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下妻城(茨城県下妻市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8076.JPG←本丸の塁線跡
 下妻城は、多賀谷城とも呼ばれ、結城四天王の一家多賀谷氏の本拠である。多賀谷氏は、武蔵多賀谷郷を本領とする多賀谷左衛門尉家政を祖とする。南北朝時代に下総結城氏に属して、その家人となった。永享の乱で足利持氏が滅ぶと、1440年、結城氏朝らはその遺児安王丸・春王丸を奉じて結城城に立て籠もって結城合戦が勃発した。幕府の大軍に攻め囲まれながらも一年余りに渡って頑強に抵抗を続けたが、遂に攻撃の前に敗れ結城城は落城した。名族結城氏は一旦滅び、多賀谷氏も一族の多くが結城合戦で討死したが、多賀谷彦次郎が氏朝の一子成朝を抱いて脱出した。後に鎌倉府が再興され、足利成氏が鎌倉公方になると、成朝を取り立てて結城氏を再興した。こうして主家再興に大功のあった多賀谷氏は、1454年には鎌倉公方成氏の命で関東管領上杉憲忠を急襲して憲忠の首級をあげ(享徳の乱の勃発)、その賞として下妻庄内に三十三郷を与えられ、結城氏の家臣ながら関東諸将の会合に列席する地位を得た。また『鎌倉大草紙』によれば、憲忠の首実検の際に「憲忠は管領なので庭に置いてはいけない」として庭に畳を敷き、その上に多賀谷祥英を座らせて首実検を行ったことから、これ以後多賀谷氏が公方の元に出仕した時には、陪臣にも関わらず庭に畳を敷いて拝謁することが例になったと言う。また多賀谷の姓はこの時拝領したとも伝えられている。そして康正年間(1455~57年)に新たに下妻城を築いて居城とした。こうして勢力を伸ばした多賀谷氏は、結城氏の家臣とは言うものの半ば独立した領主として活動した。戦国時代に入り、小田原北条氏の勢力が伸びてくると、多賀谷政経は北条方に付いた主家結城氏と別行動を取り、関東に出馬した上杉謙信の陣営に加わり、北条氏に抵抗した。その後政経は、同じく北条氏に敵対した佐竹氏との同盟関係を強めて行った。政経は、岡見氏の拠る谷田部城を攻略し、南進の前線拠点としたが、岡見氏はこれに対し、牛久城を拠点に北条氏の支援を受け、多賀谷氏に対抗した。政経が死ぬと、その後を継いだ重経は、更に佐竹氏との結び付きを強め、北条方の岡見氏・江戸崎土岐氏らと激しい攻防を続けた。北条氏も、佐竹氏・多賀谷氏らの反北条勢力を制圧するため何度も常陸南部に侵攻を繰り返したが、その都度撃退された。1590年の小田原の役では、重経は結城晴朝、水谷勝俊らと小田原に参陣して秀吉に拝謁し、役後、下妻6万国を安堵された。重経は、長男三経を差し置いて、佐竹義宣の弟宣家を養嗣子として迎え、下妻多賀谷氏の当主とした。一方、三経は太田城を築いて居城とし、結城晴朝の家臣となった。この結果、多賀谷氏は二系統に分裂することとなった。関ケ原合戦の際、重経は上杉景勝に通じた為、徳川家康によって改易された。戦後の論功行賞で、多賀谷三経は主君結城秀康(徳川家康の次男)に従って越前に移り、越前松平氏の重臣となった。一方、多賀谷宣家は佐竹義宣に従って出羽秋田に移り、改めて岩城氏の名跡を継いだ。重経は流亡の生活を送った挙句、井伊家に仕官した末子茂光を頼って彦根に住し、そこで生涯を終えた。1606年、徳川頼房が10万石で下妻城に封じられたが、1609年に水戸城に移った。1615年に松平忠昌が、翌年には松平定綱が下妻に封じられたが、定綱が遠江掛川城に移封になると一時幕府直轄領となった。その後1712年に井上正長が下妻に入封して陣屋を構え、幕末まで陣屋支配が続いた。

 下妻城は、一時期強勢を誇った下妻多賀谷氏の本拠であるが、多賀谷氏のこの地での足跡と同様、ほとんど完全に消え失せている。元々は低湿地帯に囲まれた浮島のような城で、天険の要害であった。戦後の航空写真を見ると、本丸やその周辺の曲輪の輪郭がはっきりと残っており、その形を近代までとどめていたが、昭和36年の都市整備事業でその姿は失われてしまった。しかし、往時の航空写真とGoogleMapの航空写真を見比べると、各曲輪の痕跡が道路等に残っているのがわかる。本丸は現在の城址公園の位置にあり、公園東側の湾曲した道路は主郭塁線の名残である。また市民文化会館の西側に残る1m程の段差や、法泉寺周囲に残る段差も周囲の曲輪の塁線の跡である。もはや城とは思えない程変わり果ててしまっているのは、街中の平城の宿命のため、やむを得ないところなのであろう。
二ノ丸の塁線跡の段差→IMG_8095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.184225/139.966185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世水城
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鷲宮砦(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8055.JPG←堀跡とされる窪地との段差
 鷲宮砦は、南北朝時代に北朝方の武将、高師冬が築いた砦と伝えられている。1338年、北畠顕家・新田義貞らの相次ぐ戦死により、吉野の後醍醐天皇は各地の南朝勢力の再建が喫緊の課題となった。そこで重臣の北畠親房を常陸に降し、坂東の地において南朝勢力の結集を図った。常陸には小田氏など南朝方に残っている武家が多く、これを頼りとしたのである。一方、足利尊氏はこうした常陸での蠢動を抑えるため、1339年、執事高師直の一族、高播磨守師冬を鎌倉府執事として関東に下向させ、師冬は南朝討伐のため関東各地を転戦した。そして南朝方の拠る駒城を攻撃するため、この鷲宮砦を築いたと言われている。1340年5月、師冬は猛攻により駒城を攻略したが、間もなく総反撃に出た南朝方によって八丁砦等の周辺城砦と共に鷲宮砦を奪還されたと伝えられている様だ。

 鷲宮砦は、現在鷲神社の境内となっている。周囲より僅かに高い微高地で、堀跡とされる窪地も見られるが、城砦らしさはあまり感じられず、本当に遺構かどうかははっきりしない。神社の解説にも一切砦のことは触れられていない。皇国史観の支配していた戦前には北朝方は賊軍とされたので顧みられることがなく、南朝方の駒城と違って何らの碑も建っていないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.183905/139.909580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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和歌城(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8014.JPG←二ノ郭に残る土塁
 和歌城は、室町時代にこの地の土豪和歌氏の居城である。文明年間(1469~86年)に下妻城主多賀谷氏の勢力が鬼怒川以西にも及ぶと八千代地方の土豪達もその旗下に入った。永正年間(1504~21年)末に和歌十郎が小田原北条氏に通じていることが露見し、多賀谷家植は飯沼城主赤松民部に命じて十郎を討ったとされる。その後、和歌城の管理は赤松氏に委ねられ、徐々に城郭として整備された。この間、北条氏の北総侵攻により、焼き討ちに遭うこともあった。1589~91年には、多賀谷重経の長男三経が和歌城に仮住まいした後、太田城に移り、和歌城は改めて赤松氏に授けられた。1601年、結城氏の家督を継いでいた徳川家康の次男結城秀康が越前に移封となると、秀康の家臣となっていた多賀谷三経も家臣団を引き連れて越前に移り、太田・和歌両城は廃城となった。
 尚、この歴史の中で出て来る赤松氏は、南北朝史に名高い播磨の土豪赤松円心の後裔とされ、足利一族の内訌、観応の擾乱で直義党に属して各地を転戦した赤松佑弁が、駿河薩埵山の戦いで大敗し、この地に落ち延びてきたとされている。その一族の墓が不動院に残り、また和歌城内に佑弁の供養塔が建てられている。

 和歌城は、低湿地帯に囲まれた半島状台地に築かれている。城内は耕地化されて相当に改変を受けている。現地解説板の縄張図によれば、土塁と空堀で囲まれた3つの曲輪で構成されていたらしい。それに従うと、改変されながらも主郭・二ノ郭の塁線は概ね追うことができ、二ノ郭には東西に土塁が僅かに残っているのが確認できる。薮の中にも北辺の土塁と船入場が残っているようだが、夏場だったので確認していない。城内に残る赤松佑弁供養の五輪塔が、歴史を物語っている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.179696/139.905267/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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水海城(茨城県古河市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8000.JPG←城址付近の現況
 水海城は、古河公方足利氏の重臣簗田氏の居城である。簗田氏の事績については関宿城の項に記載する。当初の水海城は「旧水海城」と呼ばれ、現在の利根川に接する水海南部地域にあったと推測されている。その後、簗田氏は小田原北条氏との抗争を繰り広げながら、奪われた関宿城を攻略して居城としていたが、結局1574年の第三次関宿合戦で北条氏の軍門に降り、関宿城を明け渡して旧水海城の北方に新たな水海城を築いて移住した。1590年の小田原の役の際には、浅野長吉の軍勢の前に開城降伏した。その後関東に徳川家康が入部すると、簗田氏は徳川氏に仕えたと言う。

 水海城は、現在の水海小学校から神明神社にかけての微高地に築かれていたと考えられている。遺構は完全に湮滅しており、城の名残はほとんど見ることができない。城址推定地付近が僅かに周囲より高くなっているだけである。北条氏と堂々と渡り合った簗田氏の居城にしては、悲しい現実である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.142727/139.756479/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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野木宮古戦場(栃木県野木町) [その他の史跡巡り]

IMG_7924.JPG←野木神社
 野木宮合戦は、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)における北関東の大規模な戦いである。この合戦の年次については2説あり、寿永2年(1183年)説と養和元年(1181年)説がある。従来は寿永2年説が有力であったが、2015年12月に小山市であった「中世小山一族」という3回シリーズの講座では、菱沼一憲氏が養和元年説について説明をしていた。養和元年説に基づくと、野木宮の北部、下河辺荘の支配をめぐる地域対立が合戦の要因で、当時「下野の両虎」と称された藤姓足利氏と小山氏の対立(共に藤原秀郷の後裔)、更に常陸の志田義広、下総の下河辺行平らを巻き込んだ、下野・上野・下総・常陸の武士達による北関東最大規模の地域紛争であったと解される。この時、源頼朝の弟範頼が合戦に加わっているが、これは小山朝政に旗頭として擁立された可能性があるということであった(これが範頼の歴史の表舞台への実質的な登場となる)。この合戦によって、小山氏より強勢だった藤姓足利氏は没落して源姓足利氏に取って代わられ、秀郷流藤原氏の嫡流が小山氏に移るなど、中世のこの地域の勢力構造を規定することになった。また、頼朝政権が確立する前から源範頼と小山・下河辺ら北関東武士団との結びつきがあり、これが後の範頼を総大将とした西征軍を北関東武士団が支え、西海合戦での困難な持久戦を完遂させた要因になったと推測されている。

 野木宮古戦場は、現在の野木神社の周辺一帯で行われた。この地は思川東岸の河岸段丘の縁に当たり、登々呂木沢・地獄谷などの沢筋が入り込む田園地帯であったと思われる。沢筋は今も残っているが、僅かな窪地に過ぎず、「地獄谷」と呼ばれるほどの急峻さを思わせる往時の面影はかなり薄れている。住宅地の奥にある野木神社は平安時代に創建された古社で、ここだけが往時の静寂さを伝えているかの様である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.215540/139.708114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古戦場
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板橋城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7892.JPG←堀切跡の様に見える窪地
 板橋城は、牛久城主岡見氏の支城である。天正年間(1573~92年)後半に岡見治広が小田原北条氏に提出したとされる『岡見氏本知行等覚書』によれば、岡見氏の属城として、本拠の牛久城の他に東林寺城谷田部城足高城、板橋城があり、板橋城は岡見氏の家臣月岡上総介が城主であったと記載されている。史実不詳ながら、伝承では1587年に下妻城主多賀谷重経によって攻撃され、月岡氏は開城降伏したとされる。それ以外の歴史についても、伝承はあるが虚実不明であるため、ここには記載しない。

 板橋城は、小貝川・中通川水系の氾濫原に面した台地の縁に築かれている。板橋不動尊(不動院)から南西と西に伸びる台地を城域としていたらしく、おそらく板橋不動尊も外郭の中に取り込まれていたのだろう。城内は宅地化が進んでおり、遺構は湮滅している。僅かに土塁状の土盛りや堀状の窪地が散見されるに過ぎず、これらが遺構であるどうかもわからない。城跡より何より、板橋不動尊の伽藍が素晴らしく、そちらを主目的で行った方が良い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.979204/140.049677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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谷田部藩陣屋(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7874.JPG←貴重な遺構、陣屋玄関
 谷田部藩陣屋は、肥後熊本藩細川氏の分家が谷田部藩を立藩して築いた陣屋である。細川忠興の弟興元は、関ヶ原の戦い・大阪夏の陣に参戦し、その功により1616年、既に拝領していた下野茂木1万石に更に常陸谷田部を加増され、合計16,200石の大名となった。1619年、興元の子興昌は、藩庁を茂木から谷田部に移して、谷田部藩が成立し、陣屋を造営した。陣屋の北と東には堀を廻らし、内部には役所・藩主住居・文館・武館・馬場等があった。1844年に火災で消失し、その後再建された。幕末になると谷田部藩は財政危機に陥り、二宮尊徳の仕法により藩政改革を行った。250年9代に渡って存続し、そのまま明治維新を迎えた。

 谷田部藩陣屋は、谷田部城の北側、谷田川と西谷田川に挟まれた台地の北東角部に築かれている。現在陣屋跡の大半は谷田部小学校の校地となり、周辺も宅地化で改変されつくされているので、陣屋跡の面影は全く残っていない。しかし戦後間もなくの航空写真を見ると、明治初期に描かれた陣屋絵図の輪郭を、ほぼ追うことができる。尚、小学校の前に陣屋の玄関が移築されて残っている。小学校の中に「谷田部城址」という石碑があるらしいが、未見。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.034195/140.074632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣屋
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谷田部城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7857.JPG←八幡宮裏にある段差
 谷田部城は、小田城主小田氏の支城である。鎌倉後期に小田氏5代宗知の子、小田宗寿が谷田部に分封され、谷田部城を築いて谷田部氏の祖となったと言う。以後谷田部氏は、小田家中において一門六家に名を連ねる重臣となった。1549年に編纂された『小田家風記』には、谷田部城主として谷田部刑部少輔の名が見える。しかしその後、同じ小田氏の重臣で牛久城主岡見氏の管理下に入った様である。1570年、岡見頼忠が城主の時、下妻城主多賀谷政経・経伯兄弟の攻撃を受けて落城し、多賀谷経伯の居城となった(この時の谷田部城主は谷田部寿教だったとの説もあるが、その後の谷田部城奪還戦は岡見氏が主導しているので、岡見氏の属城になっていた可能性が高い)。1580年、北条氏照の支援を得た頼忠は、1千騎で谷田部城を攻撃し、多賀谷経伯・経明を激戦の末、追い詰めて自刃させた。しかし谷田部城は、再び多賀谷政経の子重経に攻撃され、頼忠は流れ矢を受けて討死し、重経が谷田部城主となって、渡辺越前守・平井手伊賀守ら25人を置いて支配した。1589年には、牛久城主岡見治広が谷田部城奪還を図ったが、不成功に終わった。1602年、佐竹氏が出羽秋田に移封となると、多賀谷氏も秋田へ移った。近世には、肥後熊本藩細川氏の分家が谷田部藩を立藩し、谷田部陣屋が置かれた。

 谷田部城は、谷田川と西谷田川に挟まれた台地上に築かれていたらしい。現在は宅地化で改変されつくされ、しかも近世には城の北側に陣屋が置かれて町割りがし直されたらしく、往時からは相当な改変を受けた模様で、具体的にどこに城があったのかも明確ではない。一応、八幡宮が建っているのが往時の主郭とされている。江戸時代に描かれた古絵図が残っているが、現在の道路配置にも縄張りの名残を見ることができず、戦後の航空写真でも既に塁線がわからないので、実際にどこまでが城域だったのかも含め、不明点が多い城である。しかし遺構不明ながらも、二の丸という地名はあるし、歩いて回ると堀状地形や切岸地形があり、何となくこれが城跡かなという雰囲気は感じられる。

 尚、谷田部城は、その位置だけでなく歴史にも不明点が多く、小田氏支配時代の城主が谷田部氏だったのか、岡見氏だったのかについても、必ずしも明確ではないことを付記しておく。
二の丸地区にある堀状の畑→IMG_7860.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.031696/140.077701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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戸崎城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7811.JPG←主郭の堀切跡
 戸崎城は、小田城主小田氏の支城である。現地解説板によれば、応仁の乱(1467~77年)の頃に小田氏の有力家臣の戸崎大膳亮によって築かれたのではないかと言われている。その後、1573年に佐竹氏の攻撃により、宍倉城と共に落城した。一説ではその後、1577年に戸崎城奪回の戦いがあり、大膳はその戦いで討死したとも伝えられる。一方、古文書によれば小田氏重臣の菅谷一族の城と伝えられ、1564年頃に上杉謙信が小田氏の主要城郭を書き上げた「小田氏治味方地利覚書」には菅谷次郎左衛門が城主と見え、1590年の「毛利家文書」でも「外崎 菅屋上総守」とあることから、戸崎菅谷氏の城として存続していたらしい(おそらく戸崎菅谷氏=戸崎氏なのであろう)。もっとも戦国末期には小田氏は佐竹氏に降っているので、佐竹氏の属城となっていたと思われる。1595年には、戸崎城は佐竹氏家臣の飯塚兵部少輔が管理するところとなった。1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、戸崎城は廃城となった。

 戸崎城は、霞ヶ浦北方の台地上に築かれている。台地上の広範囲を城域に取り込んだ城で、北の突出部に主郭、堀切を挟んでその南に二ノ郭、更に堀切を介して「中城」と呼ばれる三ノ郭、その背後に「外城」と呼ばれる広大な外郭を配置していた。現在は三ノ郭・外郭は宅地化が進み、旧状を推し量るのは難しいが、台地の縁に腰曲輪らしい平場が散見される。主郭・二ノ郭は畑になっているが、いずれも背後の堀切跡が畑に変貌しつつも明瞭に残っている。また主郭周囲には一段低く腰曲輪が取り巻いているのもはっきりと分かる。この他に、外郭の東端に「山崎出城」と仮称される出城があるようだが、今回は夏場の訪城であったため、未見である。宅地化の進んだ城にしては、主郭・二ノ郭だけとは言え、旧状をよく残している城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.080459/140.273159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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三村城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7778.JPG←三ノ郭西側の横堀
 三村城は、大掾氏の支城である。伝承によれば、府中城主大掾慶幹の次男常春が府中城南方の防衛のために築いたとされ、1574年に小田氏に攻められて落城し、城主常春も討死したと言う。

 三村城は、恋瀬川南の丘陵上に築かれた城である。普門寺のある丘陵中心部から各方向に派生した台地に曲輪を築いた城であったらしく、現地解説板によれば三村小学校の部分が主郭、普門寺のあるのが二ノ郭、その西側のふれあいセンターがある南北に伸びた丘陵は三ノ郭とされる。いずれの曲輪も宅地化で改変され尽くしているが、地勢は残っており、腰曲輪らしい平場や切岸状地形は多数城域内に確認できる。明確な遺構としては、三ノ郭西側の山林内に横堀と土塁が延々と残っている程度である。この城は、あまり期待しないで何かの寄り道で行く程度であろう。
 尚、三村城主常春の墓が、JR常磐線の東側の丘陵中腹にひっそりと残っているが、全く目印がなく場所が相当にわかりにくい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.152413/140.281441/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
     【三村城主常春の墓】
     http://maps.gsi.go.jp/#16/36.149467/140.286763/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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小原城(茨城県笠間市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7690.JPG←北西辺縁部に残る土塁と空堀
 小原城は、宍戸城の北東を守る支城である。築城年代は明らかではないが、里見氏が1492年に小原に領地を得、1502年に里見七郎義俊が小原城を構築したと、現地解説板に記載されている。一方、『日本城郭大系』では、1336年に里見義俊が奥州よりこの地に入部したのが小原城の初めだと記載されている。同じ里見氏について、これほど時代の差のある伝承があるというのも面白いが、名乗りから考えれば新田氏の一族里見氏の一流であろうから、何らかの経緯で常陸宍戸氏と関係を持ち、この地に入部したものであろう。詳細については今後の考究に待ちたい。

 小原城は、涸沼前川の北岸に位置する低台地上に築かれた城である。方形の主郭を中心に梯郭式に近い縄張りをしていた様である。主郭は、御城稲荷神社と集会所の建っている一帯で、内部は公園となっているが、西から北にかけて大土塁が残り、南もかなり土塁が削られているものの段差が残っていて、ほぼその形状を追うことができる。主郭周囲は水堀で囲まれていたが、環境整備(おそらくヤブ蚊の発生地となっていたのだろう)の為に25年前に埋められたらしい。二ノ郭・三ノ郭は耕地化・宅地化でかなり湮滅しており、曲輪の形状を追うのも難しいが、北西辺縁部の土塁・空堀と北辺の土塁が残っている。この他、東辺縁部にも土塁・空堀が残っているらしいが、周囲を民家で囲まれているため接近できず、未確認である。この手の平城にしては、立派な土塁遺構が見所の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.361690/140.322983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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加倉井館(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7635.JPG←北辺に残る土塁と空堀
 加倉井館は、江戸氏の重臣加倉井氏の居館である。正安年間(1299~1302年)に波木井実長によって築かれたと伝えられ、その後5代を経て通久の時に、姓を加倉井に改めたと言う。久光の代には江戸氏5家老の一人に数えられる程の勢威を持ったが、1590年に佐竹氏によって水戸城が攻略されて江戸氏が滅ぶと、加倉井氏は帰農した。

 加倉井館は、ほぼ横長の長方形をした単郭方形居館で、現在妙徳寺の境内となっている。遺構は湮滅が進んでいるが、全体の約1/3に当たる北辺と東辺の土塁と空堀が残っている。また北東角には隅櫓台も確認できる。土塁も堀もそれほど大きなものではなく、よく見られる程度の大きさで、館の面積は広いが、強勢を誇った江戸氏の重臣の館跡にしては、遺構が少々小さい印象を受ける。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.391095/140.377529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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萩原長者屋敷(茨城県城里町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7581.JPG←櫓台と屈曲する空堀
 萩原長者屋敷は、歴史不詳の城である。伝承では、この地の豪族大峰武郷(後に萩原に改姓)の居館であったと言う。その娘徳蔵姫の弘法大師への悲恋の物語が伝えられているが、伝説の類であろう。現在残る遺構からすれば、戦国期の城館と推測される。

 萩原長者屋敷は、藤井川南岸の比高30m程の丘陵上に築かれた城である。公園として整備されているので、容易に訪城できる。単郭の小規模な城砦であるが、主郭外周を低土塁で囲み、更にその周囲を空堀を巡らして防御を固めている。見事なのは、この空堀に見られる多数の横矢掛かりで、空堀を要所で屈曲させ、櫓台を設けて虎口に架かる土橋へ横矢を掛けている。また一方、台地基部にも中規模の堀切を穿って分断している。この堀切は一直線状に穿たれた単純なものであるが、内側には土塁が築かれて防御性を高めている。遺構を見る限り、極めて実戦的な緊迫感のある縄張りで、明らかに戦国期の遺構と推測される。
 しかしこの城で謎なのは、以前に行われた発掘調査で、戦国期の遺物や建物跡が全く検出されなかったことである。この事実は、いわゆる杉山城問題と軌を一にするもので、考古学的調査結果と遺構の縄張り的先進性とが相容れないのである。この事実をどう解釈するか、非常に悩ましい問題であるが、必ずしも検出遺物が城の歴史の全てを物語っているのではないということを示しているのかもしれない。第2の杉山城問題とも言うべき難題を、我々に問いかけている城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.452908/140.254555/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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岩出山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7371.JPG←北辺の大きな横堀
 岩出山城は、伊達政宗の左遷城として知られる。元の名は岩手澤城と言い、奥州探題大崎氏の重臣氏家弾正が応永年間(1394~1427年)に築城して居城としたと言われている。氏家氏は、下野の名族宇都宮氏の庶流で、下野を本領としていた。その一族氏家重定が越中に移り、その後、南北朝初期に斯波氏の麾下で活躍し、斯波家兼が奥州管領(後の奥州探題)として派遣された際に、家兼に従って重定の一族氏家弾正詮継が監司として奥州に下向したと言われている。詮継の名は、確証はないが足利尊氏の嫡男で2代将軍となった義詮の偏諱であろうから、足利尊氏・義詮父子に相当近い位置にいたと思われる。いずれにしても奥州下向後に斯波氏(大崎氏)の重臣となって活躍した。ちなみに家兼の次男兼頼が羽州探題として山形に移った時も、氏家氏の一族が執事となって同行し、後の戦国後期に最上義光の側近中の側近、氏家守棟を輩出している。奥州氏家氏の当初の居城は杉ノ沢館であったと言われ、前述の通り応永年間(1394~1427年)になって岩手澤城を築いて居城を移したとされる。1534年、大崎氏家臣で泉沢城主新田安芸頼遠が大崎義直に反乱を起こすと、氏家直益は新田方に与した。義直は伊達稙宗に援軍を求め、1536年にようやく反乱軍の最後の拠点岩手澤城を落とし、乱の首謀者である新田安芸は出羽に落ち延びて、反乱を平定した。1586年、大崎義隆の寵童、新井田刑部と井場野惣八郎との争いを発端に、再び大崎氏家中の内乱が発生した。新井田刑部は義隆を拉致して名目を固め、井場野惣八郎を保護した氏家弾正吉継を討とうとした。窮した吉継は、片倉景綱を介して伊達政宗に援軍を要請し、大崎合戦と呼ばれる伊達勢による大規模な軍事介入を誘発した。伊達勢は大軍であったが、急な大雪によって大敗し、氏家氏も岩手澤城から出撃したものの伊達勢と合流できずに終わった。その後、大崎氏と伊達氏との間で和議が結ばれた。1590年の奥州仕置で大崎氏が改易になると、氏家氏は伊達氏に仕えた。大崎領は豊臣秀吉の家臣木村吉清に与えられ、木村氏の家臣萩田三右衛門が岩手澤城主となった。三右衛門は暴政を行い、一揆蜂起で殺害された。これが発端となって葛西大崎一揆が発生した。一揆鎮圧後、1591年に伊達政宗は米沢領を没収され、替わって大崎・葛西の旧領を与えられた。この時、奥州にいた徳川家康は、豊臣秀吉の命を受けて岩手澤城に入り、政宗のために榊原康政に縄張りさせて城を改修し、政宗は岩手澤城に居城を移した。そして城の名を岩出山城に改めた。以後、12年に渡ってここを居城としたが、実際には京に居たり、朝鮮出兵のため肥前名護屋城に居たりと、実際の在城期間は通算で数ヶ月に過ぎず、政宗不在の間は屋代景頼が代官として統治した。関ヶ原合戦の後、政宗は1603年に仙台城を築いて居城を移した。その後、4男宗泰を岩出山城主とした。元和の一国一城令で城の名を去って岩出山要害と称し、そのまま岩出山伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 岩出山城は、標高107m、比高50mの城山一帯に築かれている。馬蹄形をした山稜全域を取り込んだ広い城域を有している。政宗の居城として有名なので、ほとんどの部分が城址公園として整備されている為、返って公園化による改変を受けてしまっている部分も多い。中世城郭と近世城郭の過渡期の縄張りを持つ城で、東の山稜上に長い本丸を置き、南に出丸、本丸の西側下方に二ノ丸を置いている。出丸の背後には土橋の掛かった堀切があり、大土塁と虎口が築かれて本丸に通じている。この虎口は「内門」と呼ばれ、脇に見られる石垣は遺構であるらしい。南出丸から一旦二ノ丸に降り、その南の先にも堀切を介して曲輪が2段連なっている。特に下の曲輪は土塁を伴って広い。二ノ丸は何段かに分かれた細長い曲輪であるが、公園化による改変が多く、往時の形状がわかりにくい。二ノ丸の北にも堀切を介して外郭が広がっている。外郭は城内最大の曲輪で、南端には八幡平という出丸があり、土壇に祠が祀られている。これは家康が縄張りした際に使用した器具類を埋めたものと伝えられている。外郭には北辺に延々と土塁が築かれ、その北側下方に大きな横堀が穿たれている。外周の横堀による防御構造などは、伊達氏の城らしい特徴と考えられる。また堀切を介して北にも出曲輪が確認できる。馬蹄形の山稜の内側は、現在小学校と高校が建っているが、広い内古屋で、近世の主殿が建っていたことは想像に難くない。一方、本丸の東斜面にも現在駐車場になっている曲輪が広がっている。さすがに岩出山城は、一時期とは言え近世の大大名が本拠とした城だけあって、見どころが多い。ただ欲を言えば、公園内に遺構の標柱などがなく、城の知識のない人には何が何だかさっぱりわからないだろう。もう少し丁寧な案内があればと思った。それはともかく、もう数年前から行こう行こうと思っていた念願の城に、ついに行くことができたので嬉しい限りであった。もう一度、藪のない時期に行ってみたい。
内門の大土塁と石垣→IMG_7257.JPG
IMG_7368.JPG←外郭の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.655706/140.862665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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名生城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7208.JPG←内館周囲の空堀
 名生城は、奥州探題大崎氏の居城の一つとされている。大崎氏は、足利氏の庶流斯波氏の流れをくむ名門で、南北朝時代に越前守護として活躍した斯波高経の弟家兼が、奥州を押さえるために下向したことに始まる。斯波氏は、鎌倉時代には足利尾張家と称され、足利の姓を名乗り、足利一門の中でも最高の家格を持っていたが、尊氏が将軍となって室町幕府を開くと、足利の名乗りを禁じられて斯波氏を称したと考えられている。後に3代将軍足利義満が幕府の典礼を定めた際に、斯波氏は三管領家の一つと定められた。一方、家兼は、幕府草創期は若狭守護に任じられ、越前守護の兄高経と協力して新田義貞を滅ぼすなど功績を挙げたが、足利一族の内紛、観応の擾乱が生起すると足利直義方に付いた高経と袂を分かち、尊氏方として活躍した。この頃奥州には、既に奥州管領(後の奥州探題)として尊氏派の畠山国氏、直義派の吉良貞家が派遣されており、1351年、観応の擾乱の余波で岩切合戦が起こり、畠山国氏は吉良貞家に攻められて岩切城で討死した。その2年後に貞家が没すると、幕府は斯波家兼を新たに奥州管領として派遣した。しかし、畠山氏の遺児国詮が管領を主張して活動を始め、奥州総大将だった石塔義房の子義憲が鎌倉から奥州に入り、また吉良貞家の跡を継いだ吉良満家も管領を主張し、いずれも足利一族の四管領が並立するという、混沌とした状況となった。しかし斯波氏が最終的に勝利を収め、唯一の奥州探題となった。そして大崎五郡を支配して大崎氏を称し、奥州の大名・国人衆への室町将軍の命令や幕府の賦課の徴集などは全て大崎氏を通じて行われ、奥州の支配権力の頂点に位置していた。また家兼の次男斯波兼頼は羽州探題(出羽按察使であったとも言われる)として出羽に移って最上氏の祖となり、出羽へもその影響力を保持した。しかし大崎氏の支配力は決して盤石ではなく、依然として奥州の有力大名・国人衆は独立性を保っていた。戦国時代になると南の伊達氏が勢力を伸ばし、一方、大崎氏は一族・家臣の内紛で勢力を弱めた。1525年に伊達稙宗が陸奥守護に任じられると、奥州探題の権威は完全に失墜し、大崎氏は一地方大名と化した。戦国末期には重臣の争いが元で伊達政宗による干渉を許し(大崎合戦)、伊達勢を撃退したもののその凋落は覆うべくもなかった。結局、1590年に豊臣秀吉の奥州仕置によって、小田原不参の故を以って改易された。その後、旧臣達が葛西大崎一揆を起こしたが鎮圧され、葛西・大崎領が伊達政宗に与えられると、大崎氏再興の夢は完全に潰えた。

 この様に大崎氏は改易されてしまったため、その詳細な歴史も多くが失われてしまい、大崎氏の居城についても必ずしもはっきりしていない。どうも南北朝期から戦国末期に至るまでの間に幾度か居城を移したらしく、名生城の他にも師山城中新田城・小野城などが居城であったと言われ、大崎五御所などという名も伝えられているが、諸説あってはっきりしないのが実情である。現地解説板によれば、葛西大崎一揆後に政宗に岩出山城を引き渡すために派遣された徳川家康が名生城に立ち寄ったとされ、その後の文献に現れなくなった事から、間もなく廃城になったと考えられている。

 名生城は、渋井川西岸の段丘上に築かれている。城内は、大館・小館・内館・北館・二ノ構・三ノ構・軍議評定所丸の7郭に区画されている。殆どの部分が耕地化で改変され、それ以外は宅地化されているなど、遺構の残存状況はかなり断片的である。それでも道路沿いに堀跡の水田が見られ、また軍議評定所丸等の土塁も一部に残存している。一番良好に残っているのは、内館周囲の空堀で、薮の中に往時そのままの姿を残している。冬場に探せば、もう少し遺構が確認できるかもしれないが、おそらくいずれも断片的であろう。歴史とともに遺構も多くが失われているのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.611774/140.895710/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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宮沢遺跡(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7133.JPG←中腹の土塁と堀
 宮沢遺跡は、東北自動車道建設に伴う発掘調査で新たに発見された大規模な古代城柵である。発掘遺物の分析などから奈良時代には存在していたと推測されており、律令国家が東北地方経営のため築いた城柵の一つと推定されている。しかし文献に残るどの城柵に該当するのかは明らかではなく、その歴史はほとんど謎に包まれている。起伏に富んだ丘陵地をまたいで構築され、全形はやや歪んだ長方形で、東西1400m、南北850mもの規模に及び、東日本の古代城柵としては最大規模のものである。東北地方の古代史の解明のためには欠くことのできない重要な遺跡とされている。

 宮沢遺跡は、東北自動車道が縦貫する、化女沼南西の丘陵地一帯に築かれている。特に東北道の東西の「愛宕山地区」は綺麗に発掘整備されていて、遺構をよく見ることができる。丘陵中腹に二重に土塁(築地)を築き、内側を横堀状にしており、古代でも築城技術の基本はあまり中世のものと変わらない印象を受ける。また東北道東側では、発掘された建物跡も明示されている。この遺跡は、まったく予備知識がない状態で、宮沢城まで行ったついでにたまたま寄っただけであったので、まさかここが東日本最大の古代城柵で、もっと広範囲に遺跡が残っているとは知らなかった。また古代城柵というと、志波城など平城の印象が強く、丘陵上の古代城柵に行ったのはこの時が初めてだったので、どういう構造なのかもはっきりと理解することができなかった。いずれ折を見て再訪してみたい。
建物群の跡→IMG_7146.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.626493/140.947788/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古代城柵
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