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利府城(宮城県利府町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2192.JPG←主郭の現況
 利府城は、元の名を村岡城と言い、岩切城主留守氏の有力支族村岡氏の居城である。留守氏は室町時代には大崎・伊達両氏に挟まれて、家中は両派に分裂して抗争を繰り返した。最後は伊達派が勝利を収め、伊達氏に属してその入嗣も受け入れるようになった。しかし村岡氏は親大崎派の頭目であり、伊達晴宗の3男政景の入嗣の際は、村岡兵衛・余目伊勢・佐藤六郎佐衛門らが強く抵抗し、特に村岡兵衛の反抗が最も激しく、結局政景は1569年12月から翌年にかけて村岡城に立て籠もった村岡氏を攻め滅ぼして家中統一を図った。そして村岡氏滅亡からまもなくの元亀年間(1570~73年)に、政景は居城を岩切城から村岡城に移し、城名を利府城に改めた。留守政景は、伊達氏当主となった若き政宗を補佐し、度々の合戦で活躍し、政宗の信頼が厚かった。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で政景は所領を没収されて黒川郡大谷城に移り、利府城は廃城となった。その後留守氏は、伊達氏の家臣と見做されて政宗の下で活動し、後に伊達一門に列せられて、その子孫は水沢伊達氏となって幕末まで存続した。

 利府城は、利府小学校の裏にそびえる比高70mの山稜上に築かれている。現在主要部は館山公園として整備されている。『日本城郭大系』の記述によれば、山上の3つのピークにそれぞれ、北東郭・中央郭・南西郭が設けられ、それぞれが腰曲輪群で囲繞されて独立した曲輪群として機能していたらしい。中央郭が主郭とされ、城址碑が建っている。城内は全体に公園化に伴うと思われる改変がひどく、腰曲輪以外の遺構はほとんどわからない。また主郭などは広いことは広いが削平が甘く、伊達氏の有力家臣の居城として戦国末期まで存続した城とはとても思えないレベルである。北東郭は公園外で未整備のため、未踏査であるが、中央郭(主郭)との間には堀切跡と思われる窪地が確認できる。利府城は、留守政景の居城であり期待して行ったのだが、公園化失敗の典型例で、各部の標柱もなく縄張りもはっきりしない。あまり市民の愛着を感じない、残念な城である。
北東郭との間の堀切らしい窪地→IMG_2185.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.335799,140.981069&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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石巻城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2116.JPG←城跡の現況
 石巻城は、日和山城とも呼ばれ、奥州葛西氏の嫡流石巻葛西氏の居城である。葛西氏は、豊島清光の三男清重を祖とする、下総国葛西荘を本貫とする豪族であった。清重の事績については、葛西清重館の項に記載する。清重に対する源頼朝の信頼は厚く、殊に奥州合戦での軍功を高く評価され、陸奥国御家人の惣奉行を命じられ、胆沢・磐井・牡鹿・江刺・気仙の五郡と興田・黄海の二保という広大な所領を拝領した。葛西氏の系図は、近世に没落した戦国大名に多く見られる通り不明点が多いが、一関博物館監修の『葛西氏の興亡』によれば、大略以下のようになる。奥州藤原氏滅亡以後、平泉は幕府直轄的な扱いを受けて、葛西氏が平泉に屋敷を構えて諸務を取り仕切ったが、鎌倉御家人である葛西氏は常住せず、代官が赴任していた。一方、五郡二保の広大な所領は、葛西氏惣領家が取り仕切る建前ながら、実際には一族の多くに譲与されて、分割知行されたらしく、多くの庶家に分かれて五郡二保の各所に割拠した。葛西惣領家がいつ奥州に下向したかは定かではないが、4代宗清・5代清貞の頃と考えられている。1333年、倒幕に挙兵した新田義貞の元に、多くの御家人が参陣し、葛西氏もその中にいた。倒幕に成功した後醍醐天皇が建武の新政を始めると、北畠顕家を陸奥守・鎮守府将軍として陸奥国府多賀城に下向させ、東北の武家を統括させた。この顕家の下で奥州南朝方の柱石として活躍した武将の中に、白河結城宗広・伊達行朝と並んで葛西清貞がいた。この頃、清貞は多賀城に程近い石巻に石巻城を築いて居城としたと考えられる。葛西一族も決して一枚岩ではなく、北朝方に付いた一族もあったが、葛西氏の大方は南朝として活動し、顕家が畿内で討死し、その後代わって奥州に下向した北畠顕信も北朝に敗れて北へ敗走すると、葛西氏も程なく北朝方に帰順したと考えられている。その後、室町時代を通して五郡二保には葛西氏の支配が続くが、有力家臣団の統制は盤石ではなく、家臣団が度々独自の行動を取ったり、互いに反目して合戦に及ぶことがあった。1511~12年、葛西氏12代宗清(実は伊達成宗の子)は山内首藤氏の桃生郡・登米氏の登米郡を平定し、いつの頃からか石巻城から登米寺池城に本拠を移した。石巻城はこの時に廃城となったと推測される。葛西氏はその後、15代晴胤の時に伊達氏の内乱「天文の乱」に巻き込まれ、これ以後葛西領では有力家臣の勢力増大によって内乱が頻発した。16代晴信の時には、隣接する大崎氏との戦いも激しくなり、領国経営に苦心した。1590年の小田原の役では、晴信は領内の争乱などへの対処から参陣できず、その後の豊臣秀吉による奥州仕置で改易され、所領を没収されて葛西氏は没落した。同年10月、新領主となった秀吉の家臣木村伊勢守吉清・清久父子の暴政により、葛西・大崎旧臣による葛西・大崎一揆が発生したが、翌年伊達政宗によって一揆勢は殲滅され、葛西氏再興の道は絶たれた。

 石巻城は、旧北上川の河口近くにそびえる比高50m程の段丘上に位置している。城域は全て改変されており、明確な遺構は確認できない。最高所の鹿島御児神社が建っているのが主郭であろうか。その南側は日和山公園となっているが、僅かに腰曲輪らしい段が見られるが、改変が進み遺構かどうかはわからない。そもそも石巻城の存在そのものが、昭和58年の発掘調査が行われるまでは伝承だけの存在で、発掘調査で初めて中世城館の跡として確認された程なので、表面上の遺構には全く期待できない。
 尚、日和山の南面の眼下は一面の津波被災地で、震災から5年近く経った今でもその爪痕が生々しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.423739,141.308255&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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梶原楯(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2025.JPG←主郭背後の堀切
 梶原楯(梶原館)は、『安永書出』によれば梶原氏の居館とされている。詳細は不明であるが、葛西氏被官の土豪の居城であったものだろう。
 梶原楯は、田の浦地区の東の入江に突き出した高台上に築かれている。旭岡八幡神社の裏手に位置しており、神社から北に進むと腰曲輪の平場が見られ、その上に方形の主郭がある。主郭の北半分は土塁で囲まれており、その裏には北に繋がる尾根を堀切で遮断している。但し、それほど鋭い堀切ではないので、分断効果は限定的である。主郭の西側には腰曲輪が何段も築かれているが、東側は急峻な地形の制約により1段しか築かれていない。海に面した高台に築かれた小規模な城館であるが、遺構は明瞭である。
 尚、この地も東日本大震災の大津波で被災しており、港などがまだ壊れたまま残っている部分もあるが、この地の人達が笑顔で力強く生きているのには心打たれた。
主郭切岸と腰曲輪→IMG_2035.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.736879,141.545877&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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津谷楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1888.JPG←巨大な三重横堀の一つ
 津谷楯(津谷館)は、獅子ヶ楯(館)とも言い、津谷村の豪族米倉氏の居城と伝えられている。米倉氏の出自については諸説あり、『峰仙寺縁起』や『米倉系譜』によれば、南北朝時代に葛西氏家臣の薄衣内匠亮清村が米倉氏を名乗り、1326年に津谷村に移館し、その後、次男の米倉玄蕃持村が津谷・平磯・岩尻三村を所領して、1372年に津谷楯に居したと言う。また城主の名は米倉左近将監とも伝えられる。いずれにしても、葛西氏の家臣としてこの地に勢威を振るい、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易になると没落した。その後の「葛西大崎一揆」に加わった武将の中に「米倉右近行友」の名が見え、結局は蒲生氏郷の奥州仕置軍に敗れて滅亡したと考えられる。

 津谷楯は、舘岡と呼ばれる比高40m程のなだらかな丘陵上に築かれている。頂部の主郭は公園化されて忠魂碑が建ち、その下の一段低いニノ郭には福祉センターが建っていて、城の主要部はかなり改変を受けている。福祉センターの南側にも民家や畑の平場が見られ、腰曲輪だったものと考えられる。この城で特徴的なのは、西側斜面に穿たれた大規模な三重横堀で、最大で深さ8m程もある。北側では内側の2本が合流して1本となっており、二重堀切となって背後の丘陵基部との間を遮断している。三重横堀の南側には、大竪堀が穿たれて、横堀先端を断ち切っている。竪堀の南側にも二重横堀が穿たれ、その先にも竪堀が落ちている。2本目の竪堀の先も横堀1本が伸び、前述の腰曲輪付近まで来ているが、その先は埋められて改変されている様だ。一方、昭和20年代前半の航空写真を見ると、横堀は主郭背後を円弧を描いて東側まで伸びているらしく、東側の山林にも遺構が眠っている可能性があるが、未確認である。いずれにしても、堀の規模・構造は戦国大名の北条・武田の城並みの豪壮なもので、地方勢力の構築にしては大き過ぎる。地方豪族の権力というものを考察する上でも興味深い城である。
横堀を分断する大竪堀→IMG_1886.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.796022,141.505923&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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小屋楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1856.JPG←城址の現況
 小屋楯(小屋館)は、古谷館とも記載され、赤岩城主熊谷氏の支城である。熊谷左京進信直の居城であったと言われ、1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で主家葛西氏と共に没落した。
 小屋楯は、松崎地区にある標高20mの細長い丘陵先端に築かれている。現在は古谷館八幡神社が鎮座しており、八幡神社があるのが主郭とされる。主郭の前には段曲輪の跡と思われる、小さな平場があり、また主郭背後の一段低い宅地(神主さんの家?)はニノ郭跡とされる。神社敷地としてほとんど改変されており、地勢以外に残っている遺構はない。尚、この地の眼下には東日本大震災の被災地が広がっている。震災の時には、多数の氏子が津波に飲まれて命を失ったが、150余名の氏子は八幡神社に駆け上がって一命を取り留めたと、新しくされた由緒書きに記載されている。被災地の現況を目の当たりにすると、未だ震災復興の道程は長いことを思わずにはおれない。
眼下の被災地(2015年11月現在)→IMG_1855.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.872542,141.582527&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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長崎楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1817.JPG←主郭西側の堀切
 長崎楯(長崎館)は、赤岩城主熊谷氏の支城である。長崎楯の創築については文献がなく不詳であるが、戦国期の熊谷氏一族の内訌の中で歴史の表舞台に現れる。1533年、赤岩城主12代熊谷直景が葛西氏に背任の疑いをかけられて攻め滅ぼされると、直景の弟で長崎楯城主の直光が、葛西氏から赤岩城の領地を与えられたが、これを機に熊谷一族内部で内紛が起こった。その経緯は赤岩城の項に記載する。結局40年にも及んだこの内訌は、長崎楯の熊谷氏の滅亡で終止符が打たれた。

 長崎楯は、その名も「舘山」地区の最高所の標高64mの丘陵上に位置している。この舘山地区は殆どが住宅地に変貌しているが、かなり急峻な地形となっており、上り坂の勾配もかなりきついので、ここで生活している人の苦労は想像するに余りある。楯跡は長円形の平場となっており、畑となっている。主郭外周には腰曲輪らしい平場が、やはり畑などになって残っている。主郭の西側にも平坦な平場が数段広がっており、ここも曲輪だったのだろう。主郭の西側には土塁と明確な堀切が1本あり、ここが楯跡であることを明示している。訪城した時、最初はこの推定地が楯跡である確証がなかったが、この堀切のおかげで場所確定となった。長崎楯は、城郭遺構としてはあまり面白みはないが、陸奥熊谷氏内訌の舞台として重要である。
主郭跡→IMG_1819.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.905445,141.562228&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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中楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1755.JPG←二ノ郭と主郭
 中楯(中館)は、赤岩城主熊谷氏の支城である。築城には諸説あり、建武年間(1334~38年)に熊谷直高が居城としていたとも、1438年に磐井郡中里にいた熊谷直継が築城したとも言われている。熊谷氏一族の事績については赤岩城の項に記載する。1533年以後の熊谷氏一族の内紛では、中楯城主熊谷氏も重要な役割を演じた。1574年4月、中楯城主熊谷上総直平が挙兵して赤岩城・長崎楯月館城を攻撃した。葛西晴信は熊谷一族に命じて中館を攻撃させ、直平一族は大敗して自刃し、直平の子直勝は、気仙郡に敗走した。その後、長崎楯城主2代直正の子直房が中楯城主となった。その後は1590年に豊臣秀吉の奥州仕置で主家葛西氏が所領を没収されて没落すると、熊谷氏も同様に所領を失い、中楯は廃城となった。

 中楯は、熊谷氏本城の赤岩城から西方に直線距離でわずか650m、松川川対岸に位置する丘陵上に築かれている。西の鞍部まで車道が通っており、その脇から誘導杭に従って登ることができる。月館城と同様、大きく主郭・ニノ郭で構成され、その周辺に腰曲輪・段曲輪を廻らした構造となっている。主郭には祠があり、二ノ郭は公園化されて見晴らしが良い。特に二ノ郭では、地元の方達が熊谷直宗の750年法要のために作った紅白の旗が青空の下に翻り、あまりの整備の良さにびっくりしてしまった。しかし、主郭・ニノ郭以外の曲輪はほとんど手付かずである。ニノ郭への登り道の途中にも、腰曲輪の平場があるが耕地化されている。西の丘陵基部は赤岩城や月館城と同じく堀切があったと思われるが、林道開削で改変されている。中楯は、赤岩城・月館城と比べると、遺構の規模・構造ともに最も簡素な作りである。
ニノ郭の腰曲輪→IMG_1749.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.916247,141.543345&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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月館城(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1674.JPG←北西端の円弧状の横堀
 月館城は、赤岩城主熊谷氏の支城である。築城には諸説あり、建武年間(1334~38年)に熊谷直延が居城としていたとも、1481年以降に赤岩城主11代熊谷直定の子直政が築城したとも言われている。熊谷氏一族の事績については赤岩城の項に記載する。1533年以後の熊谷氏一族の内紛では、月館城主熊谷氏も重要な役割を演じた。1578年12月に、月館城主4代熊谷掃部直澄が挙兵し、本家の赤岩城主を凌ぐ勢力を有していた長崎楯城主熊谷直良と松川で合戦して敗死させると、40年以上も続いた熊谷氏の内紛は、月館城の勝利で終止符が打たれた。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で主家葛西氏が所領を没収されて没落すると、熊谷氏も同様に所領を失い、月館城は廃城となった。

 月館城は、赤岩城の北西800mの位置、標高70mの丘陵上に築かれている。東側に続く稜線との間は堀切で分断しており、その南の谷戸に沿って、腰曲輪らしい平場が何段か確認できる。山上の城は、大きく主郭とニノ郭の2つの平場で構成され、主郭内部もわずかな段差で2段に分かれている。主郭とニノ郭外周には腰曲輪が廻らされ、北西端は円弧状の横堀で防御している。またこの横堀から武者走りで繋がった北端部にも、堀切で分断された独立堡塁がある。主郭と二ノ郭の間にも箱堀状の浅い堀切があり、よく見ると主郭側の切岸に石積らしい跡が見られる。ニノ郭の南側には段曲輪群が数段続いている。月館城は、赤岩城と比べるとさすがに規模は小さいが、横堀を備えるなど赤岩城よりもやや進んだ築城技術を取り入れている様である。
東尾根との間の堀切→IMG_1642.JPG
IMG_1698.JPG←堀切に見られる石積みらしき跡
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.920405,141.543067&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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赤岩城(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1538.JPG←主郭と櫓台
 赤岩城は、気仙沼を本拠とした豪族、陸奥熊谷氏の居城である。熊谷氏と言えば、何と言っても一ノ谷の合戦で勇名を馳せた熊谷直実が有名だが、陸奥熊谷氏はその後裔である。即ち、源頼朝が奥州藤原氏を討ち滅ぼした奥州合戦の軍功により、直実の子直家は本良庄(南三陸地方)の地頭職を賜り、その子直宗は1223年に本吉・桃生の2郡を与えられて気仙沼に入部し、赤岩城を築いて居城とした。以後、陸奥熊谷氏宗家の歴代の居城となり、周辺各地に庶家を分封して勢力を拡大した。南北朝時代になると葛西氏の侵攻を受け、赤岩城に立て籠もってこれを度々撃退したが、勢力は漸減し、1363年、6代直政は遂に葛西氏に臣従した。以後は葛西氏の下で勢力の回復を図り、赤岩城周辺に月館城中楯長崎楯を築いて一族を分封した。1533年、赤岩城主12代熊谷直景が葛西氏に背任の疑いをかけられて攻め滅ぼされると、直景の弟で長崎楯城主の直光が、葛西氏から赤岩城の領地を与えられたが、これを機に熊谷一族内部で内紛が起こった。1574年4月、中楯城主熊谷上総直平が挙兵して赤岩城・長崎楯・月館城を攻撃した。葛西晴信は熊谷一族に命じて中館を攻撃させ、直平一族は大敗して自刃し、直平の子直勝は、気仙郡に敗走した。その後、長崎楯城主2代直正の子直房が中楯城主となった。1578年12月、今度は月館城主4代熊谷掃部直澄が挙兵し、本家の赤岩城主を凌ぐ勢力を有していた長崎楯城主熊谷直良と松川で合戦した。激戦の末に直良は討死し、40年以上も続いた熊谷氏の内紛は、月館城の勝利で終止符が打たれた。その後、1590年の小田原の役の際、主家の葛西氏が豊臣秀吉の元に参陣しなかった為、その後の奥州仕置で葛西氏は所領を没収されて没落し、熊谷氏も同様に所領を没収されて没落した。

 赤岩城は、松川川西岸の標高87m、比高67mの丘陵上に築かれた城である。城へは西麓から登道が整備されている。多数の段曲輪群で構成された大規模な城で、八幡神社が建てられた主郭を中心とした東郭群、その西側の丘陵上に展開する西郭群、更にその北側に谷戸を挟んだ尾根上に展開する北郭群に分かれている。西麓からの登道はかつての大手道と考えられ、左右を北郭群と西郭群に挟まれている。大手の谷戸にも平場群が広がっており、この辺りの構造は武蔵日尾城とよく似ている。北郭群は東郭群の北端から西に伸びる尾根上に一直線上に段曲輪を連ねている。先端の小郭は、大手道を睥睨する位置にあり、大手に進入する敵兵に対する防衛の櫓台となっていたと考えられる。北郭群と東郭群の接続点北側に搦手虎口があり、城域北端の堀切に城道が繋がっている。堀切手前にも段曲輪があって防御を固めている。東郭群は、中央の一番高い位置に主郭があり、櫓台跡と思われる高台に八幡神社がある。神社裏には塚があるので、元々宗教的な施設があったらしい。主郭の南に伸びる尾根に段曲輪が何段も続き、東郭群全体の側方にも綺麗に削平された腰曲輪が延々と伸びている。東郭群から北西に向かうと西郭群最上部の平場に至り、ここには城内で最も広い平場が広がっている。実質的な二ノ郭だったものだろう。二ノ郭は2段の平場に分かれ、背後と南端部に土塁を築いている。外周は腰曲輪を何段にも廻らし、二ノ郭から派生する西尾根と南尾根にそれぞれ段曲輪群を築いている。西尾根の曲輪群は、北郭群と大手道を挟んでいる。一方、南尾根の曲輪群は、ニノ郭先端の小堀切の先に一直線に段曲輪を連ねている。ニノ郭(西郭群)と東郭群の接続点には大手道が繋がっている。ここから大手の谷戸に降っていくと、谷戸の大手道が東郭群に突き当たる場所に、小規模な大手虎口が築かれている。

 赤岩城は、堀切は殆ど無いが、多数の段曲輪・腰曲輪が綺麗に削平され、しかもそれぞれの曲輪に至る動線もはっきりと確認でき、往時そのままの姿を留めている。しかも城域の殆どは綺麗に整備されて藪が少なく歩きやすい(一部の例外はあるが)。『日本城郭大系』や現地解説板の縄張図に記載されていない腰曲輪も多数あり、北郭群に至ってはほとんどまともに記載されていないほど、城域が広いということなのだろう。小豪族の城で大したことないだろうと高を括っていたが、見事に裏切られた。嬉しい誤算である。
大手道から見た北郭群→IMG_1485.JPG
IMG_1510.JPG←城域北端の堀切
西郭群の腰曲輪→IMG_1568.JPG
IMG_1609.JPG←西郭群の南尾根の段曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.916548,141.550791&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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大楯城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1448.JPG←段曲輪群の切岸
 大楯城は、楯山館(現地名からするとより正しくは館山楯とするのが正か?)とも呼ばれる。伝承では平安後期の奥州藤原氏全盛の頃に伊具十郎平永衡が築いたと言われ、その後八幡太郎源義家の家臣左衛門尉忠安が居城したと言う。しかし実際には、義家の方が奥州藤原氏より時代が古く、時代の錯誤があるものであろうか?戦国時代には伊達氏の一族、田手宗求や細目修理介がこの地を治めたと言う。丸森城の北西約2kmの位置にあるが、両城の関係は不明である。

 大楯城は、阿武隈川北岸にそびえる比高70m程の山上に築かれている。東麓に愛宕神社があり、その裏から登るしかないと思われるが、全く未整備で一面の薮で覆われている。それでも途中まで登っていくと、数段の段曲輪群が確認でき、数mの切岸がはっきりと築かれている。しかし訪城した時は既に日没が近く、藪もひどかったため、主郭まで行くのはやむを得ず途中で断念した。おそらく山頂に主郭を置き、段曲輪群だけで構成された城だったものと思われる。尚、山の西側は道路や施設の建設の為に大きく削られているらしく、地形図やGoogleMapの航空写真から判断すると、主郭も半分以上は消失している様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.925987,140.759883&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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丸森城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1388.JPG←腰曲輪と詰丸の切岸
 丸森城は、丸山城・丸山館とも言い、伊達氏の大規模な内乱「天文の乱」で敗れた伊達稙宗が隠居城とした城である。稙宗は、桑折西山城を拠点にして分国法「塵芥集」を制定するなど伊達氏の戦国大名化を進めたが、稙宗の急速な拡大路線に危惧を抱いていた嫡男晴宗は、弟実元の越後守護上杉氏への入嗣問題を契機として稙宗と対立し、伊達家中のみならず奥州諸豪を二分する大乱へと発展した。これが天文の乱である。稙宗方には、その長女の嫁ぎ先である相馬氏も付いていたが、乱は6年間に及ぶ抗争の結果、結局晴宗方の勝利に帰し、1548年に和睦が成立し、稙宗は相馬領に近い丸森に丸森城を築いて、隠退した。1565年に稙宗がこの城で没すると、稙宗が隠居料としてもらっていた丸森他5ヶ村(伊具郡)は、稙宗の世話をしていた相馬氏が占領し、その後長く続く伊達氏と相馬氏の争いの大きな原因となった。1570年には、相馬氏は家臣の門間大和を丸森城主とした。1576年、伊達輝宗は相馬氏に占領されていた伊具郡奪還に乗り出し、8年間にわたる激しい抗争の結果、1584年に伊達氏の手に帰した。そして伊達氏家臣の黒木宗元が丸森城主となった。その後、家老の高野壱岐親兼が城主となり、1601年には大條薩摩守実頼が城主となったが、その年の内に実頼は鳥屋館に居城を移し、丸森城は廃城となった。

 丸森城は、阿武隈川の支流、新川と内川の合流点東側に張り出した、標高70m、比高50m程の丘陵上に築かれた城である。東西に主要な曲輪を連ね、その周りに腰曲輪を廻らした、連郭式のやや広めの城である。しかし隠居城であるという性格のためか、戦国中期に新たに築城されたにしては、あまり技巧的な部分はなく、また堀切もあるにはあるが鋭さがなく、あまり防御性の高くない縄張りである。現地表記で本丸とされるのは最上部の広い曲輪で、その奥には堀切を介して愛宕神社が建てられている曲輪があり、御前曲輪又は詰丸の様なものであろうか。神社近くには伊達稙宗の墓碑が建てられている。本丸東側の腰曲輪とニノ丸の間には箱堀形状の堀切がある。更に二ノ丸東側に数段の腰曲輪が続き、その東に三ノ丸があるが、三ノ丸は民家に変貌している。いずれの曲輪も土塁はなく、切岸のみで防御されている。あまり面白みのある城ではないが、天文の乱に敗れた稙宗の隠居城という歴史的な場所であり、重要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.910685,140.773809&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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三沢城(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1284.JPG←主郭群外周の二重横堀
 三沢城は、南北朝時代に南朝方の北畠顕信が籠城した城と言われている。建武の新政が始まってから、奥州には陸奥国司・鎮守府大将軍として青年公卿の北畠顕家が派遣されていたが、1338年に京都奪還の為に奥州から出陣し、和泉国阿倍野で討死した。顕家の戦死後、奥州南朝勢力の再建のため、その弟顕信が派遣されて霊山城を拠点に北朝方と戦った。1352年、顕信は三沢城に暫くの間籠城して、北朝方の吉良貞経らと戦ったが敗れて城から逃れたと言う。その後の城の歴史は明確ではないが、慶長年間(1596~1615年)には三沢信濃守頼母の居城であったとされる。一方、現在残る遺構から推測すれば、後述する様に戦国後期に伊達氏による改修を受けたものと思われる。

 三沢城は、大聖寺の背後にそびえる標高130m、比高65mの丘陵上に築かれた城である。城内は大きく主郭群・ニノ郭・東出郭群・三ノ郭群に分かれる。大聖寺の墓地裏から登ると、最初に到達するのは東出郭群で、不正形な四角い曲輪の周囲を浅い横堀や腰曲輪で防御している。特に曲輪の東面は二重横堀となっていて、上段の横堀は北面の横堀と合流してY字状に竪堀となって落ちている。その先を東面下段の横堀が、尾根ごと掘り切っており、その先は東の物見台となっている。東出郭群の西側上方にはニノ郭がある。二ノ郭は東辺に低土塁を築き、西面に二重横堀を穿って防御している。しかし二ノ郭は藪がひどく、形状がわかりにくい。ニノ郭から北に二重横堀を貫通する虎口を越えて暫く行くと、三ノ郭群に至る。三ノ郭群は、楕円形の曲輪内に、同心円状に多段式の曲輪が築かれている。この曲輪も南面から西面を通り北面に至る外周を二重横堀を穿って防御している。北端には虎口が開いており、北尾根に城道があったようだ。一方、二ノ郭から南尾根を辿ると主郭群に至る。縄張図を見ると、繋ぎの部分には枡形と横堀を組み合わせた複雑な構造があるらしいが、ここも一面の薮で全く形状が把握できない。それでも主郭群には巧妙な二重枡形虎口が構えられており、上段の枡形への登城道の側方は竪堀で防御され、上段の虎口には櫓門らしい土塁が備わっているのがわかる。主郭群も三ノ郭群同様、多段式の曲輪で構成され、西側外周を規模の大きな二重横堀で防御している。この二重横堀は、途中で竪堀となってクランクしており、大きな横矢掛かりとなっている。二重横堀中間の土塁は、南端で直角に折れ曲がり、そのまま土橋となって主郭に通じている。主郭は最上部に小さな土壇があり、塚など信仰上の施設があった可能性がある。

 これらの遺構を総括すると、曲輪外周を横堀で防御する技法、同心円状の多段式曲輪の技法、巧妙な多重枡形虎口の技法、どれをとっても出羽置賜地方における伊達氏系山城と酷似した築城法であり(館山楯柳沢楯二色根楯など)、三沢城も伊達氏による改修であることは疑いを容れない。即ち三沢城は、南北朝期と言う伝承の城だが、実態は戦国後期の伊達氏構築の山城であり、眼下に白石城を遠望できる位置にあることから、白石城攻略に関連した城砦である可能性も考えられる。しかし残念なのは藪が酷いことで、藪がなければ技巧的な伊達氏の築城法をよりはっきり見ることができるのにと惜しまれる。
主郭群の枡形虎口の土塁→IMG_1299.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆(藪の分、☆一つ減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.976798,140.644333&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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湯ノ原楯(宮城県七ヶ宿町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1002.JPG←東館背後の大空堀
 湯ノ原楯(湯ノ原館)は、湯原城とも言い、その創築は不明であるが、伊達氏が七ヶ宿街道を押さえるために築いた城と考えられる。南北朝期に伊達宗遠・政宗が長井攻めを行って以来、七ヶ宿街道沿いの宿場町は伊達氏への報恩の志厚く、1591年に伊達政宗(貞山公)が岩出山に移封となり、1598年に上杉景勝が会津・置賜に移封となって湯ノ原楯が上杉氏の持ち城となった後も、伊達家崇敬の念が厚かったらしい。その為、1600年の慶長出羽合戦の際には、山形城主最上義光への支援に動いた伊達勢が、留守政景を総大将に兵3000で山形城の東方に進出し、茂庭綱元率いる別働隊が七ヶ宿街道を西進すると、この地域の住民は伊達氏に味方した。その結果、綱元は9月25日に湯ノ原楯を攻略し、更に二井宿峠に近い玉ノ木原に於いて上杉勢との間で合戦となった。この頃までは、湯ノ原楯には城代が派遣されず、湯ノ原の者共に預け置かれていたとされる。後、伊達領に戻ると、伊達家宿老中野常陸介の支配下となり、その家臣横尾兵衛が寛永頃まで居城した。1644年には伊達家御一門の石川大和の知行地となり、幕末まで石川氏の重臣が配置され、藩境の警備に当たった。

 湯ノ原楯は、湯ノ原小学校とその背後の丘陵中腹に築かれている。主要な曲輪としては、最上段に上館(本丸)と東館が並立し、上館下方に二ノ丸が置かれた配置となっている。上館と東館は空堀(斜面に沿っている為、竪堀状となっている)で分断され、背後を土塁で防御し、この土塁はそのまま土橋状となって上館と東館を連結している。この土塁は東館では普通の規模だが、上館では高さ10m程にも及ぶ大土塁となっている。またその背後は、やはり深さ10m程の大規模な空堀が穿たれて、背後の丘陵と分断されている。この大空堀は途中で折れ曲がって横矢が掛けられている。上館の内部は3段程の平場に分かれ、前面に腰曲輪を築いている。東館も前面に腰曲輪があり、上館の腰曲輪と繋がっている。上館の前面には大手虎口が築かれ、その下方は土塁と切岸で囲まれた枡形となっている。更にその下方には横堀が廻らされているが、一部破壊を受けている。山裾の湯ノ原小学校が二ノ丸跡で、外周に土塁や西端に一段高い平場が残っている。全体に、現地解説板に掲載されている城絵図の縄張りはほとんど残っているようだが、未整備で全体に藪がひどい。それでも上館は昔は公園だったらしく、登道があり、遊具が草むらの中に残っている。遺構としては、前述の大土塁や大空堀など見どころが多いので、もう少し整備されればと惜しまれる。
 尚、麓の東光寺には儀山公政宗夫妻の墓があり、伊達氏と湯ノ原との深い繋がりを感じさせる。
上館背後の大土塁→IMG_1020.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.014829,140.32161&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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古屋楯(宮城県七ヶ宿町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0930.JPG←主郭の土塁と空堀
 古屋楯(古屋館)は、伊達氏中興の英主と讃えられる儀山公伊達政宗が、出羽国長井庄(置賜地方)に侵攻した際、中継拠点として築き、この城館で越冬したと伝えられている城館である。伊達氏による置賜への侵攻は、1380年代に伊達宗遠・政宗の父子2代に渡って行われ、その際にはこの七ヶ宿街道が主要な侵攻路となった。この置賜侵攻の際に二井宿峠を押さえる屋代楯を巡る攻防があったこと、また古屋楯は、七ヶ宿街道から白石川を挟んだ対岸の断崖上に築かれており、万一の敵襲に備えた防御に有利な地勢で、且つ断崖上のなだらかで広い地形は伊達氏当主が直率する大軍勢が駐屯可能であることから、侵攻ルート上の兵站拠点であると共に冬営地を兼ねた後方支援基地であったものと考えられる。

 古屋楯は、滑津大滝に程近い位置にあり、西方から林道が城の近くまで来ており、誘導杭も立っているので迷うこと無く到達できる。主郭とその外周のニノ郭から成る梯郭式の縄張りで、主郭は北と東の2面を断崖で守られ、西から南にかけて土塁と空堀で囲繞している。西側中央部には、土塁と空堀で構築し土橋を架けた、出枡形の虎口を設けている。二ノ郭は、主郭の西面から南面にかけて廻らされ、南側は土塁と空堀によって防御されているが、西面は切岸のみで区画されている。但し北辺の崖に近い部分は堀状の地形をそのまま利用して防御している。ニノ郭の外側にも広い緩斜面が広がっていて、軍団の駐屯地となっていたと思われる。一方、主郭東側の渓谷には、下方の渓流沿いに平場が築かれており、渓流から水を汲み上げる水の手曲輪であったと推測される。古屋楯は、規模もそれほど大きなものではなく、構造も簡素な城館であるが、しっかりとした枡形虎口を備えるところなどはいかにも伊達氏らしい構築である。尚、楯の対岸の「旬の市七ヶ宿」というドライブイン内に、解説板が建っている。
主郭虎口の出枡形→IMG_0879.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.013307,140.398858&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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西方城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02792.JPG←ニノ郭の虎口と土橋
(2007年2月、2010年1月訪城)
 西方城は、下野の名族宇都宮氏の庶流西方氏の歴代の居城である。西方氏は、宇都宮氏7代景綱の3男泰宗が武茂庄に入部して武茂氏を称し、武茂泰宗の子景泰が西方郷に分封されて西方氏を称した。西方城は、1293年にこの景泰が築いたと伝えられている。以後、西方氏代々の居城となり、宇都宮領西端の防衛拠点として壬生氏や皆川氏に対する境目の城となって機能した。その後の歴史は明証を欠くが、伝承では1587年、西方綱吉の時に城を落とされたと言う。この時期は小田原北条氏による下野侵攻が激しく、その脅威から宇都宮氏も平城の宇都宮城を家臣に任せ、要害性の高い山城の多気山城に居城を移したほどであったから、西方城も北条氏の後援を受けた皆川氏によって攻め落とされたのだろう。西方城の西隣りの山上には真名子城があり、1523年の河原田合戦以降、皆川氏の持ち城となっているから、皆川広照が真名子城を橋頭堡に攻略を遂げたものだろうか。

 西方城は、西方地区にある標高221.2m、比高140m程の城山に築かれている。東麓の長徳寺から登山道が整備されており、楽に訪城することができる。南北に伸びる尾根に沿って曲輪を連ねた連郭式を基本とし、周囲に腰曲輪を廻らし、東西に派生する尾根に出丸を築いた縄張りとなっている(但し、西尾根の出丸=「西の丸」は、ゴルフ場建設で湮滅している)。西の丸以外は遺構が完存し、一部藪が酷いものの、全体によく整備されていて遺構がよく確認できる。宇都宮氏が築いた山城としては屈指の規模と技巧的縄張りで、主要な曲輪は土塁を築き、掘切で分断され、虎口には土橋を架けた櫓門を設けて備えを厳重にしている。ニノ郭南側の虎口は枡形虎口となっており、下に伸びる登城道には上の櫓台から横矢を掛けている。また北の丸の北側には馬出しを設け、東麓からの登道は竪堀状通路となり、更に途中でクランクして侵入する敵への防御性を高めている。この他にも横堀・竪堀を巧みに組み合わせて防御性を高める工夫が随所に見られる。宇都宮氏の城の中でもかなり出色の遺構であり、多気山城同様に戦国末期に強固な同盟を結んでいた佐竹氏の支援の下に改修を受けた城かもしれない。
 尚、西方城の東の丸の先の小丘には、近世初頭に二条城が築かれており、元々西方城の出丸であった可能性があることを付記しておく。
ニノ郭南側の枡形虎口→DSC02825.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.472944,139.719465&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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