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飯塚城(茨城県小美玉市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9185.JPG←弧を描く二重土塁・二重横堀
 飯塚城は、常陸平氏の一流飯塚氏の居城である。飯塚氏は、平安時代に常陸大掾職を務めた平国香(平将門の伯父)の後裔、五郎左衛門兼忠が玉里地方に分封されて飯塚の地に居館を構え、飯塚氏を称した。飯塚氏は長くこの地に勢力を保ち、大掾氏勢力の一翼を担ったが、1590年、佐竹氏が大掾氏を滅ぼすと飯塚氏も運命を共にし、飯塚城は廃城となった。

 飯塚城は、車道より2~3m高い平場の上にある民家を取り巻くように丘陵が取り巻き、そこに二重の横堀と土塁を築いた特異な形態の城である。遺構へはこの民家を通らなくてはいけないので、民家の方への立入りのお断りは必須で、老夫婦に快く承諾頂ける。民家敷地のすぐ裏(西)には高台に長方形の内郭があり、外周に土塁、また背面に当たる西側と右翼に当たる南側に横堀を穿っており、綺麗に残っている。その周囲の丘陵地が外郭だったと思われ、外周に二重の横堀と土塁が、コの字状に延々と廻らされている。背面側(西側)に2ヶ所の虎口があり、土橋が架けられている。外周の二重横堀は、北辺のものは外側に向かって緩やかな弧を描いており、会津九々布城に似た形状となっている。城の形態を見る限り、丘陵を背後に背負った平場に最初に居館が築かれ、その後の防御力強化のために丘陵部に外堀を巡らしたものと推測される。外郭の北西部だけは藪が切り払われており、よくその遺構を確認することができるが、それ以外は藪が多い。高齢化している現代では、その程度はやむを得ないところであろうか。
 尚、城の名前は現地解説板などの表記では「飯塚館」であるが、遺構の内容から城と表記する方が相応しいことから、『図説 茨城の城郭』の見解に従い「飯塚城」と表記した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.172075/140.337188/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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宍倉城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9101.JPG←主郭周囲の空堀
 宍倉城は、小田城主小田氏の重臣菅谷氏の一族の居城である。元々は永享年間(1429~41年)の頃、野田遠江守の居城であったと言われるが、戦国期には菅谷氏が城主となり、文亀年間(1501~03年)には菅谷隠岐守貞次が城主であった。戦国後期に小田氏の勢力が衰退すると、宍倉城は佐竹氏の攻撃を受けるようになり、1573年、佐竹義重に降った。その後は佐竹氏の家臣となって活動したが、1595年の佐竹領内の知行割替えで佐竹氏の家臣大山田刑部が城主となった。1602年に、佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、廃城となった。

 宍倉城は、菱木川北岸の比高20m程の段丘上に築かれている。東側が南北に突出した不正形な形状の広い主郭を中心に、その外周に幅広の空堀を廻らし、更に外側に帯曲輪状のニノ郭と、主郭から台地基部の堀切を挟んでL字状の堀で囲まれた三ノ郭で構成されている。主郭の北西端のかつての櫓台と思しき場所には、現在城之内稲荷神社が祀られている。また主郭南側の入江の様になった空堀の真ん中には、浮島の様な独立堡塁が築かれている。今の地勢からでは要害性はそれほど感じられないが、その形態から考えるに、かつては低湿地帯に突き出した台地を利用した要害であったのだろう。現在はほとんど畑と空き地と化しており、その分遺構の破壊は免れている。面白みのある縄張りではないが、斜陽の小田氏を支え続けた重臣一族の城として重要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.115881/140.331159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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石岡城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9049.JPG←唯一明瞭な堀跡
 石岡城は、外城とも呼ばれ、府中城を本拠とした大掾氏の初期の居城である。大掾氏の事績は府中城の項に記載する。常陸平氏の嫡流であった多気太郎義幹は、1193年、八田知家の讒言により失脚し、常陸平氏の惣領は義幹の弟馬場資幹に与えられた。惣領職と常陸大掾職を継いだ資幹は、後に職名を姓として大掾氏を称し、1214年に石岡城の地に居館を構え、徐々に大掾氏の本拠として城が整備された。南北朝時代に大掾詮国は新たな居城として常陸国衙を拡張して府中城を築き、本拠を移した。以後石岡城は、府中城の支城となり、石岡某・札掛兵部之助・田島大学などが城主となった。1590年に大掾氏が滅亡すると、石岡城も廃城となった。

 石岡城は、府中城の南東1.4kmの比高20m程の段丘先端部に築かれている。大きく3つの曲輪とその周囲の腰曲輪で構成されていたようだが、ほとんどが畑に変貌し、また腰曲輪や堀跡は民家となっていて、かなり往時の面影は失われている。唯一明瞭に残っているのは、城域の北東端に当たる岡田稲荷の裏に残る堀跡だけである。このわずかな堀跡も伐採された竹などが投げ込まれてしまっている。GoogleMapの航空写真で見ると、一応主郭だけは塁線を追うことができるが、現地の実際は塁線付近もその外の堀跡も酷い薮に埋もれていて、どうしようもない。主郭北東端に張り出した櫓台跡まで、ガサ薮に覆われている。解説板まで建っているにもかかわらず、わずかに残った遺構も全くの未整備で、極めて残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.181428/140.276549/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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片野城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8873.JPG←主郭北側の幅広の空堀
 片野城は、岩槻城を北条氏康に奪われた太田三楽斎資正が拠った城として知られている。元は、小田氏の一族八代将監が、鎌倉中期の文永年間(1264~74年)に小田城の北の守りの砦として柿岡から移り、佐久山に城を築いたとされる。その後、南北朝時代に北畠親房が小田城に立て籠もった際、片野彦三郎親吉が助けたとも言う。いずれにしても鎌倉~室町期には、片野城は柿岡城と共に小田氏が東の大掾氏・江戸氏らに備えた最前線の城であった。戦国時代後期になると、小田氏の勢力はかなり減退し、1564年に上杉謙信が小田城を攻撃した頃には、片野城を含む北郡は佐竹義昭が小田氏から奪っている。そして1566年、岩槻城を北条氏康に奪われた太田三楽斎資正が、子の梶原政景と共に佐竹義重を頼って常陸に逃れ、客将として遇され片野城を預けられた。以後、柿岡城を与えられた政景と共に、片野城の資正は小田氏攻撃の最前線を担い、片野城を現在の規模に拡張したと考えられている。1569年、手這坂の合戦で大敗した小田氏治は、本拠の小田城を再び失い、以後土浦城木田余城を拠点とした。一方、資正は3男資武と共に引き続き片野城を居城としたが、1591年に病没した。その後、石塚城主石塚義国が片野城に移ったが、1602年に佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、石塚氏もこの地を去った。その後は、織田信雄の家臣であった滝川雄利が片野城に入って片野藩を立藩したが、嫡子正利が多病のため、1625年に継嗣なく断絶・廃藩となった。

 片野城は、恋瀬川東岸の比高20m程の丘陵上に築かれている。連郭式を基本とした比較的広い城域の城で、各曲輪は堀切で分断されている。主郭とニノ郭の間だけ土橋が架かっているが、その他では、七代天神社のある三ノ郭の南にある角馬出の両側は土橋となっている。主郭は最も防備が厳重で、周囲を土塁で囲み、北~東~南にかけて幅の広い空堀が巡らされ、その外に腰曲輪が築かれ、横矢も掛けられている。主郭の北はⅥ郭で、その北側下方に水堀が残っているが、Ⅵ郭は倒竹地獄で進入は困難であり、また水堀の主要部は民有地の裏なので、東の道路から僅かにその姿を望むことが出来るだけである。この他、主要な堀切には現在車道が通っており、破壊を受けている。また、南端のⅤ郭の南や東には横堀や堀切が穿たれているが、車道建設に伴う改変も多い上、藪がひどく確認が困難である。片野城は堀跡がよく残るが、全体に藪は酷い方で、改変も多く見られ、少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.222292/140.214322/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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石神城(茨城県東海村) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8744.JPG←Ⅰ郭周囲の空堀
 石神城は、石神小野崎氏の歴代の居城である。石神小野崎氏は、佐竹氏の重臣山尾小野崎氏の庶流で、小野崎通胤が佐都荘小野崎郷から櫛形城に本拠を移した際、その二男通房が旧地に留まり八百岐館主となって、石神小野崎氏の初代となった。室町中期になると、佐竹氏内部で大規模な内訌「山入の乱」が生起し、小野崎氏もこれに深く関わることとなった。そして1432年の石神合戦で石神城が初めて歴史上に姿を現し、この合戦で小野崎越前三郎通房(初代通房の孫)が戦功を挙げ、鎌倉公方足利持氏より感状を与えられた。1467年頃には、小野崎越前守が石神城主となっていた。1489年、山入の乱に介入した伊達尚宗・葦名盛高・結城政朝らの連合軍が佐竹領に侵入した時、小野崎通綱は佐竹義治の身代わりとなって久慈郡深荻で討死し、佐竹軍を大勝に導いた。その功により、その子通老に那珂郡石神350貫文、久慈郡川合350貫文の所領が与えられた。1529年に部垂の乱が生起して佐竹家中が再び動揺すると、1535年、石神城主小野崎通長による「石神兵乱」が起こり、佐竹義篤は石神小野崎氏の同族、額田城主小野崎下野守篤通にこれを鎮圧させた。その後、1547年に石神氏・額田氏は領地争いを起こし、額田氏によって石神城を攻め落とされた。しかし、石神氏は佐竹義篤への戦功によって石神城主に復帰し、通長の子小野崎越前守通隆は佐竹氏の元で陸奥南郷・常陸中南部・下野那須・芳賀郡等の各地に転戦して活躍した。1602年、佐竹義宣が出羽秋田へ移封となると、小野崎義広もそれに従って秋田に移り、石神城は廃城となった。

 石神城は、比高15m程の台地先端部に築かれた城である。城址公園として整備されていることもあって非常に良好な姿を残している。城の中枢部は真ん中がくびれた臼形をしており、牛久城に似た感じの構成となっている。先端からⅠ郭・Ⅱ郭・Ⅲ郭が並んでいるが、Ⅱ郭が「御城」の名が残る通り実質的な主郭で、Ⅰ郭(遠見城)はⅡ郭の南東部を独立区画として掘り切ったもので、後から分割された詰丸の様な曲輪だったと想定される。いずれの曲輪も広い面積を有し、周囲に大きな横堀と大土塁が築かれ、堀の外周にも土塁が廻らされ、Ⅰ郭以外は土橋で連結されている。Ⅰ郭は最も小さい横長の曲輪だが、Ⅱ郭側を高土塁で防御し、土橋もないことから木橋で連結していたと推測され、最も守りが厳重である。この他、Ⅲ郭から西に400m程離れた所に外郭の土塁が残っており、往時は相当な規模の城だったと考えられる。但し、横矢は殆ど無く、城の中枢部も外郭も直線的な塁線のみで構成されている。とはいえ、大規模な堀と土塁が素晴らしく、茨城県内では必見の城の一つである。
Ⅱ郭の土橋と空堀→IMG_8685.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.482709/140.578158/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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久慈城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8618.JPG←櫓台周囲の横堀
 久慈城は、佐竹氏が久慈川の河口近くに築いた城である。その創築は不明であるが、1562年に宇佐美三九郎が城主であった時に相馬盛胤の攻撃を受け、城が未完成であったため落城。その後、佐竹氏が奪還し、慶長年間(1596~1615年)には北義憲(佐竹北家当主)が城主で、1602年の佐竹義宣の出羽秋田移封の際に廃城になったと言われている。

 久慈城は、国道245号線の新茂宮橋の北側に位置する比高20m程の丘陵南端部に築かれている。ほぼ単郭の城で、舟戸山共同墓地に登る車道脇に主郭西側の横堀が確認できる。この空堀の北部に土橋の架かった虎口があり、土橋に向けて主郭北西端に横矢張出しの櫓台が築かれている。横堀は、この櫓台を取り巻くように巡らされてクランクし、櫓台東側の横堀に対しても横矢を掛けている。主郭内は、横堀に沿って西辺から北櫓台に掛けて土塁が築かれ、主郭南端にも土塁と虎口が築かれており、主郭南側の腰曲輪に繋がっている。久慈城は、単純な構造の城であるが、主郭にはそこそこの広さがあることから、港湾を押さえる監視と防衛を担った城であったと思われる。尚、『図説 茨城の城郭』では久慈城を水軍城としているが、佐竹氏に組織的な水軍が必要であったかどうかは疑問視されるところであり、水軍城という見解も少々疑問に思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.490145/140.611417/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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大窪愛宕山城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8521.JPG←クランクした主郭の堀切
 大窪愛宕山城は、大窪城築城以前に大掾氏の一族が築いた城である。1177年に大掾宗幹が大窪郷の愛宕山に山城を築いて居城としたとされる。その後は奥州石川氏の一族がこの地を支配したが、その時には愛宕山城ではなく大窪天神山城を新たに築いて居城とした。その歴史は大窪城の項に記載する。

 大窪愛宕山城は、比高50m程の東西に伸びた細長い丘陵上に築かれた城である。城内の東部には給水施設や貯水池が構築されているので、やや破壊を受けている。基本的には旧態依然とした連郭式の縄張りで、主郭と思われる曲輪には前面に土塁が築かれ、背後にはクランクして横矢の掛かった堀切が穿たれている。主郭内には塚の様な謎の土壇が数ヶ所あり、この内2つの塚が堀切に面した櫓門に利用されていた様である。主郭の後ろにニノ郭があり、やはり直線状の堀切で背後を分断されている。この他、給水設備で半壊された堀切も見られる。全体にやや削平が甘く、山林も少々荒れており、大窪天神山城と比べると見所も少なく、いかにも古い時代の城という印象が拭えない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.551500/140.612490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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大窪天神山城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8445.JPG←主郭虎口の横矢掛かり(左袖)
 大窪天神山城は、大窪城築城以前の大窪氏の居城である。その歴史は大窪城の項に記載する。

 大窪天神山城は、大窪城の背後に位置する比高65m程の丘陵上に築かれた城である。大きく2つの曲輪で構成されており、それぞれ空堀で周囲を防御されている。正伝寺の墓地裏から山側に入ると、すぐにニノ郭前面の空堀に突き当たる。正面に土橋の架かった大手虎口が築かれ、左袖の横矢が掛けられている。ニノ郭内は斜面上に平場が何段かに分かれて築かれ、塚のような土壇も確認できる。ニノ郭の両翼に当たる北側と南側にも横堀が穿たれ、特に北側のものは小さくクランクして横矢が掛かり、曲輪内には土塁が築かれて防御を固めている。ニノ郭から主郭に入る虎口にも土橋が架かり、左袖の横矢が掛けられている。主郭の南側は腰曲輪となっているが、北側は横堀となっている。主郭・ニノ郭北側の横堀と、主郭前面の空堀はT字に交差しているが、ここも僅かに塁線を歪ませて横矢を掛けている。この他、主郭北側に搦手虎口があって、やはり土橋が架かり、主郭の南西部には斜面に沿って数段の段曲輪が築かれている。左袖2ヶ所を初めとする横矢と、土橋が多数あり、規模はそれほど大きくないが戦国期の築城技術を堪能できる良好な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.553896/140.613863/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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大窪城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8333.JPG←主郭西側の空堀
 大窪城は、佐竹氏の家臣大窪氏の居城である。元々は、1177年に大掾宗幹が大窪郷の愛宕山に山城(大窪愛宕山城)を築いたのが始まりとされる。時代は下って応永年間(1394~1428年)に、奥州石川氏の一族、石川光治が佐竹氏に仕えて大窪郷を拝領して大窪氏を称し、新たに天神山に居城を構えた(大窪天神山城)。その後、大窪氏は佐竹氏の重臣として活躍し、天正年間(1573~92年)に新たに大窪城を築いて居城を移した。1602年、佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、時の当主大窪兵蔵久光は、義兄の車丹波守斯忠・馬場和泉政道らと共にこの処置に反発して常陸に残り、水戸城奪還を企てて失敗して処刑された。大窪城は、そのまま廃城となった。江戸後期の1839年には、水戸藩の郷校「暇修館」が城跡に建てられた。

 大窪城は、比高10mに満たない丘陵地に築かれている。周囲の宅地化が進んでいて、だいぶ城らしい雰囲気は失われているが、復元された暇修館の周囲には土塁が残っている。これらの土塁は、一部は仕切り土塁となっていて、暇修館が建てられた時に改修されている可能性もあるが、往時からのままである可能性も捨てきれない。しかし暇修館のある主郭外周に残る土塁は明らかに大窪城の遺構と考えられ、殊にその西側に大きな空堀が穿たれて防御が固められている。この空堀は城の南側まで囲んでいたようだが、現在は埋められてしまっている。市街地に近い城のため、この程度の湮滅は仕方のないところであろう。それでも西側の空堀・土塁は、よくその形を留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.553086/140.618262/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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友部城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8284.JPG←ニノ郭~東物見曲輪間の堀切
 友部城は、佐竹氏の重臣小野崎氏の初期の居城と言われている。『日本城郭大系』では小野崎氏の初期の城を櫛形城としているが、友部城の現地解説板では小野崎氏の初期の城を友部城としている。どちらが正かは不明であるが、城の規模と守護大名の重臣の居城という位置付けを対照して考えると、友部城の方が居城であった様に思われる。小野崎氏は後に、水便上の不利から新たに山尾城を築いて居城を移した。

 友部城は、山尾城の南東600m程の位置にある、比高20m程の丘陵上に築かれている。現在は城址公園となっており、車道の建設による城域外縁部の削除や公園化によって遺構はかなり改変されているが、城全体の雰囲気は比較的よく残っている。山頂に広い主郭と二ノ郭を東西に並べ、更に堀切を挟んで東に物見の小郭を置いている。主郭とニノ郭の間にはかつては堀切があったが、現在は埋められて湮滅している。また主郭・ニノ郭の南面から西面にかけて腰曲輪が巡らされ、主郭の北西にⅢ曲輪、南に出曲輪状のⅣ曲輪・Ⅴ曲輪が築かれている。しかしⅢ曲輪は削られて、ほとんどその形状を失っており、Ⅳ曲輪・Ⅴ曲輪もかろうじて堀切と土塁の面影を残しているが、かなり切岸に手が加えられて形状が変えられてしまっている。城址公園としては失敗例に近く、少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.670174/140.682678/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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悪夢 [雑感]

 明日、参院選が行われるが、おそらくアベ自民党が大勝するのだろう。

 こと民主主義に関する限り、日本人は完全に劣等である。それは、欧米諸国のように、階級間闘争(革命)で平民が王侯貴族から権利を奪取し、民主主義を勝ち取ってきた歴史がないからに他ならない。これまで日本人は、今持っているすべての権利を棚ボタのように享受してきた。基本的人権も選挙権も、あらゆる権利をまるで空気のように、あって当たり前としか思っていない。従ってそれらの権利を有することの重要性と、権利と表裏一体となる権利行使に伴う責務を負っていることを、全く理解していない人が殊更に多い。だから、困っていることはすべて政府に「何とかしてくれ」と言い、自分たちで政治的活動を通して、自ら解決しようとする気概を持ち合わせていない。政府の致命的な失政にも、厳しく対峙し追求する覚悟を持たない。
 あまつさえ日本人は、社会生活の中で政治信条を明確にしたり、政策論議をすることを、極端にタブー視し、そうした人々を排除してきた。ブッシュJrが大統領だった時に、アメリカの俳優たちが明確にそれを非難して人々から賞賛を受けたのに対し、日本の俳優がアベ政権を非難するとマスメディアがこぞって叩き潰そうとする。(ちなみにアメリカでは、俳優は「芸能人」ではなく、「アーティスト」と称される。社会的地位と声望が、日本と全く異なる。)
 中世戦国期の日本人のほうが、地方分権、自力救済が常識であった為、ある面でよほど今より民主主義的だ。民主主義的自律心を持たない現代日本人は、おそらく「立憲主義とは何か?」と訊かれても、ほとんどの人が答えられないのではないか?こんな民族だから、憲法を踏みにじる解釈改憲・違憲立法を強行されても平気だし、目先の経済的利益に目がくらんで(俗にアベノミクスと呼ばれる財政出動政策が、既に破綻していることにも気づかず)、戦前回帰を目指す自民党に投票するだろう。民進党などの野党が、相変わらず愚劣で無能だから、善良であり続ける一部の民意の受け皿にも成り得ない。

 こんなことをしている間に、ジメジメとした森の中であちこちに生えてくる毒キノコのような、戦前回帰主義者ども(日本会議、神社本庁などの連中)に国の舵取りを奪われて、この国は転落への道を突き進む。遠くない将来、再び日本は戦争に加担するだろう。そしてテロの魔の手も日本国内に間違いなく伸びるだろう。過去の失敗の歴史を忘れ、思い上がった日本人は、世界の国々の敵となり、春秋時代の宋の様に(※注)、今度こそ攻め滅ぼされるかもしれない。

 しかし、こんな劣悪な民族は、もはや存続させる価値もない。そして、ローマに滅ぼされたカルタゴのように、永遠に歴史から姿を消すだろう。昭和20年の夏、日本を壊滅寸前で命をかけて救った偉大な先人たちに申し訳がない。

※注
 司馬遷の史記によれば、宋は周に滅ぼされた殷の遺民が作った国である。徳望のあった殷の王族の微子啓が、周の成王の摂政であった周公旦から宋に封じられた。微子啓は、孔子が「殷に三仁あり」と賞した三仁の一人である。しかし時代が下ると、宋の最後の国君偃は暴虐を行い、周辺諸侯は「宋の国君は、再び(暴政を行って滅ぼされた殷の)紂王の所業を繰り返した。誅伐しなければならない。」と言って宋を攻め滅ぼしたと言う。(史記 宋微子世家)
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山尾城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8226.JPG←鉄塔のある曲輪裏の堀切
 山尾城は、櫛形城主または友部城主であった小野崎通春が新たに築いた城である。即ち1370年、初期の居城(櫛形城または友部城)の水便上の不利から、程近い山尾山に新たに山尾城を築いて居城を移した。その後、この地の小野崎氏は山尾小野崎氏と称され、小野崎氏の惣領家として佐竹氏の家臣団の中で重きを成した。成通の時に佐竹義篤の二男義昌を養子に迎えてからは、特に佐竹氏との繋がりが強くなり、佐竹氏の麾下で譜代の宿老として活躍した。1602年に佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、小野崎氏も秋田に移り、山尾城は廃城となった。

 山尾城は、櫛形城の南南東600m程の至近距離に位置している。比高20m程の独立丘陵に築かれているが、現在は十王中学校となっており、遺構はかなり失われている。わずかに確認できるのは学校の裏手に当たる西側の遺構群で、絶壁下に横矢の掛かった空堀と櫓台が藪がひどいものの確認できる。また断崖上には鉄塔の建つ高台の曲輪があり、そこに箱堀状の堀切が穿たれている。またこの鉄塔曲輪の北側は切り通しとなっており、搦手虎口であったのだろう。その北側には主郭土塁の残欠と思われる土塁状の高まりが残っていて、三角点が置かれている。一応、遺構があることはあるが、あまりに改変が進んでいることが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.674684/140.679181/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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櫛形城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8168.JPG←主郭外周の横堀
 櫛形城は、『日本城郭大系』では佐竹氏の重臣小野崎氏の初期の居城とされている。元々は、1303年に宍戸五郎宗時が築いたと言われ、その子知時と合わせて2代38年間の居城となったと言う。一方、小野崎氏は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔で、通盛の代の時に佐都荘小野崎に入部して、小野崎氏を称した。その後、通盛の子通長は佐竹昌義に従属し、家臣団の列に連なった。南北朝期の当主通胤も、佐竹氏に従って常陸各地に転戦して活躍した。小野崎氏の主筋に当たる佐竹氏は終始一貫して北朝方に付き、北方に本拠を構える南朝方の菅股城主大塚氏の南下を阻止する為、1336年頃、通胤を櫛形城に移封した。しかし、水便上の不利などの理由から、1370年、通胤の長子通春の時に近くの山尾山に山尾城を築いて移った。尚、この通春が小野崎氏惣領を継いで山尾小野崎氏と称され、通胤の二男通房は後に石神城を本拠とした石神小野崎氏の祖に、また三男通業は後に額田城を本拠とした額田小野崎氏の祖にそれぞれなった。

 櫛形城は、十王スポーツ広場の南西の標高84m、比高34m程の丘陵上に築かれている。基本的には単郭の簡素な縄張りであるが、主郭の南面以外の外周を横堀がぐるりと取り巻いている。この横堀は、南東側でクランクして横矢が掛けられている。この屈曲部と、その反対の西側に虎口が築かれている。堀の外周には土塁が取り巻いているが、土塁は場所によって幅が異なっている。また北辺土塁の北側や東土塁の東側に腰曲輪が築かれており、特に東側のものは土塁に切れ目があって城内通路となっている。横堀の南東部は更に外に堀切と腰曲輪が伸びている。主郭内は藪がひどく確認が大変だが、塚らしい土壇が残っている。宗教的な施設と思われる。櫛形城は、鎌倉後期~南北朝期の城砦らしく、構造は至ってシンプルであるが、部分的な横矢掛かりの存在は戦国期の改修を想像させる。しかし守護大名の重臣の居城としては小規模すぎ、もう一つの小野崎氏の初期の居城の伝承のある友部城の方が、重臣の居城に相応しいように思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.679158/140.676606/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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宇留野城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8030.JPG←主郭周囲の堀
 宇留野城は、佐竹氏の庶流宇留野氏の居城である。元々の創築は不明で、古くは鎌倉後期の1297年頃に「宇留野大輔阿闍梨宏瑜」の名が見え、宇留野氏を名字の地とする一族が居たことが知られる。その後、佐竹氏14代義俊の庶子がこの地に分封され、当初は出家して天鳳存虎と称したが、後に還俗して宇留野義公と称し、宇留野氏の祖となった。戦国前期に、佐竹氏17代義篤の弟義元が宇留野義久の養子となって名跡を継ぎ宇留野城主となった。1529年、義元は兄義篤の重臣小貫俊通の部垂城を攻め落とし、部垂城に移って部垂氏を称した。これ以後、「部垂の乱」と称される佐竹氏の内乱となった。義元が部垂城に移ると、経緯は不明であるが宇留野義久の兄義長が宇留野城主となった。1540年、佐竹義篤は部垂城を攻め落として部垂義元を滅ぼし、ようやく内乱を鎮定した。部垂城攻撃に際しては、宇留野義長は佐竹宗家に味方して義篤の軍勢に参陣した。宇留野氏はその後も佐竹氏一族の有力者として活躍したとみられるが、1602年に佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、これに従ってこの地を離れ、宇留野城は廃城となった。

 宇留野城は、前小屋城と部垂城の中間に位置し、久慈川西岸の同じ段丘上に築かれている。これら3城はほとんど接するような至近距離に築かれており、城が機能した期間も重複していることから、相互に強く関連して機能していたことが想像される。おそらく久慈川の水運を扼し、佐竹宗家の本城常陸太田城に繋がる街道を押さえる、重要な交通路であったためであろう。宇留野城は、台地上に深く入りこんだ浸食谷を挟んで、東の台地突端部と西の段丘縁の2つを城域に含めた、珍しい構成の縄張りとなっている。東側が主城部で、南端から主郭(御城)・ニノ郭(中城)・三ノ郭(外城)を連ねた連郭式の縄張りとなっている。それぞれの曲輪は堀切で分断され、土塁もよく残っている。主郭には日向神社が建てられているが、土塁が残り、南側や東側の斜面には腰曲輪もはっきり残っている。東の腰曲輪には、主郭・ニノ郭の堀切が繋がっており、城内通路を兼ねていたことがわかる。この腰曲輪には土塁と竪堀状の虎口も確認できる。また南の腰曲輪の西端には櫓台が備えられた虎口が構築されている。三ノ郭の南西端にも虎口郭が築かれ、西側の曲輪との連絡路になっている様である。一方、前述の2つの城域の西側は外郭または根古屋に相当する部分で、南北に4つの曲輪があったとされているが、現在は宅地化や耕地化でかなり改変されており、部分的に土塁の残欠が残っている程度である。宇留野城は、規模も構造も前小屋城ほど眼を見張るものはないが、主城部の遺構は良好で一見の価値がある。
南腰曲輪の櫓台と虎口→IMG_8119.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.541226/140.424306/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0l0u0f0
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前小屋城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7893.JPG←主郭外周の堀とニノ郭切岸
 前小屋城は、佐竹氏の一族で小場城主小場氏の庶流前小屋氏の居城である。元々の創築は、秀郷流藤原氏系の那珂氏の庶流平沢丹後守通行によると伝えられている。平沢氏は佐竹氏に属したが、後に衰亡し、戦国初期の頃に小場氏5代義忠の弟義広が前小屋の地に分封されて前小屋氏を称し、本格的な城郭として整備した。義次、義久、義親と4代続き、小場家代官として活躍した。1600年に小場氏が小田城に所替になると前小屋氏も小場氏に同行し、城は廃された。1602年に佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、前小屋氏も小場氏と共に秋田に移った。

 前小屋城は、久慈川西側の比高25m程の段丘上に築かれた城である。石塚城等と同じく、曲輪ごとに空堀を巡らして分断し、段丘先端に主郭を置いた連郭式の構成となっている。その点では、群郭的な色彩の強い石塚城とは異なっている。主要な曲輪は全部で5つ。北端から主郭・ニノ郭・三ノ郭・四ノ郭が一列に並び、主郭の西側に五ノ郭を置いている。ニノ郭から四ノ郭までは畑や民家になっているが、断片的に土塁と堀が残っている。特に三ノ郭の北西からニノ郭の西側部分は堀と土塁が完存し、三ノ各北西角部とニノ郭西側に、外郭に通じる土橋が残っている。主郭は種生院と言う寺が建てられているが、主郭・五ノ郭周囲も遺構は良好で、やはり土塁や堀がしっかりと残っている。主郭には南西と南東に隅櫓台が残り、主郭外周にも横堀が廻らされ、堀外周を土塁が取り巻いている。また五ノ郭は北側に2段の曲輪が付随している。縦横に廻らされた堀が非常によく残っており、見応えのある遺構を持つ城跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.536623/140.430079/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0l0u0f0
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菖蒲城(埼玉県久喜市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC06398.JPG←城址碑の建つ公園
(2007年6月訪城)
 菖蒲城は、古河公方初代足利成氏が築かせた城である。1454年、鎌倉公方足利成氏が対立する関東管領上杉憲忠を誅殺して、関東全域を巻き込む「享徳の大乱」が勃発した。その経緯は古河城の項に記載する。古河に本拠を移した成氏は、1456年に奉公衆の金田式部則綱に命じて菖蒲城を築かせ、騎西城と合わせて対立する上杉勢の重要拠点河越城に対する最前線とした。則綱は後に佐々木氏を称し、菖蒲佐々木氏と称される(近江の名族六角佐々木氏の裔を称したというが、真偽は不明)。以後、菖蒲城は菖蒲佐々木氏の歴代の居城となった。後に小田原北条氏が勃興して勢力を伸ばし、古河公方家も北条氏の勢力に呑み込まれると、佐々木氏も北条氏に属することとなった。戦国後期の1574年、関宿城を巡って三度目の攻防戦が生起した。北条氏政と上杉謙信が戦い、上杉勢によって菖蒲城は騎西城と共に城下を焼討ちされた。1590年の小田原の役で落城し、そのまま廃城となった。

 菖蒲城は、現在「あやめ園」という公園に変貌している。一応、菖蒲城址とは銘打っているが、城址とは名ばかりで遺構は全く残っておらず、城址碑が建っているだけである。また公園内には、徳川家康の旗本、内藤氏の陣屋であった栢間陣屋のものと伝えられる移築門が建てられている。戦後まもなくの航空写真を見ても、周囲は一面開墾されていて城の面影すら見ることができず、早くに失われた城の様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.061763/139.594452/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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