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連続講座「中世小山一族」 [日記]

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本日、小山市で連続講座「中世小山一族」の第1回目が開催された。
今回は「寒川尼の所生」と題して、中世下野の研究では著名な江田郁夫氏の講演であった。

内容は、小山氏興隆の基礎を築いた小山一族のゴッドマザーとも言うべき寒川尼の生まれについて、吾妻鏡を根拠に定説とされていた従来の「八田宗綱の娘」説ではなく、結城氏に歴代伝えられてきた系図2つを根拠に、「宇都宮朝綱の娘」であるという新説を展開されたものであった。

これは、寒川尼が挙兵した源頼朝の元に馳せ参じた時に、鍾愛する14歳の末息子(後の結城朝光)を連れて行って、わざわざ頼朝に目通りさせていることなどを挙げて、鎌倉期に作成されたと考えられる結城氏の系図が、一族興隆の原点となったゴッドマザー寒川尼の所生の記述を間違えることがあり得るか?という論法で論じたもので、大変興味深い内容だった。

また傍証として、吾妻鏡の別条に「小山政光が、子息朝政・宗政・朝光並びに猶子(宇都宮)頼綱らに下知して・・・」という奥州合戦の際の宇都宮宿での一場面の記述から、「猶子」とは狭義では甥を指すことから、「朝綱の娘」説を補強していた。

この寒川尼を介した繋がりから、鎌倉初期には小山一族と宇都宮氏は強固な結びつきがあり、初代執権北条時政の後妻牧の方が起こした将軍廃立騒動の際に、北条義時による宇都宮頼綱討伐の厳命を小山朝政が親類を理由に拒否したとか、同じくこの騒動の際に頼綱の赦免を結城朝光がとりなした、などの話も紹介していた。

これほど結びつきの強かった小山・宇都宮両家が、南北朝期に入ると一転仇敵の間柄となるというのも、歴史のなんとも不思議なところである。次回以降の講座も楽しみである。
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玉ノ木原古戦場(宮城県七ヶ宿町) [その他の史跡巡り]

IMG_9619.JPG←標柱が埋もれた草むら
 玉ノ木原古戦場は、奥州の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦の際に、伊達政宗と上杉景勝の軍勢が戦った古戦場である。1600年、徳川家康による上杉討伐とその隙に乗じた石田三成による徳川討伐の挙兵によって、天下を二分する合戦が生起した。下野国小山まで東下した家康は、三成挙兵の方に接し、ここで反転して西へ向かった。一方、石田三成と呼応した上杉方の総大将直江兼続は、後顧の憂いを断つ為、徳川方の最上領に大軍で攻め寄せた。山形城主最上義光は、山形盆地入口を護る要衝の長谷堂城に精鋭を集めて上杉勢に対する最後の防衛線とする一方、伊達政宗の元に嫡男義康を派して援軍を要請した。政宗はこれに応じ、叔父の留守政景に兵3000を与えて山形城の東方に進出させた。この時、政景は配下の茂庭綱元に別働隊を率いさせて七ヶ宿街道を西進させた。綱元は9月25日に湯原城を攻略し、更に二井宿峠に近い玉ノ木原に於いて上杉勢との間で合戦となった。七ヶ宿は、伊達宗遠・政宗(儀山公)父子が置賜に進出して以来の深い繋がりがあった為、この地の野武士達は伊達方に付いて奮戦したと言う。

 玉ノ木原合戦は、奥羽国境の二井宿峠を押さえる要衝、屋代楯東方の山間の平地で行われた。現在は国道113号線の脇の草むらの中に標柱が建っている。この標柱がまた、草に埋もれていてわかりにくく、普通ならば気付かずに通り過ぎてしまうだろう。古くからの重要な街道の歴史の1ページを伝えている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.0175,140.288072&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:古戦場
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志田楯(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_9574.JPG←南郭群の石垣
 志田楯は、14世紀の末頃の長井氏領時代に志田義治の居城であったと伝えられている。古くは新宿の柵と称したと言われ、後に志田義治の時代を経て、文禄年間(1592~96年)には遠藤盛利が居城としたとされる(但し、1553年の『晴宗公采地下賜録』によれば、中野常陸介ら5名の地頭領主が新宿郷に安堵されているが、遠藤氏の名は見えない。)。1598年に豊臣秀吉の命で上杉景勝が会津・置賜に入部すると、盛利は伊達氏を離れて上杉氏の執政直江兼続の家臣となり、慶長出羽合戦の時には足軽300人を率いて二井宿口から上山に出陣した。しかし、慶長年間(1596~1615年)の末年に再び伊達家に仕えたと言う。

 志田楯は、屋代川の曲流部に張り出した標高380m、比高100mの山上に築かれている。山頂に南北に長く伸びた主郭を置き、北東と南東の尾根に段曲輪群を配している(北郭群・南郭群)。主郭は西辺に土塁を築いて防御し、南端近くは一段低くなっている。また南西部にも一段低くなった、細長い変則型の枡形虎口の小郭を築いている。その下の南西尾根十数m下方にも、縄張図にない馬蹄段曲輪がある。前述の北郭群・南郭群は、どの曲輪も削平がしっかりとしており見応えがある。特に南郭群の最上段には石垣が残っている。これは予想外に立派な石垣で、わずかな残欠に過ぎないが積まれた石が大きくしっかりと積まれており、東北の山城では類例が少ない。しかし隅部の処理は算木積みにはなっておらず、戦国末期から近世初期頃の構築と思われるが、上方の石積み技術がまだ流入する前に構築されたものの様である。この他、主郭の北西にも段曲輪が1段あって、堀切が穿たれている。その先も削平の甘い曲輪が続き、掘切がもう2本穿たれているが、最初の掘切だけしっかりした規模で竪堀も長く伸びるが、残り2本は小さいものである。また北郭群・南郭群の東面に帯曲輪があり、北郭群と南郭群を繋いでいる。この帯曲輪から谷戸を降ると川沿いに平場が広がっており、倉庫などが置かれたと思われる。

 志田楯は、現在でも外周を廻る屋代川が天然の外堀となり、渡る橋もないので、人の接近を阻んでいる。昨年来た時には川に阻まれた上、猿が出現しており、猟銃の音も山中に響いていて、近くの商店のおばさんに登るのはやめた方がいいと言われて断念した経緯があった。今回は、11月の猟解禁前で、且つ晩秋の渇水期を狙ったのが頭に当たり、長靴を用意したのもあって難なく渡河して登ることができた。山形で訪城目標としていた最後の城であったが、貴重な石垣に大喜びすることができた。
主郭北西尾根の掘切→IMG_9544.JPG
IMG_9586.JPG←南郭群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.018598,140.252666&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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塚田館(栃木県小山市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9464.JPG←館跡の石碑の建つ氷川神社
 塚田館は、下野の名族小山氏の庶流、塚田氏の居館である。小山氏4代長村の3男宗光がこの地に分封されて、塚崎と田間を領して塚田氏を称したと言われている。南北朝時代の1340年、小山氏政は北朝方につき、南朝方となった当主朝氏と対立して、塚田氏の塚田館に入ったと考えられている。戦国時代に入ると、10代塚田義智は天文年間(1532~55年)の初めに宗家小山高朝の居城祇園城内に一郭を築いて与えられ(塚田郭)、移り住んだ。戦国後期になると、小田原北条氏の勢威が下野南部まで及ぶようになり、祇園城も度々攻撃を受けるようになった。1576年頃、11代塚田伊豆守は祗園城を離れ、寒川城に入った。小田原の役で北条方に付いた小山氏が滅亡すると、塚田氏は帰農したと言う。

 塚田館は、現在の氷川神社付近にあった。『栃木県の中世城館跡』によれば、氷川神社の東北に隣接して土塁と空堀で囲まれた約80m四方の単郭方形居館があった様だが、明治時代の開墾で遺構は湮滅してしまった。それでも、昭和中期までは神社北側に僅かに土塁と空堀が残存していたらしいが、それも今では失われてしまっている。小山市が建てた立派な石碑のみが、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.266802,139.811196&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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友沼城(栃木県野木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9462.JPG←城址とされる忠魂碑付近
 友沼城は、逆川城とも言い、歴史不詳の城である。中世から戦国期の城館と推定されている。「逆川」の名の由来として、「昔、小山小四郎何某が、家臣の止めるのを聞かずに出陣し、逆川まで来たところ、ようやくここで家臣が追いつき、再び〔出陣を〕止められた。小四郎は怒って、扇子で家臣の顔面を打つと、はずみで扇子が川中へ落ちた。扇子は西の方へ流れていった。〔多くの川が東流しているのに、西流したことから〕それで逆さ川というようになった。」(〔 〕内は管理者補足)ということなので、近くの法音寺城と同じく小山氏の支城であったものと思われる。特に「小四郎」という通称は小山氏嫡流のものなので、時の小山氏の当主が家臣の諌めを聞かずに出陣し、手勢を率いて友沼城付近まで進出したということなのだろう。

 友沼城は、現在は宅地化・耕地化によって遺構は完全に湮滅しており、その正確な所在地と規模も明確ではない。しかし近くの逆川排水機場に逆川に関する解説板があって、城のことが書かれている。それによれば、逆川の北側台地上にあり、現在の忠魂碑付近にあったとされているらしい。たまたま付近を探索していて、この解説板を見つけられたのは幸運だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.237662,139.728327&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
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高館(岩手県平泉町) [古城めぐり(岩手)]

IMG_9174.JPG←東面の曲輪
 高館は、判官館とも呼ばれ、源義経最期の地と伝えられている。『吾妻鏡』に言う「衣川館」ではないかともされる。平家討伐に抜群の戦功を挙げた義経であったが、政略に疎い浅慮な性格を後白河上皇に乗ぜられ、兄頼朝と不和となり、遂に追討を受ける身となった。北国の王、奥州藤原氏3代秀衡は奥州に逃れてきた義経を匿うが、まもなく秀衡は病没し、跡を継いだ泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経を高館に襲撃した。義経は妻子を道連れに自刃したと言う。1189年のことである。時代は下って江戸時代の1683年、伊達藩4代綱村は、高館に義経堂を建立した。

 高館は、北上川西岸にそびえる比高40m程の細長い独立丘に築かれている。柳之御所から僅かに700m程しか離れておらず、宗教都市平泉を俯瞰する防衛陣地であった可能性がある。高館は、後世の改変は多いが、明らかに城郭の形態を残しており、義経堂の建てられた頂部の東側に段々に曲輪群が築かれ、また頂部の背後には掘切が穿たれ、更に西側に曲輪が広がっている。ここには給水施設があって改変を受けている。その先にも掘切があり、その先も曲輪の可能性があるが、藪がひどく確認していない。簡素な構造の要害で居住性もあまりないが、この地を任された義経は、平泉を護る、文字通り最後の砦であったのかもしれない。
義経堂背後の堀切→IMG_9192.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.997274,141.113098&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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久慈城(岩手県久慈市) [古城めぐり(岩手)]

IMG_8913.JPG←東の木戸口
 久慈城は、奥州の名族南部氏の庶流久慈氏の居城である。久慈氏の祖は、南部氏初代光行の4男朝清と言われているが、12代信実以前については諸説あって明確ではない。いずれにしても300年程に渡って久慈地方を支配した様である。宗家の三戸南部時政の3男信実が婿養子となって久慈氏を継ぎ、文明年間(1469~86年)の頃に久慈城を築いたと考えられている。その後も、周辺諸豪と姻戚関係を結んで、広い地域に勢力を持ったまま戦国期を乗り越えた。しかし1591年、18代直治とその女婿19代政則は、正則の兄の九戸城主九戸政実が三戸城主南部信直と争った時(九戸政実の乱)、政実に味方して九戸城に立て篭もり、政則は九戸城搦手の副将として奮戦した。南部氏の要請により、豊臣秀吉は大軍を乱鎮定のため派遣し、上方勢は謀略を巡らして九戸政実を降し、政実や久慈父子ら7人の重臣は総大将豊臣秀次の待つ三ノ迫(宮城県)で斬首された。こうして久慈氏の嫡系は滅亡し、秀吉の諸城破却令により久慈城も廃城となった。

 久慈城は、慈光寺の東に張り出した比高40m程の丘陵先端部に築かれている。市の史跡となっており、登城道などある程度の整備はされているので、夏場でも遺構を確認することができる。山頂に平坦で広い主郭を置き、その東側にニノ郭を築き、これらの周囲に腰曲輪を巡らした構造となっている。またニノ郭の東尾根にも曲輪群を築き、木戸口とそれを防衛する小郭も築かれている。その下方の山裾には平坦な平場が広がっており、井戸跡が残る他、外堀が渓流となって残っている。一方、主郭の背後には掘切があり、その後ろに三ノ郭が築かれている。三ノ郭の先端は物見台があったらしく、現在は土壇の上に稲荷社が祀られている。また三ノ郭北側にも腰曲輪が備わり、前述の掘切が城道を兼ねており、ここから腰曲輪に通じている。比較的簡素な構造の城であるが遺構がよく残っており、夏場でも予想外に遺構の確認ができたのは嬉しい。
主郭の掘切→IMG_8993.JPG
IMG_8934.JPG←山裾の外堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=40.192496,141.709943&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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伽羅御所(岩手県平泉町) [古城めぐり(岩手)]

IMG_8855.JPG←御所跡付近の現況
 伽羅御所は、奥州藤原氏3代秀衡の居館である。秀衡は、北方の王者として奥六郡に君臨し、清衡以来3代の居館であった柳之御所を大改修して政庁と為し、新たな居館として伽羅御所を築いたと言われている。秀衡の死後は、その後を継いだ4代泰衡に受け継がれたが、1189年に源頼朝によって平泉は攻め滅ぼされ、その繁栄は永遠に消え失せた。
 伽羅御所は、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』によれば、無量光院の東門に一郭を構えていたとされる。現在は宅地に変貌し、往時の面影は見る影もない。現地解説板には「わずかに内濠の跡や土塁の一角をとどめる」とあるが、どれが遺構だかはっきり言って全くわからない。あったとしても民家の敷地内で、見ることは困難であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.990687,141.118269&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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柳之御所(岩手県平泉町) [古城めぐり(岩手)]

IMG_8796.JPG←復元された空堀
 柳之御所は、奥州藤原氏の政庁、平泉館と考えられている遺跡である。古くから奥州藤原氏の初代清衡・2代基衡の屋敷跡であったと伝えられてきたが、近年の発掘調査の結果により、その規模と質的充実性から考えて、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』に見える「平泉館」と想定されている。清衡は、当初父経清の代からの居館である豊田館を本拠としていたが、嘉保年間(1095~97年)の頃に衣川の南、平泉に居館を造営して移り住んだと言われている。そしてこの地を拠点に奥六郡を支配し、豊かな産物と産出される黄金を背景に中尊寺を建立して奥州藤原氏繁栄の基を築いた。2代基衡の時に新たに毛越寺の造営に着手し、3代秀衡の時に毛越寺の堂塔が完成した。また秀衡は、これまでの居館であった柳之御所を大改修して政庁と為し、新たな居館として伽羅御所を築いたと言われている。こうして繁栄を誇った奥州藤原氏であったが、大きな時代のうねりに飲み込まれていくことになる。即ち、平家の衰退と東国における源頼朝の台頭である。そして藤原氏の命運を決することになったのが、秀衡が頼朝の異母弟源義経を庇護したことである。奥州に君臨した秀衡の存命中は、武家政権を樹立した頼朝も奥州に迂闊に手出しはできなかったが、秀衡は1187年に病に倒れ、そのままこの世を去った。巨星が落ちたのを好機とばかり、頼朝は秀衡の跡を継いだ4代泰衡に圧力を掛け、それに屈した泰衡は1189年、義経を衣川館(高館)に攻め滅ぼした。しかし頼朝は、却って義経を匿っていたことを口実に奥州征伐の兵を興し、大軍を率いて奥州に侵攻した。泰衡は、阿津賀志山から続く丘陵地帯に二重の堀と三重の土塁を備えた長大な防塁を築いて必死の抵抗を図ったが、激戦の末に山岳地帯を迂回した紀清両党に側背を突かれて大敗を喫し、鎌倉勢に防塁を突破された。逃れた泰衡は平泉に自ら火を放って逃亡し、柳之御所も焼亡した。泰衡は家臣の裏切りによって殺害され、奥州藤原氏は滅亡した。

 柳之御所は、北上川西岸に築かれている。堤防工事で破壊される運命にあったが、破壊前の発掘調査により極めて貴重な遺構であることが判明し、急遽堤防計画が変更され、現在は国の史跡となって整備が進められている。北東側は北上川による侵食で形が変わっていると思われるが、南西部は空堀で囲まれて防御しており、その堀が復元されている。曲輪の内部には、庭園の池跡が復元整備され、建物跡は発掘調査の結果に基づいてその位置が示されている。古い城館なので、建物の規模は現代的感覚からすればかなり小さく、強勢を誇った奥州藤原氏の政庁と言っても、この時代のものとしてはこの程度のものだったかと思わせる。まだ周辺での発掘調査は続けられているので、今後の成果に期待したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.993689,141.119621&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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小国城(山形県小国町) [古城めぐり(山形)]

IMG_8626.JPG←城址の遠望
 小国城は、出羽と越後の国境を守る伊達氏の城である。伝承では奥州藤原氏が一族の俊衡を配したとも言われる。室町時代中期には、置賜地方に進出した伊達政宗(儀山公)によって、粟生田備後守が配されたとされ、粟生田氏2代の後、上郡山氏3代が城主となった。豊臣秀吉の全国統一が成り、蒲生氏支配時代になると佐久間久右衛門が城代となり、1598年に上杉領となると奈良沢主殿助が城代となった。その後、城代制の下で城代は多くの変遷を経て、1692年に城代は御役屋将と改められた。明治3年に西条舎人秀興が御役屋将を免ぜられて、小国城はその歴史を終えた。

 小国城は、横川曲流部の左岸に築かれている。現在の旧小国小学校跡地の位置に土塁と堀で囲まれた本丸があったらしい。また江戸時代には、その西側の飯綱神社のある付近に御役屋が置かれ、小国城の本丸跡には代官所や米蔵が置かれた様である。いずれにしても、現在は宅地化・市街化で遺構は湮滅しており、城址を思わせるようなものは残っていない(御役屋西側の土塁の一部が残存するようだが、見逃した)。昭和20年代前半の航空写真を見ると、御役屋を囲んでいた西と南の土塁・堀がはっきりと確認できる。写真では外堀らしいものも見られ、どうも二重の堀で囲まれた城館であったらしい。今後、旧小学校跡地が再開発されていくものと思うが、できればかつての歴史を思わせる歴史公園にでもして欲しいものである、

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.063534,139.745965&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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犬飼城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSC08468.JPG←主郭の横矢櫓台と空堀
(2007年1月、2011年12月訪城)
 犬飼城は、歴史不詳の城である。伝承では、1379年に祇園城主小山義政が築城したのが初めで、戦国後期には下野まで勢力を伸ばした小田原の北条氏政によって攻められ、小山秀綱は父政長を助けて奮戦したが敗北したとされる。その後、1573年に犬飼康吉が城主となったが、宇都宮氏に攻められて滅亡し、廃城になったと言う。しかし、少なくとも小山氏による築城というのは、勢力圏としても宇都宮氏の領域の只中であるので、誤伝であろう。それよりは岡本城との横矢掛かりや選地の類似性から考えれば、宇都宮氏による築城と考えるのが妥当であろう。1km程の距離には宇都宮氏の深津城があることから考えても、その可能性が高いだろう。また戦国末期に、北条氏直が盛んに宇都宮領に侵攻した際、犬飼城を前進基地として使用し、沼尻合戦か小田原の役の際に宇都宮勢によって攻め落とされた、と言う辺りが事実に近いのではなかろうか?あくまで想像ではあるが。城主の犬飼康吉の名も、北条氏康からの偏諱を想像させる。

 犬飼城は、姿川と武子川の合流点に向かって北から突き出した、比高10m程の根古屋台と呼ばれる台地の先端部に築かれている。山林となっているが、遺構は非常によく残っている。主郭はほぼ全周を空堀・低土塁で囲まれ、主郭の西と北に広がるニノ郭に対して、土橋の架った虎口を設け、土橋に対して右翼から横矢の櫓台を張り出させて防御を固めている。ニノ郭の外周も空堀で防御し、特に北西部分では、小型の枡形虎口と土橋で空堀を食い違いにしており、中々技巧的な造りとなっている。またニノ郭の塁線は巧みに屈曲して、厳重な横矢を掛けている。主郭の南側には空堀を挟んで前衛の三ノ郭が築かれ、その前面も土橋を架けた空堀で防御している。この城がよく見られる崖端城と異なるのは、主郭が先端に無く、主郭の前面にも空堀と曲輪が設けられていることで、これは比高が小さいことによる要害性の弱さを補う処置であったのだろう。小規模な城ではあるが、技巧的な構造は北条氏による改修の可能性を感じさせる。最近は宇都宮市などによる見学会が年1~2回の頻度で開催されており、徐々に知名度が上がりつつある貴重な遺構である。これで解説板や石碑でも建てられたら、言うことなしなのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.531467,139.834478&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世崖端城
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