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石塚城(茨城県城里町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4981.JPG←主郭の空堀
 石塚城は、佐竹氏の庶流石塚氏の居城である。佐竹氏第10代義篤の次男宗義が、1362年に石塚郷に分封されて石塚氏を称し、石塚城を築いた。以後、戦国末期まで代々この地を統治してきたが、1595年に佐竹一族の小場氏から入嗣した石塚義辰が片野城に移封となると、代わって佐竹氏の一族で重臣でもあった東中務義久(佐竹東家)の管理下に入った。1602年、佐竹義宣が秋田に転封となると、石塚城は廃城となった。

 石塚城は、那珂川の氾濫原に面した比高30m程の段丘端部に築かれた城である。群郭的な縄張りの城で、主郭は中央の「御城」と呼ばれる曲輪で、外周を深い空堀や土塁で防御している。主郭の東隣りにニノ郭があり、外郭と土橋で繋がり、やはり外周に土塁や空堀が廻らされている。二ノ郭では特に、北側の段丘斜面上にも横堀が穿たれており、見ようによっては主郭より防御が厳重である。主郭の南や西にも曲輪跡が残り、一部湮滅しているものの空堀が部分的に残存している。民家に近いながら、非常に良好に遺構が残っており、是非末永く遺構を保存していってもらいたいものである。
ニノ郭北側斜面の横堀・土塁→IMG_5020.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.486574/140.376638/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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那珂西城(茨城県城里町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4916.JPG←主郭の北東隅櫓台と空堀
 那珂西城は、この地の豪族那珂氏の居城と言われている。以前は、南北朝時代に常陸南朝方の一翼を担って活躍した那珂通辰の居城であったと言われていたが、最近では大中臣氏の子孫、時久が那珂氏を称してこの地に居城したとする説が有力となっている。その後、佐竹氏の勢力に飲まれ、佐竹氏の支城となって佐竹氏の秋田移封まで存続したと推測されている。
 那珂西城は、那珂川西岸の段丘東端に位置しており、主郭は宝幢院の境内となっている。主郭は外周に土塁と空堀が巡らされ、北東と北西は入隅となっていて横矢が掛けられている。また南西隅と北東隅には櫓台が設けられている。主郭の南は中城と呼ばれるニノ郭、その西側には兵庫坪と呼ばれる三ノ郭が広がっているが、耕地化と宅地化で遺構の湮滅が進んでいる。それでも僅かに土塁の跡や、堀跡の畑が垣間見られる。主郭以外の遺構は少ないが、主郭部だけでも十分見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.457861/140.408825/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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結城長塁(茨城県結城市・栃木県小山市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4816.JPG←円弧状の空堀と二重土塁
 結城長塁は、結城氏の居城結城城の北に築かれた防御線と考えられている。田川と江川の2つの河川に挟まれた台地のくびれた部分に、東西1.5km程にわたって長塁が築かれていた。この台地続きの南東に結城城があり、北の宇都宮氏が台地上を走る街道に沿って進撃してくるのに対する備えであったと考えられる。
 結城長塁は、大半の遺構が湮滅しているが、西端部の日鷲神社境内から民家裏にかけて直線と円弧状の二重土塁と空堀が、また長塁の丁度中間部に約110mにわたって一直線状の土塁・空堀が残存している。大した規模の遺構ではないが、戦国期の緊張感を今に伝える貴重な遺構には違いない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【日鷲神社近傍】
     http://maps.gsi.go.jp/#16/36.323839/139.869121/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
     【台地中間部】
     http://maps.gsi.go.jp/#16/36.323095/139.875408/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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滝野館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4784.JPG←館の塁線跡か?
 滝野館は、仙台伊達藩の宿老遠藤家の館である。遠藤家の祖は、伊達輝宗の重臣として活躍した遠藤山城守基信で、1591年、2代宗信の時に伊達家が岩出山に移封となると、出羽米沢より栗原郡築館村佐野館に移封となり、1604年、3代玄信は川口村滝野に所替えとなり館を造営した。そのまま幕末まで存続し、11代允信の時に明治維新を迎えた。
 滝野館は、一迫川の西岸の滝野集落の北西部に位置している。現在は一面の耕地となり、遺構はほとんど湮滅しているが、集落より僅かな微高地となっており、民家裏の耕地の段差部は「御館」の塁線を残しているとも考えられる。いずれにしても、一番明瞭に残っているのは、集落内の「鉤の手」になった通りであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.773458/140.880893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣屋
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川口楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4764.JPG←北郭の大土塁
 川口楯(川口館)は、狩野修理の居館と言われている。おそらく真坂楯主狩野氏の一族の拠った城であろう。
 川口楯は、南から張り出した標高120m、比高60mの山丘上に築かれた城である。山頂に長円形の主郭を置き、外周に腰曲輪を築き、主郭の四方(東西南北)に伸びる尾根には馬蹄段を配した縄張りとなっている。西郭には八雲神社が建てられていて、そこまでは登道が整備されている。丘陵基部の南郭は2段の馬蹄段となり、堀切で基部を断ち切っている。北郭は、城下に向いた前面に、幅広の大土塁が築かれている。長さもあり、形状から考えて多門櫓ぐらいはあった可能性が考えられる。もしそうだとすると、城下に向いた前面に築かれたことから考えても、城下への視覚効果を狙ったものと思われる。川口楯はこじんまりした城であるが、北側前面の大土塁は印象的である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.764625/140.890206/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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陣楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4668.JPG←堀切から落ちる二重竪堀
 陣楯(陣館)は、歴史不詳の城である。一説には、前九年の役の際に安部貞任が立て籠もった渕牛楯に対抗する楯であったとも言う(現地標柱の記載)。
 陣楯は、国道457号線が貫通する丘陵上にあったらしい。たまたま国道を走っていて、道端の標柱を見つけたので訪城した。笹藪がひどいので、あまりはっきりしないが、標高220mのピークから東下に張り出した尾根上に築かれた単郭の小城砦と思われる。平場の背後に掘切があり、この堀切は南側に落ちる竪堀が2本に分岐する変則的な二重堀切となっているようだ。一応、標高220mのピークにも登ってみたが、遺構らしきものは何も確認できなかった。渕牛楯に対抗する砦という伝承もむべなるかな、と言う印象である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.782625/140.883662/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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後藤楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4578.JPG←三ノ郭に架かる土橋
 後藤楯(後藤館)は、駒場楯とも呼ばれる。元々は前九年の役の際に源頼義が陣所にしたとも言われ、後の天文年間(1532~55年)に大崎義隆の家臣後藤平馬之允高広の居城であったと伝えられている。

 後藤楯は、比高40m程の西から東に張り出した丘陵上に築かれている。丘陵上には八幡神社が鎮座しているが、後藤楯の中心部は神社から東に2~300m離れた位置にある。かなり複雑な縄張りを有した比較的大きな城である。外郭の物見台であったと思われる神社から東に100m程降っていくと小堀切があり、ここから城域に入る。堀切沿いの土塁を迂回して進むと、尾根上に細長く何段かの平場群が続いている。その先端の尾根のくびれた部分に二重堀切が穿たれている。1本目は比較的浅いものだが、2本目は5m程の深さがあり、北側に深い竪堀となって落ちている。この先が城の中心部で、やや小さい方形の高台(ニノ郭)の先に切岸で囲まれた横長の広い主郭がある。主郭は外周に腰曲輪を伴い、北東角には小さな隅櫓台とその先の尾根に物見台の小郭があって、眼下を見張っている。一方、主郭の南東には枡形虎口が築かれ、その側方に堀切を挟んで櫓台が築かれている。主郭の東にも曲輪(三ノ郭)があり、南端に大きな櫓台が築かれ、その南側にやはり堀切を挟んで三角形の櫓台が築かれている。三ノ郭の東側は土橋の架けられた幅広な堀切(堀底は腰曲輪となっている)が穿たれ、その先も出丸的な曲輪となっているが、ここには給水施設があって改変を受けている。その先も移行がある可能性があるが、時間の制約もあって未踏査である。城内は藪が多いので確認しづらい部分も多いが、技巧的な縄張りが散見され、見所は多い。尚、八幡神社登り口に標柱が建っている。
二重堀切の一つ→IMG_4522.JPG
IMG_4558.JPG←三ノ郭の櫓台と堀切・外の櫓台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.809266/140.938379/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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森楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4427.JPG←下段の腰曲輪
 森楯(森館)は、現地標柱によれば安藤五郎窺家の居館とされ、『森館軍記』という書物に出てくる居館と言う。また『日本城郭大系』によれば森周防、或いは森因幡守糺則の居館であったとされている。いずれにしても事績不明の城館である。
 森楯は、平野の只中にある比高20m程の独立丘陵に築かれている。たまたま通りかかって標柱を見つけて訪城した。登道を探して歩いていると、地元のおばあさんから、またそのちょっと先でおじいさんに別々に声をかけられた。城跡のことを伺うと、お二人共、異口同音に「城跡だと言われているけど何にもないよ」と力説していた。キャッスラーならよく聞く答えで、「ははん。てことは、遺構があるな」と思って、南面の鳥居のある階段を登って行くと、案の定腰曲輪らしい平場と切岸が目に飛び込んできた。
 森楯は、楕円形の丘陵頂部に、堀切で分断された主郭とニノ郭を置き、外周に2段の腰曲輪を築いて全周を囲繞している。堀切は城内通路を兼用していたようで、堀切南端から腰曲輪を西向かって歩くと、僅かに木戸口の土塁が残っている。堀切の主郭側には低土塁も築かれている。思った以上に良好な遺構に満足した反面、「家の真裏の山にこれだけしっかり遺構が残っているのに、『何もない』とはなぁ・・・」と、こうして遺構も歴史も埋もれていってしまうかと思うと、少々複雑な気分だった。
主郭・二ノ郭を分断する堀切→IMG_4445.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.811356/140.964214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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アベノミクスという失政 [雑感]

とうとう本日、安倍シンパの日経がアベノミクスの失敗に言及する記事を載せた。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGD31H3Q_R30C16A3EA2000/

そもそも自分の名前を冠した「アベノミクス」なんていうマスコミの命名を、
これみよがしに吹聴していたアベの厚顔無恥たるや、唾棄すべきものであったが、
その政策的失敗が3年にして明確になってきた。

リフレ派というような連中は、株高によって経済が活性化し、
給与所得も増えて、日本の経済が好景気になると信じているが、
そんなものは幻想で、単なる海外投資家や金持ちの優遇策にすぎない。

そもそも日本の内需が弱いのは、①雇用環境の不安定さ、②老後(将来)の蓄えへの不安、
が背景にある。
まず①雇用環境の不安定さ は、派遣や期間社員はもちろん、正規社員であっても
いつリストラに遭うかもしれない、労働者側の立場の不安定さが根本にある。
そして②老後(将来)の蓄えへの不安 は、年金制度のゆらぎ(というか破綻)により、
長寿命化によってどんどん長くなるリタイヤ後の生活期間の生活費が足りなくなる不安を
誰でもが抱いていることにある。

これらの根本的な生活不安を抱えている一般庶民が、見せかけの昇給程度で
カネをバンバン使うわけがない。
アベノミクスだ、株高だと浮かれている連中は、そうした根本のところを全く見落としている。

特にこれまでの株高は、
GPIFなどの「クジラ」と呼ばれる機関を使った政府誘導による株高の演出を、
海外投資家が利用して巨利を挙げ、
それにあぶく銭を持った国内投資家が便乗しているだけだったのが実態であるのは
見え透いていた。

要するに、「アベノミクス」なんてものは、内需を増進させるような根本治癒を何もせず、
とりあえず株高だけを演出していたに過ぎない。
失政と私が言及する所以である。

まず不急の補助金などを一定期間停止して、
国家の財政規模を日本の身の丈にあった規模に縮小し、
合わせて税制改革によって金持ち優遇を廃するとともに消費増税によって財政基盤を安定化させ、
より根本的には年金制度の大改革によって将来生計への国民の不安を取り除かなければ、
内需拡大など到底望めない。

また取得後に価値が大きく毀損する、現行の住宅資産の制度改革にもメスを入れなければ、
国民の巨額の資産の死滅化を防ぐこともできない。

こんな失政を続けていたら、日本はますます死に体化するだろう。
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足利政氏館(埼玉県久喜市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC06309.JPG←甘棠院境内に残る空堀
(2007年6月訪城)
 足利政氏館は、古河公方2代足利政氏の隠居後の居館である。1506年頃から、嫡子高基と対立し、一旦和解するものの1513年に山内上杉氏の跡継ぎを巡って再び対立し、抗争の末、頼っていた小山氏まで離反して高基方に付き、1518年には後ろ盾であった扇谷上杉朝良が死去すると、政氏は久喜に隠居した。一方、政氏の政治勢力の後継者であった次男義明は、真里谷武田氏の要請を受けて上総に下向し、その支援を受けて小弓城に入って小弓公方家を創出した。こうした旧勢力の古河公方家や山内・扇谷両上杉氏の内訌の隙を突いて新たに勃興したのが、今川氏親の元軍師で関東に討ち入った伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)であった。

 足利政氏館は現在、政氏がこの館に隠居後に開山した甘棠院となっている。寺の周囲には空堀が残り、また政氏の墓も建っている。空堀はかなり埋もれているのか、規模は小さく、豪族の居館ほどの構えは備えられていない。永正の乱の主役の一人でもあった政氏は、ここでどのような余生を過ごしたのだろうか。1520年には、古河城を訪れてかつて対立した高基とも和解しており、政治活動からは一切身を引いて、読経三昧の日々を過ごしたものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.073401/139.668535/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
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