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柴田城(宮城県柴田町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3201.JPG←本丸北の段曲輪
 柴田城は、藩政時代には船岡要害と呼ばれ、後に「伊達騒動」で知られる原田甲斐守宗輔の居城であったことで有名である。現在船岡城址公園となっていることから、一般には船岡城と呼ばれている。しかし私がざっと調べた限り、どうも往時にこの城が船岡城と呼ばれたことはなく、『仙台領古城書立之覚』にも柴田城とあり、藩政時代には「城」ではなく「要害」とされたことから、柴田城或いは船岡要害と呼ぶのが正しいと考えられ、ここでは『日本城郭大系』に従い、柴田城と呼称する。

 柴田城の創築は不明であるが、一説には鎌倉初期の1200年に2代将軍源頼家の命を受けた宮城四郎家業に誅滅された芝田次郎の居城であったとも言われるが明証はない。その歴史がはっきりするのは、伊達氏の所領となった天文年間(1532~55年)以降である。伊達稙宗の時に柴田氏の初代四保但馬定朝が居城四保館(後の柴田城)となった。定朝の子宗義に四保氏を柴田氏に改め、1593年に志田郡桑折に移封されてこの地を離れた。その後、慶長年間(1596~1615年)には屋代景頼が城主となった。1617年、原田宗資がこの地に移封となり、その子宗輔までこの地の領主であったが、1671年に「伊達騒動」で断絶した。この原田時代には、家中屋敷に居住していて、居館をことさら普請することはなかったとされる。1681年、柴田宗意が登米郡米谷から移封されて柴田城に戻り、1694年に船岡要害の建築許可が降り、三ノ丸に居館を造営して歴代の居城とし、幕末まで存続した。

 柴田城は、前述の通り船岡城址公園となっており、公園化でかなり改変が進んでおり、あまり城址らしい遺構を留めていない。山頂部の本丸・二ノ丸には平場が広がり、一部に土塁らしき跡も見られるがはっきりしない。周囲には腰曲輪らしい段々の平場もあるが、これも明瞭ではない。本丸の北に見られる段曲輪が、はっきりと往時の姿を留めている程度である。中腹の三ノ丸も公園化されているが、先端に腰曲輪の原形を留めるなど、こちらの方が遺構は明瞭なようだ。この他、二ノ丸下の中腹に横堀もあったようだが、日没タイムアウトで未見である。山上という地勢以外は城址の名残を感じさせるものが少なく、残念である。
本丸の土塁跡→IMG_3191.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.053464,140.755162&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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中島楯(宮城県山元町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3123.JPG←主郭周囲の空堀状腰曲輪
 中島楯(中島館)は、その歴史は明確ではないが、伝承では亘理権太夫藤原経清の居館であったと言われている。藤原経清は、後の奥州藤原氏の初代となった藤原清衡の実父で、前九年の役の際に当初は陸奥守源頼義に従って俘囚長安倍氏討伐に従軍したが、後に袂を分かって安倍氏と共に敗れ、囚われて処刑された。経清居館の伝承が事実であるならば、奥州藤原氏所縁の城館ということになる。

 中島楯は、国道6号線脇にそびえる比高25m程の丘陵上に築かれている。ほぼ方形に近い円形の主郭の外周に、土塁を伴った空堀状の腰曲輪を廻らし、更に北尾根に堀切を穿っただけの簡素な構造の城館である。主郭にも僅かに土塁が残存しているが、大した防御性も感じられず、伝承通りの古い城館と言うのも頷ける。
北尾根の堀切→IMG_3135.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.948005,140.891461&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:古代山城
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坂元城(宮城県山元町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3023.JPG←主郭西側の大堀切
 坂元城は、蓑首城とも呼ばれ、亘理城主亘理美濃守重宗の家臣坂元三河守によって築かれた城である。坂元氏は愛宕山城を居城としていたが、相馬氏の攻撃で落城し、父の大膳が討死した不吉な城であったことから、1572年に新たに蓑首山に坂元城を築城したと言われている。1589年、伊達政宗が相馬氏の駒ヶ嶺城を攻略した際、坂元三河守も亘理元宗にしたがって出陣し、討死した。1591年に亘理氏が遠田郡涌谷に移封となると、三河守の子もこれに従ってこの地を離れた。その後の坂元城主ははっきりしない部分もあるが、後藤信康・黒木守元・津田景康と変わったと考えられている。明確になるのは1616年以降で、伊達氏の一族大條長三郎宗綱が坂元城2千石を拝領してからである。坂元城は、元和の一国一城令で坂本要害と名を変え、以後、大條氏が城主を歴任し幕末まで存続した。

 坂元城は、坂本神社の建つ小丘陵に築かれている。丘陵上に本丸があり、北麓の平野部に二ノ丸、更に出曲輪状の三ノ丸があり、二ノ丸外周は堀で囲まれていた。しかし現在は宅地化でかなりの遺構が失われている。主郭内は堀切で分割されており、東側の長方形の平場と西側の細い曲輪に分かれている。西側の細い曲輪の西辺には土塁が築かれ、その裏には大堀切が穿たれている。一方、二ノ丸は坂元小学校などに変貌している。一部に僅かに土塁が残る他は改変が進み、堀は畑や宅地となっていて、往時の姿を想像するのも難しい程である。三ノ丸に至っては完全に湮滅している。結局、主郭西側の土塁と大堀切が唯一の見所で、主郭内の堀切もどのような意図で穿たれたのか意味不明である。尚、城址南の丘陵上に大條氏の墓所があることを、神社のおばさんが教えてくれたので訪問したが、この墓所も出城っぽい雰囲気であった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.917744,140.89335&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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小斎城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2857.JPG←ニノ郭堀切と馬出郭
 小斎城は、金山城丸森城と並ぶ伊具三城の一つで、伊達・相馬両氏の争奪の場となった城である。『日本城郭大系』では柴小屋館、現地表記では柴小屋城と呼ばれるが、現地解説板によれば、本城である柴小屋城と、出城である西舘城の2つを合わせて、小斎城と呼んでいた様である。伊具郡が伊達・相馬両氏の係争地帯となったのは、伊達氏家中の内乱「天文の乱」に端を発する。その経緯は丸森城の項に記載する。1565年に稙宗が丸森城で没すると、稙宗が隠居料としてもらっていた伊具郡は、稙宗の世話をしていた相馬氏が占領し、これが伊達氏と相馬氏の争いの原因となった。もともとこの地には、1515年頃より小斎邑の領主小斎山城助・長門守・平太兵衛の歴代の居城として西舘城があったらしいが、この相馬氏による伊具郡占領の際、1566年に小斎平太兵衛は相馬氏の家臣藤橋紀伊胤泰に滅ぼされ、以後相馬氏の持ち城となった。1576年になると、伊達晴宗・輝宗父子は伊具郡奪還に乗り出し、矢ノ目に本陣を置いて小斎城攻略に取り掛かった。一方、相馬盛胤は伊達勢を防ぐため、佐藤宮内為信・泉大膳に命じて小斎城を改修して防衛力を強化した。この頃は、小斎城下は深田が広がっており、矢ノ目合戦は伊達方が多くの犠牲者を出して撤退したと言われている。しかし1581年に転機が訪れる。即ち、相馬氏は小斎城の城番の交代として金澤美濃を派遣したが、小斎城主佐藤為信は、父好信が相馬家中の権力争いで憤死していた為、伊達氏の誘いに乗り金澤美濃を斬って伊達氏に寝返った。これを機に伊達輝宗・政宗父子は矢ノ目に出陣して伊具郡を攻撃した。角田城から阿武隈川を渡る橋頭堡を得た伊達氏は、以後戦況を有利に展開し、1584年5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介で、伊達・相馬両家の和睦が成立し、和睦の条件として、輝宗は伊具三城を相馬氏から奪還することに成功した。小斎城は、戦功のあった佐藤氏がそのまま城主として置かれ、1615年、元和の一国一城令で廃城となった。その後も佐藤氏は、旧城下に屋敷を構えてこの地の領主として幕末まで存続した。

 小斎城は、阿武隈川東岸の平野の東にそびえる、比高50m程の丘陵上に築かれた城である。登道が数ヶ所整備されている。東西に伸びる尾根上に一直線状に曲輪を配し、各曲輪を堀切で分断した連郭式の大城塞となっている。各曲輪を分断する堀切は深く鋭く、非常に独立性が高い。殊にニノ郭前面にある馬出郭は、鋭くそびえた独立堡塁の形状となっており、駿河丸子城の独立堡塁によく似た印象を受ける。馬出郭の前面にも構築はやや浅いが虎口郭を備え、馬出郭と合わせて多重枡形を形成している。城の主要部である主郭・ニノ郭には広い腰曲輪群が取り巻き、物見台や土塁も築かれて防御を固めている。一方、虎口郭から西側が「西舘城」とされ、東斜面に横堀や腰曲輪を備えている。ここから南西に派生する尾根にも曲輪群や堀切が確認でき、城域であったことがわかる。主郭の東側には馬屋跡とされる曲輪があり、先端の堀切の先が三ノ郭とされている。三ノ郭の先にも物見の曲輪群があり、もう1本堀切も穿たれている。小斎城は、主要な曲輪はよく整備されているが、腰曲輪は全く未整備で、藪で覆われている。しかし伊達・相馬両軍によって攻防の的となった大城郭の名残りははっきりと見て取れる。
主郭~ニノ郭間の堀切→IMG_2895.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.920656,140.82829&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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黒森山砦(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2618.JPG←ニノ郭頂部の櫓台状の高まり
 黒森山砦は、金山城の尾根続きに築かれた城砦である。金山城の歴史を記載した現地解説板の中に、1588年に伊達氏が「相馬氏に備えて本城や南の山居・黒森山の各所に、新たな石塁・土塁・堀切などの防護施設を造り、一段と強固な構えに改築を行った」とあることから、この戦国末期に金山城の防衛力強化のために築かれたと推測される。

 黒森山砦は、前述の通り金山城背後に繋がる尾根上の、2つのピークにまたがって築かれている。『日本城郭大系』にも記載のない城砦だが、金山城二ノ丸には「黒森山砦」と記載された誘導標識が出ている。城域は、主城である金山城の倍近くもあり、金山城背後に控える大城塞である。基本的には、2つの尾根の曲輪群で構成された一城別郭の構成となっている。それぞれ山頂の曲輪を中心に、その外周に腰曲輪を数段連ねただけの構造で、明確な堀切はなく曲輪群のみで構成されている。特にどちらのピークが主とも言い難いが、南のピークの方が頂部の平場が広く、こちらが主郭群とも考えられる。全体に曲輪の削平は明確で、はっきりと城郭遺構と認識されるレベルの構築である。金山城解説板にある「石塁」はどこのことかはっきりしないが、北のニノ郭群の頂部の曲輪に櫓台状の高まりがあり、その周辺に石が散乱しているので、そのことを指しているのかもしれない。またニノ郭群の西の腰曲輪には物見台も築かれている。曲輪群だけで特色の少ない城砦だが、金山城の防衛のために全山城塞化していたことは見て取れる。
主郭の腰曲輪→IMG_2648.JPG
IMG_2699.JPG←ニノ郭腰曲輪の物見台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.893466,140.806253&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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金山城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2566.JPG←二ノ丸にそびえる高石垣
 金山城は、藩政時代には金山要害と呼ばれ、伊達氏の支城である。元々は、永禄年間(1558~69年)にこの地を押さえた相馬氏の家臣井戸川将監・藤橋紀伊が築城したと言われている。その後、1576年以降に伊達輝宗が伊具郡奪還に乗り出し、伊達・相馬両家の間で激しい攻防が繰り返された。1581年には伊達政宗がこの地を巡る戦いの中で初陣を飾った。1584年5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介で、伊達・相馬両家の和睦が成立し、和睦の条件として、輝宗は伊具三城(小斎城・金山城・丸森城)を相馬氏から奪還することに成功した。輝宗は、おそらくこの和睦成立を見届けて、若い政宗に家督を譲った。政宗は、この戦いに最も手柄のあった家臣の中島宗求を金山城主とした。1588年には、相馬氏に備えて本城や南の山居・黒森山の各所に新たな石塁・土塁・堀切などの防御施設を設けて、一段と強固な構えに改修した。奥州仕置や江戸時代以降も中島氏が歴代の城主を務めた。藩政時代には一国一城令により城の名を去り、江戸幕府に備えて伊達領内に取り立てた二十一要害の一、金山要害と呼ばれたが、そのまま存続して幕末まで至った。

 金山城は、標高117m、飛行96mの独立丘陵の北峰に築かれている。城は公園化されて整備されているため、遺構がよく確認できる。山頂に本丸を置き、その外周に腰曲輪状のニノ丸を配し、周囲の支尾根に馬蹄状曲輪を築いた縄張りとなっている。馬蹄状曲輪は、いずれもニノ丸との間に堀切が穿たれているが、城内通路も兼用した堀切は比較的浅く、それほどの防御性を持っていない様に思われる。ニノ丸には、高石垣がそびえていて異彩を放っており、この城のシンボルともなっている。この石垣は、長方形の比較的小さな石を一直線の勾配で積み上げたもので、独特な石垣となっている。この他にも、三ノ丸の大手埋門跡や北出丸の埋門跡などに石垣の残欠が散在しており、近世の改修の跡を窺わせている。また、「家中」という南の出丸との間には、枡形虎口らしい跡が見られるが、それ以外の虎口は平易な造りである。あまり技巧性は感じない城であるが、中世山城の雰囲気を色濃く残した近世城郭で、高石垣など見所が多い。尚、背後に続く丘陵には黒森山砦が築かれている。
二ノ丸と堀切先の兵具蔵曲輪→IMG_2540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.897157,140.802691&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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鳥屋館(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2390.JPG←本丸の堀切
 鳥屋館は、伊達氏家臣大條薩摩守実頼が築いた近世城郭である。実頼は、1601年に丸森城主となったが、その年の内に鳥屋館を築いて居城を移した。1644年に大條氏が尾山に移封となると、山口内記・遠山勘解由を経て、佐々氏が鳥屋館に入部し、7代続いて明治維新に至った。

 鳥屋館は、阿武隈川南岸の丘陵上に築かれている。鳥屋嶺神社の東側に堀切が2本あって、台地を分断している。本丸はその東側にあり、広い平場で、南側に一段低い平場が付随している。一面の芝生となっているが、公園にでもするのであろうか?本丸の東側は急斜面となっている。前述の2本の堀切の間はおそらく二ノ丸であるが、縦長の方形の曲輪となっている。その西側が鳥屋嶺神社になるが、神社がある場所も曲輪であったと思われる。その西側も急斜面となっている。鳥屋館は、明確な遺構は2本の堀切ぐらいしか無いが、遺構があるだけマシであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.916187,140.769067&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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小堤城(宮城県亘理町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2322.JPG←東側の土塁
 小堤城は、この地の豪族亘理氏の歴代の居城である。亘理氏は、下総の名族千葉氏の庶流武石氏の後裔で、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の戦功により、千葉常胤に陸奥国諸郡の地頭職が与えられ、常胤は6人の息子達にこれらを分与した。常胤の3男三郎胤盛が武石氏の始祖で、その後1302年に武石宗胤が亘理の地に下向して亘理氏の祖となった。南北朝時代には、亘理氏は陸奥国司・鎮守府大将軍として国府多賀城に下向した北畠顕家に従って南朝方として活動したが、南朝方が逼塞すると北朝方に転じた。この南北朝期の広胤の代に、亘理氏を称したとされる。小堤城がいつ築かれたかは定かではないが、この頃には亘理氏の居城となったものだろう。その後亘理氏は、周辺諸豪と抗争して勢力を競ったが、伊達氏の勢力が伸長すると、伊達氏に従属した。亘理宗隆の時、嗣子がなかった為、伊達稙宗の子綱宗を養子とし、綱宗が天文の乱で討死すると、その弟元宗を改めて養嗣子とした。こうして伊達氏の親族となって、伊達宗家を支えて度々戦功を挙げた。天正年間(1573~92年)には、元宗・重宗父子が伊達氏の命で相馬氏と度々戦ったが、この頃には居城をより要害性の高い亘理城(後の亘理要害)に移したと考えられている。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、亘理氏は遠田郡の百々城に移り、間もなく涌谷城に移った。以後、伊達氏一門として涌谷伊達氏となって幕末まで存続した。

 小堤城は、亘理要害の南西のなだらかな丘陵地に築かれた平城である。現在は大雄寺となっており、城跡というより境内にある伊達成実を祖とする亘理伊達氏の歴代の廟所の方が有名である。寺域となって改変を受けているが南半の土塁は残っており、最大で高さ3m程ある。亘理伊達氏の廟所は、南面の土塁上に建てられている。外周には堀もあったと思われるが、現在では耕地化で湮滅している。現在の遺構から見る限り、小堤城はおそらく方形居館であったのだろう。土塁以外に城跡らしさは残っていないが、亘理伊達氏の廟所をお参りに行くだけでも十分価値がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.027997,140.845606&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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亘理城(宮城県亘理町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2259.JPG←本丸切岸と内堀
 亘理城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、亘理要害と呼ばれた城である。元々はこの地の豪族亘理氏の居城で、天正年間(1573~92年)に亘理元宗・重宗が伊達氏の命で相馬氏と度々戦った頃には、小堤城から亘理城に居城を移していたと推測されている。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、亘理氏は百々城・涌谷城へと移り、代わって亘理城には、政宗股肱の臣片倉小十郎景綱が入った。1600年の関ヶ原合戦の後、刈田郡が伊達領となると景綱は白石城に移封となり、亘理城には伊達一門の重臣伊達成実が入城した。成実は、大森城主伊達実元(稙宗の5男)の嫡子で、人取橋の合戦では寡勢の伊達勢にあって奮戦し、摺上原の戦いでも敵の側面を強襲して敵勢を突き崩す等、勇名を轟かせた。後へ退かないと言う意味の「ムカデ(或いは毛虫とも)の前立て」でも有名で、1歳違いの政宗を補佐して大功があったが、政宗の元から謎の出奔をし、関ヶ原の前哨戦である白石の役で伊達家に帰参して戦功を挙げた。亘理城に入ってからは、亘理伊達氏の祖となり、以後伊達一門でも最高の知行を有する亘理伊達氏の歴代の居城となった。元和の一国一城令で城の名は廃され、亘理要害と称されて幕末まで存続した。戊辰戦争では仙台伊達藩は奥羽列藩同盟の盟主として政府軍と戦ったが、各所の戦いで敗れ、亘理要害の御館(本丸)で伊達藩は降伏した。

 亘理要害は、比高10m程の東西に長い丘陵上に本丸(御館)を置き、その西続きに馬場、東の平地部に外堀で囲んだ二ノ丸を置いていた。現在はかなり改変が進んでしまっており、本丸は往時の雰囲気を残すが、南北にあった城門跡を車道が貫通して破壊を受けている。本丸には土塁が廻らされていたらしく、亘理神社の背後や車道の東側の段丘上(本丸の一部)に土塁が残っている。また本丸南には内堀が残り、それに沿って往時の雰囲気をよく残す切岸が見られる。その他は改変されており、二ノ丸はスーパーになり、馬場は亘理高校となっている。もっと破壊されているかと思ったが、内堀が残るなど想像していたより遺構が残っており、城の雰囲気はよく残っていると感じられた。
往時の雰囲気を残す本丸切岸→IMG_2258.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.033743,140.850713&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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若林城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2239.JPG←北西角の横矢張出しの土塁
 若林城は、貞山公伊達政宗の隠居城である。この地には元々、この地を領した国分氏の城があったと言われ、城の北側では戦国時代の屋敷跡などが発掘されていることから、戦国時代の頃から政治的・経済的拠点の一つであったと推測されている。政宗は、1627年2月に幕府の許可を受けて築城を開始し、翌年11月に普請が成ったばかりの若林城に移った。若林城の周囲には一門以下の家中が屋敷を連ね、町屋敷も置かれて仙台城とは別個の城下町を形成した。晩年の政宗は1年の大半を若林城で過ごし、1636年に政宗が江戸藩邸で病没すると、若林城は政宗の遺命の通りに掘一重を残して廃され、1639年には忠宗の命で若林城内の屋形が仙台城二ノ丸に移された。明治12年に宮城集治監が建設され、現在の宮城刑務所に至っている。

 若林城は、奥州随一の大大名が築いた近世の平城らしく、大きな堀と土塁で外周を囲まれ、南東を除く3つの角部と南面中央には横矢の張出しが構えられ、隠居城とは言うものの有事の際の陣所となるべく臨戦的な構えとなっている。前述の通り現在は刑務所となっており、周囲にも刑務所関連施設が建てられている為、あまり遺構に近づくことができない。(上の写真の駐車場も刑務官の駐車場で、立入禁止!)僅かに外周の一部で堀脇に近づける箇所があり、そこから大きな堀と土塁を遠目に眺めることができるだけである。当然堀底には入れず、土塁になど登ろうものなら逮捕されることは間違いない。NHKのブラタモリで紹介された時には、枡型の大土塁と、政宗が朝鮮出兵の際に持ち帰った「臥龍梅」が映されていたが、これも一般人は目にすることはできない。刑務所となったおかげで遺構は守られたが、一方でキャッスラーにとっては城内への入場はおろか、遺構を間近で見ることもできず消化不良になる城で、胸中は複雑である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.236798,140.902233&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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山王山砦(茨城県五霞町) [古城めぐり(茨城)]

DSC06299.JPG←境内の堀と土塁
(2007年6月訪城)
 山王山砦は、関宿城攻防戦の際に小田原北条氏が築いた陣城である。関宿城には、古河公方の重臣簗田晴助が北条氏の擁立した足利義氏を古河公方と認めず、頑として居座っていたが、着々と関東の経略を進める北条氏康は、1568年、次男の滝山城主北条氏照を総大将に関宿城攻撃を開始した(第二次関宿合戦)。氏照はまず、野田氏の栗橋城を接収し、ここを拠点に山王山砦、不動山砦などを築いて関宿城を大軍で攻囲し、落城寸前まで追い詰めた。しかし同年12月、武田信玄が突如甲相駿三国同盟を破棄して今川氏の駿河に侵攻した。北条氏康は直ちに今川氏救援に駿河に出兵する一方、武田氏に対抗する為、これまで対立していた上杉謙信との同盟交渉を行い、翌年の相越同盟成立の過程で関宿城攻撃は中止され、山王山砦も破却された。しかし僅か2年後の1571年、北条氏康の死と共に、目立った効果の上がらなかった相越同盟を北条方が破棄して甲相同盟が復活すると、1574年に北条氏政は三度、関宿城攻略に取り掛かった(第三次関宿合戦)。この時、山王山砦が再興されて使用されたと考えられている。佐竹氏の仲介で関宿城が開城し、城主簗田晴助は水海城に移され、北条氏が関宿城の攻略を遂げると、山王山砦はその役目を終えた。

 山王山砦は、現在の東昌寺にあったと推測されている。寺の境内には堀と土塁が部分的に残っている。9年前の訪城なのと、印象が薄かったことであまり覚えていないが、それほど大きな規模ではなかったと思う。小規模ながらも付け城として機能したことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.106347,139.764805&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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