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安坂城(長野県筑北村) [古城めぐり(長野)]

IMG_5015.JPG←竪堀沿いの登り石垣
 安坂城は、麻績城の支城とされる城である。明確な歴史は必ずしも明確ではないが、麻績長親の次男安坂長国が築いて、以後安坂氏歴代の居城となったが、安坂筑後守の時に武田信玄に攻められて落城。筑後守は、信濃守護小笠原長時に従って中塔城に籠もり、1555年に長時と共に越後の上杉謙信を頼って落ち延びたと言われる。その後、武田氏の部将安藤加賀守が城主となったが、1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされ、その信長もわずか3ヶ月後に本能寺で横死すると、信濃遺領を巡って小笠原貞慶が奪還に動き、1584年に安坂城は貞慶によって攻め落とされた様である。その後ははっきりしないが、筑北において上杉景勝と小笠原貞慶の争奪戦が続いていることから、使用され続けたものと推測されている。

 安坂城は、標高851m、比高200m程の山上に築かれている。東麓の安坂神社裏から登山道が伸びており、迷うことなく登ることができる。但し、長野に多いキノコ山なので、無用なトラブルを避けるため秋の訪城は避けた方が良い。尾根筋を登っていくと、途中に鳥居の先に大手の曲輪がある。桝形状になっているが、らんまるさんが指摘している通り古墳を切り崩した跡らしく、石室をそのまま枡形に改変している様である。その上に小さな段曲輪と細尾根上の5郭がある。更に登っていくと、岩盤を削って堀切を穿つと共に、岩盤を障壁にした遺構が現れる。ここからが主城部で、山頂の主郭から北東に二ノ郭・三ノ郭を連ね、南東斜面に腰曲輪(4郭)を築いた連郭式の縄張りとなっている。この主城部には石垣が多用されており、特に南面の切岸に集中して築かれている。二ノ郭には南東に枡形虎口が築かれ、虎口付近も石垣で固められている。二ノ郭から主郭に入る枡形虎口も石列で区画されている。ここのちょうど門に当たる位置に建っている石の上面には溝が切ってあり、おそらく「かんぬき」の様なものがあったらしく、極めて珍しい遺構である。主郭背後には低土塁が築かれ、その裏には大きな堀切が穿たれている。ここからは竪堀が長く落ちているが、南東斜面では竪堀沿いに登り石垣まで残っている。これらの石垣群は、おそらく武田氏支配時代の構築であろう。また背後の尾根には更に4つの堀切がほぼ連続して穿たれ、主郭背後のものと合わせて五重堀切となっているが、後の4つは規模が小さい。この他、北西尾根にも幾つかの小郭群と堀切が構築されている。安坂城は、重厚な石垣が多数あり、虎口も総石垣となっていたらしく、小規模な城であるが長野の山城の素晴らしさを堪能できる。本城の麻績古城より、断然オススメである。
主郭門石の溝切り遺構→IMG_5064.JPG
IMG_5030.JPG←主郭・二ノ郭周囲の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.444813/138.061903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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麻績城(長野県麻績村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4904.JPG←主郭背後の堀切
 麻績城は、この地の豪族服部氏が築いた城である。戦国時代の領主は服部清信で、山麓の古屋敷に居館を構え、その西側に麻績古城(虚空蔵山城)を構え、その守備を補強するために麻績城を築いたと推測されている。1553年、甲斐の武田信玄は苅谷原城、会田氏の虚空蔵山城(中ノ陣城)を破って筑摩北部地方に侵攻し、青柳城の青柳清長を降し、敵対する葛尾城主村上義清に属していた服部清正(清信の子)を麻績より追い払い、その後の麻績には青柳氏を入れて麻績氏を称させた。清正は、塩田城に立て籠もった村上氏の元に奔ったが、塩田城が落城すると村上氏と共に上杉謙信を頼って越後に逃れた。1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、そのわずか3ヶ月後に信長も本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった甲斐・信濃は小田原北条氏・三河徳川氏・越後上杉氏による争奪の場となり(天正壬午の乱)、筑北地方は上杉景勝の領有となって、景勝は旧領主の服部清正を麻績城に復帰させた。しかし信濃府中を奪還した小笠原貞慶が筑北に勢力を伸ばすと、上杉・小笠原両氏の争奪の地となり、服部氏は上杉氏に背いて小笠原氏に内応した。これを知った景勝は麻績城を攻め落として、清正を捕らえて処刑した。その後も抗争は続き、結局小笠原氏の支配下となった。

 麻績城は、麻績宿北方にそびえる標高943mの山稜上に築かれている。登山ルートは2つあるようだが、北西麓の搦手ルートが登頂比高も低く、早く登ることができる。直線上に配置された大きく4つの曲輪から成る連郭式の縄張りで、それぞれの曲輪を堀切で分断している。しかし三ノ郭も四ノ郭も、細尾根上の狭小な曲輪に過ぎない。二ノ郭に至ってようやく多少の広さを持つ。主郭は城内最大の面積を持つが、せいぜい小屋掛けが数棟あった程度の広さである。主郭の前面・側方には腰曲輪・帯曲輪が数段廻らされ、一部には小竪堀が落ちている。堀切については、主郭背後のものはしっかり普請されているが、それ以外のものは整形があまりしっかりしておらず、特に四ノ郭手前のものはわずかな窪地のようにしか見えない。しかしそれでも、全体としてははっきり城跡と分かる程度に普請はしっかりしている。一部の城郭関連サイトで「遺構にがっかり」と記載されていたのであまり期待していなかったが、これだけしっかりしていれば私的には十分である。これで不満足なようだと、秩父の小さな山城などとても行けないだろう。天険の浦山城など、比高400mも登ってささやかな遺構だけである。
 尚、この麻績城を新城とし、麻績古城を古い形態の城のように『日本城郭大系』では記載しているが、遺構を見ると戦国後期に主城であったのは麻績古城の方であるのは明らかである。あくまで麻績城は、天険に頼った最後の逃げ込み城の位置付けだったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.467767/138.044350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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麻績古城(長野県麻績村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4792.JPG←主郭背後の大堀切
 麻績古城は、虚空蔵山城とも呼ばれ、この地の地頭服部氏の居城であったと言われている。『市河文書』によれば、南北朝期の1335年に生起した中先代の乱が足利尊氏によって鎮圧された後、翌年2月に府中の在庁官人の深志介知光が、北条泰家(時興とも。最後の得宗北条高時の弟)に味方して挙兵し、足利方の信濃守護小笠原貞宗、村上信貞らと麻績十日市場・麻績御厨で戦っているが、この時拠点としたのがこの城のことであろうと推測されている様である(『日本城郭大系』)。ちなみにこの時期は、既に第1回目の京都争奪戦に敗れた尊氏が九州へ落ち延びる時に当たり、国内の政治情勢が極めて複雑・流動的であったことを物語る。その後の城の歴史ははっきりしないが、戦国期には武田氏・小笠原氏・上杉氏の争奪の場となっているが、それが麻績城のことなのか、麻績古城のことなのか、はっきりしない。

 麻績古城は、法善寺背後の標高780m、比高145mのピーク上に築かれている。背後の山稜には麻績城がそびえている。基本的には主郭・二ノ郭2つの曲輪で構成されており、主郭の南東・南西と二ノ郭の東に伸びる支尾根に段曲輪群を築いた、比較的簡素な構造となっている。特筆すべきは石垣と堀切で、まず主郭の虎口付近と南西の切岸に小規模だが石垣が築かれている。腰曲輪の一部にも石が散乱しているので、もっと石垣は多かったのだろう。堀切は、長野の山城らしく規模が大きいもので、主郭背後のものは特に切岸が高くそびえており、雄大である。二ノ郭背後には変則的な二重堀切があり、中間土塁は東側にだけ築かれている。その下方は平場となっている。この他、二ノ郭側方には帯曲輪が築かれ、主郭堀切の堀底と繋がっている。主郭には比較的規模の大きな土塁が背面に築かれている。決して規模の大きな城ではないが、大堀切や石垣などを考えると武田氏あたりによる戦国期の改修が推測されることから、新城とされる麻績城よりもこの麻績古城の方が戦国期には本城として使用されたことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.463643/138.044565/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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馬坂城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4680.JPG←三ノ郭の横堀
 馬坂城は、佐竹氏の初期の居城である。元々は、秀郷流藤原氏系の天神林刑部丞正恒の居城であったと言われるが、1131年に新羅三郎源義光の孫昌義が京より常陸国佐竹郷に下向し、1133年に天神林氏から馬坂城を奪って居城とし、佐竹氏を称したと伝えられている。その後、3代隆義は居城を太田城に移し、4代秀義の子義清が稲木氏を称して馬坂城を居城とした。 以後、稲木氏の歴代の居城として続いたが、1417年、8代義信の時、山入の乱で山入氏方に付いて滅亡した。その後、佐竹氏14代佐竹義俊の子義成が天神林氏を称して馬坂城を居城としたが、義成・義益父子も山入氏義に与して「山入一揆」に加担した。氏義が太田城を奪って居城としていた時には、義益は山入氏の本拠山入城を守った。しかし、佐竹義舜の反撃で山入氏が滅亡すると、天神林氏も運命を共にした。その後の馬坂城の歴史は不明である。

 馬坂城は、標高45mの丘陵先端部に築かれている。主郭と、西城と呼ばれる二ノ郭、更にその先の三ノ郭、主郭背後(東側)の外郭から構成されている。いずれの曲輪も堀切で分断されているが、主郭は畑に変貌し、外郭は民家が建ち並んでいて改変が激しい。しかし主郭の北側や西側の藪に突入すると、そこには突然中世城郭の世界が現れる。二ノ郭には源氏塚と呼ばれる大きな物見台があるが、これは古墳であろう。また主郭や二ノ郭の周りには腰曲輪が廻らされ、派生する尾根には堀切が穿たれている。また二ノ郭背後には堀切で区画された小郭も築かれている。また先端の三ノ郭の周囲には横堀が穿たれている。二ノ郭は一部が畑になっているが、三ノ郭は完全に薮に埋もれている。全体にあまりパッとしない遺構で、比較的古い形態を残していると考えられ、戦国後期にはほとんど活用されていなかったのではないかと想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.523691/140.499172/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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久米城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4552.JPG←南出曲輪の二重堀切
 久米城は、佐竹氏の本城常陸太田城の西の防衛拠点である。元々は、一説には大掾氏が鎌倉時代に館を構えたとも言われる。後に小野崎通春の子通種が築城して居城とし、久米氏を称した。しかし3代通室に嗣子なく、小貫頼重の子定春を養子に迎え、通治と称した。一方、1408年に関東管領上杉氏からの入嗣問題を発端として生起した佐竹一族の内訌「山入の乱」への対処として、佐竹義治は小野崎系久米氏を部垂城へ移し、子の義武を久米城主として久米氏を名乗らせ、山入城主山入氏の侵攻に備えて防備を強化した。1478年11月、山入義知は那須氏の援軍を得て久米城を攻略し、義武や小田野義安は討死した。しかし佐竹義治は、直ちに軍を率いて久米城を奪還し、義知を敗死させた。そして義武の弟義信を久米城主として山入氏に備えさせた。義信の家系は佐竹北家として代々続き、佐竹一門の重鎮として宗家を補佐した。しかし、1602年に佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、佐竹北家も秋田に移り、久米城は廃城となった。尚、現在の秋田県知事は、この佐竹北家の末裔である。

 久米城は、山田川東岸の標高100m、比高80m程の丘陵上に築かれている。山入の乱で争奪の場となった要害だけあって、非常に広大な城域を有している。大きな谷戸を挟んで南北の尾根上に並立した曲輪群を中心部としており、それぞれ「東の城」「西の城」と呼ばれている。更に丘陵北端部に北出城、南の尾根続きの小ピークに南出城を構えている。最も防備が厳重なのは東の城で、主郭が「本城」と呼ばれていることから、ここが城の中心であったことがわかる。以前は藪だらけだったようだが、今年の5月に行った時にはきれいに整備されていた。主郭の腰曲輪に竪堀状の虎口を設け、また腰曲輪には堀切状になった城道が通り、背後の東尾根には出曲輪と城中最大の堀切が穿たれている。主郭手前には切岸だけで区画された曲輪群があって鹿島神社のある二ノ郭に繋がり、その手前も2段程の腰曲輪の先に堀切があって、更に三ノ郭に通じている。三ノ郭南斜面には多数の曲輪群が築かれている。東の城と西の城の間の谷戸は広い緩斜面で曲輪群が設けられている。西の城は東の城よりもやや古い形態で、単純な堀切で分断された主郭・二ノ郭・三ノ郭が連なり、二ノ郭・三ノ郭の北辺には土塁が築かれて、北斜面に対する防御を固めている。ここの三ノ郭も南斜面に幾重にも曲輪群を連ね、西端に二重堀切、北西尾根にも段曲輪群を連ねている。西の城の主郭にはTV中継所が建てられ、背後の堀切などにやや破壊が見られる。主郭北尾根には途中2本の堀切があって、北出城に至る。北出城は物見を主眼とした小規模な城砦であるが、堀切や竪堀で防御している。一方、東の城の南尾根には南出曲輪と、更にその先に南出城が構えられている。こちらには二重堀切が多く、より厳重な防備を施している。また南出城の南西側には横堀が穿たれ、虎口の防備を固めている。
 以上の様に久米城は、多数の曲輪群を有し二重堀切を多用している。その構築は広い範囲に及ぶが、堀切などの普請の規模自体は大して大きくない。それにしても、現在は城内全域が整備されており、遊歩道が出城まで設定され、しかも見所まで各所に示している。見学できるよう整備された城址公園は多いが、これほど全ての遺構を隈無く見逃すこと無く回れるようにルート設定し、ほぼ全域を伐採整備し、且つ見所まで示した完璧な案内板を設置した城は類例がない。城址公園の例としては屈指の出来である。
東の城東出曲輪の堀切→IMG_4430.JPG
IMG_4604.JPG←南出城の横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.549845/140.482714/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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南大門城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4193.JPG←主郭周囲の横堀
 南大門城は、北大門城の出城と推測される。堀ノ内集落を挟んですぐ北には北大門城があり、機能的には両城一体となっていたと思うのだが、両城の城主が別々に伝わっており、しかも両者間で交戦もあったので、両城の関係性が非常に複雑である。南大門城は、当初は北大門城主助川氏の一族根本氏と伝えられている。佐竹氏14代義治の時に、根本氏は助川氏に敵対して攻め滅ぼされ、その後の南大門城には同じ一族の滑川氏が居住したと言われている。

 南大門城は、北大門城の南に突き出た標高120mの丘陵先端部に築かれている。ほぼ単郭の小規模な城砦で、主郭周囲は南東面以外を横堀で囲んでいる。しかしこの横堀も規模は小さい。主郭周囲の土塁もささやかなものである。背後の尾根には横堀がそのまま堀切となって分断し、土橋が架かっている。主郭の周りの緩斜面は外郭として利用されたと思われるが、あまり明確に普請されていない。北大門城と比べると大した遺構でない上、藪も多く、見所は少ない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.582314/140.512905/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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北大門城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4001.JPG←大手虎口脇の櫓台
 北大門城は、金砂山城の戦いで山入氏義を撃退した佐竹義舜が常陸太田城の奪還の前に一時居城した城である。本来は小野崎氏の庶流助川氏の歴代の居城であった。助川氏は、小野崎通綱の子通定に始まり、いつの頃からか大門城を築いて歴代の居城とした。また助川氏から、根本氏・滑川氏を分出し、伝承では助川氏が拠る北大門城に対して、すぐ南の南大門城に根本氏が居城したと言われ、少々関係がややこしい。佐竹氏の内訌、山入の乱では、助川通高・滑川式部少輔・根本石見守忠行らははじめ山入氏方に付いていたが、通高は佐竹義治方に鞍替えし、根本石見守らを攻めて、根本氏は討死にして滅亡した。その後、南大門城には滑川氏が居住したと言われている。また文明年間(1469~86年)に4年間、佐竹義治を大門城に庇護したとも伝えられている。その後、1490年には佐竹義舜は、山入氏義に居城の常陸太田城を逐われて、外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は孫根城を攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は大門城に移り、助川右衛門尉通繁の助けを受けて2年の間に勢力を盛り返し、1504年に常陸太田城の奪還に成功し、遂に山入氏を滅ぼして100年に渡る内訌に終止符を打った。通繁の子の出羽守通厚も義舜を補佐して功があり、通厚の四世の孫周防守通高まで大門城に居城したが、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、大門城も廃城となったらしい。

 北大門城は、国見山から西に伸びた支尾根の先端部、標高160m、比高70mに築かれている。前述の通り堀ノ内集落を挟んですぐ南には南大門城があり、機能的には両城一体となっていたと思うのだが、両城の城主が別々に伝わっており、しかも両者間で交戦もあったので、両城の関係性が非常に複雑である。古文書では単に「大門城」と記されているようだが、現地で城の規模や構造を見ると、北大門城のことを指していることは容易に想像がつく。城へは堀ノ内集落奥の民家の近くから登ることができる。民家の方に入山のお断りを入れると、例によって「杉山で何もないよ」と強調されたが、過去の経験からすると「何もない」と言われたところに限ってしっかりした遺構があったりするので、期待して登ったら、やっぱりしっかりとした良質な遺構があった。最頂部の主郭の前面に当たる西斜面に多数の曲輪群を築いた梯郭式の縄張りで、荒蒔城の縄張りによく似ている。主郭は三角形状の曲輪で背後に土塁を築いている。前面の曲輪群は切岸でしっかり区画された上に左右で幾つもの段に分かれ、虎口郭を備えたり、竪堀状の大手道、その側方に櫓台を設けるなど、なかなかしっかりとした普請がされている。曲輪間の動線構造も比較的わかりやすい。この城で出色なのは主郭背後の遺構で、主郭背後には比較的規模の大きな堀切が穿たれて尾根筋を遮断し土橋を架けている。その先の細尾根上も曲輪に整形されているが、北側斜面に帯曲輪を設けており、前述の堀切から落ちる竪堀はこの帯曲輪に繋がっていて、城道を兼ねた竪堀であったことがわかる。しかもこの竪堀状の城道の上方右側には横堀状の堡塁が構築されており、主郭への虎口を防衛する塹壕的な防衛陣地となっている。また前述の細尾根上の曲輪の先はやはり堀切で分断されているが、この堀切も前述の帯曲輪に繋がっている。山中は整備されているので、藪が少なく遺構の確認がし易い。それほど大きな城ではないが、良好な遺構と相俟って、見応えがある。
竪堀状の城道脇の横堀状堡塁→IMG_4069.JPGIMG_4104.JPG←帯曲輪に繋がる堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.585295/140.514300/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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竜ヶ谷城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3828.JPG←腰曲輪前面の竪堀群
 竜ヶ谷城は、山方城を築いた山方能登守盛利が隠居城として築いたと言われている。盛利は関東管領上杉氏の一族で、その事績は山方城の項に記載する。文明年間(1469~86年)に山方城を佐竹氏の有力支族、東政義に明渡し、竜ヶ谷城に移ったとされている。

 竜ヶ谷城は、比高50m程の丘陵先端に築かれている。周囲を枇杷川とその支流に挟まれた山間地の奥に位置し、場所は非常にわかりにくい。城への道もないので、取り付きやすい斜面から適当に藪漕ぎしながら直登する他はない。大きく2つの曲輪と腰曲輪から構成された城で、主郭は背後(北側)に横堀を穿ち、また二ノ郭と接する西から南にかけても横堀で分断している。背後の横堀は比較的規模が大きく、横矢掛かりが2ヶ所にあり、二ノ郭西側外周まで掘り切っている。それに対して二ノ郭との間の堀は規模が小さいが、2ヶ所に土橋が架けられている。この城の特徴は、二ノ郭手前の腰曲輪前面に穿たれた竪堀群で、小規模で短いものが多いが、下段の帯曲輪までしっかり穿たれている。一部は城道を兼ねていたようだ。腰曲輪の西側に比較的大きな竪堀が1本あり、ちょうどその側方に小さな竪堀群が並んだ形になっている。またこの大きな竪堀は大手道であったと思われ、竪堀西側の腰曲輪への登り道となっている他、二ノ郭と竪堀東側の腰曲輪の間に穿たれた横堀と合流しており、虎口を兼ねた横堀だったようである。この他、主郭背後の尾根も曲輪と想定されているが、見た限りではあまりきちんとは削平されていない。また城の南東にも細尾根が続いているが、小さな堀切が穿たれ、幾つかの小郭らしい平場があるので、先端の物見台的な曲輪があったようだ。全体に藪が多いが、一応遺構は一通り見て回れるレベルである。また特徴的な竪堀群は規模が小さく、どれほどの防御性を発揮したかは微妙なところである。
二ノ郭外周の横堀→IMG_3943.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.622933/140.383837/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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山方城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3790.JPG←主郭~二ノ郭間の堀跡
 山方城は、上杉氏の一族山方氏の居城である。1407年に佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉によって、翌08年に関東管領上杉憲定の次子龍保丸(後の義憲)が入嗣して佐竹氏を継いだ。この時、その後見として上杉一族の山方能登守盛利が、美濃国山方から常陸に入国して山方城を築いて居城としたと言われている。この義憲の入嗣が、その後100年に渡って佐竹氏を動揺させ続ける「山入の乱」の原因となった。山入の乱については山入城の項に記載する。その後、文明年間(1469~86年)に佐竹氏15代義治の5男政義の居城となり、政義は有力庶子家の東氏の祖となった。しかし、ほどなくして東氏は小里に移ったとも言われる。

 山方城は、久慈川西岸の比高30m程の段丘上に築かれている。段丘上の崖端城と西の高館山に築かれた詰城とから成る複合城郭である。まず主城部は、主郭(御城)、二ノ郭(中城)、三ノ郭(外城)で構成された連郭式の城で、主郭には現在模擬天守状の展望台が建っている。2段の平場から成っており、高い方は畑となっている。主郭から空堀を挟んだ二ノ郭も全面畑となっていて、土塁や腰曲輪が一部に残存している。更に空堀を介して三ノ郭が続き、三ノ郭内は畑と民家に変貌している。南に降る道沿いに堀跡の畑が確認できる。ここからやや西に離れて高館山の詰城が築かれている。この山城は比較的単純な連郭式で、南北に伸びた山稜上に幾つもの曲輪を連ねている。ほとんどは切岸で区画されているだけだが、一部に堀切や土塁があるものの小規模である。山中は少々荒れていて、土橋状の地形も遺構なのか、そう見えるだけなのか、少々はっきりしない。しかし各曲輪の虎口は比較的はっきりしている。想像していたよりははっきりとした遺構が残っているが、少々面白みには欠ける。
詰城の曲輪切岸→IMG_3674.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.634075/140.393708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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大倉城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3594.JPG←五重堀切の一部
 大倉城は、織田軍による善光寺一揆弾圧の舞台となった城である。元々は鎌倉時代の寛元年間(1243~46年)に小笠原信濃守長清が築城し、その9男長澄がこの地に分封されて大倉氏を称したと伝えられるが詳細は不明。確実なのは戦国時代からで、1513年頃には築城されていたらしい。上杉・武田両軍が争った川中島合戦の頃には、長沼島津氏の持ち城で、島津氏は長沼館(後の長沼城)を本拠とし、詰城の大倉城、大倉城の出城として手子塚城を領有して千曲川西岸一帯を支配していたと考えられている。1557年に葛山城が武田勢に攻め落とされると、上杉方の島津月下斎(貞忠)らは大倉城に撤退した。その後、善光寺平が武田氏の支配下となり、長沼城を奪われると、逐われた島津氏は上杉謙信を頼って越後に逃れ、大倉城は一旦廃城となった。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡すると、川中島4郡は海津城に入った森長可の支配下となったが、その翌月にはその支配に反対する土豪・地侍層が、上杉景勝と手を結んだ芋川親正を大将として善光寺一揆を組織して蜂起し、飯山城を占拠し、長沼城を攻撃した。しかし間もなく織田勢が反撃に転じて飯山・長沼両城を確保すると、親正ら兵8000は大倉古城を再築して立て籠もった。長可の軍勢は大倉城を攻撃し、激戦の末に短時日で落城させた。この時、城兵はもちろん、女子供まで撫で斬りにし、更に逃亡した百姓は人質を取って還住させ、労働力の確保を図ったと『信長公記』に記載されている。

 大倉城は、鳥居川北岸にそびえる標高450m、比高95mの丘陵先端部に築かれている。連郭式を基本とした、比較的シンプルな縄張りの城で、山頂の主郭とその北側に土塁状の土橋で接続された井戸曲輪を有し、主郭前面には堀切を挟んで二ノ郭・三ノ郭を連ねている。二ノ郭は4段程に分かれ、最上段は物見台であったと考えられる。2段目には石積みも見られる。主郭や二ノ郭の側方部も石垣があるようだが、藪ではっきりしない。三ノ郭の前面も堀切を挟んで小郭があり、その前にも堀切が穿たれている。その先は採土によって失われているが、以前は段曲輪群があったらしい。この城の見所は、前述の井戸曲輪の西尾根に穿たれた五重堀切で、殊に1本目と5本目は圧巻の巨大堀切となっている。5本目の堀切は長い竪堀となって落ちており、見応えがある。更に西の尾根を辿ると、細尾根の曲輪の先にやはり大堀切が穿たれて背後を分断している。大倉城は、石積みは少ないが、尾根筋の分断を強く意識しており、臨戦的な縄張りである。
三ノ郭から見た曲輪群→IMG_3522.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.733657/138.282831/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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髻山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3352.JPG←腰曲輪に残る石垣
 髻山城は、戦国時代に上杉甲越両軍の抗争の場となった善光寺平の北端の要害である。上杉謙信による築城と伝えられ、城の東側には中世の主要道路(神代坂)が通っており、野尻城・飯山城から横山城への進軍ルートを結ぶ中継点であった。1561年の第4次川中島合戦では、上杉方の武将宇佐美定行が立て籠もって武田勢と戦ったとも伝えられているが、定行自体の実在が疑わしいので(一般的には、宇佐美定満をモデルにした架空の武将とされる)何とも言い難いが、上杉勢が後方支援部隊或いは予備兵力を控えとして置いていたぐらいはあったであろう。第4次川中島合戦の後は、武田氏が善光寺平をほぼ手中に収め、髻山城も武田方の持ち城となったらしい。これは1564年9月、謙信の重臣直江実綱が堀江宗親・岩船長忠両氏に宛てた書状の中に「敵もとどり山へ小旗4・5本にて、毎日武具致すよし候」とあり、武田方の利用が確認されている事による。長沼城が築城されて以降、髻山城は特に重視されたものと考えられ、1582年の武田氏滅亡後に川中島4郡を支配した上杉景勝にも利用されたと推測されている。

 髻山城は、北国街道の西側にそびえる標高744.4mの山上に築かれている。城は大きく3つの区域から成っている。中心は山頂の主郭を含む主城部で、楕円形をした土塁で囲まれた主郭と東面から北面・西面にかけて廻らされた数段の腰曲輪で構成されている。主郭には東西に虎口があるが、東虎口は腰曲輪に繋がっているが、その先は藪が多く、腰曲輪の形状をはっきり捉えることができない。西虎口は石垣を備えて防御しており、大手と推測される。北に降って2段目の腰曲輪はカタクリの群生地になっており、踏み荒らさないよう注意が必要である。この腰曲輪を奥に行くと、北東角の切岸にもわずかに石垣が確認できる。一方、主郭から西に降っていくと、独立した物見台が屹立している。ここから更に降ったところに2つ目の区域の遺構が現れる。扇状に緩斜面に帯曲輪群を連ね、その外周を竪堀・横堀で防御した区画で、特に最下段の横堀はしっかりと穿たれており、下方からの敵の接近を阻止する塹壕として機能していたことがわかる。謙信が馬を隠したという言い伝えから、「馬隠し」と呼ばれているらしい。3つ目の区域は北斜面にあり、ここにも横堀・竪堀がL字状に穿たれている。ここは藪が多いので未踏査だが、明確な曲輪はあまり無い様だ。一方、主郭の東側はかなり荒れており、斜面が崩落している様である。どうも採石場の跡らしく、崩れた石がゴロゴロし、切り立った崖に阻まれている。髻山城は、大きな城でもなく、また技巧性も無い縄張りなので、あくまで中継点の砦と言った趣である。尚、この城には北東麓から登るのが正で、私は間違って崩落した東斜面からアプローチしてしまい、大変な目に遭った。
馬隠しと呼ばれる横堀→IMG_3457.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.720345/138.243477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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髻山城の小城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3289.JPG←主郭付近の竪石垣
 髻山城の小城は、髻山城の出城である。いつ築かれたかは不明であるが、髻山城が5度に渡る川中島合戦の中で、上杉・武田両軍の進出中継点となっていることから、本城と同じ頃か、或いは争奪の過程で防衛機能を強化するために追造された可能性が考えられる。
 髻山城の小城は、髻山城南東の標高640mの円丘上に築かれている。北西斜面を直登するしかないが、明確な遺構には乏しく、山頂の主郭と南の腰曲輪ぐらいしかはっきりしていない。主郭も荒れており、砕石がゴロゴロしていて、石垣が崩されたのか、森林伐採などで掘り起こされたのかもはっきりしない。竪石垣も見られるが、近世には畑になってもいたらしいので、遺構かどうか明瞭ではない。一番明確なのは前述の南斜面の腰曲輪で、上から見るとはっきり削平された曲輪となっており、明確に遺構と考えられる。登ってきた北西斜面にも小さな切岸で区画された平場が見られるが、こちらは耕地化に伴うものである可能性がある。結局、かなり消化不良気味の遺構で、砦ぐらいはあったことは間違いないが、それ以上積極的な普請もされていないように見受けられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.717782/138.246138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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若槻山城の番所(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3229.JPG←背後の尾根の四重堀切
 若槻山城の番所は、若槻山城から比高で100m程登った尾根上に築かれた物見の砦である。やや離れた2つの曲輪で構成され、手前のものが主郭らしく、外周を土塁で囲んだ狭小な曲輪で、摺鉢の様な形状になっている。背後には堀切が穿たれ、尾根を暫く進むと前面に堀切を穿ち、後部に土塁を築いた二ノ郭に至る。二ノ郭も小さい曲輪であるが、圧巻なのはその背後の尾根で、規模の大きな四重堀切が穿たれている。曲輪自体はいかにも物見の砦という規模であるが、この多重堀切は見事で、本城の若槻山城より見応えがある。2つの曲輪があるのは、手前が元々の主郭で単郭の砦であったものを、その後に上杉か武田によって背後の曲輪と堀切を拡張したものだろうか?いろいろと興味が尽きない遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.700236/138.212106/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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若槻山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3250.JPG←主郭前面に連なる曲輪群
 若槻山城は、平地の平城(若槻里城)と一体となった山城(詰城)で、八幡太郎源義家の孫若槻頼隆が鎌倉時代初期にこの地に入部し、若槻氏を称して山城・平城を築いたと言われている。室町時代になると若槻氏は高梨氏に属し、1392年には若槻本庄が高梨氏一族の知行地となっており、若槻山城は高梨氏の要害になっていたと考えられる。大塔合戦の後の1404年には、信濃守護代細川慈忠の入国に高梨氏と共に抵抗し、若槻城は幕府方の市川氏幸らに攻められて落城した。戦国時代に入り、善光寺平が武田信玄・上杉謙信の抗争の場となると、若槻山城は上杉方によって整備されたと推測され、1564年に川中島の戦いが終結するまで、甲越両軍による争奪戦が繰り返された。

 若槻山城は、三登山支峰の標高675mの城の峰に築かれている。城のすぐ下まで車道が来ており、登山道も整備されているので訪城は容易である。多数の段曲輪群で構成された城で、土塁で囲まれた山頂の主郭の前面に5~6段の主要な曲輪群を配し、堀切を挟んでその前面に小規模な段曲輪群を連ねている。前述の主要な曲輪の側方には竪土塁を築いて、上下の曲輪間の導線を確保すると共に側方からの侵入に対する防御を固めている。主郭前面の虎口は2ヶ所にあり、一つは二ノ郭から虎口小郭を経由して登る東ルート、もう一つは竪土塁を伝って虎口小郭を経由する変則的な枡形虎口の南ルートである。南の虎口の脇には腰曲輪まで分断する竪堀が穿たれている。主郭の背後は二重堀切で尾根を分断しているが、2本目は浅いものである。更に後部を防衛する外郭があって、その背後も堀切で防御している。これらの背後の尾根筋に穿たれた堀切はいずれも長い竪堀となって落ちている。その他にも小規模な竪堀が数ヶ所見受けられる。遺構はよく残っており、長野の山らしくきれいに整備されているので美しい城だが、技巧性にはやや乏しい。しかし城域はそこそこの広さがあり、善光寺平争奪戦の中で重要な役割を担った城であることは伺える。
主郭背後の堀切→IMG_3154.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.697638/138.213308/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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堂沢出城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2973.JPG←主郭背後の隅櫓台
 堂沢出城は、歴史不詳の城である。平成15 年5月9日、若槻小学校6 年1 組の児童36名が若槻山城探訪の帰り道で、山道脇の小高い段丘上の遺構を偶然発見した。城の背後の山稜には若槻山城、麓の平地には若槻里城があることから、これらと密接に関連した出城であろうと推測されている。
 堂沢出城は、標高540mの山稜中腹に築かれている。単純な構造の城で、平坦な円形の主郭とその下段の舌状の二ノ郭、その前面の腰曲輪から成っている。主郭の北面・西面は土塁が築かれ、北西角は隅櫓台となっている。土塁の背後に、L字に空堀が穿たれているが、小規模なもので、大した防御性はなかったように思われる。この他、主郭の南東に二ノ郭の端部が張り出して物見台となっている。以上の様に、比較的ささやかな遺構であるが、普請の跡はしっかり残っている。それにしてもこれを発見した小学生はエライ!城郭遺構と見抜いた眼力は大したものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.694851/138.217106/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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小柴見城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2876.JPG←僅かに残る二重堀切の一部
 小柴見城は、歴史不詳の城である。城の歴史には二説あり、一つは室町時代に平芝にあった守護所の詰城であったという説、もう一つはこの地の土豪小柴見氏の城であったという説である。平芝守護所の詰城説については、旭城の項に記載する。一方、小柴見氏については、吉窪城を詰城としていた小田切氏に属していたらしく、東北信の国人衆が信濃守護小笠原氏に反抗して戦った1400年の大塔合戦では、小柴見氏は国人衆側の小田切氏の麾下で参戦していたと考えられている。時代は下って1557年、武田軍が葛山城を攻撃した時には、落合氏、小田切氏等は籠城して討死した。しかし『甲陽軍鑑』によれば、小柴見宮内は武田氏に降ったが、1562年に上杉氏に内応したため、武田氏によって成敗されたと言う。しかし小柴見城がどうなっていたかは不明である。

 小柴見城は、旭山山麓の比高50m程の丘陵上に築かれている。城の主要部には夏目ヶ原浄水場が建設されており、かなり破壊を受けているが、城の南端部分だけ遺構を残している。城の主要部が失われているので、どこが主郭であったかも明確ではないが、仮に南端の曲輪が主郭であったとすると、背後に土塁を築いて防御し、その後ろに二重堀切を穿って分断していたらしい。現在この二重堀切は車道建設で破壊されているが、辛うじて1本目の堀切と中間土塁まで残存している。主郭前面には土塁らしき土盛りが確認できるが、主郭内は畑になっている為、耕地化に伴う改変の可能性もある。主郭の南側から東側にかけて、前面を防御する腰曲輪群が残っており、また前述の二重堀切の西側側方にも馬蹄段の腰曲輪が確認できる。遺構は以上の通りで、残っている遺構が僅かなのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.646764/138.174877/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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旭城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2842.JPG←竪堀となって落ちる堀切
 旭城は、大黒山城とも言い、歴史不詳の城である。旭城のある地域は平柴と呼ばれ、1387年に室町幕府から斯波義種が信濃守護に任命されると、それに反抗した村上中務大輔入道(頼国)、小笠原信濃入道(清順)、高梨薩摩守(頼高)、長沼太郎等の国人衆が、平柴にあった守護所を攻めた事が伝わっている。これは、旭山城・旭城・小柴見城といった旭山に築かれた山城のいずれかが守護所の詰城となっていて、戦場となったと推測されている。1446年には信濃守護小笠原氏の家督をめぐって内紛が起き、小笠原宗康と小笠原長持が「漆田原・大黒塚」で戦った。この「大黒塚」が旭城のことと考えられており、守護所に関連する城郭であったらしいことが推測されている。その後は不明であるが、戦国中期の甲越両軍による旭山城をめぐる戦いでは、その中腹に位置する旭城も争乱の対象となったのではないかと考えられている。

 旭城は、旭山の東斜面の中腹の標高540mの小ピーク上に築かれている。頭上には旭山城がそびえ、眼下には小柴見城がある。堀切で城域を大きく南北に二分割しており、南の最高所に主郭を置いている。主郭には左近稲荷神社が鎮座しており、南斜面に登り道が付いている。主郭の東と南に腰曲輪が築かれ、北西部には堀切に向かって枡形虎口が築かれている。ここには石積みが残っている。堀切は、東西に長い竪堀となって落ちている。堀切の北側は二ノ郭群が広がっている。二ノ郭群は幾つもの平場で構成されており、最高所は古墳をそのまま物見台として転用している。古墳の石室が地表に現れている。北斜面や東斜面に切岸で区画された曲輪を築いており、特に東斜面の下方の腰曲輪には、隅櫓台が2ヶ所に確認できる。二ノ郭群は緩斜面をそのまま利用したようなところがあるが、削平や切岸ははっきりしているので、それ相応の普請はされている。また、切岸部分に石積みが散在しており、位置的に城の構造に合致するのでおそらく遺構と思われる(近世の耕地化による土留の石積みの可能性もある)。旭城は、大きな城ではなく縄張りの技巧性も見られないが、軍団の駐屯には適した平場群が残っており、旭山城に援軍として派遣された武田軍がここに駐屯した可能性は確かに考えられる。
櫓台を備えた腰曲輪→IMG_2813.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.651825/138.170886/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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旭山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2558.JPG←大竪堀と両翼の腰曲輪群
 旭山城は、善光寺平に進出した武田信玄が築いた防衛拠点の山城である。元々この地には、善光寺別当の栗田氏の詰城があったものと推測されている。1553年の第1次川中島合戦で、占領して間もない北信濃を、進撃してきた上杉謙信(当時は長尾景虎)にあっという間に侵攻された信玄(当時は晴信)は、上杉勢の南下を阻止する防衛拠点として旭山城を構築した。そして1555年、栗田氏の内部分裂を利用して栗田鶴寿を調略し、善光寺平の南半分を武田氏の勢力下に置くと共に、栗田氏を旭山城に籠城させた。そして3000と言われる増援兵を旭山城に派遣して、上杉軍の侵攻に備えさせた。この動きに対し、謙信は4月に善光寺平奪回の為に出陣し、横山城に本陣を置いた。また信玄も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。謙信は、旭山城の動きを封殺するため、旭山城の目と鼻の先にある葛山城を整備・拡大して、落合備中守一族や小田切駿河守幸長らを籠らせた。その効果は絶大で、旭山城は動きを封じられ、旭山城・葛山城の対峙が両軍の作戦計画を大いに掣肘し、両軍共に膠着状態となって、200日に渡る長期対陣となった。この間、両軍共に兵站や士気の低下に苦しみ、駿河の今川義元の仲介で和睦した。この和睦は、武田方の旭山城の破却、上杉氏を頼った北信の国人衆の本領復帰など、特に兵糧確保に苦しんだ武田方に不利なものであったが、信玄はこれを守る気はなく、翌年から水面下で上杉方の切り崩しを図った。その上で1557年2月、雪で上杉勢が出陣できない時期を見計らい、信玄は馬場美濃守信房に命じて大軍で葛山城を急襲させた。武田勢は水の手を断ち、城に火をかけて落城させた。信玄の調停違反に激怒した謙信は、雪解けを待って善光寺平に進撃し、4月25日に破却された旭山城を再興して、ここに本陣を置いた。しかし甲越両軍の直接対決は見られず、謙信は9月に陣を払って帰国した(第3次川中島合戦)。その後の旭山城についての消息は伝わっていないが、第4次川中島合戦を通して武田方が善光寺平をほぼ手中に収めると、旭山城も再び武田氏の勢力下に入った。1564年の第5次川中島合戦では、上杉方の勢力圏は大きく北に後退しており、武田勢は善光寺平最北端の髻山城付近まで進出した。上杉方は、水内・高井両郡境から旭山方面に威力偵察を行った。しかしこの頃には、戦略拠点の主役は海津城長沼城に移っており、旭山城の戦略的重要性は既に薄れていたと思われる。1582年の織田信長による武田征伐でも旭山城・葛山城共に歴史に現れず、既に廃城になっていたものと思われる。

 旭山城は、信濃善光寺の西南西にそびえる標高785m、比高415mの峻険な旭山に築かれている。麓から歩いて登ったら大変な高さであるが、幸い南の中腹まで車道が延びているので、150m程の登りで済む。山頂の、低土塁で囲まれたほぼ方形の主郭を中心に、東と北に伸びる尾根に曲輪を配し、南西の尾根にも出曲輪を配している。主要な曲輪は堀切で分断され、竪堀も効果的に配されている。中でも主郭背後の堀切は、そのまま南北の斜面に大竪堀となって落ちており、南西面ではその大竪堀の両側に腰曲輪群を何段も配置して、竪堀を登ってくる敵兵を迎撃できるようにしている。そして、主郭を始め南西側の腰曲輪群、堀切を挟んだ南曲輪には石垣が築かれており、尾根続きの南側への防御を固めている。これらの石垣群は故意に崩された形跡が明瞭で、明らかに破却の跡を残している。腰曲輪の中に石列が残っている部分もある。東の尾根へは、3本の堀切を介して二ノ郭以下の曲輪が連なっており、先端は善光寺平を一望できる物見を兼ねた曲輪となっている。南西端の出曲輪にも櫓台が築かれている。主郭周りには何段も腰曲輪が築かれているので、石垣群と相まって防備は厳重である。葛山城などと比べると普通の規模の山城で、多数の兵を置けるほどの広さはないが、厳重な防御構造を備えた遺構が堪能できる。
主郭に残る石垣→IMG_2574.JPG
IMG_2475.JPG←南曲輪の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.654270/138.163118/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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茶臼山陣場(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2418.JPG←石碑と旗塚のある陣場跡
 茶臼山陣場は、第4次川中島合戦の際に、川中島に着陣した武田信玄が最初に本陣を置いた陣場である。1561年8月、上杉謙信は1万3千の兵を率いて川中島に出陣し、犀川と千曲川を渡って海津城を見下ろす妻女山に本陣を置いた。その急報を狼煙の伝達で受けた信玄は直ちに躑躅ヶ崎館から出陣し、途中信濃の兵も合わせて総勢1万8千の軍を率いて川中島の西方の茶臼山に本陣を構え、雨宮の渡しを中心に軍を展開し、謙信の退路を断つ態勢に出た。しかし上杉方に動きは見られず、10日以上両軍の睨み合いが続いた末、信玄は茶臼山を降りて海津城に全軍を集結させた。そこで軍議を行い、山本勘助の献策を容れて決めたのが、史上名高い啄木鳥戦法であった。これ以降の戦いの推移は川中島古戦場の項に記載する。

 茶臼山陣場は、標高729.9mの茶臼山の、南西の小ピークに置かれたと伝えられている。往時は北峰と南峰があったが、大正時代に地滑りが発生して南峰がなくなったらしい。伝承からすると、この消失した南峰付近に本陣が置かれたのだろう。地形が変わっているので、想像だけの話になるが本陣跡の南側から西側にかけては、緩やかな斜面が広がっており、信玄直率の軍団を斜面上に広く展開させたものだろう。明確な遺構はほとんどないが、小ピークの近くには本陣跡の石碑が建ち、その脇には旗塚とされる土盛りが残っている。相当な高地で、川中島全域を一望のもとに見渡せ、正面には妻女山やその後背の川中島城砦群を遠望できる。車で登ってくるだけでも時間がかかるので、いくら眺望に優れた高地の争奪戦が重要とはいえ、わざわざ軍を率いてこんな高所まで登るのかと、圧倒される。尚、訪問したのが4月中旬で、長野の遅咲きの桜が満開で美しかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.592445/138.105998/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣城
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妻女山陣場(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC05405.JPG←妻女山陣場の現況
(2012年4月訪問)
 妻女山陣場は、第4次川中島合戦の際に、川中島に着陣した上杉謙信が本陣を置いた陣場である。1561年8月、上杉謙信は1万3千の兵を率いて川中島に出陣し、犀川と千曲川を渡って海津城を見下ろす妻女山に本陣を置いた。その急報を狼煙の伝達で受けた信玄は直ちに躑躅ヶ崎館から出陣し、途中信濃の兵も合わせて総勢1万8千の軍を率いて川中島の西方の茶臼山に本陣を構え、雨宮の渡しを中心に軍を展開し、謙信の退路を断つ態勢に出た。しかし上杉方に動きは見られず、10日以上両軍の睨み合いが続いた末、信玄は茶臼山を降りて海津城に全軍を集結させた。そこで軍議を行い、山本勘助の献策を容れて決めたのが、史上名高い啄木鳥戦法であった。即ち、武田勢の別働隊に妻女山背後から奇襲攻撃を行わせ、押されて妻女山を降りた上杉勢を八幡原で待ち受ける武田勢本軍が迎え撃ち、挟み撃ちにするという作戦であったとされる。しかし奇襲の前夜、海津城から立ち上る多数の炊煙を見た謙信は、武田勢の動きを察知し、夜陰に紛れて密かに妻女山を降り、千曲川を夜間渡渉して武田勢本軍の正面に全軍を布陣した。明朝、八幡原に濃く垂れ込めていた霧が朝日と共に徐々に晴れてくると、武田勢の前には整然と並んだ上杉勢の大軍が姿を現した・・・。これ以降の戦いの推移は川中島古戦場の項に記載する。

 妻女山陣場は、天城城の北に伸びる尾根の先端部、標高411m、比高61mの妻女山にある。山上は公園になっており、車道も整備されているので簡単に訪問することができる。山の上はただの平場になっており、招魂社や石碑が建っている。北端近くに土壇があり、宮坂武男氏は『信濃の山城と館』の中で謙信の床机場ではないかと推測している。しかし現地の地勢などを見ると甲陽軍鑑の伝える合戦の有様には疑問が多く、そのまま鵜呑みにできるものではない。従って本当に謙信がここに本陣を置いたのかも、未だに実証はされていない。しかし登り道の途中には、鎗先の清水、鞍掛松、槍尻の泉など謙信にまつわる史跡も残っており、謙信の伝説が色濃く残っている場所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.561531/138.171401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣城
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