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桝形城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2286.JPG←虎口の櫓台、左側は竪堀
 桝形城は、歴史不詳の城である。周囲の山々には旭山城葛山城大峰城若槻山城等があることから、武田・上杉両氏の川中島における攻防に関わった城と推測されている。一説には、1557年の武田勢による葛山城攻撃の際に、武田軍がこの付近に陣を張ったとも言われ、それとの関連も指摘されている。

 桝形城は、地附山北東の標高706mの小ピークに築かれた城である。すぐ南を戸隠バードラインという道路が通っているのだが、昭和60年に発生した地附山の地滑りで廃道となっており、大峰山の閉ざされたゲートから延々と歩かないと城まで到達することができない。しかし城自体はハイキングコースとして現在でも整備されている。大きな主郭と、その南の谷戸を挟んで高台となった横長の二ノ郭から成る、比較的小規模な城だが、構造はかなり複雑である。まず二ノ郭は南側を空堀で分断しているが、幾重にも塁線を折れ曲げて横矢を掛けた構造で、二ノ郭自体も南側を土塁で囲んで防衛しており、この付近では類例の少ない造りである。主郭との間の谷戸には中間に低土塁が築かれ、斜面に手を加えて堀切としているが、あまり鋭さはない。一方、主郭周囲は複雑で、谷戸から主郭に至る虎口は横堀・竪堀を複雑に組み合わせて幾重にも折れ曲げた動線とし櫓台も築いている。また西側の横堀北端をほぼ直角に曲げて竪堀で落とすなどの技法も見られる。主郭の北斜面にも腰曲輪があり、その下方にも竪堀状虎口で繋がった曲輪群が広がっている。以上の様に、桝形城は規模の小さな城であるが、かなり技巧的な築城技術が投入されていて見応えがある。
 尚、信州の城巡りには欠かせない宮坂武男氏の縄張図であるが、結構遺構の見落としが多いことに気付いた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.681808/138.189425/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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大峰城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2078.JPG←堀切から直角に落ちる竪堀
 大峰城は、歴史不詳の城である。伝承では大峰某の居城であったと言われるが、この大峰氏についても、葛山城主落合備中守の家臣大峰蔵人とか、村上氏幕下の大嶺大内蔵など諸説ある。いずれにしても有力な説としては、葛山城と同じく武田方の旭山城に対する向城として上杉方が築いた山城とされ、両者による川中島合戦に際して上杉方の城砦の一つとして利用されたものと考えられている。

 大峰城は、葛山城の北東にそびえる標高828mの大峰山に築かれている。主郭には模擬天守(現在は閉鎖)が建ち、車道が整備されているので、簡単に登ることができる。幸いなことに破壊は主郭のみに限定されており、その他の遺構はほぼ完存している。主要な曲輪は4つあり、尾根の南東端に主郭、その南側に一段下がって二ノ郭、主郭の北西の尾根筋にそれぞれ堀切を介して三ノ郭・四ノ郭が続いている。主郭は北と西の2面に土塁が残っているが、模擬天守建設のためどこまで遺構を残しているかは不明。特に二ノ郭からの登り道は相当改変されている様に感じられる。主郭の北側斜面には2段の腰曲輪があり、腰曲輪間の斜面にはあまりはっきりしないが竪堀群があるとされている。この腰曲輪はいずれも主郭背後の堀切に通じており、特に上段の腰曲輪では堀切に向かって虎口を設けていて、城内通路を兼ねた堀であったことがわかる。これと段をズラした形で堀切の向かいに三ノ郭北側の腰曲輪が築かれている。一方、駐車場となった二ノ郭の南側にも土塁を備えた腰曲輪があり、その下方は大きな堀切で南に降る尾根を分断している。この堀切は、西側で直角に折れ曲がって竪堀となって落ちている。堀切の前面にも幾重にも腰曲輪群が築かれている。これら以外に、大峰城には北の830mの円丘状のピークに給水施設が建った外郭があり、斜面を横に走る横堀が北西と南東に数本穿たれている。大峰城は、堀切から落ちる長い竪堀が特徴であるが、葛山城などと比べると小じんまりした印象で、後方支援的な使われ方をしたのではないかと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.675544/138.176765/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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郷路山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1999.JPG←L字状の土塁
 郷路山城は、葛山城の出城である。葛山城から南東に伸びる尾根の先の広い緩斜面(郷路山)に築かれている。はっきりした遺構としては葛山城との間を分断する尾根上の堀切と、緩斜面に築かれたL字の土塁と空堀だけである。頼朝山砦と同じくささやかな規模の遺構であるが、土塁で区画した平場があることから、物見や監視の砦というよりは兵糧などの倉が置かれたのではないだろうか。位置的に上杉謙信が本陣を置いた横山城と葛山城を結ぶ直線上に位置していることから、武田方に奪われない様に軍需物資を山上に蓄積したのではないかと、個人的に推測している。
 尚、郷路山城の名は『軍事分析 戦国の城』(学研)に記載されているので、それに依拠した。宮坂武男氏の『信濃の山城と館』では葛山城の一郭として縄張図に記載している。位置的にも葛山城からの独立性が高いことから、ここでは郷路山城として取り扱った。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.667421/138.173397/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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葛山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1748.JPG←主郭~二ノ郭間の二重堀切
 葛山城は、越後の上杉謙信が第2次川中島合戦の対陣の際に築いた巨大城郭である。元は葛山衆と呼ばれる在地土豪落合氏の城砦があったと考えられている。1555年、前年に甲相駿三国同盟を成立させて後顧の憂いをなくした甲斐の武田信玄(当時は晴信)は、信濃国善光寺の別当栗田氏の内部分裂を利用して栗田鶴寿を調略し、善光寺平の南半分を武田氏の勢力下に置いた。これを受けて上杉謙信(当時は長尾景虎)は4月に善光寺平奪回の為に出陣し、横山城に本陣を置いた。一方武田方は3000の増援兵と共に旭山城に立て籠もり、信玄も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。謙信は、旭山城の動きを封殺するため、旭山城の目と鼻の先にある葛山城を整備・拡大して、落合備中守一族や小田切駿河守幸長らを籠らせた。その効果は絶大で、旭山城は動きを封じられ、旭山城・葛山城の対峙が両軍の作戦計画を大いに掣肘し、両軍共に膠着状態となって、200日に渡る長期対陣となった。この間、両軍共に兵站や士気の低下に苦しみ、駿河の今川義元の仲介で和睦した。この和睦は、武田方の旭山城の破却、上杉氏を頼った北信の国人衆の本領復帰など、特に兵糧確保に苦しんだ武田方に不利なものであったが、信玄はこれを守る気はなく、翌年から水面下で上杉方の切り崩しを図った。その上で1557年2月、雪で上杉勢が出陣できない時期を見計らい、信玄は馬場美濃守信房に命じて大軍で葛山城を急襲させた。武田勢は水の手を断ち、城に火をかけて落城させた。城主落合備中守・小田切駿河守らは奮戦したが、葛山衆の城兵もろとも討死した。上杉方の島津月下斎らは大倉城に撤退した。降伏した葛山衆は、武田氏によって再編成され、長沼城の管理下に置かれた。

 葛山城は、善光寺北西の山塊にそびえる標高812m、比高412mの葛山に築かれている。両雄の激突を制した城だけあって、広大な城域を有した巨大な山城である。城域の中心に主郭を置き、その西側に二重堀切を介して二ノ郭、更に一段低く三ノ郭がある。二ノ郭は更に中間に小掘切を穿って2段に分かれ、三ノ郭も2段の平場に分かれている。二ノ郭・三ノ郭の北側斜面には帯曲輪が何段も築かれている。三ノ郭西側の尾根筋にも段曲輪群が延々と築かれており、ざっと数えたところ、少なくとも19段以上の段曲輪が確認でき、下方に1ヶ所小掘切も穿たれている。一方、主郭の北に伸びる尾根にも曲輪群が延々と連なり、途中堀切や横堀で防御されている。最北の北出曲輪は二重堀切の先にあり、三段ほどに区画された細長い曲輪で、城内で最も広い面積を有し、櫓台らしい土壇も残っている。主郭の東側の尾根は、この城の最も特徴的な空間で、二重堀切を介して東側の広い尾根を切り刻んだ畝状阻塞(連続空堀)が構築されている。笹藪でわかりにくい部分もあるが、6~7本の堀か穿たれている。類似した例は上野松井田城にも見られる。普通には、東尾根からの武田勢の接近を阻止する塹壕であったと解されているが、武田氏による破城の跡とする意見もある。その東に腰曲輪があり、北東の尾根に堀切や竪土塁などの遺構があるらしいが、藪がひどく確認できない。腰曲輪の東の尾根は山道が通っており数本の堀切や竪土塁、腰曲輪などが構築されている。この他、前述の畝状阻塞の南斜面には、多数の帯曲輪や竪堀郡が築かれていて、葛山への登り道から見ることができる。途中には竪堀と連携した木戸口もある。尚、葛山城の曲輪には東の腰曲輪を除き、全く土塁が築かれていないのも特徴的である。
 伝わっている歴史からすると、葛山城はこれらの遺構の大部分を武田勢との対陣の中で短期間に構築したものと推測され、敵前築城の勢いの凄さを思い知らされる。
東尾根の畝状阻塞→IMG_1897.JPG
IMG_1676.JPG←南斜面の竪堀群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.670966/138.166659/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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頼朝山砦(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1658.JPG←腰曲輪から見た主郭
 頼朝山砦は、葛山城の出城である。歴史等は伝わっていないが、葛山城の南の支尾根の先端に位置し、目の前には武田信玄が築城した旭山城がそびえていることから、旭山城に拠る武田方の動向を監視すると同時に南を通過する間道を押さえる役目を負っていたことは疑いがない。

 頼朝山砦は、葛山城の南の支尾根の先端部、標高644.4mの頼朝山に築かれた小城砦である。頼朝山の名は、1197年に源頼朝が善光寺に参詣した際に、静松寺に田地山林を寄進したことに因むと言う。ほぼ単郭に近い小規模な砦で、ほぼ方形の主郭には八幡社が鎮座している。主郭の周りは高さ1.5m程の切岸で区画された腰曲輪が取り巻いている。葛山城に繋がる北尾根に細尾根上の曲輪が繋がり、ささやかな規模の堀切を介して北斜面上の段曲輪に至り、尾根の鞍部を堀切状に加工している。いずれにしても普請はささやかなもので、あくまで旭山城を拠点に葛山城を南方から攻撃する武田勢を監視する砦としてのみ機能したことを伺わせる。
眼前にそびえる旭山城→IMG_1655.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.664667/138.167260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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山入城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1429.JPG←櫓台を備えた主郭
 山入城は、佐竹氏の有力支族山入氏の居城である。元々は、南北朝時代に西野民部大夫温通が初めて築いたと言われる。その後、南北朝の抗争の中で、佐竹貞義は終始一貫して足利方に従って常陸南朝勢力討伐に軍功を挙げて常陸守護となり、その7男師義は直接足方尊氏の軍勢に従って九州落ちにまで従い、筑前多々良浜の合戦、摂津湊川の合戦等に功を挙げた。また師義は、足利家の内訌、観応の擾乱でも尊氏に従い、尊氏から常陸国山入を所領として与えられて山入氏を称し、山入城を修築して本拠とした。(個人的な推測だが、師義の「師」の字は将軍執事であった高師直の偏諱ではないだろうか。もしそうだとすれば、師義は師直率いる幕府直轄軍に属していたことになろう。また師義は『源威集』の作者ではないかとの説もある。)師義は、観応の擾乱の中で摂津で討死したとされるが、異説もある。師義が死ぬと、その子与義が跡を継ぎ、室町将軍直轄の「京都扶持衆」に列し、鎌倉公方に属する常陸守護の佐竹宗家に比肩する、半ば独立する勢力を有した。1407年、佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉による関東管領上杉氏からの入嗣を巡って、山入与義は同族の長倉氏・額田氏らと山入一揆を結成して反発し、翌年、長倉義景が長倉城で挙兵して、ついに佐竹家中を二分する武力抗争に発展した。「山入の乱」の始まりである。その後、一旦鎮圧されたが、上杉氏から入嗣した佐竹義憲に対し、山入氏らは事々に反発し、1416年に上杉禅秀の乱が発生すると、山入一揆は禅秀方に味方した。しかし翌年乱は鎮圧され、18年には山入与義が拠る山入城は義憲の軍に攻め落とされ、与義は降伏した。乱はこうして鎮圧されたものの、鎌倉公方の独走に危惧を抱く室町幕府は、山入氏を常陸守護に任じ、佐竹義憲がこれに抗議して、佐竹氏と山入氏とが半国守護として並び立つこととなった。幕府の後援を背景に山入氏は佐竹宗家に対抗しうる勢力を有し、山入の乱は100年にも渡って続くこととなった。1477年、勢力を盛り返した山入義知は、佐竹義武(佐竹氏14代義治の子)が守る久米城を攻め落とした。しかし佐竹義治は直ちに軍を率いて久米城を奪還し、義知を敗死させた。義知の討死後、その弟義真は山入氏の領土を固めると共に佐竹宗家との対立を継続し、1490年、義真の子義藤・孫の氏義父子は、義治が死去して佐竹氏当主を継いだばかりの義舜を攻めて、佐竹宗家の本拠である常陸太田城を占拠して居城を移し、山入城には馬坂城主天神林義益を置いて守らせた。義舜は外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は孫根城を攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は勢力を盛り返し、常陸太田城を奪還して復帰した。氏義は山入城に撤退して抵抗を続けたが、1506年に山入城は落城し、氏義は子の義盛と共に捕らえられ、下野国茂木で殺害された。こうして、佐竹氏を動揺させ続けた山入の乱はようやく収束した。

 山入城は、山田川西岸にそびえる標高185.3m、比高145mの要害山に築かれている。南東から山道が整備されており、城内まで車で突入できるので登城は楽である。純然たる連郭式山城の縄張りで、山頂に大きな櫓台を備えた主郭を置き、南西に伸びる尾根に二ノ郭以下の主要な曲輪群を連ねている。途中、『図説 茨城の城郭』の縄張図で言うⅣ郭の前後のみ、堀切で分断されているが、それ以外は切岸のみで区画されている。曲輪の削平はいずれもしっかりしている。Ⅳ郭の南東斜面にも平場群(Ⅴ郭群)が残っており、現地に設置された城の想像図では、前述の主郭を「詰の城」、Ⅴ郭群を「本城」としている。Ⅴ郭群も遺構がよく残っており、切岸で区画された曲輪が明瞭で、曲輪同士を繋ぐ城道もはっきりしている。これら以外に、Ⅱ郭の南西尾根にも小掘切を穿った段曲輪群、また主郭背後の北の細尾根にも3条の堀切と若干の平場がある。
 山入城にはもう一つ、主城から東に伸びる支尾根に東曲輪群があり、主城とは切り離された独立性の高い出城として機能していたと思われる。東曲輪群は、Ⅳ郭から東曲輪群先端近くにある日吉神社への山道がそのまま遺構群巡りをする道になっており、尾根上に多数の平場や数本の堀切、土壇などが確認できる。
 山入城は城域が広く、さすがは佐竹一族で強勢を誇った山入氏の本拠であるが、その割には城自体は普通の出来である。技巧性のあまり高くない普請から考えると、戦国初期に山入氏が滅亡してからは、ほとんど顧みられることがなかったことが想像される。尚、城内は一応公園として整備されているが、Ⅱ郭など冬でも草茫々の部分も多い。
東曲輪群の堀切→IMG_1565.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.599732/140.478637/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=airphoto&vs=c1j0l0u0f0
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金砂山城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1370.JPG←本殿の建つ岩山
 金砂山城は、佐竹氏の居城常陸太田城の詰城に相当するような城であった。1180年、坂東の武士団を傘下に収めた源頼朝は鎌倉を制圧したが、常陸の佐竹氏は頼朝に帰順せず抵抗していた。富士川の合戦で平家の追討軍を退けた頼朝は、上総介広常らの意見を容れ、同年11月4日、佐竹氏を討伐した。この時佐竹氏3代秀義は、本城の常陸太田城を捨てて、天険の要害、西金砂山に金砂山城を構えて立て籠もり、応戦した。頼朝は数千の大軍で攻撃したが、金砂山城の天険に苦戦し、上総介広常の策により秀義の叔父佐竹蔵人義季を内応させ、搦手に当たる諸沢口から密かに攻城軍を案内させた。不意を突かれて金砂山城は落城し、秀義は花園山に逃れた。頼朝は、佐竹氏の所領を没収して部下の論功行賞に充てたが、後の1189年に佐竹秀義は頼朝に降伏し、御家人に列して、常陸北部の旧領の領有を認められた。しかし鎌倉時代を通して、佐竹氏は不遇の時代を過ごすこととなった。南北朝時代になると、佐竹貞義は終始一貫して足利尊氏に従って北朝方として常陸南朝方と交戦し、再びこの金砂山城の天険に頼って籠城戦を展開した。北朝方に与した結果、佐竹氏は常陸守護職を与えられ、鎌倉時代の不遇から一転、大きく勢力を伸ばすこととなった。室町時代中期に生起した佐竹一族の内訌「山入の乱」では、佐竹氏の当主義舜は1490年、山入氏義に居城の常陸太田城を逐われて、外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は孫根城を攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は勢力を盛り返し、常陸太田城を奪還して復帰した。こうして3度に渡って危急存亡の縁に立たされた佐竹氏を救った金砂山は、佐竹氏開運の山として崇敬された。

 金砂山城は、西金砂神社の境内がそのまま城となっている。神社登り口の前にある方形の高台(現在は畑地)が館跡とされ、その東側にそびえる山は物見台であったらしいが、明確に削平された様子がなく、遺構かどうかよくわからない。また神社の本殿のある山もほとんど自然地形の岩山で、断崖に囲まれた地形そのままで遺構は不明瞭である。参道脇に物見台跡らしい地形が散見される程度である。残念ながら城郭遺構としては見るべきものは少ないが、佐竹氏開運の神社ということでお参りするつもりで行くのが良いかもしれない。
館跡とされる高台→IMG_1387.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.657196/140.451086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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武生城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1265.JPG←主郭
 武生(たきゅう)城は、南北朝時代に佐竹氏が拠った山城である。元々は鎌倉時代に国井経義という武士による築城とされるが、詳細は不明。南北朝時代になると、北朝方の佐竹貞義は、南朝方と戦い敗れて、貞義は金砂山城に籠もり、子の義篤らは武生城に立て籠もったと言われている(この時の合戦を常陸甕の原合戦としているものがあるが、実在自体が不明の合戦であることを付記しておく)。1336年、楠木正成の一族で代官として常陸に下向した楠木正家は、瓜連城に入って常陸南朝勢力を糾合すると、佐竹義篤は武生城から出撃して南下し、瓜連城を攻撃したと言う。

 武生城は、竜神湖の北側にそびえる標高340m、比高220mの山上に築かれている。東南東の尾根筋に登り道が付いており、迷うことなく登ることができる。山頂に主郭を置き、北斜面に腰曲輪、また主郭の北西に二ノ郭・三ノ郭を腰曲輪状に並べており、いずれの曲輪も切岸だけで区画されている。あまり遺構に期待はしていなかったが、主郭の削平は明瞭で、腰曲輪もはっきりしている。主郭後部は細尾根状となり、そこから北側に二ノ郭・三ノ郭が僅かな段差で広がっている。三ノ郭の北には細尾根が伸び、先端に物見台がある。一方、主郭の手前に当たる東側にも四ノ郭があり、わずかな堀切が見られ、南東の尾根端部にやはり物見台の岩場があり、眼下に竜神大吊橋を望むことができる。これらの他にも登り道の途中に幾つかの腰曲輪が見られ、城域はかなり広かった可能性が考えられる。城の形態としては、いかにも高所の要害性だけを頼りとした南北朝時代の山城という趣で、古い形態を留めている。尚、しばらく茨城や千葉の段丘上の城が多かったため、久しぶりの比高200m級山城はすごく疲れて、少々足に来た。
四ノ郭の堀切→IMG_1257.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.687366/140.464175/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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羽黒山城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1168.JPG←主郭背後の堀切
 羽黒山城は、小里城の詰城である。小里城南方の比高60mの丘陵上に築かれており、山頂の主郭には羽黒神社が鎮座していて、西側から登り道が整備されているので、簡単に登ることができる。神社周囲には土塁が見られるが、これは主郭塁線と関係なく構築されていることから、後世の改変であろう。主郭の北から西にかけての周囲には腰曲輪が廻らされ、南側は大手だったらしく、手前に大きな土壇が築かれて警戒の物見となっていたらしい。神社手前が2段の平場になり、更に南西尾根に沿って幾つかの平場に分かれている様で、これらはかつての腰曲輪だったのだろう。この城で最もはっきりした遺構は、主郭東側の堀切で、規模はそれほど大きくないが東出曲輪に通じる土橋が架かり、北斜面に落ちる竪堀沿いに竪土塁も構築されている。東出曲輪は自然地形に近く、どこまでが城域かは判然としない。遺構としては以上で、盾の台楯よりは大きく普請もしっかりしているが、主城である小里城共々、ささやかな規模の城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.749424/140.493786/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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盾の台楯(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1099.JPG←腰曲輪から見た主郭切岸
 盾の台楯(盾の台館)は、小里城の防衛のために築かれた詰城と考えられている。東側の山地から西に張り出した比高30m程の細長い丘陵城に築かれている。ほぼ単郭の小規模な山城で、東西に細長いほぼ長方形の主郭とその西側の一段低い腰曲輪で構成されている。その西側斜面はほとんど自然地形で、明確な普請はあまり見られない。一方、東の台地基部は主郭より一段低い平場となり、その東に板碑などが建てられた土壇があり、その背後を林道が貫通している。もしかしたら、物見台と堀切だったのかもしれない。この他、主郭の南側斜面にも幾つかの腰曲輪らしい平場が見られる。いずれにしても大した普請がされておらず、守備兵を少々籠めただけの小規模な城であったろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.757711/140.491340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方と茨城北部では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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小里城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1141.JPG←北面の土塁と空堀跡
 小里城は、岩城氏がこの地を占拠して支配拠点として築いた城と言われている。元々は佐竹氏の一族小田野氏がこの地を領していたが、大規模な家中の内訌「山入の乱」で佐竹氏の勢力が減退すると、白川氏の勢力が及ぶようになり、更にその後は岩城氏の勢力下に置かれたらしい。しかし家中の内訌を克服し戦国大名化に成功した佐竹氏は、義重の代に勢力を拡大して陸奥南郷(福島県南部)をも支配下に置いており、この頃には南郷に通じる街道を押さえる小里城は、佐竹氏の中継拠点として機能していたのではないかと推測されている様だ。

 小里城は、里川とその支流薄葉川の合流点東岸の台地上に築かれた城である。実質的には単郭方形居館で、耕地化された台地上に土塁と空堀が残っている。主郭はかなり小規模で、あくまで簡素な政庁機能程度しかなかったように見受けられる。『図説 茨城の城郭』では、西面の土塁基部に見られる石垣を城館の遺構としているが、他の城館で普通に見られるものとしては遺構とは考えにくく、耕地化に伴う土留の石垣と見るのが自然であるが、何か遺構とする明確な根拠があるのであろうか。この他、川沿いの周囲の台地を外郭としていたと思われるが、いずれにしてもささやかな遺構である。街道筋に築かれた同じ中継拠点としても、七ヶ宿街道に伊達氏が築いた古屋楯などと比べると規模と構造に差があり、佐竹氏時代にはあまり重視されていなかった様である。尚、小里城の南北には盾の台楯羽黒山城が並立しており、詰城となっていたと推測されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.754427/140.489366/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
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依上城(茨城県大子町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1049.JPG←北側腰曲輪と主郭切岸
 依上城は、佐竹氏の一族北酒出氏の庶流依上氏の居城である。建武の新政の際に、後醍醐天皇は白河結城氏の結城宗広を結城氏の惣領とし、依上保を管理させたが、南北朝の抗争期に入ると、北朝方に付いた佐竹氏の一族、北酒出義資の次男顕義がこの地に分封され、依上氏を称した。その孫義長は子がなかった為、同族の山入城主山入与義の三男宗義を養子として迎えた。宗義は、上杉禅秀の乱の際に禅秀方に与した為、1422年、鎌倉公方足利持氏は、依上与義・宗義父子を滅ぼし、翌23年、依上保を白河結城氏朝に預けた。その後、依上宗義の一族が挙兵して依上城に拠ったが、1428年に鎌倉公方勢に攻められ落城した。

 依上城は、押川北岸の比高35m程の丘陵上に築かれた城である。堀切はなく、切岸だけで区画された平場群だけで構成された城で、山頂の主郭を中心に東に二ノ郭、西に三ノ郭を置き、北斜面と南斜面に腰曲輪を築いた構成となっている。特に北東に向かって広がる腰曲輪はある程度の広さを有している。切岸や主郭への動線は明確に普請されており、主郭西側には虎口小郭が築かれ、西側腰曲輪を介して三ノ郭への城道が通じている。三ノ郭にのみ、南北の辺縁部に土塁が築かれていることから、ここに居館などが置かれたものだろう。この他、北東麓の平場にクランクした土塁が残っているが、後世の耕地化によるものか遺構であるかは判然としない。あまり技巧的な縄張りではないが普請はしっかりしており、室町中期までの城らしい形態を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.783665/140.309701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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長山城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0897.JPG←大堀切と二ノ郭
 長山城は、大掾氏の庶流で行方氏の一族、長山氏の居城である。鎌倉時代中期に、行方氏の嫡流に当たる小高城主行方(小高)幹平の次男与一郎知幹が長山に分封されて長山氏を称し、長山城を築いた。その後歴代の居城となり、7代宗幹の時には、上杉禅秀の乱で大掾満幹に従って戦功を挙げ、次第に勢力を増した。1522年、10代幹綱の時、同族の島崎城主島崎利幹(安国)に攻められ落城し、幹綱は自害した。その子政幹は佐竹義篤の下に逃れ、その保護を受けた。その後の長山城の歴史は不明である。

 長山城は、かすみの里公園の南にある比高15m程の丘陵上に築かれている。その東側には、島崎氏が長山城を攻めた際に夜間渡渉したことからその名が付いたという夜越川が流れている。東西に主郭・二ノ郭を並立し、その間を大堀切で分断した一城別郭の構造となっている。二ノ郭の西側もクランクした堀切、また主郭から北に伸びる丘陵にも堀切が穿たれている。主郭・ニノ郭共に周囲に腰曲輪を廻らしており、竪土塁上の物見台から横矢を掛けるなど、厳重な防衛線を敷いている。またこの地域の他の城と比べると、虎口への動線構造は相当厳重で、際立って技巧性の高い構造となっている。二ノ郭東の大堀切沿いに、虎口郭を張り出させ、そこから複数方向に城道を分岐させている。一方、主郭南側の虎口に繋がる城道は土塁で防御されている。この他、大堀切から東側に側方に櫓台を張り出させた囮虎口まで構築されている。北の堀切沿いに大きな内枡形の虎口も設けられ、やはり周囲を物見の土塁で囲んでいる。長山城は、規模的には比較的小規模なものであるが、かなり技巧を凝らしていることが伺われる。
櫓台を備えた囮虎口→IMG_0987.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.974325/140.513678/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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麻生藩陣屋(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0804.JPG←陣屋跡の現況
 麻生藩陣屋は、1604年に麻生に入部した新庄氏が常陸・下野3万300石を領して立藩し、新たに構えた陣屋である。初代直頼から15代直敬まで267年間、一度の移封もなく幕末まで存続した。陣屋内には、藩内子弟の教育のため藩校「精義館」が設けられたと言う。
 麻生藩陣屋は、現在麻生小学校の敷地となっている。遺構は全く残っておらず、小学校前の解説板だけが往時の歴史を伝えている。尚、小学校の東側に麻生藩家老屋敷(畑家)が移築されて残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.988823/140.485375/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣屋
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麻生城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0729.JPG←西側台地基部の横堀・竪堀
 麻生城は、大掾氏の庶流で行方氏の一族、麻生氏の居城である。大掾繁幹の子吉田清幹の次男忠幹が行方の地に入って居城を築き、行方平四郎を称したのが行方氏の始まりである。その子宗幹は、嫡男為幹と共に源氏に味方して屋島の戦いに従軍し、討死した。1184年、宗幹の所領はその四子に分与され、3男家幹は麻生に分封されて麻生氏を称した。尚、宗幹の長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に小高へ移住して小高氏となり、次男高幹は島崎に分封されて島崎氏となり、4男幹政は玉造に分封されて玉造氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形で結合していたが、戦国期に入ると同族間で抗争し、島崎氏が頻りに外征を行って勢力を拡大し、小高氏を凌ぐ勢力になった。1584年、麻生氏17代之幹(常安)の時、島崎義幹に麻生城を攻略され、麻生氏は滅亡した。その後7年にわたって島崎氏が麻生城を支配したが、1591年、佐竹義宣による所謂「南方三十三館」によって、義幹は他の鹿行諸族15名と共に常陸太田城で謀殺され、滅亡した。その後、佐竹氏の家臣下河辺氏が入城したが、1602年に佐竹氏が出羽秋田へ移封となるとこの地を離れ、麻生城は廃城となった。1604年、摂津高槻から新庄直頼が3万300石でこの地に入封し、麻生城の東400mの平地に麻生陣屋を築いた。

 麻生城は、霞ヶ浦東岸の比高20m程の丘陵上に築かれた城である。広い平坦面を持った丘陵全体を城域としており、現在は羽黒山公園となっている。その為主郭とされる平場全体に公園化による改変が見られ、どこまで往時の遺構が残っているのかわかりにくいが、主郭の周囲には腰曲輪が廻らされていた様である。この城の見所は西側の台地基部で、ここには土塁や横堀・竪堀を縦横に絡めた複雑な防御構造が見られる。主要部が規模は大きいものの簡素な構造である反面、西側部分のみ技巧を凝らした一点豪華主義の縄張りで、何とも理解が難しい城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.989796/140.480375/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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小高城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0516.JPG←主郭南の横矢掛かりの堀切
 小高城は、大掾氏の庶流で行方氏の惣領、小高氏の居城である。大掾繁幹の子吉田清幹の次男忠幹が行方の地に入って居城を築き、行方平四郎を称したのが行方氏の始まりである。その子宗幹は、嫡男為幹と共に源氏に味方して屋島の戦いに従軍し、討死した。1184年、宗幹の所領はその四子に分与され、長子為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に行方城から小高の地に居城を移し小高氏を称した。尚、宗幹の次男高幹は島崎に分封されて島崎氏となり、3男家幹は麻生に分封されて麻生氏となり、4男幹政は玉造に分封されて玉造氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形で結合していたが、戦国期に入ると島崎氏が頻りに外征を行って勢力を拡大し、小高氏を凌ぐ勢力になった。一方、山入の乱・部垂の乱などの内訌を克服し、家中統一に成功した佐竹氏の勢力が常陸南部にも及ぶようになり、小高氏らの国人衆も佐竹氏に従属せざるを得なくなった。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した小高治部大輔ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。小高城もこの時攻め落とされ、小高氏は滅亡した。この後、佐竹一族の北義憲(佐竹北家)が小高城主となり、1595年には大山義則が城主となったが、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、小高城は廃城となった。

 小高城は、比高20m程の丘陵先端部に築かれた城である。連郭式を基本とした縄張りで、ここでは先端から順にニノ郭、主郭、三ノ郭、四ノ郭、五ノ郭と称する。二ノ郭はマンダイ(政台?政殿?)と呼ばれ、全周を土塁で囲んだ細長い曲輪である。また外周には腰曲輪を全周に廻らし、北側には堀切兼用の城内通路を挟んで、一段高くなった前衛小郭を置いている。また西の中間部に搦手虎口があり、その脇と腰曲輪の南西端にそれぞれ動線制約の竪堀が穿たれている。二ノ郭の南に、堀切を介して主郭がある。主郭はウチミジョウ(内御城)と呼ばれ、かなりの広さを持った曲輪で、現在畑となっている。ここも南東辺以外の三方のほぼ全周を土塁で囲み、北西辺から南西編に掛けて延々と横堀を巡らすなど、最も防備が厳重である。しかも横堀外周の土塁の西端に櫓台を設け、その下方に横堀・二重堀切を穿っている。また主郭南東側も2ヶ所に横矢の張り出しを設けている。北東の横矢掛かりは主郭に土壇を設け、下方はクランクした横堀状通路となっている。南東の横矢掛かりは、三ノ郭側も横矢の張り出しを設け、双方からクランクした堀底に横矢を掛ける技巧的縄張りとなっている。南東斜面は斜度が緩く、腰曲輪群が広がっている。主郭を介して主郭の南にあるのが三ノ郭で、ナカジョウ(中城)の地名が残り、現在は畑になっている。三ノ郭と四ノ郭の間の堀切は、現在は湮滅しているが、昭和20年代の航空写真を見ると堀のラインが確認できる。曲輪の大きさと位置関係からすると、三ノ郭は馬出し機能を持った曲輪であったらしい。更に四ノ郭・五ノ郭が続き、その間の堀も北端部を除いて湮滅している。四ノ郭の北側の山林内にも遺構があり、横堀や堀切、片堀切を介して繋がった物見台などが眠っている。小高城は、全体に曲輪の規模が大きく、技巧的な縄張りも要所に見られ、この地域の中核的城郭として機能したことが伺われる。それ故、鹿行諸族を滅ぼした後、佐竹氏は一族の重臣をこの城に入れて治めさせたのだろう。
片堀切を介して繋がった物見台→IMG_0684.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.036589/140.474389/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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相賀城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0387.JPG←主郭周囲の屈曲する横堀
 相賀城は、相賀氏の居城である。現地解説板によれば、平安末期に逢賀太郎親幹が築いた城で、この頃は「逢賀城」と呼ばれていたらしい。逢賀氏の出自は手元に文献がなく不明であるが、「幹」の一字を名前に有することから、鹿行地方の諸豪と同様に大掾氏の一流であったのだろう。その後の事績は不明で、戦国期には手賀左近尉義元(相賀入道)が再建して、相賀城と呼ぶようになったと言うことから、逢賀氏は一時断絶したものらしい。一方、義元は手賀氏の一族であろうから、手賀氏の本家に当たる玉造氏による南方進出策でこの地に入部したものであろうか。その後、相賀入道の婿の彦四郎は、小高氏の軍勢と戦って討死したと言う。相賀城最後の城主手賀三郎四郎は佐竹氏に攻められ滅亡したと言われているが、『和光院過去帳』に記載された「南方三十三館の仕置」で常陸太田城に誘殺された16名の中に「アウカ殿」とあることから、当時は「相賀殿」と呼ばれており、太田城で殺された様である。誘殺の後、直ちに佐竹義宣は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした。相賀城で戦闘があったかどうかは不明であるが、いずれにしても城主なき城では佐竹氏の圧倒的な軍事力に対抗できるはずもなく、程なく制圧されたのだろう。以後、廃城となったと思われる。

 相賀城は、雁通川の北浦流入点の北に位置する比高30m程の丘陵上に築かれた城である。連郭式を基本とした縄張りで、南端から順に主郭、二ノ郭、繋ぎ小郭、三ノ郭、四ノ郭、外郭と連なっている。この中で防備が最も厳重なのが主郭で、現在八幡神社が建っているが、その後ろに土塁が築かれ、南東面には腰曲輪、それ以外の三方は横堀で防御している。横堀は中々複雑な構造で、斜面を昇り降りしながら幾重にも屈曲させ、途中には竪堀まで落としている。主郭背後は堀切を介して二ノ郭がある。二ノ郭は両サイドに腰曲輪を設け、特に南東面のものは数本の竪堀を落としている。二ノ郭背後の堀切は南東に竪堀が長く落ち、それに沿って竪土塁も築かれている。その次の繋ぎ小郭は北西面の長い土壇とその下の平場の2段に分かれているが、土壇には中間に小堀切が穿たれ、側方には竪堀が落ちている。繋ぎ小郭と三ノ郭の間も堀切で分断されている。三ノ郭は東角に土壇があり、南東斜面には塹壕状の帯曲輪が構築されている。三ノ郭と四ノ郭の間も長い堀切で分断されているが、後世の改変でだいぶ埋められてしまっている。しかし南東に落ちる竪堀は往時のままである。四ノ郭は広大な曲輪で、有事の際に城下の民衆を収容したのかもしれない。現在は全域が耕地化され、ここに解説板が建っている。更に北に外郭があるが、四ノ郭との間は自然地形がそのまま堀切的な役目を担っている。外郭も畑に変貌しているが、東面に腰曲輪らしい段や横堀状の地形が見られる。以上のように、堀切と竪堀を多用した城であるが、それほど技巧的という感じはなく、縄張り的に少々中途半端といった印象を受けた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.018507/140.535929/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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札城(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0290.JPG←主郭周囲の空堀
 札城は、大掾氏の庶流で馬場氏の一族、札氏の居城である。馬場繁幹がこの地を領して札城を築き、その子幹高より札氏を称したとされる。その後の事績はあまり明確ではないが、最後の城主は札治部大輔幹繁で札・阿玉を領していた。1591年、佐竹義宣による所謂「南方三十三館の仕置」で、鹿行地域の諸豪が陰惨な謀略によって常陸太田城で誘殺された際、幹繁は危うく難を逃れ、小里村(久慈郡里美村)に逃れて蟄居し、15年後に郷里へ帰ったが病死し、札氏は滅亡した。

 札城は、北浦東側の比高15m程の丘陵上に築かれている。基本的には連郭式の縄張りで、北から順に北出曲輪(笹曲輪)、主郭、二ノ郭、三ノ郭と連なっている。北出曲輪は、左右に竪堀状虎口を築いていることから、実質的に主郭の馬出しとして機能したらしい。特に西側の竪堀状虎口には枡形も構築されている。主郭は山上の方形郭で、全面が薮だらけで進入できないが、北辺と南東角部に土塁が確認できる。主郭の西側以外の三方は空堀で囲まれ、北と南のものは各曲輪を分断する堀切を兼ねている。空堀の外側には帯曲輪が構築されて斜面からの敵の接近を防衛している。また南東部には2本の竪堀が落ちている。二ノ郭は大きな切岸で2段の平場に分かれており、下段は「エトク屋敷」と呼ばれているらしい。ここには民家がある。上段は不定形な櫓台を兼ねたと思われる高台になっている。二ノ郭~三ノ郭間も堀切で分断され、現在は小道が通っている。三ノ郭は普門寺境内となり、墓地が造成されているので改変を受けているが、ある程度旧状を残しており、北に向かって段々に高くなっており、北辺に土塁が見られる。南にも大きな土壇があり、往時の櫓台の跡のように見受けられる。札城は、明確に遺構が残っているが、解説板もなく未整備で、少々残念である。また全体に、割と平易な縄張りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.085714/140.547388/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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木崎城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0175.JPG←大空堀に張り出した櫓台
 木崎城は、常陸武田氏の居城である。常陸武田氏は甲斐武田氏の一族で、上杉禅秀の乱の際に禅秀方に付いて敗北し、その一族の武田信久が甲斐から逃れて常陸南部に移り、隠れ住んだことに始まる。当初は神明城を居城としていたが、1533年、武田氏8代民部大輔通信の時、新たにより要害性の高い木崎城を築いて居城を移したと言われている。戦国後期には鹿島氏、大掾氏などと抗争を繰り広げ、野友城を築くなど勢力を伸ばしたが、1591年に佐竹氏の手によって滅亡した。即ち、1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族らを陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した武田信房ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。木崎城で戦闘があったかどうかは不明であるが、いずれにしても城主なき城では佐竹氏の圧倒的な軍事力に対抗できるはずもなく、程なく制圧されたのだろう。以後、廃城となったと思われる。

木崎城は、神明城より武田川の1.7km程下流にある城で、神明城同様、北に向かって張り出した台地上に築かれている。しかし微高地程度の神明城より要害性の高い、比高20m程の独立丘陵の上に位置している。縄張りは、丘陵北端部に主郭・二ノ郭を東西に併置し、空堀を挟んで南に広大な三ノ郭、更に大空堀を穿った南に小規模なⅣ郭・Ⅴ郭等の外郭を備えている。主郭はほぼ方形の曲輪で、3つの隅櫓台を有している。また外周に横堀を巡らして防御を固め、南辺だけ土塁を築いている。主郭内には現在香取神社が建っている。二ノ郭もやや縦長の方形の曲輪で、北西側にだけ土塁が築かれ、主郭との間は浅い空堀、また北斜面には主郭北側から続く横堀が防御を固めている。二ノ郭東には広い腰曲輪が築かれ、その北端には櫓台を形篇したと思われる墓地がある。三ノ郭は畑などに変貌し、工場も建っている。三ノ郭の南側は土塁が築かれ、幅10m以上もある大空堀で断絶されている。ここにはⅣ郭に向かって土橋が架かり、両翼に横矢張り出しの櫓台が築かれている。この空堀付近は綺麗に整備されていて、櫓台の横矢掛かりがはっきりと確認できる。千葉の坂田城にもこうした櫓台があったが、薮が多くて見栄えが悪かったので、坂田城もこのぐらい綺麗に整備してくれればと思った。大空堀は、東西の端まで掘り切っており、東側は三ノ郭東の腰曲輪に繋がっている。大空堀の外にはⅣ郭・Ⅴ郭が東西に並び、Ⅳ郭は逆三角形で低土塁に囲まれた馬出し的曲輪、Ⅴ郭は南の防衛線となる東西に細長い砦的な曲輪となっている。Ⅳ郭・Ⅴ郭の周りにも横堀や腰曲輪が築かれている。傾斜の緩い南面への防衛を重視していたことが見て取れ、戦国後期の築城技術を見ることのできる良好な遺構である。
主郭外周の横堀→IMG_0106.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.098007/140.508399/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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神明城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0043.JPG←主郭全景、部分的に土塁が残存
 神明城は、武田城とも呼ばれ、常陸武田氏の初期の居城である。常陸武田氏は甲斐武田氏の一族で、上杉禅秀の乱の際に禅秀方に付いて敗北し、その一族の武田信久が甲斐から逃れて常陸南部に移り、隠れ住んだことに始まる。神明城は、この信久が応永年間(1394~1427年)に築いたとされる。その後の1533年、武田氏8代民部大輔通信の時、新たに木崎城を築いて居城を移したと言われている。その後の神明城の動向は不明である。

 神明城は、国道354号線の北側の半島状の微高地に築かれている。北には武田川が流れており、往時は周りを低湿地帯に囲まれた要害であったのだろう。縄張りは、昭和20年代の航空写真を見ると、微高地の上に先端(北)から主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭を堀切を介して連ねた連郭式であった。現在、四ノ郭は民家や畑に変貌し、大きく改変されて湮滅している。現在国道が貫通しているのが、三ノ郭の空堀に当たる。三ノ郭は、前述の航空写真からすると、実質的に二ノ郭の馬出しとなる曲輪で、最も規模が小さい。二ノ郭は全体にクランクした形状の曲輪で、西辺と南辺に張り出しの櫓台を設けて横矢掛かりを意識している。主郭はほぼ方形の曲輪で、やはり西辺に張り出しの櫓台を設けている。また主郭・二ノ郭とも堀切はやや歪んだ形状で、横矢掛かりを意識している。主郭・二ノ郭の周りには一段低く腰曲輪が取り巻いており、主郭の北東にある神明神社付近に、土塁や堀状の溝地形が残っている。これらは北側の低地帯に対する防御であろう。この他、主郭・二ノ郭に部分的に土塁が残存しているが、耕地化による改変があるので、全周に土塁が築かれていた可能性もあろう。各曲輪を分断する堀切はものすごいガサ薮に埋もれていて、その形状を把握することができない。遺構は比較的よく残っているので、もう少し整備されればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.103139/140.490460/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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中居城(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0905.JPG←二ノ郭外周の横堀
 中居城は、大掾氏の庶流で鹿島氏の一族、中居氏の居城である。鹿島三郎政幹の3男四郎時幹がこの地に分封されて、中居氏を称した。当初時幹は、白鳥城を築いて居城としたが、勢力の拡大に伴って手狭となり、新たに中居城を築いて居城とした。その後、中居氏歴代の居城となり、東方に西山館、南方に新館を置いて備えを固めていた。1591年、佐竹氏による所謂「南方三十三館の仕置」によって、時の当主中居秀幹は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏16名と共に常陸太田城で誘殺されて滅亡した。尚この時、敵に備えて壕掘作業をしていた領民達は、城主の死を聞くと作業を中止し、念仏を唱えて亡き領主を弔ったことから、その未完成の堀のこと念仏堀と名付けたと言う。

 中居城は、比高30m程の丘陵先端部に築かれた城である。個人の持ち山であるが、登り口に解説板が建ち、中に入ることができる。訪城した際、たまたま老夫婦が竹藪を伐採中であったが、遺構の探索を快く承諾いただけた。高齢化で整備が行き届かないせいか、かなりの竹藪地獄の城であるが、遺構はよく残っている。ひしゃげた菱形状の曲輪が城の中心で内部は切岸で2段に分かれ、東の高い方が主郭、西の低い方が二ノ郭となっている。2つの曲輪とも、外周を土塁で防御し、北東端と南西端に隅櫓台を築いている。これらの曲輪の周囲には延々と横堀が巡らされ、西辺で横矢のクランクがあり、また前述の隅櫓台周りでは横堀が鋭角に曲がって、櫓台上からの射角を稼いでいる。また主郭の東や北東に外郭があったらしく、現在曲輪部分は掘削されてほとんど湮滅しているが、周囲の横堀と土塁は残っている。しかしこの辺りは特に薮が激しく、念仏堀も確認が大変である。一方、大手虎口は南側にあり、特に主郭虎口には動線制約の竪堀が穿たれ、また横堀外周の土塁に繋がる土橋が架かるなど、中々技巧的な部分もある。今後、市が整備を代行するなどして、遺構を確認しやすくしてほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.083494/140.566399/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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林城[外城](茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0685.JPG←大手虎口と大堀切
 林城は、大掾氏の庶流で鹿島氏の一族、林氏の居城である。鹿島三郎成幹の6男頼幹がこの地に分封されて、林六郎左衛門と称し、林氏の祖となった。戦国時代になると、林氏は勢力を拡大し、1486年に江戸氏が徳宿城を攻撃した時には、徳宿氏救援に総動員された鹿島地域の国人衆の中で、鹿行諸氏の筆頭鹿島氏に次いで林八郎・林新五郎の名があり、相応の勢力を有していたことが伺われる。戦国末期の1589年、時の城主林弾正時国は、札村の渡し場で荒原五郎左衛門と言う者に殺害されて滅亡、城は廃されたと言う。

 林城は、中城と外城の2つの城が、低地帯を挟んで向かい合う台地先端部に築かれている。外城は南から北に突き出した比高30m程の台地先端部に築かれているが、その遺構は極めて巧妙なものである。北端の左右に主郭・二ノ郭を並立させ、規模の大きな堀切を挟んで三ノ郭が南に続き、更に四ノ郭などの外郭が続いている。主郭・二ノ郭の北斜面は、内側に窪んだ形状をしており、そこに何段かの腰曲輪が築かれ、登り道が付いている。主郭と二ノ郭は共に外周に土塁を築いて防御し、更に要所の塁線を歪ませたり、張り出した隅櫓台を築いて防御を厳重なものとしている。主郭と二ノ郭の間は土塁と空堀が断片的に残存しているが、近世の耕地化で一部が湮滅したものだろう。主郭と二ノ郭の間の南側には大手虎口があり、隅櫓で側方を守られた木戸跡が確認できる。ここから降りた大堀切にはやはり東西に横矢掛かりの櫓台張り出しが設けられている。その南の三ノ郭も土塁で防御された曲輪で、内部には枡形状の仕切り土塁などが残っている。三ノ郭も背後の堀切に対して横矢張り出しの櫓台を2ヶ所設けている。この他、四ノ郭や外郭にも堀状の溝、土塁、武者走りが残り、四ノ郭の東斜面には堀切や竪土塁、櫓台等が見られるが、この辺りは未整備の薮で覆われている。これら以外にも東西の斜面に多くの腰曲輪が見られる。林外城は、鹿行地域の諸城の中でも屈指の技巧的縄張りを有する城で、主要部の整備も行き届いており、必見である。その縄張りからは、小田原北条氏の築城技術の影響が垣間見られるのも興味深い。
三ノ郭の横矢掛かり→IMG_0861.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.007052/140.609400/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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鹿島城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0453.JPG←主郭切岸と空堀
 鹿島城は、大掾氏の庶流鹿島氏の歴代の居城である。大掾繁幹の子吉田清幹の三男成幹が鹿島郷に土着して、鹿島三郎と称して鹿島氏の祖となった。成幹の子政幹は、はじめ宮本郷粟生に住んでいたが、後に鹿島神宮西方の吉岡に鹿島城を築いて本拠を移した。以後、鹿島氏歴代の居城となった。政幹は源頼朝から鹿島神宮の神領中の非違を検断する鹿島神宮総追捕使に任じられ、大掾氏の有力支族として勢力を拡大した。また鹿島氏からは、成幹の次兄忠幹に始まる行方氏と共に、鹿行地域に広く一族を分封して徳宿・烟田らの諸族を輩出し、後に「南方三十三館」と称される国人衆の多くは鹿島氏・行方氏の庶家であった。南北朝時代になると、鹿島幹寛・幹重父子は、宗家の大掾氏と共に北朝方に付き、佐竹義篤に従って北畠親房が拠る神宮寺城の攻撃に参加するなど常陸各地に転戦し、1352年には足利尊氏に従って、幹重は武蔵野合戦に参陣した。1368年、幹重は鹿島惣大行事職に補任され、以後鹿島氏当主が惣大行事職を世襲した。戦国時代に入ると、鹿島氏は家中において内訌が生じるようになった。1512年、鹿島景幹が、下総米野井城を攻めて討死すると、弟の義幹が養子として家督を相続した。義幹は、1523年に鹿島城を大改修したが、暴政を行った為重臣達は義幹を追放し、大掾高幹の弟通幹を迎えて景幹の娘を娶らせ、新たな鹿島氏当主とした。義幹は下総国の東氏を頼って逃れ、翌24年、鹿島城奪回の兵を起こし、利根川から舟によって高天原に上陸した。迎え撃った通幹勢との間で激戦となり、義幹は討死にした。その後、義幹の孫治時は佐竹氏に従い、鹿島城を回復した。治時の没後、鹿島氏は兄弟相争う内訌を3度にわたって繰り広げ、更に江戸氏や千葉氏など周辺勢力の介入を許し、鹿島氏の勢力は衰退した。1590年の小田原の役では、鹿島氏は大掾氏一族と同様に豊臣秀吉の元へ参陣しなかった為、役後その所領は佐竹氏に委ねられた。佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した鹿島清秀ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。鹿島城も、清秀の妻や重臣達が城に立て籠もり半月ほど徹底抗戦したが、佐竹勢に大砲を撃ち込まれて落城し、以後廃城となった。その後、清秀の遺児伊勢寿丸(後の幹連)は落ち延びて生き残り、徳川家康によって再興を許されて古の惣大行事職を継いだ。こうして鹿島氏は武家としてではなく、神宮に奉仕する家門として存続した。

 鹿島城は、北浦東方の比高30m程の台地辺縁部に築かれている。主郭は現在城山公園となっている。改変を受けているが、外周に土塁らしき跡が残り、主郭周囲の空堀もはっきりと残っている。主郭周囲の腰曲輪と思われる平場も確認できる。主郭の周りに広がる台地が二ノ郭に当たるが、市街化が激しく、遺構はほとんど湮滅している。僅かに外堀跡が車道などとなっているだけである。しかし主郭の広さを見るだけでも、かなり規模の大きな城であったことが推測でき、往時の鹿島氏の勢威の強さを窺うことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.968264/140.622296/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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手賀城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0403.JPG←大手虎口脇の北斜面の横堀
 手賀城は、大掾氏の庶流で玉造氏の一族、手賀氏の居城である。平安末期の治承年間(1177~80年)に、行方氏の祖、行方宗幹の4男幹政がこの地に分封されて玉造氏を称し、その次男正家が手賀に分封されて手賀氏を称した。以後、その子孫は代々この地を領したが、手賀城がいつ頃築かれたかは明確ではない。時代は下って戦国中期になると、手賀与一郎景幹は玉造宗幹を援けて、小田氏治と戦った。この頃には、山入の乱・部垂の乱などの内訌を克服し、家中統一に成功した佐竹氏の勢力が常陸南部にも及ぶようになり、玉造氏・手賀氏らの国人衆も佐竹氏に従属せざるを得なくなった。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した手賀高幹ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。城主なき手賀城も落城し、以後廃城となった。

 手賀城は、比高30m程の台地先端部に築かれている。ひどい薮城で、城域の8割程がものすごい竹薮と倒竹地獄となっており、遺構の確認が容易ではない。台地先端に主郭を置き、その周囲に腰曲輪をぐるりと巡らしている。更に南西端に舌状腰曲輪を築き、北西にも小郭を置いている。腰曲輪の北斜面には何ヶ所かの折れを持った横堀が穿たれている。主郭は平坦な長方形の曲輪で、主郭の東続きに、間をややくびれた堀切状の虎口で区画した馬出郭が築かれている。馬出郭は土塁で防御し、その東側の台地基部は規模の大きな二重堀切で分断されている。そのさらに東は外郭らしいが、どこまでが城域かは判然としない。二重堀切の1本目の南側横には櫓台と竪堀を伴った木戸口が設けられ、主郭に通じる城道が小郭を経由して伸び、搦手虎口であったことがわかる。またこの堀切から竪堀が下り、途中で二重竪堀となり、その西側には南斜面の腰曲輪が確認できる。一方、1本目の堀切の北側から北斜面にかけては、この城一番の遺構が見られる。主郭腰曲輪から竪堀状の虎口が伸びていて、その東側に2段の横堀が斜面に沿って穿たれ、竪堀状虎口の西側は前述の北斜面の横堀が接続している。この下にL字状の土塁で構築された枡形虎口が伸びている。これが大手であろう。一方、先ほどの2段の横堀はL字に屈曲して、二重堀切の1本目に接続している。従って、2段の横堀の中間土塁もL字状の独立した土塁となっている。この様に手賀城は、大手虎口に対して多重横矢の塁段・横堀を設けて厳重な防御を施しており、戦国後期の改修を想起させ、中々の技巧性を持った縄張りの城である。とにかく、竹薮がひどいのだけが難である。
馬出郭の切岸と二重堀切の1本目→IMG_0343.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.091627/140.432053/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=airphoto&vs=c1j0l0u0f0
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