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瓜連城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7769.JPG←外郭の空堀と櫓台
 瓜連城は、常陸の南北朝史に名高い城の一つである。1336年正月、建武の新政で「朝恩に誇った」とされる三木一草(楠木〔くすのき〕・結城〔ゆうき〕=結城親光・伯耆〔ほうき〕=名和長年・千種〔ちぐさ〕=千種忠顕)の一人、楠木正成の一族楠木正家が、この地に代官として入って瓜連城を築き、公家方に付いた常陸の武士団を糾合したと伝えられている。時あたかも鎌倉に下向した足利尊氏が新政から離反し、伊豆竹之下で押し寄せる新田義貞率いる官軍を撃ち破った翌月に当たる。正家はこの城に拠って、武家方の佐竹氏と1年余りにわたって戦ったが、佐竹氏9代義篤の大軍に囲まれ、那珂通辰の援軍も虚しく落城した。一方、この間に尊氏は京都で敗退し、九州で再起を図って京都を再び制圧し、北朝を擁立した。敗れた後醍醐天皇は吉野に脱出して南朝を開き、武家方に徹底抗戦した。しかし三木一草は既にこの世になく、北畠顕家、新田義貞ら南朝の柱石たる諸将も相次いで討死し、南朝勢力の再建が急務となった。ここで南朝は、1338年9月、重臣の北畠親房(顕家の父)を常陸に下し、常陸南朝方の結集を図った。神宮寺城から阿波崎城を経由して小田治久の小田城に移った親房は、ここで神皇正統記を著して立場曖昧な武士たちの説得を図ると共に、一族の春日顕国に下野まで侵攻させ、1339年、八木岡城・益子城を攻め落とし、西明寺城を下野攻略の拠点に据えて、飛山城まで陥落させた。室町幕府はこうした常陸南朝方の攻撃に対応するため、鎌倉府の執事として高師冬(将軍執事、高師直の従兄弟)を下向させた。師冬は、飛山城と対峙する宇都宮城に援軍として入ったが、落城が免れないと見て、常陸南朝方の中心小田城を背後から攻撃するため、瓜連城に拠点を移し、そこから南下して大軍で小田城を包囲した。小田城を落とされた親房は、関宗祐の関城に逃れて大宝城の下妻氏と共に抗戦を続けたが、2年の籠城戦の末に落城し、親房は落城寸前に脱出して吉野に戻った。これ以後、瓜連城は歴史の表舞台から姿を消した。

 瓜連城は、久慈川西岸の比高30m程の段丘上に築かれている。城跡は現在、常福寺と瓜連保育園の敷地となっている他、主郭は城址公園として整備されている。南北朝時代の城であるので、それほど技巧的な縄張りは見られないが、北端の主郭の外周には大土塁が築かれ、北西側は空堀が穿たれ、北東斜面には腰曲輪が巡らされている。この腰曲輪は、外郭の東側まで延々と伸びており、主郭には腰曲輪に降りる位置に虎口と櫓台が築かれている。また主郭北端も大きな隅櫓台が築かれている。常福寺墓地の南西側にも規模の大きな空堀と土塁が築かれ、改変を受けているものの大きな櫓台の張出しも見られる。この張り出した櫓台は、当然横矢掛かりを意識したもので、もしかしたらこの城が戦国期まで存続した可能性を示すものかもしれない。予想よりも遺構がよく残り、特に土塁も空堀も想像以上に規模が大きい。築城技術が未発達な南北朝期でも、人海戦術で大空堀・大土塁だけは築けたということなのだろう。全国に争乱が広がった南北朝時代は、歩兵の大量動員によって軍隊規模が一気に拡大した時代でもあった。
主郭の大土塁→IMG_7835.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.503876/140.451901/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0l0u0f0
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古徳城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7677.JPG←一直線に伸びる北斜面の横堀
 古徳城は、大掾氏の庶流古徳氏の居城である。府中城主大掾義幹は室町将軍足利義満より古徳荘を賜り、その次男の民部大輔義純が古徳荘に分封されて1375年に古徳城を築いて古徳氏を称した。その後、室町中期に江戸氏が勢力を拡張して大掾氏が衰退し、この地域にも江戸氏の勢威が及ぶと、古徳氏は江戸氏に従った。1514年、水戸城の江戸氏に兄弟間の内訌が発生すると、古徳義優もその争いの中で江戸氏の大軍に攻められ、古徳城は落城し、古徳氏は滅亡した。

 古徳城は、白鳥飛来地で有名な(とは言っても、私も行って初めて知ったが。)古徳沼の北側にそびえる、比高30m程の丘陵東端部に築かれている。横堀が多用された城で、曲輪は大きく主郭・ニノ郭・三ノ郭・四ノ郭に分かれ、これらがほぼ一直線状に連なった連郭式を基本としている。主郭背後には浅いが幅のある堀切が穿たれ、南側に大きく弧を描いて竪堀となって斜面を降り、下方で再び横堀に変化して、城の西面から南面までの外周を防御している。この堀に沿って腰曲輪群が城内に築かれ、一部は堀底を監視する櫓台となっている。主郭と二ノ郭は堀切で分断され、土橋で連結しており、主郭は北辺以外を土塁で囲んでいる。ニノ郭の虎口にも堀切と土橋が構築されているが、ニノ郭前面は二重土塁と二重横堀で厳重に防御されている。この二重横堀は南面を主郭まで覆っている。三ノ郭と四ノ郭は土塁と切岸だけで区画されている。主郭から四ノ郭までの北側斜面には横堀が貫通しており、四ノ郭等から横堀に繋がる虎口が形成され、土橋が架かっている。特に主郭前面の堀切は、そのまま城内通路となっていたらしく、北側横堀との合流部は虎口を兼ね、土橋が架かり、そのまま横堀外の帯曲輪にまで通じている。基本的に直線型の横堀で構築され、堀の規模も大きくないことから、伝えられる歴史の通り、戦国前期までで廃された城と考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.494009/140.434670/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0l0u0f0
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戸村城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7582.JPG←外郭の堀と土塁
 戸村城は、この地の領主戸村氏の居城である。戸村氏には秀郷流藤原系と佐竹系の2流があった。最初にこの地に拠ったのが藤原系で、藤原秀郷の末裔能通が1160年に戸村城を築き、戸村小三郎と称したと言われている。南北朝期には、藤姓戸村氏は常陸南朝方として瓜連合戦などで戦ったが敗れて滅亡した。その後、室町後期の1460年、佐竹氏13代義憲の3男義倭が戸村城を再興して居城とし、戸村氏を称した。以後、7代に渡って佐竹宗家を支えた。6代義和は、1592年の文禄の役の際、佐竹氏に従軍して朝鮮で討死にした。関ヶ原合戦後の1602年、佐竹氏が出羽秋田へ移封となると、戸村氏もこれに従って秋田へ移り、戸村城は廃城となった。その後戸村氏は、8代義国が大阪冬の陣で活躍し、9代義連は1672年に横手城代となり、幕末まで佐竹一族の重臣として存続した。

 戸村城は、那珂川東岸の段丘上に築かれた城で、丁度那珂西城の対岸に位置している。城内は宅地化や耕地化によって改変されているが、宅地の中に断片的に遺構が残っている。北城・南城など堀と土塁で囲まれた幾つかの曲輪で構成された、群郭的な縄張りであったらしい。戸村不動尊から車道を西に進むと、城址標柱と解説板があり、その背後が南城の土塁となっている。その少し北に、民家を囲むように土塁と堀が往時の姿を残している。またここから少し北東に150m程離れた所にも、外郭の堀と土塁が残っている。しかし全体に断片的な遺構でしかなく、しかも民家の真裏などに遺構があるため、不審者と間違われないように気を遣うし、あまり近づいて見ることもできない。一応市の史跡になっている様なので、一定の保護措置は取られているのだろうが、これ以上の湮滅を防ぐ手立てを積極的に講じてほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.456774/140.423319/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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高久城(茨城県城里町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7543.JPG←三ノ郭南西の腰曲輪
 高久城は、佐竹氏の庶流高久氏の居城である。元々は1293年に大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の後裔高範が築いたと言われている。その後、鎌倉時代後期に佐竹氏8代行義の6男馬渕小三郎景義が高久に移って城を再築し、その子式部大輔義有が高久氏を称したと言う。室町中期になると、佐竹宗家12代義盛が嗣子なく没した後、関東管領上杉氏からの入嗣を巡って一族の山入氏・長倉氏・額田氏らが反発し、家中で大規模な内訌が発生した(山入の乱)。この乱は100年近くにわたって佐竹氏を揺るがしたが、1428年に高久義本・義景父子も佐竹宗家に反し、大山城主大山義道に高久城を攻め落とされた。また戦国前期には、佐竹義篤の弟部垂義元が反乱を起こし(部垂の乱)、高久義貞は義元方となって戦ったが、義篤に平定された。その後は佐竹宗家に従い、奥州諸豪を巻き込んだ伊達氏の内訌「天文の乱」の際には、相馬氏と戦った1543年の陸奥久保田・関山合戦において、高久氏も佐竹宗家に従って参陣し、9代義時・10代義貞・その子宮寿丸は窪田陣からの帰陣の際、関山で討死して高久氏は断絶し、城は廃されたと言う。

 高久城は、比高25m程の台地先端部に築かれた城である。城内はかなり改変されており、宅地や畑、墓地などに変貌している。主郭は現在、館部落の共同墓地となっており、東斜面に帯曲輪を伴い、北側に堀切が穿たれているが、藪がひどくほとんど判別できない。主郭南には車道が切通し状に貫通しているが、これも往時の堀切を拡張したものだろう。その南に先端の笹曲輪があるが薮で進入できない。昭和20年代前半の航空写真によれば、主郭の北には堀で隔てられたニノ郭・三ノ郭が東西に並び、その更に北側に外郭があった様だが、堀は現在ではほとんど湮滅している。外郭の北側には台地基部を分断する堀切の一部が残っている。中間に土塁を削り残した二重堀切と思われるが、もう1本堀らしい地形があり、実は三重堀切だった可能性もある。この他、三ノ郭の南西斜面に横堀状の腰曲輪が残っている。標柱も解説板も設置されているが、遺構の湮滅が進んでいるのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.492405/140.361650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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上入野城(茨城県城里町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7419.JPG←主郭北西の堀切
 上入野城は、歴史不詳の城である。大掾氏、江戸氏、佐竹氏など、築城主体の候補はいくつかあげられるようだが、明確にはできない様だ。ちなみに山への登り口にある小松寺には府中城主大掾義幹が1191年に寄進したとされる唐門があることから、鎌倉時代にはこの地域が大掾氏の支配下にあったのは確実らしい。ちなみに小松寺には、平清盛の嫡長子重盛(小松内大臣と称される)の遺骨が平家滅亡の際に関東の同族常陸大掾義幹を頼ってもたらされ、この地に埋葬されたと伝えられ、大掾氏のこの地への関わりを今に伝えている。

 上入野城は、藤井川ダムの北側にそびえる標高145m、比高100m程の白雲山に築かれている。遺構は明瞭で、不整多角形の主郭を中心に、三方に伸びる尾根を堀切で分断して曲輪を配し、更に主郭の北に伸びる細尾根に出城を築いた縄張りとなっている。主郭の内部は2段に分かれ、北西辺と東辺の堀切沿いに土塁を築いている。北西尾根には前後を堀切で分断された曲輪があり、その先は白雲山展望台の広場になっている。主郭南側には虎口が開き、堀切を介して南尾根の曲輪群が段々に連なっている。主郭東側も堀切を介して曲輪があるが、その先は傾斜のややきつい尾根に沿って小郭が連なっている。この他、主郭の北側下方は腰曲輪に土塁が築かれて横堀状となり、北尾根に対する防衛線となっている。北尾根にやや離れて出城があり、曲輪群と小堀切数ヶ所が認められる。遺構は良好に残っているが、縄張りとしては比較的平易で横矢掛かりもなく、戦国前期頃までの構築と思われる。

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.437597/140.360577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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東野城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7292.JPG←横矢の掛かる横堀
 東野城は、歴史不詳の城である。檜沢城の項でも触れた大縄久照文書に記載された番衆の地名の中に「東野」の名があることから、戦国期には、佐竹領西方の軍事拠点の一つであったと推測されている。

 東野城は、国道293号線のすぐ東に位置する比高20m程の低丘陵に築かれている。曲輪外周に横堀を巡らして防御を固めた屈指の城で、地元では以前より城跡と知られていたらしいが、つい最近まで城郭研究者の間で認知されていなかったとは信じ難い程である。大きく3つの曲輪から構成されており、主郭は内部が2段に分かれ、外周に横堀を巡らしている。この横堀は、北から東にかけての2つの部分で折り曲げて横矢掛かりを設け、特に北東角のものはクランク状に折り曲げ、主郭とニノ郭の隅部から堀底を厳重に監視している。主郭の北東に位置する二ノ郭も横堀で防御している。一方、主郭の北西は高台の北出丸となっており、北西方向への監視を担っていたらしい。この他、外周横堀から数ヶ所竪堀が落ち、特に主郭東側のものは大手虎口となっていた様だ。この他、南側の裾野に曲輪跡と思われる平場が残っている。外周横堀の技法は多気城と同じで、両者の築城主体が同じであったことを推測させる。但し、城の規模は、東野城の方が小さく、地勢面での要害性も低い。それにしても大きな横堀に横矢掛かりが構築され、まとまった兵力も駐屯可能な曲輪の大きさを持ち、戦国期に活用された軍事拠点であったことを伺わせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.577524/140.366178/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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ずいぶんと都合のいい話 [雑感]

なんか最近、中国軍艦が日本の領海に入ってきたとか騒いでいるが、
ずいぶんと都合よく、参院選挙前に入ってきたものだ。

これでまたアベ自民は、「ほら、安保法制必要でしょ?」と、声高らかに訴えられるわけだ。

騙される愚かな国民が増えるんだろーなー。
立憲主義の何たるかも理解していない衆愚が。

国際的緊張が高まっていて多面的なミリタリーバランスを確保することと、
立憲主義を守ることは、全然、別次元の話なのだが、
(というか、立憲主義を守ることの方が断然優先順位が高いのだが。)
それを混同して考える衆愚が多いので困る、この国は。

こんな国民、未来に残す価値があるんだろうか、と思う今日この頃。
原発にも無反省でスルーだし。
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那賀城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7167.JPG←主郭西側の堀跡
 那賀城は、謎に包まれた伝説の一族、那珂氏の居城と言われている。藤原秀郷の後裔川野辺通直の子、通資が1115年頃に那珂郷に住んで那珂氏を称したとされている。那珂氏で名高いのが南北朝時代に活躍した那珂通辰で、1335年、伊豆竹之下で新田義貞を破った足利尊氏が鎌倉から京都に進撃した時、これを追って西上しようとした北畠顕家率いる奥州軍が佐竹貞義に甕の原で阻まれ苦戦した時、通辰は背後から佐竹勢を急襲して佐竹勢を敗走させたと言う。またその後、常陸南朝方として瓜連城を拠点とした楠木正家と共に城に立て籠もって、幕将高師冬に徹底抗戦した。瓜連城が落とされ、通辰以下の那珂氏一族が悉く討死すると、那珂氏は族滅状態になったと言う。しかしこれらは明証に乏しく、必ずしも史実として確定はできない。また戦国期には、那賀城は佐竹氏の庶流小田野氏の持ち城となったらしい。いずれにしても那賀城の歴史は謎に包まれている。

 那賀城は、緒川西岸の比高20m程の段丘上に築かれている。台地の北東角に、外周を空堀で囲まれた主郭が残っている。空堀は主郭南辺では半分ほど湮滅しているが、東西両面の堀はよく残っている。規模が大きいのは西側の堀で、かなり埋まって浅くなっているが、10m程の幅を有している。一方、東の堀は段丘斜面に穿たれたもので、この付近の段丘上の崖端城にはよく見られるタイプの横堀である。また主郭の北と西には土塁が残り、北西部には隅櫓台と虎口が確認できる。主郭以外は耕地化で遺構は湮滅しているが、おそらく単郭ではなく外郭が存在したと考えられる。しかし今となっては想像するほかはなく、その歴史と共に謎の多い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.578351/140.323284/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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小瀬城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7004.JPG←堀切とⅣ郭
 小瀬城は、上小瀬城とも言い、佐竹氏の庶流小瀬氏の居城である。佐竹氏9代貞義の子義春は、南北朝期の常陸南朝方との合戦で戦功があり、上小瀬を分封されて入部し、小瀬氏を称した。小瀬氏の初期の居城は、この小瀬城ではなく高館城であったとも言われている。いずれにしても小瀬氏はこの地を拠点に佐竹宗家を支え続けた。1602年に佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、小瀬義行も秋田に移り、小瀬城は廃城となった。

 小瀬城は、緒川を挟んで高館城の対岸にある標高171m、比高81mの南北に長い山稜上に築かれた城である。尾根上に曲輪を連ね、要所を堀切で分断した連郭式の縄張りで、基本的には小舟城と同じ築城構想だが、より規模が大きく曲輪も広く、ある程度の兵力の駐屯も可能な規模となっている。曲輪は主要なものだけで9つある。南東からテレビ中継設備のあるⅦ郭(城内で一番南の曲輪)まで登道が付いているが、Ⅶ郭前面にも数段の段曲輪群があり、土塁や虎口などが残っている。ここから堀切を挟んで曲輪が連なるが、特にⅢ郭前面の堀切は長く、見応えがある。Ⅱ郭と切岸だけで区画された主郭には枡形虎口が築かれている。主郭背後にも堀切を介して曲輪が連なり、特にⅤ郭だけは片側だけを土塁で囲まれている。曲輪名称は『図説 茨城の城郭』に即しているが、この本の縄張図で最北の曲輪とされているⅥ郭の先にも更に曲輪と堀切が確認できる。また主要な曲輪の側方には、この縄張図にない腰曲輪・帯曲輪が散見され、特に城の側方斜面を貫通する武者走りが良好に残っており、特に西側斜面のものは城のほとんどの部分をカバーし、堀切から落ちる竪堀が繋がっていて、各曲輪に繋がる城内通路となっていた様である。小瀬城は、檜沢城の項で記載した通り、佐竹領西方を守る軍事拠点の一つであったと推測されているが、それに違わぬ遺構が眠っている。
西側斜面を貫通する武者走り→IMG_7142.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.614425/140.319850/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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小舟城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6843.JPG←二重堀切から落ちる竪堀
 小舟城は、歴史不詳の城である。伝承では、高沢城主高沢伊賀守氏信が居館を築いていたとも言われ、後には小瀬城主小瀬氏の重臣内田氏が城主となったともされる。確かなことは不明であるが、檜沢城の項でも触れた大縄久照文書に記載された番衆の地名の中に「小舟」の名があることから、戦国期には、佐竹領西方の軍事拠点の一つであったと推測されている。

 小舟城は、標高240m、比高120mの山稜上に築かれた城である。基本的には細尾根城郭の類で、あまり兵は置けない規模の城である。南西の谷戸から登って行くと左手の尾根上に道があり、ここから小舟城の南尾根途中の虎口に至る。この虎口から南には、明確な切岸を築いた小郭があり、南の出曲輪となっている。逆に北に登って行くと南郭に至る。ここから尾根が2方向に分岐しており、一つが今登ってきた南尾根で、もう一つの南東尾根はほとんど自然地形であるがやや平らな尾根となっており、曲輪として機能したと思われる。前述の南郭から2つの小堀切と小郭を越えると主郭となる。主郭は南面に腰曲輪を伴い、背後に土塁を築いている。土塁の後ろに堀切、更に繋ぎの曲輪を経て堀切、その先にニノ郭がある。二ノ郭はやや削平が甘いが2段ほどに分かれている。ニノ郭の背後に、この城で最も見事な遺構である二重堀切が穿たれている。ニノ郭の北東斜面に小郭があり、二重堀切を迂回した武者走りが通じていることから、小規模な枡形虎口になっていたらしい。前述の繋ぎの曲輪の側方にも武者走りが通っており、堀切から落ちる竪堀を越えて主郭西側斜面に築かれた西曲輪群に繋がっている。西曲輪群は段曲輪群から成り、最下段を含めて3ヶ所に小型の横堀(塹壕)が穿たれて防御性を高めている。以上が遺構の概要で、最初に記した通り、あまり兵を置けない詰城の類で、小舟城の西にある「宿」地区に軍団の本拠があったものであろうか。今後の考究が望まれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.625654/140.291419/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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長倉城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6715.JPG←北斜面の横堀
 長倉城は、佐竹氏の庶流長倉氏の居城である。佐竹氏8代行義の次男義綱が、1317年にこの地に分封されて長倉氏を称し、長倉城を築いた。1407年、佐竹宗家12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉による関東管領上杉氏からの入嗣を巡って、一族の山入氏・長倉氏・額田氏らが反発して一揆を結成し、家中で大規模な内訌が発生した。翌年、長倉義景は長倉城で挙兵して、ついに佐竹家中を二分する武力抗争に発展した。「山入の乱」の始まりである。鎌倉公方持氏は大軍でこれを包囲攻撃し、兵糧の尽きた義景は開城講和した。しかし1435年、上杉禅秀の乱の余波で、持氏は再び岩松持国を総大将に6000余騎の大軍で長倉城を包囲した(長倉合戦)。しかし攻め落とすことができず、鎌倉方は包囲を解き、長倉氏の武名は広く知れ渡った。1492年、佐竹義舜は那須資実と共に長倉城を攻め、長倉義久は堪えられずに降伏し、以後長倉氏は佐竹氏に従った。1595年、佐竹領内の知行割替えで長倉義興は柿岡城に移封となり、長倉城は廃城となった。

 長倉城は、比高40m程の丘陵上に築かれている。広い頂部に2段に区画された主郭・二ノ郭を並べ、外周に腰曲輪を巡らした縄張りとなっている。腰曲輪は、傾斜の緩い南斜面に多く構築され、中央部を竪堀で分断している。北から東にかけての急斜面は、帯状の腰曲輪や横堀が構築され、数個の竪堀を落としている。しかし一部の竪堀は崩落地形に近く、人工地形か判断が難しい。おまけにこの城は、全体に藪がひどく、特に北から東斜面の遺構は確認が難しい。地形図にも城跡として記載されているので期待していたが、藪が酷く残念な城である。更に、周辺斜面は作業林道で改変もされているのは、少々いただけない。縄張り的にも比較的古い形態を残したままの城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.573785/140.275776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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檜山要害城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6644.JPG←主郭を取り巻く横堀
 檜山要害城は、歴史不詳の城である。一説には戸村城主戸村氏の一族が城主であったとも言うが確証はない。いずれにしても常陸・下野の国境に近いことから、境目の間道を押さえる要害であったと推測される。

 檜山要害城は、檜山集落の東にそびえる標高174m、比高74mの山上に築かれている。ほぼ単郭の小規模な城砦であるが、遺構はよく残っている。西麓の民家裏に観音堂があり、そこから尾根筋を登って行くと城に到達する。主郭は全体に弓なりの形状となったやや縦長の曲輪で、内部はわずかな段差で区画され、居住性を持った広さを有している。主郭の北辺以外の全周を横堀で囲んで防御しており、主郭の南端は土塁を築いている。大手は北東尾根にあったらしく、僅かに認められる小堀切が穿たれ、主郭手前には土塁で囲まれた堡塁が築かれて大手道を監視している。主郭の東西に横堀に降りる虎口が開かれ、特に西のものは明確に土橋が架けられている。また東尾根にはいくつかの削平された平場が見られる。山間の間道を押さえる物見的な小城砦としての特徴をよく残している。尚、ここから谷戸伝いに「ツインリンクもてぎ」があり、日時が合えばツインリンクを走るレーシングカーの咆哮が山間にこだまする城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.538192/140.262129/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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高館城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6529.JPG←腰曲輪段差部に張り出した櫓台
 高館城は、佐竹氏の庶流小瀬氏の初期の居城であったと言われている。その事績は小瀬城の項に記載する。小瀬氏は後に、高館城から緒川を挟んで対岸の丘陵上の小瀬城を居城とした。

 高館城は、標高229mの高館山に築かれた城である。西麓に標柱が建ち、途中までは明確な登道があるが、途中で山上への道が消失してしまったので、緩斜面を直登した。長円形の主郭とその南に広がるニノ郭の2郭から構成され、更に主郭の西側斜面に腰曲輪、東斜面に横堀状の腰曲輪を備えている。主郭もニノ郭も内部に幾つかの小さな段差があるが、全体に削平が甘く普請が未徹底である。その点では、南北朝~室町前期頃の城の特徴が見受けられ、小瀬氏の初期の居城という伝承と符合する。一方で、腰曲輪に数ヶ所竪堀が穿たれていたり、西側腰曲輪の段差部にクランクした虎口が構築され、そこに張り出した上段の腰曲輪隅部(櫓台)から横矢が掛けられるなど、戦国期の築城法も見られることから、戦国期にも小瀬城の出城、或いは砦として機能していた可能性もある。この他、主郭手前とニノ郭手前に小堀切が穿たれ、土塁で前面を防御された坂虎口が開かれている。全体的には大きな普請がされていない城で、あまり期待していなかったが、想像していたよりも楽しめる遺構だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.618524/140.331609/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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油井ヶ島城(埼玉県加須市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC06377.JPG←水堀
(2007年6月訪城)
 油井ヶ島城は、油井城、或いは鐘撞山とも呼ばれ、騎西城の支城である。伝承では、武蔵七党猪俣党の当主で源平合戦などで名高い猪俣小平六範綱またはその末裔の城と言われるが、範綱の本拠はここからかなり離れた現・美里町であり、単なる伝承に過ぎない。油井ヶ島城の歴史については『鐘撞山之記』に記載があり、それによれば1563年、松山城救援のため出陣したが間に合わなかった上杉謙信が、転じて小田原北条氏の属城となっていた騎西城を攻め、同時に油井ヶ島城も攻撃した。油井ヶ島城の城兵は鐘を鳴らして騎西城に急を告げたが、騎西城も謙信本隊の攻撃を受けていて救援できず、結局城兵は甲冑兵器を丘に埋めて逃れたと言う。後の元禄年間(1688~1704年)に、ここから矢の根・鉄砲玉・大身槍・陣鍋が出土したと言う。

 油井ヶ島城は、騎西城の東南東2.3kmの位置にあり、低湿地に浮かぶ浮島の様な平城であったらしい。現在は民家となっているが、周囲に水堀と土塁があり、これが油井ヶ島城の遺構とされている。また城外西側に古墳の様な塚があり、その上に『鐘撞山之記』の石碑が建っている。往時も物見台として機能したのだろう。いずれにしてもささやかな遺構であるが、標柱・解説板・石碑があるのはありがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.098094/139.607112/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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