So-net無料ブログ作成
検索選択

檜沢城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6377.JPG←帯曲輪から見た二重堀切
 檜沢城は、普通には下檜沢楯(館)と呼ばれる城である。城の歴史は一切不詳であるが、佐竹義篤の1539年(天正8年)4月25日付の書状(大縄久照文書)に、

 烏山へ以切紙申届候、其口之者被申付、為飛脚彼一書今晩烏山へ可被相届候、然者廿九日ニ番衆可指越候、先初番ニハ野口・東野・高部・小舟之者共可遣候、(中略)又次番者小瀬・桧沢の可為衆候、自只今催作〔促〕尤候、何も悉可遣候、高部・小舟之者一向ふせうの者とも迄、不残可被申付候(以下略)

【書き下し文】
 烏山へ切紙を以って申届け候。其の口の者に申し付けられ、飛脚を為して彼の一書を今晩烏山へ相届けらるべく候。然る者二十九日に番衆として指越すべく候。先ず初番には野口・東野・高部・小舟の者共を遣はすべく候。(中略)又次番の者には小瀬・桧沢の衆と為すべく候。只今より催促尤もに候。何も悉く遣はすべく候。高部・小舟の者は一向ふしょう(負傷?)の者ども迄、残さず申付けらるべく候。(以下略)

とある。これは那須領烏山口への動員令であり、この中に記された番衆の地名(野口東野高部小舟小瀬・桧沢)が、佐竹領西方の軍事拠点であったと解されている。城巡りの先達である「Pの遺跡侵攻記」や「余湖くんのホームページ」では、ここに記された「桧沢」が正に檜沢城のことであろうと推測している。

 檜沢城は、下檜沢宿の緒川西岸の丘陵上の比高10~90mの範囲に築かれている。荒蒔城などと同様、最高所から裾野に広がる緩斜面上に延々と曲輪群を連ねた構造となっている。城域は大きく2つに分かれ、山上の南北に連なる尾根上に築かれた主城部と、そこから東に伸びた広やかな緩斜面に築かれた段々状の曲輪群で構成されている。まず主城部は、北の最高所に主郭を置き、段差だけで区切られたニノ郭・三ノ郭が南に連なっている。また東麓から主郭へ登る手前に四ノ郭が築かれ、虎口の防衛を図っている。主郭の北辺には土塁が築かれ、主郭の北西部は一段高くなり小さな主殿が置かれた平場であったようだ。その背後に櫓台が築かれ、裏の尾根には二重堀切が穿たれている。二重堀切の南側に落ちる竪堀は、そのまま主城部外周を廻る帯曲輪に繋がっており、この帯曲輪は段差で分かれ、段差部には横矢の掛けられた虎口が築かれている。また帯曲輪は数ヶ所で竪堀によって狭められている。南に伸びる尾根には横堀状の腰曲輪と虎口が築かれ、土橋状の細尾根の先端に物見台がある。一方、主郭の北側斜面と四ノ郭の北側には堀切で分断された土壇が築かれて防御を固めている。これらの主城部と東の曲輪群との間は2本の堀切で分断され、これらの堀切は前述の四ノ郭北側の堀切から接続している帯曲輪と繋がっている。特に内側の堀切は、帯曲輪からの登城道を兼ねている。この帯曲輪の先は竪堀状の城道となって北斜面を下っている。東曲輪群は最高所の曲輪後部に高い物見台が築かれ、主城部前面を護る曲輪群の指揮所として機能したことが伺われる。曲輪群は段差だけで区切られているが、それぞれの虎口は上段の曲輪の塁線から横矢が掛けられている。これらの曲輪群の北側斜面にも帯曲輪が伸びており、所々に土塁が築かれている。
 以上の様に檜沢城は、軍団の駐屯地としての機能と有事の際の詰城機能を併せ持った、拠点防衛の城だったものと思われる。そのため、城の名前も余湖さんの見解を取り入れて、下檜沢楯ではなく檜沢城とした。
東曲輪群の帯曲輪→IMG_6289.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.648072/140.334420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
nice!(7)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

高部向楯(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6215.JPG←第1堀切から長く伸びる竪堀
 高部向楯(高部向館)は、緒川を隔てて本城の高部城と対峙する比高60m程の丘陵上に築かれている。この付近の城は、出城である向館(向楯)が本城とセットになったものが多く、高部向楯もそうした城砦の一つで、高部城と一対となって機能したものと考えられる。

 高部向楯は、向楯という名の出城としては規模の大きな向楯で、ただの支砦レベルではない規模である。丘陵先端部西側の緩斜面上に3段程の広やかな曲輪群を構築し、上段の曲輪から下方の曲輪に対して塁線を張り出させて横矢を掛けている。この城の主要部を構成する曲輪群の前面に当たる北側斜面に、段曲輪群が築かれて、登城道を防衛している。城の最高所は比較的幅の狭い曲輪で祠が祀られている。南に行くと細い土塁状にすぼまった形状となっていて、この曲輪はただの櫓台にしては広いし、主郭と見るには小さく、どちらと考えるかは意見の分かれるところであろう。ここではこれを主郭としておく。主郭の南端は堀切で穿たれ、西斜面に長い竪堀が落ち、竪堀沿いの内側に竪土塁が、主郭南端の土塁がL字型に折れ曲がる形で築かれている。南に伸びる細尾根に、堀切は全部で4本穿たれているが、1本目の掘切は比較的規模が大きいが、他は小型のもので、特に4つ目の掘切は掘切と見做すかどうか意見が分かれる程ささやかなものである。また1本目と2本目の堀切だけは西側斜面に竪堀が長く伸び、竪堀間の斜面に小さな腰曲輪が数段構築されている。

 高部向楯は、かなりしっかりと普請された出城で、本城の高部城共々、かなり重視された城砦であったことが伺われる。この城も高部城同様に「森と地域の調和を考える会」によって整備されており、登道も明確で良好な遺構をよく確認できる。
広やかな西斜面の曲輪群→IMG_6257.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.660742/140.301933/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方と茨城北部では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(3)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

藤沢城が整備された! [日記]

本日、ドライブがてら小山義政の正室であった芳姫の御堂(栃木市の山奥)に行った帰り、
たまたま藤沢城の前を通ると、城址案内板が設置されているのを発見した。

以前に訪れた時(2010年11月)は未整備のガサ薮で、
特に空堀付近は全く中に入ることできないほど薮がひどく、
まともに写真も取れないほどだった。
しかしその後、地元の方の手によって整備されたらしい。

登道も整備されているようだったのでちょこっと寄り道して登ってみたら、
以前はようやく確認することしかできなかった空堀が、
薮が伐採されて見事にその姿を現していた。

また主郭西側には新たに解説板も設置され、
城主であった小曾戸氏の事績が詳細に書かれていた。

こうして貴重な遺構が、その歴史的価値を見直されて整備されるのは、
本当にありがたいことである。
後日、訪城記録を掲載しようと思う。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

高沢城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6115.JPG←クランクする堀切
 高沢城は、高沢伊賀守氏信の居城であったと伝えられている。氏信は鎌倉前期の武士で、親鸞に帰依してその直弟「二十四輩」の一人となり、出家して念信と称し照願寺を開基したと言う。後に高沢氏5代民部少輔で高沢氏は断絶した様だ。戦国時代に入ると、宇都宮氏の庶流で下野武茂城主武茂氏泰の次男泰長が、常陸国鳥子に入部して鳥子四郎左衛門尉を称し、高沢城を修築して居城とした。その後、佐竹氏が勢力を拡張し、武茂宗家を服属させると、鳥子武茂氏も佐竹氏に従ったと言う。

 高沢城は、河内城の西方1kmの位置に位置する比高80m程の丘陵先端に築かれた城である。この地域は佐竹氏と度々争った下野那須氏の領国に繋がる街道が通っており、集中的に城郭が配置されて那須氏の侵攻に備えている。高沢城は、主郭の周囲に一段低く二ノ郭を廻らし、更に周囲に腰曲輪を配し、派生する四方の尾根には馬蹄形曲輪と堀切を築いて防御を固めている。堀切はいずれも中小規模のものであるが、背後の北西尾根には二重堀切が穿たれている。この二重堀切は非常に特徴的で、内側の堀はクランク状に横矢が掛けられ、中間土塁もL字状に折れ曲がっている。ここから北東に落ちる竪堀は登城道を兼ねたらしく、主郭腰曲輪への虎口が開かれている。また二重堀切の南側斜面に築かれた腰曲輪は、両端を掘切から落ちる竪堀で遮断されており、防御性をよく考えた縄張りとなっている。また東に伸びる尾根筋には曲輪らしい平場が伸びており、先端近くに堀切や小郭が築かれている。高沢城は小規模な城砦であるが、遺構はよく残っている。但し一部は藪が多くて、遺構の確認がしづらいのが難である。
腰曲輪の端部を遮断する竪堀→IMG_6143.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.663582/140.240350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

高沢向楯(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5992.JPG←横堀型腰曲輪(塹壕)
 高沢向楯(高沢向館)は、高沢城の出城である。この付近の城には、出城である向館(向楯)が本城とセットになった城が多く、高沢向楯もそうした城砦の一つである。
 高沢向楯は、高沢城の北北西470mの位置にある比高60m程の山稜先端部に築かれている。小規模ではあるが遺構は明瞭であり、山頂の円形の主郭の周囲に腰曲輪を廻らし、北側にも2段程の腰曲輪、また東側と南東側には横堀型腰曲輪(塹壕)を築いて山麓からの敵兵の接近を防御している。横堀の側方は、虎口を兼ねたと思われる竪堀が落ちている。一方、主郭背後は小規模な曲輪と尾根筋を分断する堀切が交互に連なり、堀切は全部で3つ築かれているが、1本目以外は小規模である。簡素な城砦だが、高沢城西方からの那須氏の侵攻に備えたものと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.667249/140.237732/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方と茨城北部では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(12)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

河内城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5948.JPG←堀切を隔てて向き合う虎口郭
 河内城は、鳥子城とも呼ばれ、佐竹氏の家臣江戸氏の居城である。文明年間(1469~86年)に、水戸城主江戸通房の子通治がこの地に入部して鳥子隠岐守を称し(鳥子江戸氏)、河内城を築いた。宗家の江戸氏は佐竹氏と度々争ったが、鳥子江戸氏は早くから佐竹氏に属してこの地を領した。1602年、江戸通家が城主の時に佐竹義宣が秋田に移封となり、通家もこれに従ってこの地を去り、河内城は廃城となった。

 河内城は、国道293号線の北側の比高50m程の丘陵上に築かれている。中心最上部に主郭があり、その前後にニノ郭・三ノ郭があり、ニノ郭の手前には更に数段の段曲輪群を連ね、ニノ郭・主郭・三ノ郭の側方に帯曲輪を廻らした、比較的素朴な縄張りの城である。ニノ郭と主郭の間は、主郭から見て左手だけに片堀切が穿たれている。また主郭背後には三ノ郭と分断する堀切が穿たれ、三ノ郭背後にも堀切があって城域が終わっている。この城で特徴的なのは、主郭の大手と搦手に築かれた側方の虎口郭で、それぞれ堀切を隔てて向かいの曲輪の虎口と対向した形となっている。いずれも低い曲輪の側は小さな土壇となっており、木橋で連結していた可能性が大きい。土壇は木橋の橋台であろう。この様なはっきりした木橋の痕跡が、前述の通り少なくとも2ヶ所は見られる。ニノ郭に稲荷神社があるため、参道が整備されており、簡単に登ることのできる小城砦であるが、こうした虎口の遺構は珍しく、希少性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.660777/140.251079/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

高部城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5832.JPG←空堀で囲繞された三日月形曲輪
 高部城は、佐竹氏の庶流高部氏が築いた城である。鎌倉末期に佐竹氏7代義胤の5男景義がこの地に入部して高部氏を称し、高部城を築いたと言われている。山方と馬頭を東西に結ぶ道と、大子へと通じる道がT字に交わる交通の要地にあり、一時、佐竹宗家と対立する庶家山入氏の勢力下に入ったが、戦国期には那須氏の進出を抑える要衝として、佐竹氏の軍事拠点となっていたと考えられている。

 高部城は、緒川の北岸にそびえる山地東端の、標高290m、比高120m程の丘陵上に築かれている。現在、美和地区の活性化に取り組んでいる「森と地域の調和を考える会」によって整備されており、良好な遺構をよく確認できる。佐竹氏の城郭の中でも、屈指の技巧的縄張りを有する城で、主郭と二ノ郭を中心に、腰曲輪を西面と南面に数段廻らし、更に北側には空堀を廻らした三日月形の曲輪を有している。この、まるで武田氏の城の様な丸馬出的な三日月形の堡塁からは、前後の空堀が西側で合流して横堀となって斜面を降り、更に竪堀・横堀が巧妙に組み合わされている。そして西に続く緩い尾根に対して、食違い虎口が築かれている。その更に南側下方にも横堀が竪堀に変化し、腰曲輪への坂虎口と組み合わされた構造となっている。この他にも南西斜面に竪堀が2本、南の尾根に2本の堀切が穿たれている。また主郭の塁線は僅かに折れ歪や張出しを持たせて横矢を掛けている。それほど大きな城ではないが、随所に技巧的な築城法が散りばめられており、佐竹氏の築城技術を見直した思いである。
 尚、この城を訪れた時、たまたまこの城の整備を主導している河西和文様と行き遭い、城のイメージ図や縄張り測量図などの資料をいただくことができた。この場を借りてお礼を申し上げます。(この時、向館があることも教えていただいた)
横堀と竪堀の組み合わせ→IMG_5871.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.666440/140.299573/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

頃藤城(茨城県大子町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5712.JPG←主郭の堀切跡
 頃藤城は、佐竹氏の庶流小川氏が築いた城である。一説には、時代不明であるが元々は山田右近大夫道定という武士の居城であったと伝えられている。その後、建治年間(1275~78年)に佐竹義胤の4男小川大和守義継が城代となった。後に小川氏は、佐竹氏の一族山入氏の庶流で小田野城主であった小田野氏に属したが、引き続き頃藤城を居城とした。しかし1602年の佐竹氏の秋田転封に伴い、小川氏もこの地を離れ、頃藤城は廃城となった。

 頃藤城は、久慈川が大きく東に蛇行した部分に張り出した、しゃもじ状の台地に築かれている。西から館・中城・御城・下城などの地名が残っており、橋の名前も「下城跨線橋」とか「御城橋」など、ここに城があったことを如実に物語っている。しかし城址はかなり改変されており、車道が城域全体を東西に貫通している他、台地下部の下城地区にはJR水郡線と国道118号船が貫通している。主郭に当たる御城は空き地と藪であるが、中城や下城は民家や畑に変貌してしまっている。僅かに主郭西側の掘切がはっきりと残っているに過ぎない。ほとんど地名にしか城の名残が残っていないのが残念である。城址碑もあるらしいが今回は見逃してしまった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.714893/140.384663/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

頃藤古館(茨城県大子町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5698.JPG←民家の北側に残る土塁
 頃藤古館は、一説には頃藤城主小川氏の隠居所と言われている。久慈川とその支流大沢川の合流点の北岸に位置し、居館の南側は直接久慈川に面していた様である。現在の遺構から考えれば単郭方形居館であったと思われるが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、現在製材所に変貌している部分にも斜めに土塁があった様で、また南東角部分は川に削られて湮滅してしまっているようだ。これらを見ると、方形というよりややひしゃげた四角形の曲輪であったらしい。館跡は前述の通り、南半分は製材所に変貌し、中央を斜めにJP水郡線が貫通して破壊を受けている。北側半分が民有地(歯科医院)となっていて立派な土塁を残している。外周には堀もあったと思われるがほとんど埋められてしまっている。それでも中世の居館跡として貴重な遺構を留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.720448/140.376112/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

月居城(茨城県大子町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5660.JPG←土塁を備えた主郭
 月居城は、佐竹氏の庶流、北酒出助義の3男定義がこの地に入部して袋田氏を称し、月居城を築いた。その後、一時廃城となったが、佐竹一族の内訌「山入の乱」を克服した佐竹義舜は、佐竹氏の内乱につけ込んで大子地方を横領した白川氏から同地を奪還し、1516年、石井氏、滑川氏らを月居城に在番させて大子支配の拠点とし、その後、義舜の重臣野内大膳が城主に任ぜられた。以後野内氏は4代にわたって保内郷を守って佐竹氏の北進を支えたが、1602年に佐竹義宣が秋田に移封となると、野内大膳亮忠時父子も秋田に移り、月居城は廃城となった。

 月居城は、標高404mの峻険な月居山山頂に築かれている。山への登山道はいくつか整備されているおり、私は当初西中腹の市道脇から登るルートで行こうとしたが、落石で市道が通行止めとなっており、仕方なく袋田の滝から登る急坂ルートを選択した。これがまた想像を超える階段直登地獄で、急な階段を延々と登るハメになった。その代わりこのルートだと、袋田の滝を上から眺めるという普通には見られない景観が見れたり、出城的な役割があったと思われる山王山を通ることができたりと、得することもある。月居城自体は小規模な城で、山頂に主郭を置き、背後に土塁を築き、主郭南面に数段の平場と南東に数段の段曲輪群を配しただけの簡素な城砦である。月居山と山王山の間には峠道が通っており、天狗党の乱の際に戦いが行われたことからも重要な交通路であったことが伺われ、これを扼する城砦でもあったろう。実際峠道に面した北斜面にも腰曲輪らしい平場も確認できる。それにしても比高300mもある山で、こんな高い場所に城を築く意味が不明である。『図説 茨城の城郭』では八溝山系の山岳修験勢力との関連を指摘しており、確かにそうした理由でもない限り、この地域でこれほどの高所に城を築く理由は見当たらない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.757900/140.404919/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

町付城(茨城県大子町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5576.JPG←Ⅱ郭の空堀跡
 町付城は、荒蒔城築城以前の大子支配の拠点城郭だったと推測されている。陸奥白川氏(白河結城氏)が佐竹氏に備えるために家臣の深谷氏に町付城を築かせたと言われている。その後、山入の乱を克服し家中統一を図った佐竹氏が北進を始めると、一時深谷氏は佐竹氏に服属したが、後に反抗を企てて滅ぼされた。その後、佐竹氏は荒蒔氏を入部させ、荒蒔氏は新たにより要害性の高い荒蒔城を築いて移ったとされている。

 町付城は、荒蒔城から東に約1kmに位置し、八溝川北岸の段丘上に築かれている。大きく4つの曲輪で構成されており、台地の南東隅に主郭、その西に縦長のⅡ郭、主郭の北に横長のⅢ郭、これらの北西側を取り巻くようにⅣ郭が、それぞれ空堀で分断されて築かれている。現在は全域が耕地化されているが、空堀跡は概ねその輪郭を残しており、殊にⅢ郭空堀の北端部は、藪の中に切岸と竪堀が突然現れてくるという、異次元空間の様に中世城郭の世界が出現する不思議な空間である。しかし耕地化によって、空堀はかなり埋められてしまっており、往時の規模からはかけ離れてしまっているのは惜しい。僅かに往時の面影を残しているに過ぎないのは残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.842108/140.358517/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

荒蒔城(茨城県大子町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5540.JPG←南曲輪群脇の枡形虎口
 荒蒔城は、佐竹氏の家臣荒蒔氏が築いた城である。元々この付近には陸奥白川氏(白河結城氏)が家臣の深谷氏に築かせた町付城があったが、山入の乱を克服し家中統一を図った佐竹氏が北進を始めると、一時深谷氏は佐竹氏に服属したが、後に反抗を企てて滅ぼされた。その後、佐竹氏は荒蒔氏を入部させ、荒蒔氏は新たにより要害性の高い荒蒔城を築いて移ったとされている。『図説 茨城の城郭』では、城の規模と構造から、佐竹氏の大子支配の拠点城郭だったと推測している。

 荒蒔城は、八溝川の北側、高峠山から南東に伸びた尾根先端の丘陵部に築かれた城である。慈雲寺西側の集落から北に登っていく山道から訪城できる。山道の途中に数ヶ所のピークがあり、出城や物見台とされているが、あまり明確な遺構は見られない。荒蒔城の背後に伸びる尾根に到達し、そこから尾根筋に沿って南に降っていくと小堀切があり、更に降っていくと尾根上の障壁となる土塁が築かれている。その先は主郭背後の曲輪となっている。主郭との間には堀切が穿たれ、その上に主郭の切岸がそびえている。主郭は小さい平場であるが、背後と東辺に土塁を築き、隅櫓も備えていた様である。主郭から南の裾に向けて、幾重もの曲輪が構築されている。堀切は殆ど無く、斜面に沿って切岸で区画された曲輪を連ねただけの構造であるが、普請はしっかりしており、城域もそれなりの広さがある。最大の切岸では高さ5m程に及ぶ。上部の数段の広い曲輪から下は、これらの曲輪群は南東と南と2方向の尾根に沿って曲輪群が分かれている。規模が大きいのは南東曲輪群で、尾根末端まで広い曲輪群が展開している。一方、南曲輪群は痩せ尾根上の曲輪で、あまり幅がない。その代わり先端近くに堀切があり、その先は物見台となっている。南東曲輪群と南曲輪群の間は谷戸になっているが、両曲輪群を繋ぐ武者走りが残っており、また谷戸に湧水があることから水の手だったのだろう。南曲輪群の上方西側に虎口があり、櫓台を備えた厳重な枡形虎口であり、側方には竪堀による動線制約もある。よく拝見しているHP「北緯36度付近の中世城郭」では、南東曲輪群の側方に大手虎口があったとしているが、構造から見ると、こちらが大手だったと思われ、辿っていないが大手道も残っていそうだ。以上のように、荒蒔城は広い梯郭式曲輪群の城で、傑出した技巧性はないが、かなりの兵を置くことのできる拠点城郭であったことは十分伺われる。
曲輪群の大きな切岸→IMG_5474.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.843722/140.346297/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

野口城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5348.JPG←大規模な堀切
 野口城は、佐竹氏の庶流野口氏の居城である。元々は991年に藤原秀郷の後裔藤原通直がこの地に入部して川野辺太夫と称し、野口城を築いて南北朝時代まで川野辺氏の居城となった。1394年、佐竹氏8代行義の子景義が野口城主となり、野口但馬守と称した。以後、野口氏の居城となったが、1540年に野口直之允が佐竹義篤に叛いて討死し、野口四天王は義篤に降って城は廃されたと言う。

 野口城は、那珂川北岸の「舘」と言う地名の残る比高25m程の段丘上に築かれている。最高所にほぼ長方形の主郭を置き、その南側には丁度足の甲の様なやや末広がり形状の一段低い緩斜地が広がっているが、ここには現在集落があることから家臣団の居住区(根古屋)であったと思われる。台地西側には「内古屋」の地名もあるので、それなりの規模の城下町が形成されていたらしい。主郭の背後には低土塁が築かれ、その背後に大規模な二重堀切が穿たれて台地基部を分断している。土塁の形状からすると、主郭の北東隅には櫓が建っていたらしい。1つ目の堀切は腰曲輪状の横堀型だが、2つ目のものは深さ10mもある豪快なものである。また主郭西側にも横堀と腰曲輪があり、その形状は津谷楯に似ている。前述の堀切の北側にも北郭があり、その先にやはり二重堀切が穿たれている。その北にも平場が広がっており、北端を2段の切岸で区画している。しかしこれは耕地化による改変の可能性もあり、遺構かどうかは確信は持てない。野口城は、比較的単純な形状の城であるが、居館から発達した城の一形態が窺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.551172/140.334452/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=airphoto&vs=c1j0l0u0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

御前山城(茨城県城里町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5224.JPG←主郭背後の堀切
 御前山城は、歴史不詳の城である。御前山の名の由来は、失脚して下野国に配流された弓削道鏡が、孝謙天皇と共にここに住んだことから付いたと言われるが、もとより荒唐無稽な伝説に過ぎない。また一説には、1220年に藤原時房が城を築いたとも言われるが、確実なことは全くわかっていない。

 御前山城は、御前山山頂より東に伸びる標高150m程の尾根上に築かれている。御前山は有名な山であるらしく、市町村合併前には御前山村というのがあったぐらいなので、この地ではランドマーク的な山らしい。ハイキングコースも整備されているので、簡単に登ることができる。御前山城は非常に特異な縄張りの城で、全体の曲輪の削平は甘いが、主郭群とニノ郭の後部に穿たれた2つの堀切と土塁だけが比較的大規模に普請されているのが特徴である。ハイキングコースを登って行くと、主郭北東に張り出した物見的な平場に到達する。現在は四阿が建っているが、雑木で囲まれているためあまり眺望がない。しかし位置的には対岸に位置する野口城を見下ろせる位置に平場が構築されており、物見として機能したことは疑いない。主郭は前面に浅い空堀を穿ち、更にその前面に腰曲輪を伴っている。主郭内部も浅い空堀で区画されていた様だ。主郭後部に大きな土塁があって、背後の堀切に向かって虎口が開いている。主郭の南西側にも小堀切と段曲輪が築かれている。主郭の背後にニノ郭があるが、ほとんど自然地形である。ニノ郭の背後にも土塁と虎口があり、背後に堀切が穿たれている。その先の尾根道にも2本の堀切が確認できる。また南西に鐘撞堂跡とされる高台があり、往時も物見台として機能した可能性がある。御前山城は、堀切や大土塁など明確な城郭遺構が見られる一方で、曲輪の普請は不徹底で、臨時的な城のように思われる。対岸には野口城があり、野口城には落城した歴史が伝わっていることから、野口城攻めの陣城か付城と考えるのが最も自然な様に思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.543519/140.328745/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

孫根城(茨城県城里町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5111.JPG←主郭の大土塁
 孫根城は、佐竹氏の庶流大山氏の支城である。大山氏2代義道は、大山城を居城とし、孫根城を築いて多病であった長子義兼に孫根城を与え、義兼は以後孫根氏を称した。佐竹一族の内訌「山入の乱」の際、佐竹氏の当主義舜は1490年、居城の常陸太田城を追われて、外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は義舜を孫根城に攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は勢力を盛り返し、常陸太田城を奪還して復帰した。

 孫根城は、岩船川に臨む比高25m程の段丘上に築かれた城である。現在は民家や耕地化によって改変が進んでいるが、「御城」と呼ばれる主郭部と南の別郭(『図説 茨城の城郭』ではⅢ郭とする)はよく遺構を残している。主郭は民家となっているが、西側の大土塁がしっかりと残っている。土塁の外周には空堀があったと思われるが、一部を除いて埋められてしまっている。主郭の南に隣接してニノ郭があったと想定されるが、耕地化で改変されている。主郭・ニノ郭の北東斜面には、藪の中に腰曲輪や物見台などが確認できる。南の別郭(Ⅲ郭)は墓地となっているが、外周に高土塁と空堀が廻らされている。孫根城は大きな城ではないが、比較的よく遺構が残っている。尚、主郭にある民家の方に断れば、快く見学の許可がいただける。
ニノ郭の腰曲輪→IMG_5107.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.511826/140.346812/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=airphoto&vs=c1j0l0u0f0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

花崎城(埼玉県加須市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC06338.JPG←城址公園内に残る水堀
(2007年6月訪城)
 花崎城は、細萱氏の居城粟原城の支城である。戦国時代中期に小田原北条氏の勢力と越後上杉氏の勢力が関東で激突する様になると、花崎城もその抗争に巻き込まれることとなった。1560年、初めて関東に出馬した上杉謙信は、翌年3月、北条氏康の小田原城を大軍で包囲攻撃した。この時、粟原城主細萱民部少輔光仲は、70余人を率いて小田原城に詰めた。わずか11歳の長子半左衛門泰秀が花崎城を守っていたが、小田原城から軍勢を退いた謙信はその帰途、羽生城主木戸宮内少輔忠朝に粟原城と花崎城を攻め落とさせたと言う。

 花崎城は、武蔵中部に多い、低湿地帯に浮かぶ浮島のような平城であったと思われる。現在は市街化が進み、城址には東武伊勢崎線が東西に貫通し、その北側は住宅地に変貌しているが、それでも東武線の南側に城跡公園として残されており、僅かだが遺構が確認できる。現地解説板によれば、畝堀・障子堀・角馬出などが発掘されたそうで、北条氏の築城技術が導入された縄張りであったらしい。残念ながら角馬出は住宅地となって破壊されてしまったが、前述の城址公園内に水堀跡と曲輪の塁線が見られる。これほど市街化が進んだ中にも、僅かでも遺構が残されていることは、非常に嬉しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.111461/139.627680/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
メッセージを送る