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府中城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7721.JPG←外郭の切岸と堀跡の道路
(2015年7月訪城)
 府中城は、常陸の名族大掾氏歴代の居城である。大掾氏は、平将門の伯父平国香が常陸国の大掾となって土着し、その子貞盛は天慶の乱の際に従兄弟の平将門を討って大功を挙げ、その後裔は代々常陸大掾職を世襲したため、役職名を家門の名とした。大掾氏は、吉田・豊田・行方・鹿島・真壁・東条・下妻・小栗の八支族を中心とする多くの庶家を輩出し、常陸南部に勢力を扶植した。南北朝時代には、大掾高幹は当初南朝方として活動したが、後に北朝方に転じ、1341年の幕将高師冬による小田城攻撃の際には、高幹は南朝方の志筑城を攻撃している。その後高幹は、家督と大掾職を嫡男文幹(詮国)に譲って水戸に隠居した。文幹は、将軍足利義詮より一字を賜り、詮国と名を改めた。府中城は、この大掾氏惣領の詮国によって、1346年から5年の歳月を掛けて、かつての常陸国府の地に築かれ、以後代々の居城となった。また鎌倉府から、佐竹氏・宇都宮氏らと並んで関東八屋形に列せられ、古豪として勢威を誇った。しかし1416年の上杉禅秀の乱では、大掾満幹は禅秀方に付いて敗北した。その結果、居館の水戸城を含む水戸地方は、鎌倉公方方として活躍した江戸氏に与えられたが、満幹は水戸城の引き渡しを拒否して居座っていた。1426年、満幹が「青屋祭」執行の為、一族・重臣を連れて府中城に赴くと、この不在の隙を突いて、河和田城主江戸通房は水戸城を奪取した。1429年には、大掾満幹父子は鎌倉雪の下において足利持氏によって殺害され、大掾氏家中は大きく動揺した。戦国時代に入ると江戸氏や小田氏との抗争が激しく繰り返され、それへの対抗上、大掾貞国は南進する佐竹氏に従った。1573年、大掾氏と小川城主園部氏が対立すると、江戸・佐竹両氏は園部氏を救援し、この機に乗じて小田氏治が貞国の弟常春が守る三村城を攻略し、大掾氏は府中城南の防衛拠点を失った。その後、天正年間(1573~92年)には度々府中城が江戸氏の攻撃を受けた。1590年の小田原の役では、大掾氏は豊臣秀吉の元に参陣せず、役後に常陸一国が佐竹義宣に与えられると、同年12月に佐竹勢によって府中城は攻略され、大掾清幹は自刃して平安以来の名族大掾氏は滅亡した。義宣は、叔父の義尚を府中城主としたが、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、出羽六郷から六郷政乗が1万石で入封し、1700年には徳川光圀の弟松平播磨守頼隆が2万石で封じられ、陣屋を築いて幕末まで存続した。

 府中城は、恋瀬川北岸の比高20m程の段丘上に築かれている。半島状に張り出した台地先端に主郭を置き、町屋が広がる基部の台地との接続部にニノ郭、町屋の台地内に三ノ郭・外郭を配した縄張りとなっている。しかし城内は市街化により改変が進み、遺構の湮滅が激しい。しかし地勢はよく残っており、歩いて回ると城の名残がよく分かる。主郭は住宅団地になっているが、周囲は急峻な崖で囲まれ、ニノ郭との間の掘切の南半分だけが僅かに残っている。二ノ郭と三ノ郭との間の掘切は、ほとんど湮滅しているが、北半は窪地状の地形として名残を残している。三ノ郭はほとんどが石岡小学校の敷地になっているが、北東部に土塁が残っている。外郭はほぼ湮滅しているが、外周の切岸やその周囲の堀跡が道路となって残っている。思ったよりは往時の地形を残しているので、標柱等がもっと整備されればと、石岡市の取組みの少なさには少々残念に感じられる。
三ノ郭の土塁→IMG_7767.JPG
IMG_7794.JPG←主郭の掘切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.189412,140.265241&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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志筑城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7667.JPG←主郭周囲の土塁
(2015年7月訪城)
 志筑城は、鎌倉時代に下総国下河辺荘の地頭であった下河辺政義が築城した。政義は、源頼朝の叔父に当たる兄の行平と共に頼朝に仕え、1181年に志田三郎先生義広が挙兵して下野を攻めた時、これを討伐した功によって下河辺荘の地頭職を賜り、志筑城を築いたと言われている。その後、子孫は益戸氏を称して、代々志筑城主となった。6代益戸国行は、南北朝争乱の中で南朝方に組し、幕将高師冬によって小田城と共に攻められた。国行は、北朝方の大掾高幹らと数度にわたって戦い防戦に努めたが、1341年6月に遂に敗れ、下野小山氏の元に逃れ、志筑城は廃城となった。時代は下って、1603年に佐竹氏が秋田に移封となり、代わって秋田の本堂茂親が志筑藩の領主となると、1645年にこの地に陣屋を構え、幕末まで本堂氏12代の陣屋となった。

 志筑城は、恋瀬川南岸の比高15m程の台地突出部に築かれている。以前は主郭に志筑小学校があったが、現在は廃校となった後に校舎が撤去され、広い空き地となっている。空き地の北辺と西辺には土塁が残り、その西側には空堀も残っている。しかしそれ以外には明確な遺構がないので、往時にどの様な縄張りだったのかは想像するしか無い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.192529,140.233977&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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柿岡城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7634.JPG←三ノ丸に残る土塁
(2015年7月訪城)
 柿岡城は、鎌倉時代から幕末まで存続した城である。その創築は、1192年頃、宇都宮氏の支族で常陸守護となった八田知家の10男小田時家によるとされる。時家の家系は、その後柿岡氏を名乗り、約300年にわたってこの地を支配した。戦国末期には、柿岡氏は衰退して常陸経略を進める佐竹氏に降り、その後は佐竹氏の家臣である梶原政景・真壁房幹・長倉義興・国分盛重が城主を歴任した。1602年に佐竹氏が秋田に転封となると、立花宗茂の弟直次が5000石で入封し、1623年には3代将軍家光の乳母春日局の子稲葉正勝が入封した。1632年に正勝が小田原城に転封となると、それ以後は徳川氏の直轄領となって代官の支配するところとなり、そのまま明治維新を迎えた。

 柿岡城は、小倉川北岸の段丘上に築かれている。早くに開発が進められたため、遺構はほとんど湮滅し、城内は柿岡小学校や高齢者センター・保育所などに変貌してしまっている。しかし段丘の形状はそのまま残っており、本丸であった小学校敷地の中には、往時の櫓台跡と思われる土壇に丸の内稲荷が祀られている。また本丸南の三ノ丸の西辺には土塁が残り、その南側には空堀も残っている。僅かな遺構と地勢は残っているが、城の雰囲気はかなり失われているのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.239549,140.19192&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平山城
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羽黒山城 山麓居館推定地(茨城県桜川市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7593.JPG←推定地の台地の現況
(2015年7月訪城)
 羽黒山城には、かつて加茂部へ降る台地上に土塁と空堀で囲まれた方形居館があったと言われる。地名が「御城台」「中城」として残っているだけで、国道50号線建設のために遺構は湮滅されたとされている。しかし現在国道50号線が通っている場所を、昭和20年代前半の航空写真と照合すると、方形居館らしい場所は現在でも台地となって残っている様であった。そこで、山麓居館の推定地として訪問した。
 この推定地は、現在でもほぼ方形の高台となっているが、中央部に国道が貫通し、破壊を受けている。高台の国道南側は畑となり、北側も畑と空き地となっている。採土などもされたらしく、外周部は破壊を受けているようだ。北辺だけ土塁が残っている様に見えたが、薮でよくわからなかった。方形台地の形状としては、往時の面影を残しており、居館があったとしてもおかしくない地形である。

 お城評価(満点=五つ星):-(推定地のため、評価なし)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.356143,140.158811&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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歴史的犯罪 [雑感]

今日、自民党・公明党の国会議員共は、
違憲立法を多くの国民世論を無視して強行採決するという歴史的犯罪を犯した。

政治権力は、憲法を無視できるという悪しき先例を作った。
これは政治権力による、国民へのテロ行為にも等しい。
まさにナチスが行った全権委任法と何ら変わることがない。

今日からの数日間の出来事と、それに加担した与党国会議員の名を、
我々国民は決して忘れてはならない。
いずれ歴史が奴らを断罪する時が、かならず来る。
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春日山館(埼玉県伊奈町) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7513.JPG←桂全寺に残る春日氏墓
 春日山館は、小田原北条氏の家臣春日下総守景定の居館である。春日氏は藤原氏の出自と言われ、春日八郎光行は1537年に北条氏綱が扇谷上杉朝定の本拠であった河越城を攻略した際に軍功を挙げ、足立郡菅谷村に館を設け、足立一円を領した。その嫡子景定は岩槻太田氏に属していたが、岩槻城が北条氏康によって攻略されてその支城となると、そのまま北条氏に属し、1569年に小針内宿村に陣屋を築いたと言われる。後に北条氏が滅亡すると徳川家に仕え、京都伏見城の御門番を務めたと言う。
 春日山館は、現在は詳細な場所は不明であるが、内宿台という地名のある一帯にあったと思われる。この地は、宅地化され尽くした現在ではわかりにくいが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、綾瀬川流域の低湿地帯に西から張り出した低台地上に位置し、三方を湿地帯で囲まれた要害地形だった様である。前述の通り宅地化され尽くしているので遺構は見る影もないが、内宿駅近くの桂全寺に春日氏の墓が残っており、その足跡を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.016511,139.605589&z=15&base=std&vs=c1j0l0u0
    ※但し、正確な場所は不明。
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足立遠元館(埼玉県桶川市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7506.JPG←館跡に建つ石碑
 足立遠元は、鎌倉幕府初期の宿老である。元々源氏の家人で武蔵国足立郡を本拠としており、平治の乱で源義朝に従った。後にその遺児頼朝が石橋山で挙兵し、敗北して安房に逃れて再起すると、武蔵で豊島清光葛西清重らと共に頼朝の元に参じた。頼朝の側近であった安達盛長とは縁戚に当たり、頼朝が公文書を設立するとその寄人の一人に登用され、やがて勲功10人の1人として左衛門尉に任じられた。2代将軍頼家の独断を抑えるために、13人の有力御家人による合議制が敷かれた際、遠元もその1人として加わっている。
 足立遠元の館には、幾つかの伝承地があり、桶川市のものもその一つである。現在、桶川市総合福祉センターが建っている場所に館跡があったとされるが、早くにその遺構は失われたらしい。現在は何も残っておらず、福祉センター脇に立派な石碑が建っているのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.006062,139.571214&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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石戸堀の内館(埼玉県北本市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7502.JPG←神社裏の土塁と堀跡
 石戸堀の内館は、蒲冠者源範頼の居館であったとも、石戸左衛門尉の居城であったとも言われる城館である。範頼の館との説は、単なる伝承と思われるが、付近には範頼伝説の残る東光寺や石戸蒲桜がある。それに対し、鎌倉幕府の御家人であった石戸左衛門尉については、『吾妻鏡』に鎌倉中期の鶴岡八幡宮放生会参列の記事があり、その石戸氏の館であったという説が有力である。
 石戸堀の内館は、荒川東岸の段丘の中程に位置している。北本市の資料によれば、100m四方の方形の主郭を、円形とおむすび形の二重の土塁・堀で囲郭する、規模の大きな城館であったらしい。現在も遺構の一部が残っており、石戸神社の裏の山林内には土塁と堀が残っている。またおむすび形の外郭の南辺には、切岸跡の大きな傾斜地と堀跡の水路が残っており、往時の規模を偲ばせる。遺構はわずかだが、地勢は往時のまま残っている様だ。
外郭の堀跡の水路→IMG_7478.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.007017,139.513814&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
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久下氏館(埼玉県熊谷市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7257.JPG←館跡付近の現況
 久下氏館は、武蔵七党の一、私市党の一流久下氏の居館である。私市家盛の弟為家が武蔵国久下郷に分封されて久下氏を称した。久下直光・重光父子は、源頼朝に石橋山の挙兵時から従い、殊に土肥の杉山の頼朝の陣に一番に馳せ参じたことから、「一番」の家紋を賜わり、承久の乱の際には久下三郎が京に攻め上った鎌倉勢に従軍して功を挙げ、そのまま丹波の所領に留まり、丹波の国人領主となった。後の南北朝時代に、『太平記』に名高い久下弥三郎時重を輩出した。
 久下氏館は、現在は荒川北岸の河川敷になっている。この河川敷は、辺り一面が耕地化されており改変が進んでいるため、どこに居館があったのかも定かではない。戦後間もなくの航空写真を見ても、既に明確な館跡らしい形状はどこにも見られないので、遺構は早くに失われているのであろう。尚、館跡の北西1.3kmの場所にある東竹院は、久下次郎重光の開基とされ、境内には直光・重光父子の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.119937,139.411204&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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西城(埼玉県熊谷市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7233.JPG←西城の現況
 西城は、長井城とも呼ばれ、成田氏の祖となった成田助高の初期の居館とされる。この福川南岸の地は長井庄の要衝で、平安初期には左近衛少将藤原義孝の所領となり、その5代の裔、幡羅太郎道宗が館を構え、その子成田式部大輔助高が本城として西城を築いたとされる(但し、成田氏は武蔵七党横山党の一流との説もある)。この時、東には東城が出砦として築かれた。その後、1062年に前九年の役で源頼義・義家父子に従い軍功を挙げた越前斎藤実遠が、源家所領の長井庄の庄司となってこの地に入部すると、助高は太田庄成田郷に館を移したと言う。以後斎藤氏の領するところとなったが、実遠の子実直は越前河合の同族から実盛を養子として迎え、実盛は首邑の地利を考慮して、館を西野郷に移したと伝えられている。実盛は、源平争乱の際に加賀篠原での戦いで木曽義仲と戦って壮絶な討死を遂げた。

 西城は、東城より南南西750mの位置にあり、一面の耕地の只中に立派な石碑が建てられている。明確な遺構は見られないが、石碑が建っているのは微高地で、これが城館の痕跡であろうか。日本城郭大系では水堀の一部が残存しているとされるが、その後の改変で失われたようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.195421,139.394896&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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Windows Updateの不調解決! [日記]

1ヶ月ほど前からか、私の使っているノートPCで、
何かWindows Updateの動きがおかしいと思っていたら、
(ダウンロードがずーっと0%のままで進んでいないっぽい)
案の定、8月分の定期アップデートがインストールされていないことに気付いた。
それが先々週の話。

何度Windows Updateを起動してもダウンロードが進まず、
このままセキュリティーパッチがインストールされていない状態で放置するのは
はなはだ危険なので、
先週に入って本格的に対策を取ろうと調べ始めた。

ネットで調べると、Windows Updateが正常に走らない不具合の例は多々あるらしく、
結構な数の類似事例がヒットした。
しかし、Microsoftが不具合対策ツールとして推奨しているFixItも、
試したが効果がなかった。

そのうち、どうも「バックグラウンド インテリジェント転送サービス(通称BITS)」というのが
動作していないのが原因らしいことが特定できた。

サービス画面(「ファイル名を指定して実行」にServices.mscと入力すると出てくる画面)で
確認すると、BITSのサービスが開始しておらず、開始ボタンをクリックしても、
「ローカルコンピュータ上のBackground Intelligent Transfer Serviceサービスは起動して停止しました。サービスの中には、ほかのサービスやプログラムで使用されていない場合は自動に停止するものがあります」
というエラーメッセージが出て、どうしても起動できない。

色々と試したが、
 ・BITS修復ツールを使用しても、現在必要ありませんとメッセージが出てダメ。
 ・システムファイルの検査(コマンドプロンプトでsfc /scannowを入力)をしても異常なしと出る。
 ・BITSの関連サービスは全て開始されていて異常なし。
 ・BITSのレジストリを確認しても異常なし。
 ・WindowsフォルダーのSoftwareDistributionフォルダーも問題なし。
 ・Regsvr32コマンドを使って幾つかのdllファイルを登録しても、
  いくつかエラーが出てしまい、結局状況に変化なし。
 ・エラーが出たdllの内、msxml.dllが怪しいので、
  MSのサイトから最新版のインストールなどを試したがやはり変化なし
 ・仕方ないので、各セキュリティーパッチのKB番号で検索し、
  1個1個手動でインストールしようとしたが、
  この方法でもインストール失敗してしまうパッチが相次いだ
と、先週1週間かけても解決できず、完全に手詰まり状態になった。

私のノートは古いVista機で、来年にはVistaのサポートが切れるので、
遅かれ早かれWindows10のPCに更新しないといけない。
来年を待たずに、PCを買い換えるしか無いのか?
でも今年はそんな金ないし、
来年までセキュリティに穴がある状態で使い続けるしか無いのか?むむむ・・・。

半ば諦めつつ継続してネット調べていくと、
Windows Updateのエラーコードで確認する方法が出ていたので、
今度はエラーコードで検索してみた。
うちのPCで出ていたエラーコードは80246008。
それでも、あまり有効な手立てが見つからない。

そんなこんなでようやくたどり着いたサイトが、これ↓。
http://www.itexperience.net/2009/03/01/fix-the-background-intelligent-transfer-service-service-terminated-with-service-specific-error-2147942402-0x80070002/

記載の通り、Step 1から5まで実行したが、状況に変化はなかった。
しかし、その下のコメント欄の記載を実行したら、ようやく解決した。
(この内容はWindows 2003 ServerとXP用のものだが、Vistaでも解決法は同じだった)

原因はどうやら、レジストリの
 HKEY_LOCAL_MACHINE\SYSTEM\CurrentControlSet\Control\BackupRestore
の中に、FilesNotToBackup のキーが無かったこと。
レジストリエディターでFilesNotToBackupのキーを新規作成してエディターを閉じ、
サービス画面でBITSの開始をクリックすると、
何事もなかったかのようにスッとサービスが開始された!

この状態でWindowsUpdateを起動すると、すんなりダウンロードが始まり、
セキュリティーパッチがインストールされた。
わかってしまえばたったこれだけの内容だが、これを解決するのに結局1週間も掛かってしまった。

※レジストリ操作は大きな危険を伴うので、
 PC操作に自信のない人は絶対いじらないで下さい。
 レジストリを操作する場合は、あくまで自己責任でお願いします。
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東城(埼玉県熊谷市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_7228.JPG←八幡神社脇の窪地
 東城は、西城に対する東の砦であったとされる。この福川南岸の地は長井庄の要衝で、平安初期には左近衛少将藤原義孝の所領となり、その5代の裔、幡羅太郎道宗が館を構え、その子で成田氏の祖となった成田式部大輔助高が本城として西城を築いたとされる(但し、成田氏は武蔵七党横山党の一流との説もある)。この時、東に砦を設けており、これが東城と呼ばれる。その後、1062年に前九年の役で源頼義・義家父子に従い軍功を挙げた越前斎藤実遠が、源家所領の長井庄の庄司となってこの地に入部すると、助高は太田庄成田郷に館を移したと言う。以後斎藤氏の領するところとなったが、実遠の子実直は越前河合の同族から実盛を養子として迎え、実盛は首邑の地利を考慮して、館を西野郷に移したと伝えられている。実盛は、源平争乱の際に加賀篠原での戦いで木曽義仲と戦って壮絶な討死を遂げた。

 東城は、福川南岸の八幡神社付近にあったとされている。神社の脇の茂みの中には、窪地状の地形が見られ、堀跡であるかもしれない。しかし古い館でもあり、周辺の改変も進んでいるため、明確に遺構とは言い切れない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.201326,139.398737&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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金子十郎家忠館(埼玉県入間市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_6895.JPG←金子氏一族の墓
 金子十郎家忠は、武蔵七党の一、村山党の武士である。家忠は保元の乱の際、崇徳上皇方に与して白河殿攻めに活躍し、源平争乱の際には平家追討軍に加わって屋島・壇ノ浦と多くの戦功を挙げた。鎌倉幕府が開府すると、家忠は源頼朝・頼家・実朝3代の将軍に仕え、1216年に没した。
 金子十郎家忠館は、現在の瑞泉院(木蓮寺)境内にあったとされる。南向きの丘陵中腹に当たり、鎌倉期に居館を置くに好適な地勢であったと思われるが、現在は墓地造成などで改変され尽くされてしまっており、館跡の遺構は完全に湮滅している。しかし、家忠一族の位牌堂や6基の宝篋印塔が残っており、その歴史を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.814699,139.319108&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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加治氏館(埼玉県飯能市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_6869.JPG←寺近くの段丘
 加治氏館は、日本城郭大系では加治屋敷と記載され、武蔵七党の一、丹党の加治氏の居館である。丹党の秩父丹五基房(坂東八平氏の秩父氏とは別流)の5男経家が武蔵国高麗郡に分封され、経家の次男家季が加治氏を称したと言われている。加治氏は鎌倉幕府の御家人となり、家季は頼朝上洛の随兵となり、また執権北条氏が謀略で畠山重忠を討った二俣川合戦で討死した。鎌倉末期には、新田義貞挙兵の折、これを小手指原・久米川・分倍河原と迎え撃った鎌倉勢の桜田治部大輔貞国が率いる軍勢の中に、加治次郎左衛門入道(家貞)の名前が『太平記』に記載されている。家貞を供養する板碑が円照寺(入間市)に残っており、その日付が鎌倉幕府滅亡の日に当たることから、家貞は鎌倉で北条一族と運命を共にしたと考えられる。
 尚、戦国時代には、加治氏の後裔は中山氏に改称し、中山勘解由家範は小田原北条氏に仕えて北条氏照の重臣となり、八王子城の戦いで壮絶な戦死を遂げた。家範の次男信吉は、徳川家康に見出されて信任を受け、家康の11男頼房が立藩した際に附家老に抜擢され、頼房が水戸藩を興すと、中山家は代々水戸徳川家の附家老として、後には常陸松岡城主となって幕末まで重要な地位にあった。

 加治氏館は、宝蔵寺付近にあったとされている。私はてっきり宝蔵寺西の段丘部分かと思ったが、帰ってから調べたら、どうも寺の背後の山林の中にあったとされているらしい。しかしいずれにしても、城郭大系に記載されている掘切や屋敷跡とされる平坦地などの遺構は残っていないらしい。いずれ再訪して、自分の目でも確認したいと思っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.864987,139.32827&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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大平山城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02461.JPG←曲輪側方の石垣
(2007年1月訪城)
 大平山城は、歴史不詳の城である。勢力圏としては皆川氏の領域にあり、南方は榎本城藤岡城、西方は唐沢山城を望見でき、北は皆川城と連絡することのできる高地であることから、皆川氏の支城と推測するのが自然であろう。尚、太平山神社裏の郭の北東にある大館山も城域で、皆川・北条の間で激戦が行われたと言う。また、太平山神社の南東に伸びる尾根上の平場は「謙信平」と呼ばれ、1569年に越相同盟が結ばれた後、謙信は大平山に登って兵馬の訓練を行い、この謙信平から関東平野を望見してその広さに目を見張ったと伝えられている。

 大平山城は、標高341mの大平山山頂を中心に築かれた城である。遺構としてはささやかで、富士浅間神社の鎮座する山頂に小さな主郭があり、神社裏には櫓台が築かれている。主郭周囲には腰曲輪が廻らされ、主郭から南東の太平山神社に向かって伸びる尾根上に幾つかの曲輪が築かれている。また主郭近くの西尾根も曲輪が築かれている。しかし特に掘切などで分断されておらず、普請としては平場を削平しただけのささやかなものである。一方で、南東の曲輪の側面には立派な石垣があり、往時の遺構の可能性がある。但し、小規模な城砦には似つかわしくない規模であり、富士浅間神社への参道を整備した際の後世の構築の可能性も考えられる。いずれにしても、皆川領の南方を監視する物見として機能した城砦であろう。
南東尾根の曲輪→DSC02434.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.365129,139.690282&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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