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宮沢城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7081.JPG←僅かに残る本丸土塁
 宮沢城は、江戸時代には伊達21要害の一、宮沢要害と呼ばれた城である。伝説では平安時代に藤原秀郷が拠った所と言われるが、「なぜ下野本拠の豪族が奥州に?」ということで、元より信ずるに値しない。室町時代には大崎氏の支城であり、その家臣葛岡太郎左衛門が拠り、次に宮沢遠江、或いは岩崎讃岐義久が居城にしたとも伝えられるが、大崎氏支配時代の歴史は失われており、詳細は不明。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏が改易され、その後に入部した木村氏の圧政によって「葛西大崎一揆」が勃発すると、大崎方の拠点となり、岩崎讃岐父子、岩崎伯耆、鎌田彦右衛門、飯塚次郎右衛門、芳賀蔵人等が宮沢城に立て籠もって、城周辺の河川や堀を堰き止めて城の周囲に水を引き入れ、伊達勢の攻撃を阻止したが、和議によって落城したと言う。一揆鎮圧後、大崎領が伊達政宗の所領となると、宮沢城には伊達氏の家臣後藤康之が一時居城とし、その後、出羽国長井庄小国城主の上郡山常為が宮沢城に移封された。元和の一国一城令で、城の名を去って宮沢要害と称した後も上郡山氏の9代140年間にわたる居城であったが、1747年に長沼致信と所替となり、幕末まで長沼氏が在城した。

 宮沢城は、小河川に挟まれた平地上に築かれた城である。現在は民家や耕地化により遺構の殆どが湮滅している。はっきりと残っているのは、八幡神社が建っている本丸土塁の残欠ぐらいで、あとは道の形にかつての堀や曲輪の形の名残を残しているに過ぎない。非常に残念な状態である。
 尚、城の西にある光岳寺には上郡山民部太夫景為(常為の養子)の墓が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.625823/140.941522/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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高清水城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7029.JPG←主郭南辺部の土塁
 高清水城は、江戸時代には伊達21要害の一、高清水要害と呼ばれた城である。天文年間(1532~55年)に大崎氏9代義兼の3男高清水直堅によって築かれたとされる。直堅の長男直隆は、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏が改易となると、城を召し上げられた。大崎領は秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられたが、同年10月、木村氏による圧政によって「葛西大崎一揆」が勃発し、高清水城も一揆勢に攻略された。乱は伊達勢によって鎮圧されたものの木村氏は一揆勃発の責任を問われて失脚した。一揆が鎮圧されると大崎領は政宗に与えられ、1604年には伊達氏の重臣で涌谷城主であった亘理重宗に、高清水城が隠居領として与えられた。1606年、政宗の庶子宗根が亘理重宗の娘を娶って入嗣し、亘理家の名跡を継いで高清水城を居城とした。以後、亘理氏の歴代の居城となり、元和の一国一城令以後は、高清水要害として城の名を除いた。1757年、亘理氏は佐沼要害へ移り、替わって石母田興頼が高清水要害に入り、以後石母田氏の居城となって幕末まで存続した。

 高清水城は、透川北岸の段丘上に築かれた城である。城内は市街化が進んでいるが、部分的に遺構が残存している。主郭には現在、高清水中学が建っているが、校地は主郭の北側半分に過ぎず、主郭南半は畑となっており、南辺部には土塁が良好に残っている。また土塁の内側に水堀の沼が残存している。現地解説板の古絵図にも記載されている沼地で、往時からのものであり、湧水があるらしい。この他、二ノ郭の土塁と堀跡が断片的に残存しており、外濠公園などとなっている。遺構の改変が進んでいるものの、思ったよりも遺構が残されており、地勢も往時のままであるので、城の雰囲気はよく感じられる。
主郭南部に残る水堀の沼→IMG_7038.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.654231/141.015658/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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古川城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6981.JPG←水堀跡の水路
 古川城は、大崎氏の家臣古川氏の居城である。最初は大崎氏7代教兼の第6子(名は不明)が初めて居を構えた地と言われる。その後裔が古川氏となったとされるがその系譜は不明点が多い。いずれにしても、戦国時代には古川刑部持慧・古川弾正忠隆の居城となった。持慧は、1534年の大崎氏の内訌の際、新田安芸頼遠に与して大崎義直に対して叛乱を起こし、古川城は反義直方の拠点となった。伊達稙宗が義直を助けて大崎領に攻め込むと、伊達勢は師山城を拠点に古川城を攻撃し、古川城は落城し持慧は自刃した。1586年、大崎義隆の寵童新井田刑部と伊庭野惣八郎の争いによって、大崎家中を二分する戦いに発展すると、伊達政宗は内紛平定を名目として大崎領内へ侵攻した(大崎合戦)。この時、古川城主古川忠隆は義隆方に与して師山城に籠り、伊達勢と対峙したと言う。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、大崎氏が改易されると、大崎領は秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられ、古川城には清久が入城した。しかし木村氏による圧政によって「葛西大崎一揆」が勃発し、乱は伊達勢によって鎮圧されたものの木村氏は一揆勃発の責任を問われて失脚した。一揆平定後、葛西・大崎領は伊達政宗に与えられ、古川城には重臣の鈴木和泉守元信を置いた。以後鈴木氏3代に渡る居城となったが、1645年、3代宗良の時に桃生郡深谷に転封になると、古川は仙台藩の直轄領となり、古川城は廃城となった。

 古川城は、古川の街の中心部にあった平城で、現在の古川第一小学校の敷地に本丸があった。また本丸の北・西・南の3面を取り囲むように二ノ丸(二ノ構)があり、その南に三ノ丸(西館)があった様だが、現在は市街化でほとんどの遺構が湮滅している。小学校の正門前に建っている解説板によれば、昔は小学校の正門脇に土塁が残っていたらしいが、それも今では失われている。小学校の東側に水路(緒絶川)が流れているが、これが城の外堀の痕跡であろう。結局これが唯一の遺構であり、あとは各所の地名に城の名残を思わせるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.577544/140.953453/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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矢ノ目館(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6935.JPG←浮島のように残る主郭
 矢ノ目館は、天正年間(1573~92年)の伊達氏による伊具郡奪還戦に際し、伊達輝宗・政宗父子が本陣を置いた城館である。1576年より、伊達晴宗・輝宗父子は相馬氏に占領された伊具郡奪還に乗り出した。この時、矢ノ目に本陣を置いて小斎城攻略に取り掛かっている。また1581年には、若干15歳の伊達政宗は父輝宗に従って相馬氏との合戦で初陣を果たした。その際にも、矢ノ目館に本陣を置いている。小斎城の至近にあり、度々本陣として使用されていることを考えると、伊達氏の伊具郡奪還戦において、重要な城館であったのだろう。

 矢ノ目館は、阿武隈川曲流部の東岸の平地に築かれた城館である。かつては二重の水堀で囲まれた環郭式の縄張りであったが、現在は、外郭は水田に変貌し、内郭(主郭)のみが残っている。主郭は微高地で、現在民家が建っているので無断進入はできない。外から見ると部分的にわずかに土塁が残っている様である。周囲には堀跡の水田が残っているが、昭和20年代後半の航空写真を見比べると、広く改変されてしまっているらしい。いずれにしても、河川流域の低湿地帯に築かれた要害であったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.922501/140.812905/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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角田城(宮城県角田市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6825.JPG←本丸南側に残る急斜面
 角田城は、江戸時代には伊達21要害の一、角田要害と呼ばれた城である。永禄年間(1558~69年)に田手宗光によって築かれた。田手氏は、伊達氏初代朝宗の6男宗綱に始まる伊達氏の一族で、元々伊達崎城主で伊達崎氏を称していたが、後に、本家の伊達氏と姓が似ているので、混同を避ける為に田手氏に改称したと言う。角田城が築かれた頃、隣接する伊具郡が相馬氏に攻略されると、宗光は伊達氏に叛いて相馬氏と通じたため角田城を逐われた。宗光の子宗時は、父に従わず伊達氏に留まっていたので、そのまま所領の相続を認められ、角田城主となった。1576年、伊達輝宗は相馬氏に占領されていた伊具郡奪還に乗り出し、8年間にわたる激しい抗争の結果、1584年に伊達氏の手に帰した。この相馬氏との戦いの中で、宗時は1582年に討死した。1591年、伊達政宗が岩出山城へ移封となると、伊達成実が二本松城から角田城に移された。しかし1595年、成実は突如伊達家から謎の出奔をし、角田城は政宗の命を受けた屋代景頼によって接収されたが、成実の家臣団は城に籠もって抵抗し、羽田右馬助ら30余名が討死した。その後しばらく城主不在となっていたが、1598年、政宗の叔父に当たる石川昭光が角田城主となった。石川氏は、元々奥州の独立した小大名であったが、伊達晴宗の4男昭光を養子に迎えていた。1590年、小田原の役に不参の故を以って豊臣秀吉の奥州仕置で改易され、伊達氏を頼ってその家臣となった。江戸時代には伊達一門筆頭となり、伊達家家臣団中において最高の家格を保った。角田城は、元和の一国一城令で角田要害となり、石川氏の居館として幕末まで存続した。

 角田城は、比高10m程の丘陵上に築かれている。現在は、城の主要部は角田高校・角田中学に変貌し、周囲の外郭も市街化されて遺構はほとんど湮滅している。しかし地勢は残っており、本丸のあった角田高校は段丘上にあり、周囲には往時の切岸を思わせる斜面で囲まれている。また城の外周を囲んでいた堀も、僅かな水路としてその痕跡を残している。昭和20年代後半の航空写真を見ると、外周の水堀がはっきりとその形を残し、南の出丸も明瞭であるので、高度成長期における城址の破壊が惜しまれる。

 尚、現在市の郷土資料館となっている旧氏家邸には、角田城の移築門が残る他、邸宅も角田城の用材で建てられたとの伝承があるとのことである。また庭にある灯籠も角田城のものとされるなど、文化財として貴重である。大正時代の古いガラスがそのまま残っているというのも非常に珍しい。入館無料なのに、貴重な解説まで聞かせていただけるので、角田城訪城の際は寄った方が良い。
外周に残る堀跡の水路→IMG_6817.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.968561/140.778186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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伊達政宗陣場(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6618.JPG←遺構の可能性がある土塁
 伊達政宗陣場は、関ヶ原合戦の前哨戦として行われた全国各地の一連の戦いの中で、いわゆる「白石城の戦い」の際に伊達政宗が本陣を置いた陣場である。豊臣秀吉の没後、天下の主導権を握った徳川家康は、家康に対抗する石田三成に同調して会津で戦備を整えていた上杉景勝を討伐するため、諸大名に命じて上杉討伐に向かった。その際に、上杉領を背後から脅かすため、岩出山城の伊達政宗に信夫口からの攻撃を命じた。政宗は上杉領刈田郡の要衝白石城攻撃の為、白石城を真南に見据える白石川北岸の段丘上に本陣を置いて、上杉氏家臣甘糟備後守清長が守る白石城を7月24日から攻撃を開始し、一昼夜で攻め落とした。

 伊達政宗陣場は、現在は福岡小学校の敷地となっている。「陣場」の地名が残っている。小学校下の南東に、戊辰戦争の奥州鎮撫軍総督府参謀であった世良修蔵の墓の入口があり、そこを登っていくと途中に「伊達政宗公陣場跡」の標柱と解説板が建っている。それによれば、西側の地続きに大土手(土塁)を築き、南の崖面に2、3段の平場(腰曲輪)を構えた陣場とされ、確かに学校敷地の西辺に土塁状のものが残っている(但し、現在のものが往時の遺構かどうかは不明)。南面の腰曲輪はよくわからなかったが、崖面を通る車道が腰曲輪だった可能性がある。一方、北側の車道の通っているところもいかにも堀切跡という趣で、往時の沢を天然の堀切としたか、或いは多少手を加えて堀切状に仕立てたものであろう。いずれにしても改変が進んでいるので、はっきりとした遺構は確認できないが、白石城を見据える絶好の陣場であったことは、現在でもよく分かる。
陣場から見た白石城→IMG_6624.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.011803/140.615366/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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藤沢城 その2(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6577.JPG←姿を現した空堀の横矢掛かり
 以前に当ブログにおいて速報として紹介したが、5月にたまたま通りかかったところ、藤沢城の案内板が道路脇に出ていて、城址が綺麗に整備されていた。そこで再訪録を掲載する。

【小曾戸図書之助の事績について】
 小曾戸家に残る上杉謙信からの感状を元にした話が、解説板に詳述されている。以下はその要旨である。
 島津大隅守盛忠の6代の孫小曾戸丹後守親治は、壬生氏に逐われ、曽祖父忠久の縁を頼って佐野氏に助けを求め、不摩城を預けられていた。親治の2男は梅沢隼人正を名乗り、梅沢館を築いて佐野氏の部将として活躍し、後に不摩城の出城として永野川の対岸に藤沢城を築いて、その城主となった。唐沢山城主佐野泰綱の娘は藤沢城主小曾戸摂津守行家に嫁し、兄豊綱の後を継いだ甥昌綱を後見し、その子図書之助も佐野家当主の昌綱をよく助けた。1559年、小田原の北条氏政は唐沢山城攻略を企図して侵攻した。病床の昌綱から急報を受けた図書之助は、手勢を率いて唐沢山城に入り、一切の指揮を委ねられた。決死の覚悟で防戦に努めた図書之助の働きにより持ちこたえる間に、謙信が直率する上杉勢が来援し、勝機を逸した氏政は大中寺住職の仲介で佐野氏を通じ、謙信と和睦を結ぶことになった。和議の場には、主君佐野昌綱と共に小曾戸図書之助も出席し、図書之助は氏政から全軍の前で、その武勇を大いに讃えられたという。

【遺構の現況】
 遺構は、基本的に城の周囲の空堀だけであるが、幾重にもクランクした横矢掛かりが見られ、戦国後期の築城技術が垣間見られる。遊歩道が空堀に沿って敷設されており、遺構をよく確認することができる。外周の南西部は「矢場」とされ、眼下を睥睨する物見台となっている。主郭は削平が甘く、全体に緩く傾斜している。この城では面白いことに主郭背後には堀がなく、斜面が続いているだけの様である。堀は、主郭の背後以外の3面に穿たれて防御を固めているが、埋もれているせいかかなり浅くなっている。

 この様に、埋もれていた城やその歴史が整備されて、我々の前に姿を表してくれることは嬉しい限りである。整備に尽力されている地元の方々の努力には、感謝の念を禁じ得ない。
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小瀬館(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6516.JPG←北出曲輪
 小瀬館は、佐竹氏の庶流で小瀬城主小瀬氏の居館があったとされている。「ゆうがい山」一帯が実戦上の拠点となる本城であるのに対し、平時の居所、あるいは行政上の府庁を置いた場所と推測されている。
 小瀬館は、小瀬城から緒川を挟んで南にそびえる標高102.1m、比高30m程の独立丘陵上に築かれている。この丘陵は、「館の山」と呼ばれ、現在緒川総合センターが建っている北側の一番高い付近に、館があったらしい。丘陵上は、前述の総合センターの他、明峰中学の校地等となっているため、改変され尽くしている。しかしそれでも、わずかに外周の腰曲輪や、北端にはやや高台になった北出曲輪が確認できる。全体としては改変がひどく、往時の姿を思い浮かべるのは難しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.605176/140.319786/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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大山城(茨城県城里町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6483.JPG←主郭の櫓台
 大山城は、佐竹氏の庶流大山氏歴代の居城である。創築は、1132年に大掾氏の家臣鈴木五郎高郷によるとされる。南北朝時代の1362年、佐竹氏10代義篤は4男義孝をこの地に分封し、義孝は大山城を再築して大山氏を称した。以後、大山氏の居城となった。佐竹一族の内訌「山入の乱」の際、佐竹氏の当主義舜は1490年、居城の常陸太田城を追われて、外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は大山氏の庇護を受けて10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は義舜を孫根城に攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は勢力を盛り返し、常陸太田城を奪還して復帰した。その後も大山氏は佐竹宗家を支え続け、1595年、9代義則の時、佐竹領内の再編で大山氏は小高城に移され、大山城は廃城となった。

 大山城は、那珂川西岸の標高45.3m、比高20m程の独立丘陵上に築かれている。丘陵上部は平らに削平され、北側2/3はホテルが建つなど大きく改変されている。おそらくここに二ノ郭がったのだろう。一方、東麓から登り道が付いており、丘陵南部の主郭に登ることができる。主郭は、二ノ郭と2m程の僅かな切岸で区画されている。櫓台があり、小さな神社が建っている。5月下旬の訪城であったが、人がよく来ているのか遊歩道も主郭も藪化しておらず、遺構が一応見て回ることができる。この他、主郭・二ノ郭の東側に腰曲輪が確認できる。前述の登り道は往時の城道であったらしく、腰曲輪に繋がる他、二ノ郭や主郭に虎口も築かれている。防御構造としては腰曲輪だけで横堀・堀切などは確認できなかった。尚、藪をかき分けていくと主郭南斜面に腰曲輪に繋がる登道があったが、どうも後世の耕地化による改変らしい。佐竹氏庶流の有力な一族の居城にしては、遺構は見劣りする。あくまで山上のものは詰城で、東の町家に居館があったものだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.514017/140.363066/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=airphoto&vs=c1j0l0u0f0
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小場城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6427.JPG←主郭北側の空堀
 小場城は、佐竹氏の庶流小場氏歴代の居城である。最初は、鎌倉時代に佐竹一族の南酒出義茂の子義久がここに館を築いたと言われるが、詳細は不明。その後、佐竹氏10代義篤の子義躬が、この地に本格的に城を築いて、小場氏を称した。以後小場氏10代の居城となった。山入の乱では、小場義忠・前小屋義広兄弟は、1490年に佐竹義舜が山入氏に常陸太田城を逐われて孫根城に匿われた際に義舜に加勢し、兄弟揃って討死にしたと言う。また部垂の乱では、1540年に佐竹義篤が部垂城を急襲して攻め落とし、部垂義元を滅ぼした際に、小場義実がたまたま部垂城を訪れていて巻き添えに遭い、やはり討死にした。1600年、10代義成の時に佐竹領内の再編で小場氏は小田城に移り、小場城には同じ佐竹一族の大山則宗が入った。1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、小場城は廃城となった。

 小場城は、那珂川東岸の比高30m程の台地上に築かれた城である。この台地は南北に深く谷戸が入り込んでいて、地形図を見るだけでも要害性の高い地勢であったことがわかる。台地上には西から、西城・本城・御城・中城・城内・根古屋など城にまつわる地名が残っているが、残念ながら遺構自体は耕地化や宅地化でかなり改変されており、湮滅が進んでいる。最も明確なのは台地中央部にある主郭(字本城)で、畑になった主郭の北辺から西辺にかけて深い空堀が残っている。西辺に宅地に入る道があるが、往時の土橋の跡であろう。主郭東側も車道に変貌した堀跡が残り、南側も二ノ郭(字御城)との間の屈曲した堀跡が確認できるが、南側は民有地のため車道からしか確認できない。一方、主郭西側の「西城」は改変が激しく、遺構はほとんど確認できない。また二ノ郭は民有地で進入不能。三ノ郭(字中城)・四ノ郭(字城内)は耕地化でほとんど湮滅しており、わずかに四ノ郭東側の堀跡が台地南端付近に確認できる程度である。結局明確なのは主郭空堀のみで、遺構としてはかなり残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.507963/140.392420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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祝!10000nice! [日記]

本日、ついにnice!の数が10000の大台に乗りました!
10000個目をポチッと押したのは、
いつもご愛顧いただいているevergreenさんです!
本当にありがとうございます!

思い返せば、このブログを立ち上げたのはまだ前の嫁との間で
離婚問題でぐじゃぐじゃだった2007年のことでした。
当時はそんなぐじゃぐじゃな状況を少しでも忘れたくて、城に行っていたような感じでした。
そんな中で、備忘録を付けておかないと、せっかく行った城のことを忘れてしまう!
ということで始めたのが私のブログでした。
最初は、離婚問題の気鬱のせいで、始めて数ヶ月で一旦閉鎖してしまいました。
それから数ヶ月後に、再度思い直して立ち上げ直したのが、
今まで続いているこのブログです。

今は無茶振りばかりの仕事で忙しい中、
ストレス発散と運動不足解消とドライブを兼ねて、ちょーマニアックな城を巡っています。
ここ数年は、幸い良い相方にも恵まれて、仕事でヘロヘロになりながらも、
それなりに充実した毎日が送れています。

そして、行った城の記録を何とか絶やすまいと、ブログと悪戦苦闘している日々です。

そんなこんなで続いているマニアックなブログですが、
ここまでやってこれたのも皆様のご支援ご声援あったればこそです。
これからもマニアックな中世城郭の世界にどっぷりと浸りながらやって参りますので、
引き続きご声援のほどよろしくお願い申し上げます。
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部垂城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6405.JPG←主郭跡の大宮小学校
 部垂城は、佐竹氏の内乱「部垂の乱」の舞台となった城である。元々は水戸城主大掾資幹の後裔河崎頼幹によって、承久の乱(1221年)以降に築かれたと言われているが詳細は不明。その後一時、佐竹氏の家臣大塚豊前守が在城したが、佐竹義俊と弟の実定が争った際には、義俊方の小貫頼定が部垂城を攻略し、以後3代約70年に渡って居城とした。1529年、佐竹義篤の弟で宇留野城主であった宇留野義元は、兄義篤の重臣小貫俊通の部垂城を攻め落とし、部垂城に移って部垂氏を称した。これ以後、「部垂の乱」と称される佐竹氏の内乱となった。その後しばらくの間、義篤は乱を鎮定できなかったが、1540年、義篤は部垂城を急襲して攻め落とし、部垂義元は討死してようやく内乱を鎮定、部垂城は廃城となった。その後、部垂家臣は部垂衆となって小場家寄騎として小場氏に従い、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、小場氏と共に大館城下に移った。

 部垂城は、久慈川西岸の段丘の縁に築かれている。主郭は、現在の大宮小学校の敷地にあったとされ、字古城の地名が残っている。その他は、早くに廃城になったせいか、遺構の湮滅が進んでおり、市街化され寺の境内などに変貌している。僅かに松吟寺の墓地裏の薮の中に、腰曲輪が確認できる程度である。大宮小の脇に立つ城址碑と義元の墓碑が、城の歴史を伝えているに過ぎない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.551983/140.415101/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0l0u0f0
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常陸太田城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6370.JPG←主郭北西部に見られる切岸
 常陸太田城は、常陸の戦国大名佐竹氏の歴代の居城である。その創築は、平安後期の天仁年間(1108~10年)に藤原秀郷の後裔である通延が太田郷の郷司職に就き、太田大夫と称して築館したのが始まりとされる。一方、佐竹氏は、八幡太郎源義家の実弟新羅三郎義光の後裔で、甲斐武田氏とは同族に当たる。義光が常陸に地盤を築いた経緯については、武田氏館の項に記載する。義光の長男義業が、大掾氏の一族吉田清幹の娘を妻に迎えて昌義を儲け、昌義は久慈郡佐竹郷の馬坂城に本拠を置いて佐竹冠者と称し、佐竹氏の初代となった。昌義の3男隆義は、太田通延を逐って太田郷に分家していたが、昌義の長男忠義が大掾氏を継いだため、隆義が佐竹氏の惣領を継ぎ、これ以後常陸太田城が佐竹氏の本拠となった。1180年に源頼朝が平氏追討に挙兵すると、平氏との繋がりが強かった佐竹氏はこれに従わず、このため富士川の合戦で平家の追討軍を退け、坂東支配を進める頼朝の討伐を受けた。この時佐竹氏3代秀義は、本城の常陸太田城を捨てて、天険の要害、西金砂山に金砂山城を構えて立て籠もり、応戦した。結局、後の1189年に佐竹秀義は頼朝に降伏し、御家人に列して、常陸北部の旧領の領有を認められたが、鎌倉時代を通して佐竹氏は不遇の時代を過ごすこととなった。南北朝時代になると、佐竹貞義は終始一貫して足利尊氏に従って北朝方として常陸南朝方と交戦し、再びこの金砂山城の天険に頼って籠城戦を展開した。北朝方に与した結果、佐竹氏は常陸守護職を与えられ、鎌倉時代の不遇から一転、大きく勢力を伸ばすこととなった。室町時代中期に生起した佐竹一族の内訌「山入の乱」(山入城の項参照)では、佐竹氏の当主義舜は、山入氏義に10年もの間、居城の常陸太田城を逐われるなど厳しい時代を過ごしたが、後に反撃に転じて常陸太田城を奪還した。この義舜の時代に、一世紀にもわたった山入氏との抗争を克服し、家臣団を再編成して軍事力を増強し、失われた所領を回復したことから、義舜は「佐竹氏中興の祖」と言われる。義舜の子義篤が当主であった1529年、義篤の弟義元は兄の重臣小貫俊通の部垂城を攻め落とし、部垂城に移って部垂氏を称した。これ以後、「部垂の乱」と称される佐竹氏の内乱となった。1540年、佐竹義篤は部垂城を攻め落として部垂義元を滅ぼし、ようやく内乱を鎮定した。義篤の子義昭の時には、宿敵江戸氏と和議を結んで、北と南へと大きく勢力を拡張し、また急速に勢力を伸ばしてきた小田原北条氏に対しては上杉謙信と手を結ぶことで対抗した。義昭の子義重は、「鬼義重」と呼ばれる勇将で、父に引き続いて勢力を四囲に伸ばし、小田氏の勢力を駆逐し、陸奥白川領や下野那須領を蚕食し、北条氏の勢力とも対峙した。しかし1582年、甲斐武田氏・織田信長の相次ぐ滅亡によって、北条氏の北関東への侵攻を阻むものはなくなり、佐竹氏も守勢に立たされることとなった。1584年、義重は豊臣秀吉と連携して、北条氏と下野沼尻の合戦で対陣した。沼尻合戦は、徳川家康と同盟していた北条氏との対峙であり、中央の小牧・長久手の戦いと連動した戦いであった。一方、義重は、2男義広を会津葦名氏に入嗣させ、伊達政宗とも対立した。1589年、摺上原の合戦で政宗が葦名氏を滅ぼすと、陸奥南部の諸大名は伊達氏に服属し、佐竹氏は南からは北条氏、北からは伊達氏に挟まれ、滅亡の危機に立たされた。しかし1590年、かねて関係の深かった豊臣秀吉が北条氏を滅亡させると、一転佐竹氏は常陸一国の支配権を認められた。この時義重は、既に家督を嫡男義宣に譲っており、義宣は秀吉の権威を背景に常陸南部に侵攻し、水戸城を攻略して江戸氏を滅ぼした。また翌91年、義宣は「南方33館の仕置」と呼ばれる陰惨な謀略によって、常陸南部の国人領主を一気に殲滅し、常陸一国の支配権を確立し、水戸城に居城を移した。これ以後、常陸太田城は義重の隠居城となった。1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成と懇意であった義宣は曖昧な態度に終止し、戦いを傍観した。その結果、1602年に突如出羽秋田への国替えを言い渡され、佐竹氏は常陸を去った。佐竹氏の移封に伴い、常陸太田城は廃城となった。

 常陸太田城は、里川と源氏川に挟まれた比高20m程の南北に細長く伸びた段丘上に築かれている。現在は市街化が進み、遺構は完全に湮滅している。『図説 茨城の城郭』によれば、東西に分かれた主郭(西郭・東郭)、その南に二ノ郭、北に三ノ郭・北郭を並べた縄張りであったらしい。主郭西郭は現在の太田小学校に相当する。主郭東郭は住宅地になっており、かなり変わり果てており、その外形を追うことも難しい。二ノ郭・三ノ郭も同様である。北郭は太田第1高校になっている。いずれの曲輪も相当な広さがあり、さすがに佐竹氏の本拠だけのことはあり、近世城郭並みの広大な曲輪となっていた様である。僅かに三ノ郭北辺の道路が堀跡の名残を残し、また城域西側は急崖が残っており、往時の切岸であったことを伺わせる。段丘上の要害で、城の歴史を残すのは、太田小と若宮八幡宮に建っている2つの城址碑と、「中城町」の地名ぐらいであるのは残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.545794/140.519943/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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武田氏館(茨城県ひたちなか市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6254.JPG←想像復元された館
 武田氏館は、後に甲斐守護となり、武田信玄を輩出した甲斐武田氏の祖宗興隆の地である。平安時代末期(12世紀初め頃)、八幡太郎源義家の弟新羅三郎義光は後三年の役の後、常陸平氏の娘を妻としたことを足掛かりに常陸国への進出を図った。そして諸子を常陸各地に分封した。長男義業には吉田城主吉田清幹の娘を妻に迎え、久慈郡佐竹郷に置いた(佐竹氏の祖)。また3男義清は、那賀郡武田郷に土着させた。義清は、眼下に那珂川を望む台地の突端に居館を構え、武田氏を称して武田氏の始祖となった。また上野介源兼宗の娘を妻として清光を儲けた。義清・清光は、武田郷周辺の在地豪族との間で勢力を張り合っていたが、勢力拡大を焦るあまり吉田清幹・盛幹らに疎んじられ、1130年に「濫行」の罪を以って朝廷に告発された。義清・清光父子は甲斐国に配流となり、そのまま甲斐に土着して甲斐武田氏となった。

 武田氏館は、那珂川を見下ろす武田台地の突端部にあったと言われている。現在比定地付近に、往時の武士の館を模した「武田氏館」が復元整備されている。遺構は失われているが、武田氏の歴史などが簡単に展示されており、近くに来た時に寄ると良いだろう。それにしても、「濫行事件」の子細を記した文書が伝わっていないため詳細不明とされるが、「濫行」って一体何をやらかしたんだろうと、すごく気になる。尚、南に隣接する湫尾神社の参道前には、「甲斐武田氏発祥の地」の石碑が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.382199/140.517368/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
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武熊城(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6243.JPG←武熊城の城址碑
 武熊城は、水戸城主江戸氏の支城である。最初は、延文年間(1356~61年)の頃に、大掾氏の一族石河十郎望幹が築いたと言われている。その後、江戸氏が勢力を拡大して水戸城を攻略して居城を移すと、その属城となった。1590年の小田原の役の後、豊臣秀吉の権力を背景にして常陸一国の統一を推し進めた佐竹義宣によって、同年12月に水戸城が攻略されて江戸氏が滅ぼされると、翌91年3月に義宣は常陸太田城から水戸城に居城を移し、重臣の東義久(佐竹東家)が武熊城に入った。1602年に佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、武熊城は水戸徳川家に受け継がれた。1651年に柳堤を築造して千波湖を埋立て、町づくりを行った際に、採土により城跡は消滅した。

 武熊城は、水戸城下の南東、桜川の南岸に築かれている。前述の通り、早くに採土で遺構は消滅しており、現在は水戸市竹隈市民センターの南東角に城址の石碑が建っているだけである。尚、石碑の前がゴミ捨て場になっており、ゴミネットが邪魔で良い写真が取れないのが難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.366840/140.490396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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阿津賀志山防塁 発掘調査説明会 [城郭よもやま話]

IMG_5131.JPG←発掘された薬研堀(外堀)
今月3日に、宮城遠征での目的地、馬牛楯に行く途中、国道4号線でたまたま阿津賀志山防塁を通りかかったところ、人が集まっていて説明会をやっているようだったので、急遽予定を変更して説明会に参加した。今回は第19次の調査である。内容としては、奥州合戦という一戦の為だけに作られた防塁という性格上、ある短期間にだけ存在した土塁と堀に遺構が限定される。

今回の発掘現場は4号線のすぐ脇で、厚樫山の山麓に当たる。以下、解説員の方の話。発掘された二重堀では、外堀が深い薬研堀であったのに対して、内堀(平泉側)は箱堀形状であったことが確認されている。今回の調査でどちらの堀も岩盤まで掘られていることが確認され、相当な規模の動員をかけて構築された防塁であることが実証された。これほどはっきりと堀の構造が検出されたのは今回が初めてらしい。堀に溜まった土砂の状況によれば、自然に埋まった形跡が見られ、どうも頼朝は奥州合戦後も防塁はそのまま残していたらしいことが判明したと言う。また外堀には犬走りの段(解説員は「テラス」と称していた)があるが、柵列は検出されていないこと、またこれまで調査された他の箇所ではこのような犬走りが見られていないことから、はっきりとは判断できないものの後世の耕地化による改変の可能性があるということだった。土塁は、掘った土砂を盛って高さを増しているが、版築までは行われていないとのこと。急造の防塁だからであろうか?

これまでに数回、各地で行われたこのような発掘調査説明会に参加したが、首都圏から遠くはなれているせいもあるのか、参加者数が少なく閑散としていたのは少々残念だったが、貴重な説明会にたまたま参加できたのは、非常に幸運だった。
タグ:発掘説明会
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赤尾関城(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6235.JPG←民家裏に残る土塁
 赤尾関城は、常陸の豪族江戸氏の支城である。南北朝時代に常陸南朝方の拠点であった瓜連城が幕将高師冬に攻め落とされると、南朝方だった那珂氏は一族の多くが討死し、那珂通辰の子通泰のみが逃れえた。その後、通泰は再起して鎌倉公方に従って転戦し、常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を称した。通高は、小山若犬丸が立て籠もった難台山城攻撃で討死し、その功により通高の子通景は鎌倉公方足利氏満から新領として河和田・鯉淵・赤尾関などを与えられ、河和田城を本拠とした。一方、赤尾関には通高の子金永が入部して赤尾関城を築いたと言われている。その後の歴史は不明であるが、江戸氏の支城として存続したのだろう。

 赤尾関城は、古矢川支流に臨む微高地に築かれている。城内はほとんど民家に変貌し、車道も東西に貫通しているため、遺構の湮滅が進んでいる。しかし道路沿い南側と民家の北側の小道沿いにわずかに土塁が残っている。戦後間もなくの航空写真を見ても、今とあまり変わらないぐらい遺構が破壊されており、往時どのような縄張りだったのかもはっきりしない。どちらにしても民家裏の遺構なので、不審者と間違われないよう、訪城の際は注意が必要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.364922/140.372250/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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飯沼城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6199.JPG←主郭の土塁
 飯沼城は、桜井尊房によって築かれたと伝えられている。城域から発掘された遺物から、城のすぐ西側に隣接する福性寺と密接な繋がりがあったと推測されている。福性寺の記録によれば、南北朝時代には南朝方に属し、また戦国時代の城主として桜園氏の名が記されていると言う。文明年間(1469~86年)には水戸城を拠点に北の佐竹氏と盟約を結んで常陸南部で大きな勢力を持った江戸氏の支配下に入った。1590年の小田原の役の後、豊臣秀吉の権力を背景にして常陸一国の統一を推し進めた佐竹義宣によって、同年12月に水戸城が攻略された際、桜園氏も滅ぼされた。

 飯沼城は、涸沼川南岸の段丘の縁に築かれている。現在は立川根小学校の南側に、主郭が公園化されて残っている。往時は南北に連なった3つの曲輪で構成され、立川根小の校庭部分も実はかつては北の曲輪であったが、現在は削られて湮滅している。また南の曲輪は墓地に変貌しており、こちらも湮滅が進んでいる。結局残っているのは主郭だけであるが、主郭は方形の曲輪で四周を土塁で囲んでおり、方形居館から発展した城であることを伺わせる。また周囲は空堀があったようだが、現在は車道などに変貌して湮滅している。主郭がよく残っているだけに、周辺遺構の湮滅が惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.289376/140.383537/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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樋口城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6183.JPG←主郭南西部の堀と土塁跡
 樋口城は、鎌倉前期の1222年に宇都宮氏の家臣樋口主計頭が築いたと伝えられている。『姿川村史』によれば、1574年に武田勝頼の軍勢が下野に侵攻した際、逆面周防守・今泉但馬守・犬飼能登守・樋口主計頭政時・政成らが金崎ヶ原の武田勢に夜討をかけ撤退させたとされ、この際に樋口氏は更に追撃したがその後帰城しなかったため、樋口城は廃城になったとされている。この甲斐武田氏による下野侵攻の記事は『下野國誌』にもあるらしいが、武田氏の下野侵攻についてはその他の歴史には一切現れておらず、甚だ疑問である。客観的に見て、武田氏が本当に宇都宮領まで進撃していたとすれば、当然途中の足利長尾氏・佐野氏・皆川氏などと交戦して城を攻めているはずであるが、それらが一切歴史に残っていない。またこの時期は長篠合戦の前年に当たり、北条氏政との甲相同盟復活により東への懸念がなくなった勝頼の目は、専ら西の織田・徳川領に向いており、6月には遠江の要衝高天神城をも攻略している。これらのことから、1574年の武田氏の下野侵攻は、誤伝であると判断するのが妥当であろう。尚、地元の伝承では、1597年の宇都宮氏改易の際に、樋口の領主から、後に残る家臣団で樋口城の遺領を配分せよとの沙汰があったと言うことで、「7人衆」と言われた家臣団が土地を分け持って今に至っているということである。

 樋口城は、姿川沿いの氾濫原とその支流の合の田川に挟まれた低台地上に築かれた平城である。おそらく方形単郭居館であったと思われるが、現在は宅地化されており、御城・中城の地名が残っている。かつての主郭の民家の南西部に僅かに土塁と堀が残っているが、草木で覆われているので確認が難しい。また周辺を探索したところ、かつての主郭の北東角と思われる付近の民家内に祠のある土盛りが確認できたので、おそらく隅櫓か、少なくとも土塁の跡と推測される。この他は改変が激しいので確証はないが、城の東を流れる合の田川がいかにも外堀という感じで流れており、城下集落を守る外堀として機能していたことが伺われる。尚、城のある低台地の南端には星宮神社が建っているが、高台になっており(古墳跡か?)、南方への物見台として活用されたことは想像に難くない。民有地なので史跡指定が難しいのだろうが、何とか史跡として残していってほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.501633/139.838490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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