裏で操っているんです。日本会議、神社本庁、神道政治連盟などと同穴の醜い極右集団です。憲法改正を唱え、集団的自衛権の必要性を声高に行っている奴らの狙いは、日本を戦前の極右統制社会・軍事優先国家に戻すこと。そうなれば、伊勢派神道は昔の権益を取り戻すことができ、皇族から外された連中も皇族の地位に返り咲いて保護を受け、莫大な予算を取り戻すことができる。また国民の権利を制限して彼らの目指す国家主義の方針に沿って、国民を盲従させられます。アベ自民が主導するマスコミ弾圧・言論統制も、国民から正常な判断力を奪うための手段の一つです。

茨城県は、水戸学発祥の地であるためか、各地を歩いているとどうもこうした戦前回帰主義者が多いような気がします。高萩でお会いした小学校の老齢の先生も「右」でした。風光明媚な良い県だと思うんですがねぇ。
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村田城(宮城県村田町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8182.JPG←本丸背後の横堀
 村田城は、伊達氏の家臣村田氏の居城である。伝承では、室町中期の嘉吉年間(1441~44年)に、下野の名族小山氏の一族小山九郎業朝が下野国小山郷よりこの地に移住し、村田氏を称して伊達氏の家臣となり、館を築いたとされる。6代紀伊守近重は、伊達氏の内乱「天文の乱」の時、晴宗方に付いた。近重には嗣子がなく、伊達稙宗の9男宗殖を養子として跡を継がせた。宗殖は後に仏門に入り万好斎と号したが、1591年12月に領地を没収され、桃生郡長井に移った。尚、同年9月には、ここで伊達政宗の庶子秀宗(後の宇和島城主)が生まれている。その後、村田郷は伊達家の直轄領(御蔵入地)となり、城代として家臣の後藤三郎右衛門が置かれた。その後、1605~12年は伊達一門の石川昭光が在城した。1613年、政宗の7男宗高がわずか7歳で村田城主となり、3万石を領したが、1626年に20歳の若さで天然痘で病死した。宗高の時代に一国一城令で城の名を除き、村田館となり、宗高の死後、再び伊達家直轄領を経て、1629年に奥山大学常良が館主となった。その後、度々の館主の変遷を経て、幕末まで存続した。

 村田城は、村田町役場と村田第一小学校の背後にある標高54m、比高30m程の丘陵上に築かれている。現在は城山公園となっており、ほとんどの部分が綺麗に整備されており、夏場でも訪城可能である。但し公園化の代償として、一部改変を受けている。V字状の丘陵頂部に方形に近い形状の本丸を置き、周囲には腰曲輪、南東尾根に二ノ丸、北東尾根に三ノ丸を築いている。本丸の西端には大土塁が築かれ、背後には延々と横堀が穿たれている。この横堀は、本丸西側の腰曲輪の背後まで続き、堀切に合流して終わっている。堀切にほど近い部分には竪堀も見られる。堀切は、城の北西続きの尾根上に2本穿たれ、2本の間の曲輪には現在乾八幡神社が鎮座している。V字の尾根の間の低地には居館が置かれていたことは、容易に想像がつく。現在の町役場・小学校の位置に当たる。往時はここに大手門があったが、門だけ近くの願勝寺に移築されている。縄張りとしては大した技巧性はなく、基本的には腰曲輪群で構成された素朴な縄張りの城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.118436/140.720766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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