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竜花館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0829.JPG←水田脇の城址碑
 竜花館は、下野の豪族那須氏の庶流金丸氏の一族が築いたとされる居館である。構築年代は不明だが、金丸玄蕃頭が築いたと言われ、「竜花(りゅうげ)」は竜害=要害の転訛である。金丸氏初代資国が築いた根小屋館からわずか300m程しか離れていない。『栃木県の中世城館跡』では「不整楕円形」の塁濠を持っていたとされ、実際に古い航空写真を見ると西に向かってすぼまった形で、北東部が円弧を描いた、台形と楕円の中間のような形状の単郭居館であったらしい。しかし現在は耕地化で遺構は完全に湮滅している。水田周辺に、一部土盛りや溝状の地形が見られるが、位置的にも遺構かどうかは甚だ疑問である。唯一、「龍華城址」と刻まれた石碑だけが、歴史を明確に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.862609,140.093322&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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根小屋館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0825.JPG←北側の土塁
 根小屋館は、下野の豪族那須氏の庶流金丸氏の居館と伝えられている。正平年間(1346~70年)に那須資藤の次男資国が金丸の地を与えられて金丸肥前守と称し、根小屋館を築いて居館とした。その後、応永年間(1394~1428年)に大関氏が根小屋館の北方に白旗城を築いて居城を移すと、金丸氏は亀山の地を与えられて要害を築き(金丸氏要害)、居城を移したと言う。
 根小屋館は、白旗城の南方650m程の至近にある平地の城館である。高度成長期の航空写真を見ると南北に長い長方形で、南北2郭で構成された複郭の方形居館であったらしい。現在は耕地化で半分以上が破壊され、南北に離れてある民家の裏に土塁の一部が残存している。特に北側の民家裏の土塁はよく残っており、見応えがある。水口館などもそうだが、大田原では平地の城館が水田の只中に一部とはいえ奇跡的に残っているのが、本当にありがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.864515,140.09609&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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白旗城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0750.JPG←主郭背後の掘切
 白旗城は、那須七騎の一つ大関氏の黒羽城以前の居城である。応永年間(1394~1428年)に大関増清が築いて、山田城から移り住んだと言われている。その後、数代にわたる居城となったが、大関増次は1542年に大田原資清と争い、資清に白旗城を急襲されて攻め落とされ、増次は逃れて石井沢で自刃した。その後、山田城に居た父宗増は大田原氏と和睦し、資清の嫡男高増を跡継ぎに迎えた。高増は白旗城主となったが、1576年により堅固な城を求めて黒羽城を築いて、居城を移した。

 白旗城は、湯坂川の東岸を南北に伸びる、比高20m程の低丘陵先端部に築かれた城である。直線的に配置された曲輪を堀切で分断しており、比較的単純な縄張りとなっている。城の先端付近は薬師堂や墓地などで改変されているが、曲輪の形状をよく残しており、腰曲輪も明瞭である。薬師堂背後の高台には義経塚という塚があるらしいが、藪がひどく形状がよくわからない。この高台の裏には掘切があり、その後ろが三ノ郭となる。三ノ郭は先端部に土塁を築いた方形の曲輪で、ややはっきりしないが北西端に内枡形の虎口らしい跡が残っている。この虎口が開いているのが主郭との間の掘切である。主郭もほぼ方形の曲輪で、愛宕神社が祀られている。主郭背後には隅櫓台を備えた土塁があり、その裏にニノ郭との間の堀切が穿たれている。この掘切は、東麓まで竪堀状の城道となって降っており、その側方の腰曲輪に櫓台が築かれて、登城道を防御している。二ノ郭は白旗城で最も広い曲輪で、中央付近に浅い空堀があって南北2郭に分けられている。ニノ郭東側の塁線は大きく内側に歪んでおり、下方に湾曲した横堀があって、大きな横矢が掛かっている。ニノ郭の先端と後端には低土塁が築かれ、ニノ郭背後の掘切は相横矢が掛けられている。先端の曲輪から二ノ郭まで、腰曲輪が延々と伸びており、特に二ノ郭東側は前述の横矢掛かりや櫓台を備え、防備が最も厳重である。白旗城は、遺構はよく残っているが、全体に未整備で藪が多く、特に二ノ郭は藪が酷い。もう少し整備されていると良いのだが。
二ノ郭東側の横堀→IMG_0812.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.870798,140.096219&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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荒井館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0694.JPG←南東部の土塁
 荒井館は、荒井志摩守の居館であったとも、或いは水口館以前に大田原氏が築いた居館とも言われている。水口館の北方僅か400m弱の位置にある。東側に向けてすぼまった形の四角形の郭を持つ居館であったが、現在は耕地化で館の西半分は完全に湮滅し、南東部に土塁とその東側に低地の畑となった堀跡が残っている。また僅かではあるが北辺の土塁の東側半分も残っている。水口館は市の指定史跡となっているが、この荒井館は史跡には指定されていない。このままでは全壊の可能性もあり、何とか保存の手立てを講じてほしいものだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.886434,140.035429&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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水口館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0678.JPG←土塁
 水口館は、大田原城築城以前の大田原氏の居館である。大田原氏は武蔵七党丹党の出と言われ、1494年に康清がこの地に移り住んで大俵氏(後に大田原氏)を称し、水口館を築いて居館とした。大田原氏は那須氏に仕え、主家の分裂抗争の中で筆頭重臣にのし上がった。1518年、大田原資清は、白旗城主大関宗増・福原城福原資安との抗争に敗れ、一旦は越前の永平寺に出家隠棲した。その為水口館も一時廃館となった。暫く後、永平寺を訪れた越前の戦国大名朝倉孝景と意気投合し、その支援を得て下野に帰国した。そして朝倉氏の支援の下、1542年に大関増次を白旗城に攻め滅ぼし、還俗して再び水口館を居館とした。しかし1545年、大田原城を築いて移り、水口館は廃された。

 水口館は、水田地帯の只中に土塁と堀跡が残っている。土塁は南半分が湮滅し、北半分だけ残っているが、高さ4~5m程もあり中々規模が大きい。また北東部は鬼門除けの入り隅となっている。外周を一段低い水田が取り巻いており、堀跡であることが明瞭である。堀の外側にも僅かに土塁跡が散見される。大田原市内の居館は皆そうだが、水田地帯の中でよくこれだけの遺構が破壊されずに残ったものだと、感心せずにはおれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.883156,140.036073&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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沢村城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0586.JPG←主郭~ニノ郭掘切の横矢掛かり
 沢村城は、那須十氏の一つ沢村氏の居城である。那須氏は源平争乱の際、11人の兄弟の内、太郎光隆をはじめ上から9人は平家に味方し、十郎為隆は屋島の戦いで扇を射よとの命に従わず義経の怒りに触れ、末子の与一宗隆が扇を射て武功を挙げて那須氏の家督を継ぐことになった。そして与一の10人の兄は、那須各地に分知されて那須十氏となって宗家を支えた。沢村氏は与一の兄、七郎満隆に始まる系統である。沢村郷を与えられた満隆は、1187年に沢村城を築いたと言われている。沢村城の南方2kmの位置に九郎朝隆が築いた稗田城があり、両城呼応して塩谷氏に対する前線基地となった。室町中期には、那須本家の資重が沢村氏に入嗣して沢村城主となった。資重が善政を施して声望が上がると、これを妬んだ兄の福原城主那須資之と不和となった。1414年、資之は妻の父上杉禅秀に唆されて、資重の沢村城を攻撃した。資重は興野館に退き、後に稲積城を修築して移り、更に1418年に烏山城を築いて居城を移した(那須氏の分裂)。そこで資之は、孫の須藤五郎を沢村城に入れて沢村氏を名乗らせたと言う。その後の沢村城の歴史は不明である。

 沢村城は、箒川南岸にそびえる比高50m程の丘陵上に築かれている。北側は箒川に臨む断崖となっており、防御の主体は南の斜面に対して構築されている。那須氏の城に多い、直線連郭式を基本形とした縄張りで、西から順に北三ノ郭・主郭・ニノ郭・三ノ郭・南中郭がそれぞれ掘切で隔てられて構築され、本丸外周には更に北ニノ郭が取り巻いている。更に主郭から二ノ郭までの南側には掘切と繋がる形で横堀が廻らされ、更に南側下方の斜面にも横堀による外郭線が構築されている。これらの掘切・横堀のラインは、要所で屈曲し、上方の櫓台から横矢を掛ける技巧的構造があちこちで見られる。こうした特徴からすると、戦国後期まで使用されたと思われる。主郭には大型の櫓台が築かれており、小型の天守程度の規模の建物があったと考えられる。主郭には2つの虎口があり、東虎口からニノ郭間の連絡は、どうも木橋であったらしい。一方、南虎口には土橋が築かれている。この他、ニノ郭北側の断崖沿いには、外に張出した物見台がある。これは自然地形をそのまま利用したものだろう。沢村城は、非常に良好に遺構が残っており見応えがあるが、主郭・北ニノ郭以外は藪が多く、特にニノ郭・三ノ郭は密生していてほとんどまともに遺構の確認をすることができない。折角の遺構であり、石碑なども立てられているので、城址公園として整備してくれるといいのだが。
北ニノ郭~北三ノ郭掘切の横矢→IMG_0531.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.819558,139.968309&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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御古屋敷(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0467.JPG←屋敷跡付近の現況
 御古屋敷は、那須氏の庶流福原氏が築いた居館である。福原資孝は、1563年、同じ那須一族の佐久山氏を攻めて佐久山城から逐い落とし、佐久山城は廃城となった。1590年、福原資孝の子資保は、大田原氏・大関氏等と共に豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して所領を安堵され、新たに佐久山四ツ谷に御古屋敷を築いて、片府田城から居城を移した。福原氏は江戸時代に入っても交代寄合旗本として存続し、1702年に古の佐久山城二ノ郭に陣屋を築いて移り住み、幕末まで続いた。
 御古屋敷は、佐久山川南岸の段丘上に築かれた居館である。佐久山城より東に800m程離れた位置にあるが、現在は推定地とされる場所は民家脇の畑に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。『那須の戦国時代』には、西側の土塁の一部とされる残存遺構の写真が載っているが、畑中の畦がそれであろうか?この推定地より150m程西側には、台地の縁を流れる水路があり、こちらの方が往時の堀跡らしい雰囲気を湛えているが、遺構かどうかは不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.807429,140.015109&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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岩切城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0200.JPG←三ノ郭から見た主郭方面
 岩切城は、奥州の豪族留守氏歴代の居城であり、また南北朝時代に合戦の舞台となった城である。留守氏は、奥州合戦後に源頼朝から陸奥国留守職に任命された伊沢左近将監家景を祖としている。伊沢氏は、2代家元以降は職名を名字とし、留守氏を称した。そしていつの頃からか、多賀国府に近い高森山に岩切城を築いて居城としたと言われている。鎌倉中期には留守職は形骸化し、留守氏は地方豪族として発展していった。南北朝時代には、多賀城に陸奥国司・鎮守府大将軍として北畠顕家が派遣され、留守氏は顕家率いる南朝方に属して戦ったが、後には足利氏の北朝方に転じた。足利幕府は、1346年に奥州管領として吉良貞家・畠山国氏の2人を派遣したが、足利尊氏・直義兄弟が争う「観応の擾乱」が起きると、その余波で直義党の吉良氏と尊氏党の畠山氏が対立した。留守氏は宮城氏と共に畠山氏に付き、1351年、畠山高国・国氏父子と留守氏・宮城氏は岩切城に立て籠もったが、吉良貞家に攻められて落城し、畠山父子は討死した。留守氏も一族の多くが討たれて没落した。後に吉良・畠山・石塔・斯波の4家が並立する四管領時代を経て、斯波氏=大崎氏が奥州管領を世襲するようになると、留守氏は大崎氏に属してその勢力を利用して自己の勢力の回復を図った。しかし伊達氏の勢力が北上してくると、留守氏は大崎・伊達両氏に挟まれて、留守氏内部は両派に分裂して抗争を繰り返した。最後は伊達派が勝利を収め、伊達氏に属してその入嗣も受け入れるようになった。こうして留守氏は、伊達氏の後ろ盾で勢力を回復していくが、伊達晴宗の3男政景の入嗣の際は、重臣の村岡氏らの反発が大きく、政景は村岡氏を攻め滅ぼして家中統一を図った。そして村岡氏滅亡からまもなくの元亀年間(1570~73年)に、居城を岩切城から利府城に移し、岩切城は廃城となった。留守政景は、伊達氏当主となった若き政宗を補佐し、度々の合戦で活躍し、政宗の信頼が厚かった。豊臣秀吉の奥州仕置で政景は所領を没収されたが、伊達氏の家臣と見做されて政宗の下で活動し、後に伊達一門に列せられて、その子孫は水沢伊達氏となって幕末まで存続した。

 岩切城は、標高105.6m、比高96mの高森山に築かれている。主峰から派生する尾根筋に段曲輪群を連ねた、古風な造りの典型的な山城であるが、城域は広大である。城域は大きく東西2つに分かれ、西側が主城部、東側が東郭群となる。主城部は、山頂に主郭を置き、南東に伸びる尾根にニノ郭・三ノ郭を連ねている。主郭背後は掘切を介して西郭があり、更にその南北に派生する尾根と主郭北側の尾根に曲輪群を連ねている。要所を堀切で分断しているが、それほど規模の大きなものではない。東郭群は、主城から細尾根に穿たれた2つの掘切を介して東の緩斜面に広がっている。ここはかなりの居住性を有していたと思われる。こちらも北・北東・東・南の四方に伸びる尾根に段曲輪群を築いている。東郭群は掘切が少ない一方で、東尾根に枡形虎口が形成されており、主城部と比べるとより後の時代に構築された様に感じられる。岩切城は、国指定史跡であるので、主要な部分は整備されているが、城域が広大なため、派生する尾根の段曲輪群はあまり整備の手が及んでおらず薮の部分も多い。東日本大震災で切岸が崩れるなど、岩切城も大きな被害を受けた様だが、現在では立派に復旧されている。
東郭群との間の掘切・土橋→IMG_0211.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.313882,140.939763&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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長命楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_09950.JPG←主郭掘切
 長命楯は、歴史不詳の城である。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』に記された奥州藤原氏の陣所「国府中山上物見岡」を当城に当てる説があるが明証はない。また伝承では錦戸太郎国秀(藤原秀衡の庶長子、西木戸太郎国衡のこと)の砦であるともされるが、これは宮城県内各地の城館に伝えられる伝承であり、俄には信じ難い。遺構から見れば戦国期のものと推測されること、また16世紀初頭の留守氏関連文書に「国分勇者長命別当」の名が見えることから、室町時代以降にこの地域を支配した国分氏の持ち城であった可能性が高い。

 長命楯は、七北田川南岸の比高50m程の丘陵上に築かれた城である。現在は長命館公園となって整備されている。大きく5つの曲輪がC字状に配置されていたが、南東の曲輪は既に破壊されて湮滅している。残っているのはそれ以外の部分で、城の主要部はそっくりそのまま残っている。残存する4つの曲輪はそれぞれ腰曲輪を伴い、掘切で分断されている。北から順に、四ノ郭・三ノ郭・主郭・ニノ郭と思われるが、四ノ郭は先端の物見的な曲輪であるが、そこそこの広さを持ち、居住性も併せ持っている。三ノ郭もそこそこの広さがあるが、郭内は西から東に向かって大きく傾斜しており、居住性はあまり無かった様である。主郭は、面白いことに中央がくびれた土橋状となっており、この土橋を挟んで南北2郭で構成されている。主郭北郭は平坦で広く、ここに主殿があったものだろう。北と東に虎口が設けられている。主郭南郭は物見台的な曲輪で、主郭の西側塁線への横矢と、ニノ郭との間を穿つ掘切に対しての横矢と、2つの監視機能を持っている。主郭は防御がもっとも厳重で、前述の土橋側方への横矢掛かりや、クランクする掘切への横矢、その脇への独立小郭の配置など、かなり技巧的構造となっている。二ノ郭は、城中最大面積を有する曲輪で、南端に大きな櫓台を有し、井戸跡らしい窪みもある。これらの主要な曲輪の周囲は、腰曲輪だけでなく、横堀や掘切、その外周の櫓台や帯曲輪が配され、ニノ郭西側には上方から横矢が掛けられた枡形空間も構築されている。非常に良好な遺構で、適度な公園化で遺構が見やすく、お勧めである。但し、もう少し各部の標柱があったほうが城の構造がわかりやすいと思う。
主郭西端の掘切と外周の櫓台→IMG_09977.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.315178,140.857966&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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山野内城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9814.JPG←東郭群の腰曲輪
 山野内城は、山内首藤氏の後裔とされる須藤氏の居城である。山内首藤経俊は、源頼朝の乳母山内尼の子であったが、頼朝が石橋山で挙兵した時には平家方として敵対し、頼朝が関東を制圧すると山内尼の助命嘆願により許され、頼朝に従った。経俊は後に奥州合戦で戦功を挙げて奥州桃生郡を賜り、一族が入部して奥州に地歩を記した。山野内城はその飛び領であったと伝えられている。南北朝期の1355年には須藤刑部定安の居城であったと言われ、戦国期にはその後裔須藤刑部定信が城主であったが、1584年に結城七郎と戦い敗れて、山野内城は落城した。定信は杭城へと逃れたが、最後は福岡川崎で自刃したと伝えられている。一方、南北朝期にこの付近に勢力を持っていた大河戸氏が南朝方に付いて皇子山村宮を奉じ、山村宮軍がこの地を拠点として北朝方と戦ったことから、山村城(山邑城)とも呼ばれたと推測されている。

 山野内城は、七北田川南岸にそびえる河岸段丘の先端部に築かれた城である。東端の腰曲輪に阿弥陀堂があり、そこへの階段から城内に登ることができる。北側は断崖となり、一部は採土と崩落により失われているが、中央の谷戸部を挟んで東西に郭群が築かれている。東郭群が本城と思われ、最高所に円形の主郭を置き、南に腰曲輪を数段築き、虎口を設けている。主郭から東に伸びる尾根上も物見台的な細長い曲輪を置き、その南面に数段の腰曲輪群を築いている。主郭の西側の窪地部分にも緩斜面の曲輪があるが、背後には土塁が残り、またここには役割不明の堀状の溝がある。ここから谷戸に向かって道が伸びており、これが往時の大手だったと推測される。一方、西郭群は西方警戒の物見台的な役割であったと考えられ、頂部にそびえる平場とその下方斜面に散在する腰曲輪群のみで構成されている。特に中央の谷戸に向けて重点的に腰曲輪が築かれている。山野内城は、遺構はよく残っているが、平場群のみで構成された比較的小規模な城砦で、技巧性も乏しく、古い形態のまま戦国期まで存続した城だった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.320296,140.822024&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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地蔵院楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9764.JPG←クランクする大空堀
 地蔵院楯は、歴史不詳の城である。現在も国道4号線が脇を通る、白石盆地南西端の山麓に位置する交通の要衝にあることから、街道を押さえるために築かれた関所的な役割の城砦であろうか。

 地蔵院楯は、比高30m程の独立丘陵上に築かれている。瓢箪型の丘陵で、北半分に主郭と思われる平場が広がっており、現在は耕作放棄地で雑草だらけとなっている。ここには国道4号線脇から登道が付いており、登り口の空堀跡は防火水槽と水路に変貌している。主郭の西側には土塁が明瞭に残り、その下方には台地側を分断する大空堀が穿たれているが、藪がひどく進入は困難である。一方、西側に広がる畑地から城跡に近づくと、明らかに空堀の跡とわかる低く細長い畑があり、その奥の山林の中に大空堀が眠っている。この空堀は、少し先でクランクして折れ曲がっており、上方には空堀を睥睨する隅櫓台を備えている。空堀に沿って塁線上に大土塁が築かれているが、その上に小石が多数散乱しており、礫石の跡であろうか?土塁の東側は郭跡と思われるが、瓢箪型丘陵の南半分に当たる南の郭内は東に向かって大きく傾斜しており、まともな居住性は無かった様である。丘陵南端も一段高い物見台となっており、その外も空堀が掘り切っている。
 地蔵院楯は、西側部分の遺構がよく残っているが、全体に薮がひどく全体の確認は困難である。また遺構面では、大規模な横矢掛かりから考えれば戦国期の遺構と考えられるが、それ以外の部分は城砦としての性格もやや中途半端に感じられ、今一つしっくり来ない印象を受ける。
南端の物見台と空堀→IMG_9795.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.968053,140.610666&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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大平楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9718.JPG←主郭西側の横堀
 大平楯は、1189年の源頼朝による奥州征伐の際、奥州藤原氏最後の当主、4代泰衡の居館であったとの伝承が残る城館である。「大平」の名も、泰衡の音読み「たいへい」に由来するとも言われている。その後、結城七郎朝光が住んだとも伝えられるが、仮に朝光の所領となったとしても、朝光自身ではなく代官が派遣されたのだろう。戦国時代には、伊達氏の家臣中野目日向やその曾孫、中野目惣右衛門の居城であったと言う。
 大平楯は、東北道と国道4号線に挟まれた比高20m程の独立丘陵上に築かれている。頂部北端には大平神社があり、その裏に土塁が残っている。神社の南に長方形の広い平場があって、現在は果樹園となっているが、これが主郭に相当する。西辺に土塁が築かれ、その外には腰曲輪と横堀が築かれている。横堀は南辺にも穿たれていて、西辺の横堀と合流し、そのまま竪堀となって落ちている。また主郭東側にも腰曲輪が数段築かれているが、現在は畑などに変貌している。大平楯は簡素な構造の城館で、泰衡の居館という伝承の如く、統治拠点としての機能が優先されていた様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.982329,140.611074&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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武茂城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSC02658.JPG←ニノ郭から横堀への横矢掛かり
(2007年1月訪城)
 武茂城は、下野の名族宇都宮氏の庶流武茂氏の歴代の居城である。武茂氏は、正応永仁の頃(1288~99年)に宇都宮氏7代景綱の3男泰宗が武茂庄10余郷に分封されて武茂氏を称したことに始まり、武茂城もこの時築かれたと言われている。武茂氏は、庶家の多い宇都宮一門でも有力な支族で、6代持綱は1407年、宇都宮宗家に世子がなかったため、宗家を継いで宇都宮氏13代当主となり、このため武茂氏は一時断絶した。後1506年に持綱の曽孫正綱が武茂氏を再興し、その正綱も16代当主として宇都宮宗家を継いだので、正綱の3男兼綱が武茂氏を継いだ。戦国後期に入ると勢力を拡張した佐竹氏の下野進出によって、武茂氏はその麾下に入り、那須・佐竹の抗争では武茂氏は重要な役割を果たした。1599年に武茂豊綱は那須資晴との内通を疑われ、常陸大賀村に移され、武茂城には佐竹氏の家臣太田五郎左衛門が入城した。関ヶ原合戦後の1602年、佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、武茂・太田両氏も秋田に移り、武茂城は廃城となった。

 武茂城は、武茂氏の菩提寺である乾徳寺を挟んで、その西と東に張り出した丘陵上に築かれている。西側が本城で、東側が東城と呼ばれる出城となっている。谷戸を挟んで並ぶ2つの城砦が一つの城として機能する点で、松野北城松野南城とよく似ている。武茂城の本城は、山頂の主郭までの斜面上に曲輪を段々に築いた梯郭式の縄張りを基本形としている。最上部に櫓台を有した主郭を置き、その南に切岸のみで区画されてニノ郭が配され、掘切を介して三ノ郭が南に広がっている。三ノ郭の前面にも3段程の腰曲輪があり、神社などが建てられている。主郭~三ノ郭の側方にも腰曲輪が廻らされ、特に主郭とニノ郭の東側では横堀となって主郭背後の堀切に接続し、ニノ郭塁線上から横堀に対して横矢が掛けられている。主郭背後も中規模の掘切が穿たれ、西側は竪堀となって下り、腰曲輪に接続している。主郭の後ろにも北郭が築かれ、ここにも背後に掘切が穿たれて城域が終わっている。一方、東城は突入を試みたものの倒竹地獄と夕闇で断念した。武茂城は、中世城郭の特徴をよく残しており、登道が整備されているので訪城も楽である。
主郭背後の堀切→DSC02666.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.741412,140.170333&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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