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玉造城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0225.JPG←主郭の堀切
 玉造城は、大掾氏の庶流で行方氏の一族、玉造氏の居城である。平安末期の治承年間(1177~80年)に、行方氏の祖、行方宗幹の4男幹政がこの地に分封されて玉造氏を称した。尚、宗幹の長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に小高へ移住して小高氏となり、次男高幹は島崎に分封されて島崎氏となり、3男家幹は麻生に分封されて麻生氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。当初四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形で結合していた。中でも玉造氏は行方郡の西端に位置した為、行方氏一族の西方の守りを担い、手賀氏・鳥名木氏らの庶家を輩出した。しかし時代が下ると一族相争うようになり、応永年間(1394~1427年)の上杉禅秀の乱の際には、玉造氏8代幹綱は鎌倉公方足利持氏方に付いて、禅秀方の島崎長朝に討たれた。玉造城は、室町中期の寛正年間(1460~65年)で、戦国後期の永禄年間(1558~69年)から天正年間(1573~92年)に再構築されたと考えられている。この頃には、山入の乱・部垂の乱などの内訌を克服し、家中統一に成功した佐竹氏の勢力が常陸南部にも及ぶようになり、玉造氏らの国人衆も佐竹氏に従属せざるを得なくなった。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した玉造重幹ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。玉造城も佐竹氏家臣大窪兵蔵久元に攻められ、城主なき城は間もなく落城し、以後廃城となった。

 玉造城は、梶無川東岸の比高20m程の丘陵上に築かれている。丘陵の上に、3つの曲輪が高台となって築かれた連郭式で、外周に広く腰曲輪を巡らしている。腰曲輪は民家などが並んでいるが、北側斜面に横堀ラインが車道の東西に残っている。主郭は民家裏の高台で、虎口や土塁・櫓台が残るが、内部は冬でもガサ薮がひどく、確認できない。車道となった堀切を介して二ノ郭が続いているが、二ノ郭は梅林となっており、折しも梅が満開であった。更に堀切を介して三ノ郭に至るが、ここの堀切は浅く、埋められているのかもしれない。三ノ郭は畑などで、2段の平場に分かれており、北斜面に横堀、東側に外堀が確認できる。一応、城の形態は概ね残っていて往時の縄張りを追うことはできるが、民家が立ち並んでいたりしてあまりパッとしない印象の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.109640/140.416517/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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野友城(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0117.JPG←そびえ立つ主郭切岸と空堀
 野友城は、常陸武田氏が築いた城である。常陸武田氏は甲斐武田氏の一族で、上杉禅秀の乱の際に禅秀方に付いて敗北し、その一族の武田信久が甲斐から逃れて常陸南部に移り住んだことに始まる。常陸武田氏は、永禄年間(1558~69年)になると鹿島氏と抗争しており、野友城はこの抗争の際に北浦の水運掌握の為に築かれたと推測されている。武田氏が、1591年に「南方三十三館の仕置」で佐竹義宣によって滅ぼされると、野友城も廃城になったと思われる。

 野友城は、巴川南岸に突き出した比高20m程の丘陵先端に築かれている。東以外の三方を空堀で囲まれた主郭とその東側下方に築かれた二ノ郭から構成された、比較的小規模な城である。主郭は5m程の切岸でそびえ立った長方形の曲輪で、北西角と北東角に隅櫓台を築き、外周の空堀も比較的規模が大きい。南側の台地基部も主郭空堀と繋がる堀切で二ノ郭まで含めて、大きく分断している。木戸口跡は2ヶ所に見られ、一つは主郭南西側の外郭の土塁に、堀切に降りる形で付いており、もう1つは主郭の北側の空堀の中に、堀内障壁に似た形で築かれている。このことから考えると、主郭外周の空堀は城内通路を兼ねていたらしい。この他、北側斜面に大手虎口付近の斜面には二重横堀が穿たれ、敵の侵入を厳重に阻んでいる。小さな城だが、中々見応えのある遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.146643/140.485504/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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烟田城(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_10033.JPG←主郭の空堀と土塁
 烟田城は、徳宿氏の庶流烟田氏の居城である。徳宿城の項に記載した通り、大掾氏の庶流で鹿島氏の一族の更に分流に当たり、鎌倉時代に徳宿氏2代秀幹の次男朝秀は烟田村他3ヶ村に分封されて烟田氏の祖となった。以後、鹿島郡北部の有力豪族となった。南北朝時代には、烟田時幹は佐竹一族の小瀬義春に従って南朝方諸城の攻撃に参加するなど、終始北朝方として活動した。また室町時代には、鹿島氏を惣領家とする一門として一貫して鹿島氏に従って活躍した。1486年には、徳宿氏が水戸城主江戸通雅に攻められ、徳宿城は落城して徳宿氏は滅び、援軍として参戦した烟田入道父子も討死した。戦国後期になると、惣領の鹿島氏家中で内訌が起こり、烟田氏も巻き込まれた。またこの頃には江戸氏の南下に対する備えもあって、烟田城を整備拡張した。また烟田城の周辺に、塙氏や井川氏ら家臣団に「烟田八館」と呼ばれる城館群を築かせ、防衛力の強化を図った。一方、山入の乱・部垂の乱などの内訌を克服し、家中統一に成功した佐竹氏の勢力が常陸南部にも及ぶようになり、烟田氏らの国人衆も佐竹氏に従属せざるを得なくなった。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した烟田通幹ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。烟田城も徹底抗戦したものの落城し、以後廃城となった。

 烟田城は、比高20m程の台地先端部に築かれている。城内はかなり改変を受けているため、はっきりしない部分もあるが、大きく4つの曲輪で構成されていたらしい。主郭は新宮小学校に変貌しており、先端には氷川神社が建っている。神社裏手に土塁と空堀が残っている。二ノ郭は主郭の西側先端部にあり、民家と畑になり、一部に土塁らしい土盛が残る。三ノ郭は主郭の北に位置し、畑や山林となっており、2段程の平場に分かれ、空堀や土塁が一部に残存している。遺構の状態は、この三ノ郭が最も良好である。その東側に西光院郭と呼ばれる四ノ郭があり、墓地の北側や寺の東側に土塁・空堀が残る。この他、台地北側や南側の斜面に腰曲輪が残っている。遺構は部分的にしか残っていないが、想像していたよりも遺構が良好であった。
三ノ郭に残る空堀と切岸→IMG_10061.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.147440/140.525136/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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三階城(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9968.JPG←二ノ郭周囲の土塁
 三階城は、安房(あんぼう)城とも呼ばれ、徳宿氏の庶流安房氏の居城である。徳宿城の項に記載した通り、大掾氏の庶流で鹿島氏の一族の更に分流に当たり、鎌倉時代に徳宿氏2代秀幹の長子俊幹が、安房・鉾田の地域に分封されて安房(あんぼう)氏となり、三階城を築いて居城とした。安房氏は、室町時代中期の応永年間(1394~1427年)に至り、宮ヶ崎氏と共に上杉禅秀の乱に加担して滅亡した。後には鹿島氏の老臣額賀大炊助が三階城主となったと伝えられている。

 三階城は、比高20m程の丘陵上に築かれた城である。市の指定文化財となっているが、内部は全く未整備のガサ薮で、冬でもまともに遺構の確認ができないほどである。僅かに薮の中に小道が残っているので、それを頼りに進んでいくと、いつしか小道は横堀に入り、二ノ郭虎口に至る。更に奥に分け入ると主郭に登る。この城は、三ノ郭・二ノ郭・主郭の順に高くなった輪郭式の縄張りで、その3段になった形状から三階城と呼ばれるようになったらしい。基本的には素朴な縄張りのようで、主郭や二ノ郭外周には土塁が築かれ、二ノ郭周囲は横堀で囲まれているが、大した技巧性はない様である。いずれにしても薮がひどすぎて遺構の確認が困難で、辟易する。

 尚、その後わかったことであるが、鉾田市が城址の山林を地権者から購入して、城址公園として整備する計画があることがわかった(今年6月の茨城新聞)。何年かして整備されたら、また再訪して見たいと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.167467/140.513313/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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徳宿城(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9918.JPG←主郭の大手虎口と土橋
 徳宿城は、大掾氏の庶流で鹿島氏の一族、徳宿氏の居城である。平安末期に、鹿島氏の祖、鹿島成幹の子親幹がこの地に分封されて徳宿氏を称し、徳宿城を築いた。尚、徳宿氏2代秀幹の長子俊幹は、安房・鉾田の地域に分封されて三階城を本拠とする安房(あんぼう)氏となり、次男朝秀は烟田村他3ヶ村に分封されて烟田城を本拠とする烟田氏となった。4男幹直が、徳宿氏を継いだ。その後の徳宿氏の事績は』不明であるが、1486年、9代道幹の時、水戸城主江戸通雅の攻撃を受け、徳宿氏は徹底抗戦したが寡勢のため敗れ、徳宿城は落城して徳宿氏も滅亡した。

 徳宿城は、比高20m程の段丘先端に築かれた城で、徳宿本郷の集落の南端に位置している。その位置関係から考えて、徳宿本郷は元々徳宿城の根古屋(家臣団居住地)か城下町であったことは疑いがない。城自体は大きく3つの曲輪で構成され、南端にひしゃげた形の主郭を置き、その北側に幅広の堀切で分断され、土橋で連結された横長のニノ郭を置き、更に堀切・土橋を介して三ノ郭を置いた連郭式の構造となっている。主郭は全周を土塁で囲んでおり、特に大手の土塁は高土塁で規模が大きい。塁線も歪んでいて、堀底に横矢が掛けられている。二ノ郭は東半分にだけ土塁が築かれ、北東端に隅櫓台が築かれている。三ノ郭はどこまで広がっていたか明瞭ではないが、北側に土塁があるので、そこまでが城域だったものと思われる。東側は畑になっていて改変されているので、城域が不明瞭である。この他、主郭・二ノ郭周囲にはやや幅広の腰曲輪が巡らされ、堀底と一体となって機能したらしい。徳宿城は、堀切はあるが基本的に素朴な縄張りで、戦国初期に落城したままの姿を留めている様だ。尚、主郭の稲荷神社付近以外はほとんどが未整備の薮で埋もれており、夏場の遺構探索は無理であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.184269/140.520158/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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中野城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9812.JPG←ニノ郭前面の二重横堀・三重土塁
 中野城は、上総北東部に武威を振るった土気酒井氏の、土気城以前の居城であったと言われている。酒井氏の出自は諸説あって明確ではない。一説には、土気酒井氏の祖酒井定隆は、元は遠江国の武士で、房総の地に移り住み、安房里見氏の支援によって中野城を築いたと言われる。しかし定隆は、太田道灌が千葉氏を攻撃した1478年の境根原合戦、翌79年の臼井城合戦の際、千葉孝胤・原胤房に与力していることから、安房里見氏の支援は疑問視されており、実際には千葉氏の勢力を背景として、上総武田氏に対する国境前線の守りとして中野城に封じられ、その後、土気城に進出したと考えられている。定隆は法華宗信仰が厚く、領内全ての寺院を法華宗に改宗させ、「七里法華」と呼ばれる宗教政策を行った。また定隆に迎えられた日泰上人は、旧中野城内に長秀山本城寺を開創して布教に務めたと言う。

 中野城は、現在も本城寺の境内となっている。浸食谷に面した段丘上に築かれており、寺のあるのが主郭で、外周の西・北・南の3面に土塁と空堀が延々と築かれている。城域は境内の外まで広がっていて、おそらく往時は複郭の城であったと思われるが、曲輪の区画は今では湮滅して明確ではない。しかし、仮に主郭の南をニノ郭とすると、ニノ郭前面の斜面上に二重横堀・三重土塁が残っており、大手前面の防御を担っていたと考えられる。しかしこの部分は民有地の山林らしく、2月下旬に訪城した時は一部の土塁が重機で破壊の真っ最中であった!(もう破壊され尽くしているかも。頼むからやめてくれ~!)この他、浸食谷をそのまま天然の空堀としている様だ。想像より、しっかりした遺構が残っており素晴らしいが、民有地部分の破壊だけは何とかしてほしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.582100/140.265648/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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パソコントラブル、その後。 [日記]

先日発生したパソコントラブルだが、
症状自体は軽微だが、使い勝手上は最悪で、城歩きの計画作りにも支障が出るので、
仕方なく急遽新しいパソコンを買うことにした。

もともと、これまでのPCはもう7~8年も使ってきた古いVISTA機で、
途中、メモリーの増強やHDDの1T換装など、対策を講じて延命してきていたが、
さすがに最近は能力的に辛くなってきていたし、
来年にはVISTAのサポートが切れることから、
「そろそろ・・・」とは考えていたので、この機会に買い換えることにした。

新しいパソコンの方は、ようやく昨日まででほぼデータの移行や環境整備が完了し、
元通り使える環境が整った。

この作業の中で、もっとも困ったのが過去メールのデータ移行。
新しいPCのOSは当然Windows10なので、
Microsoft純正のメーラーも新タイプのものに変わっているが、
まさか古いPCの過去メールデータが取り込めないアホな仕様になっているとは
想像もしていなかったので、
エクスポートしたデータをインポートさせれば簡単にできると考えていた。

ところが!である。
なんと、MSのバカ、全く仕様の異なるメーラーに作り変えていて、
全然データ移行できないシステムにしてしまっていたらしい。
ネット上でいろいろ調べたが、やはりできないらしい。
(隠されているWindowsメールを、無理やり引っ張り出す荒技もあるらしいが、
 私のではうまくできなかった。)

そもそも新しいメーラーは、完全クラウド化されていて、
メールデータは全てMSのサーバー内に強制蓄積させられるらしい。
これでは私文書の秘匿もクソもあったものではない。

こうゆう、自社の都合ばかり考えて、ユーザー目線での製品づくりが欠落しているのは、
さすがにクソMSらしい。
Windows8の大失態に懲りず、またこれかよ!という感じ。

そんな問題ありまくりのMS標準メーラーは捨てて、
結局ブラウザーのFirefoxと同じMozillaで出しているThunderbirdを使うことにした。

設定してみたところ、Thunderbirdは予想以上に使い勝手が良くて、
メール中の語句を使ったネット検索でも、Firefoxと連携して一発検索してくれるし、
プロバイダメールだけでなくGmailアカウントの併用も可能になったし、
新しく付加されたカレンダー機能(Lightningと言うらしい)で、
googleカレンダーとの連携も可能になった。

これから出張なので、まだすぐには城巡りの記事更新はできませんが、
数日後には更新できると思いますので、今後共よろしくお願いします。
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パソコントラブルにつき・・・。 [日記]

皆様、いつも当ブログを訪問くださりありがとうございます。
本日パソコンが不調となり(兆候は先日からあったのですが)、ブラウザーソフトが立ち上がらなくなってしまいました。
復旧するまでの間、しばらくブログの更新をお休みさせていただきますので、
ご了承のほどお願い致します。

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立堀城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9735.JPG←南東角部の城塁と空堀
 立堀城は、歴史不詳の城である。一説には、千葉輔胤が一時本拠を置いた平山城(長谷部城)の出城であったとも言われるが明確ではない。
 立堀城は、支川都川の北岸の比高20m程の丘陵上に築かれている。北東に向かってすぼまった台形状の曲輪だけで構成された単郭の城であるが、城塁は5m程の高さを持つ規模の大きいもので、主郭の面積もこの手の城にしては異例に大きい。主郭は全周を土塁で囲み、更に全周に空堀を巡らして防御を固めている。主郭の塁線は西面と東面で僅かに歪んでいるようだが、ほぼ直線状の城塁のみで築かれている。南東辺にだけ張り出しの櫓台が築かれている程度である。土橋で接続された虎口は北東と南西の2ヶ所築かれているが、土橋への横矢は掛けられておらず、その面では戦国前期までの構築の様に思われる。主郭内部は倒竹地獄で進入は困難である。全体から受けた印象としては、軍需物資を集積した兵站拠点のような使われ方をした城の様に感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.573845/140.178552/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0

タグ:中世平山城
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栄福寺館(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9687.JPG←境内周囲の土塁
 栄福寺館は、平安時代後期に千葉介常重の家臣板尾五郎治の居館であったとされている。寺伝では、1130年に嫡子常長に付き添われてここより西にあった三角山に仮住居を設けて安住地を探し、翌31年にこの地に居城を移し、千葉氏の守護神妙見大菩薩を奉祀安置したと言う。栄福寺館のすぐ西方300mの位置に城山城があるが、両者の関係は明確ではない。

 栄福寺館は、現在栄福寺の境内になっている。城館跡であることを知らなかったが、城山城の帰りに何か城と関連する歴史があるかもと立ち寄ったところ、千葉氏との関連する歴史が残る寺で、境内の周りに土塁遺構の様なものも見られ、帰ってから調べたらやっぱり館跡だったというわけである。寺の石碑に寺伝が記載されており、その中に前述の歴史が記載されていた。周囲には土塁だけで堀跡がなく、城館の遺構であるかどうかは確実ではないが、ここでは一応遺構ということにしておきたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.594786/140.170999/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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城山城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9590.JPG←西尾根の櫓台
 城山城は、歴史不詳の城である。元々この地は千葉庄池田郷に属し、平安時代後期には千葉介常重の家臣板尾五郎治が治めていたとされる。しかし一説には、江戸時代初期の寛永年間(1624~43年)の頃に板倉筑後守重直が築城したとも伝えられる。しかし元和の一国一城令が敷かれた後のことであり、史上疑問も多い。『日本城郭大系』では、東方300m程の位置にある板尾五郎治の居館(栄福寺館)の出城か、都川支流に点々と所在する城ノ腰城・立堀城・平山城と共に連携して機能した城との推論を紹介している。

 城山城は、支川都川の北岸の比高20m程の段丘先端に築かれている。南東の腰曲輪には現在、日枝神社が建っており、また城のすぐ北側には千葉東金道路が貫通し、城のすぐ脇まで車道が来ているので、訪城は容易である。しかし城自体は藪城なので、夏場の訪城は無理だろう。遺構はよく残っており、平坦で広い主郭とその北側に一段低い二ノ郭があり、周囲を腰曲輪で防御した構造である。二ノ郭北側には堀跡も残っている。主郭南東部に櫓台を備えた虎口が築かれている。主郭前面に当たる南側は堀底道を介して腰曲輪があり、腰曲輪の西から南にかけては横堀が穿たれている。この腰曲輪にも虎口があって、南に一段低い腰曲輪と繋がっている。一方、南東にも腰曲輪があって前述の通り日枝神社が建っている。神社裏手には土塁や主郭に通じる木戸口らしい地形が見られる。この他、主郭の東西にも腰曲輪があり、一部に土塁が築かれている。また西に伸びる尾根上にも遺構があり、櫓台や堀切、腰曲輪が連なっている。比較的小規模で、大した技巧性もない城であるが、遺構の残り具合は想像より良かった。
西尾根の堀切→IMG_9596.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.594297/140.167716/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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木出城(千葉県四街道市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9538.JPG←北辺の櫓台
 木出城は、歴史不詳の城である。地域としては千葉氏の勢力圏に属していたことから、千葉氏関連の在地領主の城と考えられているが、遺構から推測すると戦国後期のものと考えられることから、三船山合戦以後、反攻に転じた安房里見氏に対して、北条氏が築いた防衛の砦とも考えられよう。

 木出城は、比高15m程の段丘先端部に築かれている。ほぼ単郭の城で、民家裏の山林に遺構が眠っている。民家の優しい老夫婦に断れば、快く見学を承諾頂ける。北に700m程の位置にある福星寺館と構造がよく似ており、主郭はほぼ方形の曲輪で、外周には土塁が築かれて防御を固め、東西南北四辺に横矢掛かりの櫓台張出しを設けており、それに伴って外周の空堀を屈曲させている。外周の堀底から見た城塁は高さ4~5m程で福星寺館よりはやや規模が小さい。しかし主郭の面積は福星寺館より広く、主郭南にも外郭が広がっていて、堀らしい溝状地形が見られる。主郭には西と南に虎口が開かれているが、土橋はなくそのまま堀底に繋がっている。空堀自体が城内通路として機能したらしい。この他、台地の東側下方にも水堀跡らしい田んぼが残っている。横矢の発達や福星寺館との相互関係から推測すると、三船山合戦以後に里見氏の激しい攻勢に曝された北条氏が、防衛線維持のために築いた城砦と考えるのが妥当ではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.640540/140.196941/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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福星寺館(千葉県四街道市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9467.JPG←北辺の櫓台と空堀
 福星寺館は、歴史不詳の城館である。地域としては千葉氏の勢力圏に属していたことから、千葉氏関連の在地領主吉岡氏関連の城館と考えられているが(『図説 房総の城郭』)、遺構から推測すると戦国後期のものと考えられることから、三船山合戦以後、反攻に転じた安房里見氏に対して、北条氏が築いた防衛の砦とも考えられよう。

 福星寺館は、比高20m程の段丘先端部に築かれている。単郭の小規模な城館で、郭内は現在福星寺が建っている。主郭はほぼ方形の曲輪であるが、外周には高土塁が築かれて防御を固め、東西南北四辺の中間部に横矢掛かりの櫓台張出しを設けており、それに伴って外周の空堀を屈曲させている。外周の堀底から見た城塁は高さ6~7mにも及ぶ規模で、城の規模と比べると不釣り合いなほど厳重に防御されている。また東や南に虎口が開かれ、土橋が架かっている。空堀の外周にも一部土塁などが散見される。南に700m程しか離れていない木出城と構造がよく似ており、横矢の発達や厳重な防御構造から推測すると、三船山合戦以後に里見氏の激しい攻勢に曝された北条氏が、防衛線維持のために築いた城砦と考えるのが妥当ではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.646974/140.198271/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo4&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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根古谷城(千葉県八街市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9373.JPG←天満宮裏に残る堀跡
 根古谷城は、千葉氏の重臣円城寺氏の居城である。円城寺氏は、原氏・木内氏・鏑木氏と共に「千葉四天王」と称される程、千葉宗家の中で勢力を持った一族で、享徳年間(1452~55年)に、根古谷城はこの円城寺氏によって築かれたと推測されている。しかし1455年、鎌倉公方足利成氏は、亡き父持氏の仇の子である関東管領上杉憲忠を謀殺し、関東を二分する大乱、享徳の乱が勃発した。この余波で下総では名族千葉氏に内訌が生じ、成氏方の康胤は、同族の小弓城主原胤房と共に、上杉方に付いた宗家千葉胤直・胤宣父子を攻め滅ぼし、宗家を乗っ取った。この時、円城寺氏も滅び、その後根古谷城は、粟飯原氏が城主となった様である。その後の歴史は不明であるが、1590年の小田原の役の際に落城したと言う。

 根古谷城は、弥富川南岸に南から突き出した比高10m程の台地上に築かれている。天満宮の境内が主郭に当たり、外周には土塁が築かれ、台地との間の南東側と南西側にそれぞれ二重の堀が穿たれている。主郭は天満宮が建っているところが高台になっていて、往時の櫓台の跡らしい。また北に向かって数段の平場に分かれており、最下段が屋号「要害」の民家となっている。主郭以外は宅地化で改変が進んでいるため、遺構はあまり明瞭ではないが、車道沿いに土塁らしい痕跡を一部に残している。城の中心から南西に500m程離れた位置に西御門神社があるが、ここもその名の通り西の木戸口を防衛する出砦であったと思われる。あまり期待していなかったが、主郭部は思ったよりも遺構が良好に残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.637767/140.259340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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岩富城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9280.JPG←主郭に残る土塁
 岩富城は、下総の名族千葉氏の重臣原氏の一族、弥富原氏の居城である。1470年頃に原左衛門尉景廣が築城したと言われ、以後子の胤行らが城主を務めた。弥富原氏も千葉宗家と共に小田原北条氏に属した為、1590年の北条氏滅亡と共に滅んだ。その後、玉縄北条氏の当主氏勝が、関東に入部した徳川家康より岩富1万石に封じられて城主となった。氏勝は、小田原の役の際には要衝の山中城主となって激戦の指揮をとったが、上方勢の猛攻の前に落城を免れず、自害しようとしたところを松田康長ら重臣達に説得されて城を脱出し、本拠の玉縄城に立て籠もった。その後、説得を受けて玉縄城を包囲した家康に降り、以後は家康に従ったものである。1614年、養子の氏重が下野富田城に移封となり、岩富城は廃城となった。

 岩富城は、鹿島川東岸の比高20m程の段丘上に築かれている。城域北西端に五角形をした主郭を置き、その周囲に二ノ郭などの曲輪を配している。現在明確に残っているのは主郭だけで、東側に土橋の架かった虎口を構え、外周を土塁で防御している。特に虎口部では土塁上の幅が広くなっており、櫓門が築かれていたことが想像される。主郭の東と南の空堀もはっきりと残っている。主郭東側が二ノ郭であったと思われ、段状に平場が築かれている。ニノ郭の北西斜面の下方に腰曲輪があり、主郭下方の腰曲輪との間は、空堀から落ちる竪堀で分断されている。この竪堀はどうも城内通路を兼ねていた様である。この他、本宿の地名が残る付近に方形の土塁の一部が残るらしいが、主郭以外の曲輪は宅地化されているので、確認はできない。城内はかなり改変されているが、教蔵寺北側に東から谷戸が入り込み、そこに古道が残っている。見るからに堀跡・虎口跡らしい地形で、搦手虎口だった可能性もある。いずれにしても、明瞭な遺構は主郭周りだけなのは惜しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.655448/140.235801/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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羽生城(埼玉県羽生市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC06437.JPG←城址碑の建つ古城天満宮
(2007年6月訪城)
 羽生城は、上杉謙信の関東攻略の前線基地となった城である。元々は天文年間(1532~55年)に古河公方足利晴氏の家臣広田式部大輔直繁・木戸忠朝の兄弟によって築かれた。1552年、小田原北条氏が羽生城を攻め落とし、中条出羽守が城代となった。1560年、上杉謙信が初めて越山して関東に進撃すると、羽生城も攻め落として直繁・忠朝兄弟に城を与え、以後羽生城は謙信の関東攻めの最前線基地となった。翌61年、忍城の成田下総守長泰に対する守りを固める為、謙信は皿尾城を築いて木戸忠朝(監物入道玄斎)を皿尾城主に移した。1568年、武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が破棄されると、北条氏康は信玄に対抗するため、上杉謙信と越相同盟を結んだ。同盟中の1570年、直繁は館林城へ移され、代わって弟忠朝が羽生城へと入った。その後、越相同盟は実効性に乏しかった為、1571年、氏康の死とともに同盟が破棄され、再び北条・武田両氏の間に甲相同盟が結ばれた。これによって関東の野は再び北条・上杉両勢力の抗争の場となった。しかし北条氏は着実に勢力を拡張し、遂に1574年、謙信は越後と遠い羽生城を放棄・破却し、忠朝以下の城兵を上野膳城へと移した。翌75年、羽生城は北条氏麾下の忍城主成田下総守氏長が支配し、その一族成田大蔵少輔長親が羽生城代となった。1590年の小田原の役の際には、時の羽生城代善照寺向用斎は氏長の命により、羽生城を捨てて忍城に籠城した。北条氏と共に成田氏が滅亡すると、関東に入部した德川家康の重臣大久保忠隣に羽生城が与えられた。忠隣は後に父忠世の死により小田原城主となり、羽生城主を兼務したが、1614年、忠隣が改易されると羽生城は廃城となった。その後も遺構は残っていたらしいが、幕末の1867年に羽生陣屋が新たに構築された際、城跡は悉く破壊されたと言う。

 羽生城は、沼地に面した平城で、浮島のように曲輪が連なる城であったらしい。古絵図によれば、主郭を中心に円弧状に幾重にも曲輪が取り囲む縄張りで、平地続きの南と南西にも沼が外堀となって、天然の要害であった様である。現在は完全に市街化しており、遺構は完全に湮滅している。おそらく曙ブレーキ本社の敷地あたりに主郭があったのだろう。少し南の羽生市役所付近も城域だったと思われる。古城天満宮が建つ場所が天神曲輪跡と言われ、現在城址碑と解説板が建つ。また曙ブレーキから南西に少し離れて建っている高山稲荷は、以前は城山稲荷と呼ばれ、羽生城の西の外郭にあったらしい。いずれにしても、その姿はすでに地上から永遠に失われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.175747/139.550164/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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