So-net無料ブログ作成
検索選択

本楯館(山形県寒河江市) [古城めぐり(山形)]

IMG_8499.JPG←主郭と堀跡
 本楯館は、1189年に多田仁綱が築いた居館である。鎌倉幕府創業の功臣大江広元は、源頼朝より出羽国寒河江荘を与えられると、妻の父多田仁綱を目代として遣わし荘内を治めさせた。この時仁綱が築いたのが本楯館である。
 本楯館は、現在市街化で遺構はかなり湮滅が進んでいる。はっきりそれとわかるのは、主郭の北西部だけで、明確な郭跡の段差と堀跡が低地となって残っており、そこに「本楯館跡」と「土井ノ内」と刻まれた石碑が2ヶ所建っている。主郭は内堀で囲まれた方形の曲輪で、更に周囲を外堀で囲んだ環郭式の平城だったようである。しかし前述以外の内堀は湮滅し、僅かな地形の窪みとして名残りを残しているに過ぎない。外堀も、小さな水路がその名残りを残しているだけである。昭和30年代初頭の航空写真では、外堀はもう少し堀の姿を留めていた様で、その後の市街化で姿を消している。しかし立派な石碑と「本楯」の地名に、その歴史が刻まれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.366812,140.292878&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
nice!(3)  コメント(0) 

古館城(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

IMG_8494.JPG←外堀跡とされる水路
 古館城は、慶長出羽合戦の折、米沢から侵攻してきた直江山城守兼続率いる上杉軍に対する防備の為に最上義光が築いた城と伝えられている。南方約700mの位置に若木楯があり、楯主新関氏の居館を、最上氏が整備拡張したとも伝えられている。
 この城の存在は、山形市の発行している史跡案内地図で知ったが、城域は民家となって変貌しており、遺構は極僅かである。以前の訪問記では、地蔵堂が建っている付近が城址と思って来たが、その後『山形県中世城館遺跡調査報告書』で城の推測図を入手したところ、城の中心の位置がズレていたのと堀の推定位置が判明した為、今回再訪して記事を書き改めた。古館城は二重の堀で囲まれた環郭式の平城だったらしく、主郭跡とされる民有地の入口付近に城址碑が建っている。また、内堀は宅地化で完全湮滅しているが、外堀は一部水路となって残っている様である。僅かな遺構ではあるが、地名も古館と残っており、貴重である。石碑を見つけられたのも嬉しい。
民有地入口の城址碑→IMG_8489.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.266253,140.255992&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(3)  コメント(0) 

山家城(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

IMG_8398.JPG←3段の石垣の一部
 山家城は、最上四十八楯の一で、山形城主最上義光の家臣山家河内守の居城である。山家氏は、山家信彦を祖とする国人領主で、南北朝期には南朝方として活動したが、後に羽州探題(出羽按察使であったとも言われる)として山形に入部した斯波兼頼(最上氏の祖)の家臣となった。戦国末期、山家河内守は最上義光の直属の家臣となり、義光が病没した時に殉死した4家臣の一人として名を連ねていることから、義光にかなり近い位置にいた側近であったものと思われる。

 山家城は、山形城の北東3.7kmの位置にある、標高234m、比高104mの館山(野伏山)に築かれた山城である。ほぼ独立丘陵に近い山の東西に連なる尾根全体に曲輪を配しており、比較的規模の大きな山城である。くの字に曲がった尾根上の3つのピークに、西から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を配し、それぞれが独立性の高い、一城別郭的な縄張りとなっている。主郭は中央部に大きな土壇があり、規模と城の形態から考えて小型の天守台と推測される。主郭の前面には段曲輪が数段置かれ、その更に前面にはかなりの広さの細長い曲輪が広がっている。内部は一面の笹薮だが、3段の段差に仕切られており、先端には一段高く物見郭が築かれ、物見郭上には土塁と櫓台も築かれている。またこの広い曲輪の北側には、竪堀状の城道が斜面を降り、その下は小さな横堀と接続している。南側には帯曲輪群が築かれており、丁度長谷堂城の先端近くの帯曲輪群に似た構造である。主郭背後は切岸だけで尾根と区画されており、掘切の様な地形も見られるが、規模が小さい上に夏場の薮であまり明確ではない。二ノ郭は、頂部に物見台的な小郭を持ち、前面に2~3段の段曲輪、南面に腰曲輪群を伴っている。特筆すべきはこの南腰曲輪群に築かれた石垣で、3段にわたって築かれている。しかし、二ノ郭群の曲輪はいずれも小規模で、石垣も小さな平場を確保するための土留的な役割の様である。二ノ郭群の東に三ノ郭がある。三ノ郭は中心の平場の外周に一段低く腰曲輪が取り巻き、更に前面・後面に腰曲輪を伴っているようだが、薮で形状がわかりにくい。この他、山麓からの登り道の途中にも腰曲輪が見られるが、畑になっているものも多いので、どこからが後世の改変か判断が難しい。いずれにしても石垣や主郭天守台など、近世大名化した最上氏の下で、近世的な城として改修された遺構を留めていると思われる。近年、登道が整備され、解説板・駐車場が完備されているのもありがたい。盛夏でも十分に遺構を確認して回れたのは、嬉しい誤算だった。
主郭の天守台→IMG_8361.JPG
IMG_8332.JPG←竪堀状の城道
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.272453,140.364611&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(2)  コメント(0) 

飯田楯(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

IMG_8308.JPG←虎口郭
 飯田楯は、山形城主最上義光の家臣飯田播磨守が、尾花沢の本拠飯田楯から当地に封任となり、築いた城館と考えられている。おそらく山形城の防衛の為に、義光が山形城周辺に築かせて守りに就かせたものであろう。この後、飯田播磨守は、慶長出羽合戦で畑谷城救援に出陣し、討死したと言う。

 飯田楯は、成沢城の北北東1.2kmの位置、山形盆地南東部に張り出した丘陵先端に築かれている。スプーンの様な丘陵の上に主郭を含む4段の曲輪を配置し、その周囲に腰曲輪を巡らしている。一部は畑となっているが、その他は耕作放棄地でやや荒れている。特に最上段の主郭と腰曲輪の先端部は藪化している。しかし遺構は比較的良好に残っている。西側に登り口があり、腰曲輪を経由して頂部の曲輪群まで登れるので、この腰曲輪が虎口郭であったと推測される。南東のくびれた丘陵基部には掘切がなく、城の背後は切岸だけで防御されており、『山形県中世城館遺跡調査報告書』に記載されている通り、軍事的機能よりは日常的な居館としての性格が強かったのだろう。またこの基部には井戸から楯までの導水路跡も見られるとのことであったが、夏で草が生い茂っておりよくわからなかった。登り口の標柱も文字が消えていたのは少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.212878,140.327618&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
nice!(3)  コメント(0) 

小杉陣屋(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

IMG_8128.JPG←陣屋跡に建つ陣屋稲荷
 小杉陣屋は、徳川家康の家臣小泉次大夫が築いた陣屋である。小田原の役で北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東に入部し、関東各地の再開発を計画した。この時、小泉次大夫は家康に用水開発を進言して、用水奉行に任命された。そして1597年より、稲毛領・川崎領に「二ヶ領用水」の建設に着手した。この時、小杉陣屋を築き、この地で14年間に及ぶ難工事の指揮に当ったと言う。
 小杉陣屋は、小杉御殿の北東に隣接する地に建っていた。時期からすれば、小杉御殿の造営より陣屋の創築の方が早いので、陣屋の地に隣接して御殿が建てられたものだろう。残念ながら御殿同様、陣屋も遺構は完全に湮滅している。僅かに陣屋のあった場所に、陣屋稲荷が建っており、町名にも陣屋の名が冠され、往時の名残りを残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.584508,139.655628&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:陣屋
nice!(4)  コメント(0) 

小杉御殿(神奈川県川崎市) [古城めぐり(神奈川)]

IMG_8125.JPG←御主殿稲荷
 小杉御殿は、1608年に2代将軍徳川秀忠が造営した御殿である。東海道が整備される前は、中原街道が江戸と西方を結ぶ主要街道で、中原御殿との中継点として築かれたと言われている。鷹狩りの休息所としてだけでなく、父家康の送迎の御殿としても使用された。また中原街道は、この御殿の前で「鈎の手」となってクランクしており、防御もしっかり考えられた御殿であった。1640年に安藤市郎兵衛・小俣平右衛門を奉行として改修されたが、1672年、4代将軍家綱の時代に完全に撤収された。
 小杉御殿は、西明寺の北東に隣接する区画に築かれていたが、現在は全て宅地化されており、遺構は残っていない。しかし御主殿のあった場所には、御主殿稲荷が建っている他、前述の通り中原街道は「鈎の手」を残し、町名にも御殿の名が冠され、往時の雰囲気をわずかに漂わせている。尚、御殿の北東に隣接して小杉陣屋があり、時期からすれば、御殿の造営より陣屋の創築の方が早いので、陣屋の地に隣接して御殿が建てられたものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.583688,139.654255&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(2)  コメント(0) 

木田余城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7856.JPG←主郭部の現況
 木田余城は、居城の小田城を逐われた小田氏治が居城とした城である。元々は、信太荘司紀貞頼の後裔、信太伊勢守が築いた城で、小田氏に仕えていた。戦国中期の1554年、信太伊勢守範宗は主君小田氏治と不和となり、土浦城で氏治の重臣菅谷左衛門尉政貞に誘殺され、木田余城も落城した。その後、菅谷氏の持ち城となったが、小田氏治が小田城を佐竹義重に攻め落とされると、逃れた氏治が木田余城に入って居城とした。しかし1578年、義重が木田余城に攻め寄せ、激しい攻防戦の末に落城すると、そのまま徹底的に破壊されたと言う。
 木田余城は、現在JR常磐線が主郭跡を貫通し、また車両基地の一部ともなっている。それ以外の部分も一面のレンコン畑となっており、城の遺構は全く残っていない。道路脇に堀跡のような凹んだ地形も見られるが、あまりの改変ぶりに遺構かどうかは明確にできない。昭和20年代前半の航空写真を見ると、環郭式の平城だった様で、横長の長方形の主郭を有していたらしい。今となっては線路脇の解説板と、車両基地入口にある城址碑だけが城の歴史を伝えているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.092702,140.2143&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(3)  コメント(0) 

小川城(茨城県小美玉市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7816.JPG←小学校北側の掘切跡
(2015年7月訪城)
 小川城は、薗部城とも呼ばれ、戦国時代に小田氏の家臣薗部氏の城であった。元々の創築は、建久年間(1190~99年)に下河辺政平によるとされる。政平の父政義は、源頼朝に従って軍功を挙げ、志筑城を築いた。そして次男の政平を小川郷に分封し、政平の系統が小川氏を称して朝平・義忠・義広と続いて小川城を居城とした。時代は下って戦国時代の1528年、小田城主小田政治は大掾氏の勢力拡張を抑える為に、家臣の薗部兼泰を小川城主として派遣した。しかし兼泰の子兼彦は、大掾慶幹に娘を嫁がせて大掾氏と通じた為、政治は怒って小川城を攻め、兼彦を逐い落とした。そして政治は、弟の左衛門尉を小川城主としたが、1546年に江戸氏の支援を得た兼彦が城を奪還した。1571年、小田氏治が小川城を攻め、兼彦は敗れて結城氏の元に逃れた。3代兼基は1588年に佐竹義宣に攻められて行方不明となり、その後は佐竹氏の家臣茂木筑後守治良が小川城主となった。1602年、佐竹氏が出羽秋田に移封となると、代わって出羽より戸沢政盛が小川城主に入ったが、戸沢氏が龍子山城(松岡城)に移ると、小川城は水戸藩領となり城は廃された。しかしその後も藩の運漕奉行所・稽医館・小川郷校などが城址に置かれて使用され続けた。

 小川城は、園部川東岸の比高20m程の台地先端部に築かれた城である。現在城内は小川小学校などに変貌しており、市街化による改変で明確な遺構は少ない。しかしともかくも段丘上に築かれた地勢は健在で、現在でも小川の町を見下ろす様にそびえている。小学校の西側や北側の切通し状の車道は、明らかに往時の掘切跡であろう。その他、西側や東側に腰曲輪跡らしい段も見られる。いずれにしても、かなり改変が進んでいるのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.171521,140.35723&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(2)  コメント(0) 

ハイティンク/ロンドン交響楽団来日コンサート2015 [クラシック音楽]

ハイティンクがロンドン響と再来日。9月30日にミューザ川崎で、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番とブルックナーの交響曲第7番。サントリーホールでの、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番・ブラームス:交響曲第1番のコンサートと、どちらを取るか迷った挙句の選択だった。

まず最初のモーツァルト。ソリストはペライア。ペライアを生で聴くのは初めてだろうか。24番はモーツァルトの数多いピアノ協奏曲の内、単調で書かれた2曲の内の1つで、有名で演奏の機会の多い20番と比べると、ちょっとパッとしない曲というのが個人的印象。久しぶりに聞いた曲だが、モーツァルトとしては旋律の使い方や変化のさせ方が少々エレガントさに欠ける感じで、久しぶりにじっくりと聞くと、あんまりモーツァルトらしくないないなあ、と言う印象。勿論これは演奏者とは無関係な話。おまけにコンサートの直前まで仕事の電話でバタバタしていて、あまり集中して聴けなかったのも悪かった。ハイティンクの指揮は、やはり歳のせいか、短調の曲にしては少々劇性に欠ける印象だった。

この日のメインのブルックナーは、さすがにハイティンクだけあって要所を押さえた指揮ぶり。しかし2年前の第9番と比べると少々テンポの揺れ幅が大きく、もう少しインテンポでもいいのでは?と思った。オケは、第1、第2ヴァイオリンを左右に分けた対抗配置で、第1ヴァイオリンの奥にコントラバスがあって、左側の席だとよく低音が響いて聞こえた。面白かったのは、チューバの配置。ティンパニーの右にトロンボーンが座り、その右端にチューバがいるのだが、第2楽章の時だけチューバが歩いて移動し、コントラバスの横に座っていた。その目的は、聴けばわかるが、第2楽章の陰鬱な旋律の際に、コントラバスの低音とチューバの低音を一体化させるための措置だった。ハイティンクは高齢にも関わらず、全体をビシっと統率し抜いており、最終楽章のコーダの最後まで全く弛緩するところがない。

しかしハイティンクも、もう86歳。さすがに大曲の指揮を終えた後は歩くのも辛い感じで、見ていて少々痛々しかった。今回の来日ツアーも、8日間で5回のコンサートという強行軍で、86歳の高齢には辛いだろう。あまり考えたくはないが、もしかしたらこれが最後の来日になるかもしれない。無理せず体をいたわって欲しいと思うのが正直なところである。

尚、今回のコンサートでは、私の方に精神的なゆとりがあまりなく、集中して聴くことができなかったのが残念だった。
nice!(2)  コメント(0) 

小谷城(栃木県小山市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02259.JPG←城址碑と神明宮
(2007年1月訪城)
 小谷(こや)城は、下野の名族小山氏の支城である。元々の創築は、1120年に小谷三郎俊景によるとされる。後に小山氏の祖、小山政光がこの地を支配し、居住したと伝えられている。南北朝期には、小山氏の庶流網戸村重が小谷城主となって生井八郎を称したが、結城合戦(1440~41)に破れ、奥州に逃れた。戦国後期になると、祇園城主小山秀綱が小谷城を再興し、大橋左京亮を城代としたが、1590年の祇園城落城と共に廃城となったと言う。
 小谷城は、渡良瀬遊水地の北東にあり、旧思川の北岸の低台地上に築かれていた。古い航空写真を見ると、台地の周囲を円形に取り囲む堀が残っていたようだが、現在は耕地整理によって遺構は完全に湮滅している。わずかにかつての城内の一角に、神明宮の小さな祠が建ち、そこに『史跡 小谷城址』と刻まれた石碑が建つのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.24988,139.715002&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
nice!(4)  コメント(0) 
メッセージを送る