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三峰城(埼玉県秩父市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_6833.JPG←掘切とされる地形
 三峰城は、歴史不詳の城である。奈良時代以来この地に鎮座する三峯神社の境内にあることから、武装化した神社の神人によって城砦が築かれた可能性は考えられよう。

 三峰城は、三峯神社背後の尾根に築かれているとされる。「される」と記載したのは、これが本当に城郭遺構なのか、確証が持てなかったからである。三峯神社は、山を越えた先にある秩父からでも車で1時間も掛かる、物凄い山奥にある。しかし最近、三峯神社はパワースポットとして有名らしく、これ程の山奥なのに立派な観光地となっており、観光客もかなりの数に登る。この神社の裏に、ヤマトタケルの大きな銅像が建った高台があり、いかにも主郭らしい雰囲気がある。しかし周囲にはあまり明確な腰曲輪状の平場は見られない。これは後世の改変によるせいもあるだろう。そこから南に伸びる尾根上に城郭遺構があるとされ、確かに遥拝殿に至る階段は掘切を利用したように見えるし、その先の尾根にも堀切状の地形が数ヶ所見受けられるが、ほとんど自然地形に近く判然としない。一番疑問なのは、これらの地形に明確な防御構想が感じられないことである。その意味で、これを城郭遺構と呼んでいいのか疑問を感じたのが正直なところである。武蔵御嶽城の例もあり、神社が武装化することは十分考えられるが、御嶽城に見られた様な、明らかな城郭遺構はここでは見られない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.925322,138.931839&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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8.30 国会前の大規模デモ! [雑感]

IMG_20150830_135412.jpg←まだ統制が取れていた時の写真
(2時前)

本日の、国会前10万人デモに参加。
今日はあまりの数の人出にびっくりした。

前回、7.18のデモに参加した時は、思ったほど人が集まっていなかったのと、
女性の参加が多く、特に20~40代の男性の姿が少なく、
この国、大丈夫か?と少々不安に思ったものだが、今回は全く違う。

20~40代の男性も多く、若い夫婦が子供連れで、とか、
若い20代のカップルまでいる、という感じで、
老若男女を問わず反対の声の裾野の広がりを実感した。

それ程に、今回の安保法制の異常さ、
それを強引に推し進めるアベ一味の異様さに、
国民皆が強い危機感を抱いている証左であろう。

何しろその数は、最初は規制線を張って、メガホンでアナウンスして、
歩道だけに群集を押しとどめていた警官たちが、
2時を過ぎた頃にはあまりの群衆の多さに、
アナウンスも効果がなくなってやめてしまい、
辛うじて規制線を張っているものの、
それを越えて国会に向かって歩いて行く群衆にもはや為す術が無くなっていた程だ。

国会前の広い車道も、最初は警官たちが車の通行を確保していたが、
押し寄せる群衆の多さに抗しきれず、
遂に規制線が決壊して、国会前道路全体に群衆が溢れだしたのである。

今回の参加人数がどれほどだったのか、定かではない。
それというのも、国会前から日比谷公園に至る広い範囲に国民が列を為し、
その全貌が地上に居たのではわからないからである。

感触として、おそらく5万は下らないだろう。
警察発表?(下野新聞や朝日新聞によると、警察は正式発表せず、
関係者の話という形で、情報を流したらしい)によると、
「国会周辺だけ」で3万3千人ということだが、
これも曖昧だらけの情報で、精度としてはかなり怪しい。

例えば、「国会周辺」ってどこからどこまで?っていう曖昧さを有し、
しかも正式発表せず、「関係者の内々の話」と言う形で、
過小な数字を発表している疑いが強い。

ついでに、マスコミの報道にも触れておく。
まずアベ応援団で有名な読売。応援団らしく、現時点で全くデモに触れていない。
次に日経。デモに触れるどころか、内閣支持率回復の記事をこのタイミングで載せる、
アベべったりの姿勢。今回のデモを見る限り、反対派の裾野は逆に広がっている。
産経は、デモの記事を載せるものの、わざと大群衆が集まったとはわからないような
狭い視野の写真にして、大群衆が集まった印象を抑えようと躍起になっている。
朝日は、「参加者が歩道からあふれて、警察側が車道を開放した。」と書いているが、
これも実相に程遠い。
実際は、歩道で参加者を抑えようとしたが、参加者の多さと勢いに警察が押し切られ、
群衆が車道を占拠してしまった、というのが実情。
毎日は、ウソや事実の歪曲は書かない代わりに、実情も明確には伝えず、
マスコミとしての使命を放棄している。

こんな感じで日本の大マスコミは、いずれも全く信用出来ない。
実情は、下記の動画がもっともよく伝えている。(一応断っておくが、私が録ったわけではない)
https://www.youtube.com/watch?v=g-cTh3cdAe4
(YouTubeの動画の表題には「歩道に人があふれた瞬間」となっているが、
 これは「車道」の間違い。)

今回のデモでは、怒れる国民がいかに多いか、よく実感できた。
それも、60年代安保闘争のような左翼による組織動員ではなく、
国民一人一人が考え、危機感を共有して、自発的に集まっている。
正直、日本人を見直した思いである。

今後も、長い戦いが続く。
おそらく参議院で強行採決されるだろうが、
今日のデモを見て自公の議員どもは落選の恐怖に震え続けるがいい。
来年の参院選。数年後の衆院選。
その時、安保法案に賛成した議員をことごとく落選させ、
違憲法案廃止の法律を可決して、安保法案を廃止させるまで、
我々国民の戦いは続く。
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敏桑館(埼玉県秩父市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_6780.JPG←民家裏の石塁
 敏桑館は、別名を嫩桑館、高根城とも言い、歴史不詳の城館である。一説には、武蔵七党丹党に属する岩田氏の館であったとも、或いは小田原北条氏の侵攻を受けた藤田重利が、1560年にこの地に逃れて、敏桑館の館主となったとも言う。
 敏桑館は、荒川西岸の台地の中程に築かれた館である。周囲は畑や宅地となっており、明確な遺構は少ない。畑と民家を仕切るように石塁が残っており、これを遺構とする説もある様だが、秩父地方で石塁を有する阿左美氏館設楽氏館と比べると、石の大きさも積み方も異なり、近世の構築と捉えた方が自然であろう。もう少し確実な遺構が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.973318,139.055221&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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織原氏館(埼玉県寄居町) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_6771.JPG←堀跡と思われる水路
 織原氏館は、武蔵七党の一流丹党に属する織原氏の居館である。織原氏は、丹党の薄長房の次男泰房が男衾郡折原村に分封されて、織原丹五郎を名乗ったのが始まりとされる。その他の事績は不明である。
 織原氏館は、荒川南岸の平野に築かれていたとされる。現在は畑となって遺構は完全に湮滅しており、周囲の堀跡と思われる90度折れ曲がった水路と堀の内の地名がその痕跡を残しているに過ぎない。館跡には「堀の内 織原氏の 屋敷跡」という郷土かるたが立てられており、その隣には井戸がある。これは往時の井戸が残っているのだろうか?いずれにしても、高度成長期前の1960年の航空写真を見ても、既に前述の水路以外は確認できないので、早くに遺構が失われたのだろう。それでも郷土かるたに謳われるほど、その歴史が伝えられているのが微笑ましい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.114338,139.176221&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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大須加山砦(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6746.JPG←馬加康胤の首塚
 大須加山砦は、歴史不詳の城砦である。千葉氏の有力支族馬加氏の居城馬加城に近く、往時は砦の下を通る国道14号線の際まで海岸線が迫っており、馬加城を防衛し、海岸線防備も兼ねた砦であったと推測されている。
 大須加山砦は、浜田川西岸の比高10m程の大須賀山と呼ばれる段丘先端に築かれている。往時は前述の通り眼下近くまで海岸線が迫り、浜田川の河口も間近に位置していた。丘の中腹には大日堂があり、台地上には馬加康胤の首塚と伝えられる方形の塚が残っている。この塚は、櫓台ほどの大きさがあり、古の方墳であったものがいつの頃からか康胤の首塚と伝えられるようになったのかもしれない。塚の周囲には腰曲輪らしい平場があり、土塁と物見台らしき土盛りも見られる。詳細不明であるが、物見の砦を置くには絶好の場所であったことはうなづける。
土塁らしき土盛り→IMG_6741.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.66345,140.045707&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平山城
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若宮館(千葉県市川市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6657.JPG←外周に残る土塁
 若宮館は、日蓮の代表的な門下であった富木常忍の居館である。常忍は元々、下総守護千葉頼胤に仕えた豪族で、八幡荘若宮と呼ばれたこの地に館を構え、幕府のある鎌倉との間を往復していた。その中でたまたま布教活動をしていた日蓮と出会い、熱心な信者となった。日蓮との繋がりの強さは、1260年に日蓮が鎌倉松葉ヶ谷で焼討ちされた際に、常忍を頼って若宮館に難を逃れたことからも推測できる。この時常忍は、館内に法華堂を建て、日蓮に説法を願い出た。1264年に安房小松原で、日蓮が地頭東条景信に襲撃され重症を負った後にも(小松原法難)、日蓮は若宮館に身を寄せた。1282年、日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺とし、後に法華経寺の奥之院と称されるようになった。

 若宮館は、よくある単郭方形居館であったと思われ、現在でも奥の院の周囲に土塁が残っている。かなり改変されている部分もあるが、土塁の痕跡は明瞭で、周囲の道路も空堀跡であることが城館巡りに慣れた人ならばひと目で分かるだろう。この館には、法華経寺に行こうとして車で通りかかり、たまたま道路脇の解説板を見つけて訪城した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.721326,139.953547&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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幸谷城(千葉県柏市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6611.JPG←林の中に残る土塁
 幸谷城は、歴史不詳の城である。鎌倉時代には幸谷城のある増尾村が千葉氏の一族相馬氏の所領であったこと、また幸谷城の規模・構造が近くの増尾城と比べて単純で要害性に劣ることなどから、鎌倉時代に相馬一族の城館であった可能性が高いと考えられている。

 幸谷城は、増尾城の南方わずか600mの、地元で「きつね山」と呼ばれる比高10m程の段丘上に築かれている。松ヶ崎城などと同じく段丘の上の平地に方形の土塁を築いており、段丘の要害性を活かした単郭方形居館であったと思われる。民有地の屋敷林の中にあるが、現在は地元の有志「柏ふる里つくり隊」によって整備され、年1回の地元イベント「カシニワフェスタ」の中で公開されている。人目を気にせず大手を振って遺構の探索が出来る貴重な機会なので、今年の開催に合わせて訪城した。遺構としては、南と西の土塁がかなり明瞭で、特に西側には空堀と外側の土塁もはっきり確認できる。一方、東の遺構は湮滅しており、北側にも土塁と空堀が残るがかなり不明瞭になってしまっている。あまりはっきりしないが、北側も西と同様二重土塁になっていたように見受けられる。土塁の切れ目は西と南に見られるが、南のものは後世の改変の可能性が拭い切れず、西のものは食違い土塁になっていることから往時の虎口であったと思われる。この他、南東に物見台らしい土壇も見受けられる。「柏ふる里つくり隊」のHPに掲載されている遺構図は、実物とは左回りに90度回転して記載されてしまっている様だ。小規模な城館であるが、こうして大切に遺構が守られているのは素晴らしいことである。「柏ふる里つくり隊」には今後も頑張ってほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.834828,139.98436&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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籾井城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6503.JPG←西尾根の段曲輪群
 籾井城は、丹波の国人領主籾井氏の居城である。籾井氏の出自は、宇多源氏佐々木氏とも清和源氏であるとも言われるが定かではない。室町時代以前より当地に土着していたと考えられており、南北朝期より足利氏に仕えて福住周辺十五ヶ村を領した。籾井城は、永正年間(1504~21年)に籾井河内守照綱が築いたと言われ、その後籾井氏は勢力を伸ばした八上城主波多野氏に従った。天正年間(1573~92年)に明智光秀が丹波に侵攻した時には、城主は下野守綱利で、1577年に明智勢は綱利の父綱重・弟綱正父子が守る安口城を攻撃して落城させ、続いて籾井城を攻略、綱利は自刃したと言う。また真偽不明であるが『籾井日記』によれば、籾井越中守教業がこの時の城主であったとされ、黒井城主赤井直正が「丹波の赤鬼」と称されたのと並んで、教業は波多野氏の「青鬼」として恐れられたが、明智勢と戦い敗れて滅亡したとも言う。

 籾井城は、標高390m、比高140mの白尾山に築かれている。籾井城跡公園として登山道が整備されているので、登るのは容易である。山頂の主郭を中心に、四方に伸びる尾根上に各々直線的に段曲輪群を連ねた、比較的単純な縄張りとなっている。東尾根の曲輪群は未踏査のため不明だが、それ以外の3つの尾根の曲輪群はそれぞれ先端部を掘切で穿ち、動線を分断している。但しそれほど大きな掘切ではないので、分断効果は限定的である。北尾根の掘切は中央ではなく右寄りに土橋が架かり、内側の曲輪は土塁で虎口を防御している。その外側も平坦な平場が広がっており、先端に虎口があることから外郭として機能したらしい。一方、西の曲輪群は先端だけでなく、途中にも掘切が穿たれている。南の大手筋を降った先には、祠が祀られた平場があり、南の出曲輪であったと思われる。籾井城は、丹波に割拠する土豪の城がどうゆう規模と構造のものであったか、よく示している好例であろう。
北端の掘切と土橋→IMG_6546.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.076791,135.343752&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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母坪城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6392.JPG←竪堀
 母坪城は、穂壺城とも記載され、西丹波の戦国大名赤井氏の支城である。元々の創築は明確ではないが、後屋城の赤井一族が台頭するに連れて、その傘下に属したと考えられている。1533年には、細川晴元に属した赤沢景盛が城主で、晴元方から離反した八上城主波多野晴通に攻められ、善戦したものの落城し、景盛は討死した。その後、一時播磨へ難を避けていた赤井時家が復帰すると、母坪城にはその家臣稲継壱岐守が入った。1579年、明智光秀の丹波平定戦の際に明智勢の猛攻を受け、8月15日に落城したと言われている。この時笛の名手の壱岐守は、心静かに「松風」の一曲を吹き終えてから討死したと言う。

 母坪城は、高見城山から北に伸びた尾根の先端が、柏原川南岸に突き出た標高156.3mのピーク部に築かれている。山頂に主郭を配し、その前後に当たる南北に段曲輪群を連ねた直線連郭式の単純な縄張りとなっている。主郭北側には3段の段曲輪があり、その前面を二重掘切で分断し、更にその前方にも土塁を備えた曲輪群を築いている。一方、主郭背後には2段の段曲輪があり、2段目の先端には小さな櫓台が築かれて下方を睥睨している。その下方にも円弧状に腰曲輪が数段築かれている。この南西側下方にも曲輪らしい平場や堀状の通路が見られるが、後世の改変の可能性もあり、遺構かどうかは明確でない。この城で特徴的なのは、竪堀の効果的な使用による動線制約効果で、前述の円弧状腰曲輪には南西と南東に各2条ずつの竪堀が放射状に穿たれている。これらの竪堀は、下方の腰曲輪への城道としても機能した様である。また主郭前方の曲輪群でも、城道の側方に動線制約の竪堀が穿たれている。全体としての技巧性には乏しいが、竪堀の活用が目を引く城である。
主郭後部の曲輪群→IMG_6365.JPG
IMG_6451.JPG←前方曲輪群の掘切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.150582,135.040201&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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清安寺跡(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6277.JPG←解説板の建つ寺跡
 清安寺は、黒井城主赤井直正が建立した寺である。直正は幼名を才丸と言い、萩野氏に入嗣して朝日城を居城としていたが、1554年1月2日、黒井城で行われていた年賀の宴の席で、黒井城主であった叔父の萩野秋清を刺殺し、そのまま黒井城を乗っ取って居城を移した。これは秋清に追従できない一派の策略であったとされる。叔父を刺殺した才丸(直正)も骨肉の情穏やかではなく、その菩提を弔うために下館の近くに清安寺を建立して供養したと言う。
 清安寺跡は、黒井城の北方2.4kmの位置にある。現在は畑横の微高地で、空き地となっている。奥のこんもりした藪の中には、2基の祠と数基の墓石が建っている。これが現地解説板に書かれている萩野秋清夫妻の墓碑であろうか。たまたま通りかかって見つけた史跡で、地形は改変されて寺跡らしさは微塵もないが、直正の事績を伝える貴重な史跡であろう。
奥にある2基の祠→IMG_6280.JPG
IMG_6281.JPG←祠の奥の墓石群
場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.198991,135.113715&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:墓所
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玉巻城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6237.JPG←主郭の掘切
 玉巻城は、久下城とも呼ばれ、丹波の豪族久下氏が築いた詰城である。久下氏の事績については、久下氏館の項に記載する。1579年の明智光秀の丹波平定戦で落城したとも言われるが、現在残るささやかな遺構からは、戦国後期まで存続した城とは考えにくく、せいぜい室町後期の久下氏の没落と共にその役目を終えていたのではないだろうか。

 玉巻城は、久下氏の菩提寺である長慶寺の裏にそびえる標高241m、比高151mの山上に築かれた城である。道はないので、長慶寺の墓地裏付近から当たりをつけて、斜面を直登するしかない。なだらかな尾根上に曲輪を配しており、主郭は最高所の標高241m地点ではなく、それより南東の小ピークの位置とされている。主郭背後には浅い掘切が穿たれている。主郭の北東尾根にも曲輪らしい平場(ニノ郭)があり、その他主郭の周りに段曲輪が構築されている。主郭掘切の北西はなだらかな尾根で馬場とされ、その先端の241m地点の小ピークが三ノ郭とされる。三ノ郭付近には石がゴロゴロしているが、石積みとはなっておらず遺構かどうかもわからない。城内で明瞭な遺構は、掘切と段曲輪だけである。他は削平も甘く切岸もはっきりしない。遺構から考えれば、南北朝期の城とも思われるが、いかがであろうか?いずれにしても、太平記に名高い久下氏の城にしては、随分とささやかな遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.086712,135.043977&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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久下氏館(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6216.JPG←館跡付近
 久下氏館は、久下弥三郎時重屋敷とも称し、丹波の豪族久下氏の居館である。久下氏は、武蔵七党の一、私市党の一流で、私市家盛の弟為家が武蔵国久下郷に分封されて久下氏を称した。久下直光・重光父子は、源頼朝に石橋山の挙兵時から従い、殊に土肥の杉山の頼朝の陣に一番に馳せ参じたことから、「一番」の家紋を賜わり、承久の乱の際には久下三郎が京に攻め上った鎌倉勢に従軍して功を挙げ、そのまま丹波の所領に留まり、丹波の国人領主となった。1333年、丹波篠村で倒幕に挙兵した足利高氏(後の尊氏)が近国の武家に参陣を催すと、久下弥三郎時重は一族郎党140~50騎を率い、「一番」の紋をはためかせて真っ先に馳せ参じたことが『太平記』に見える。以後、時重は尊氏に従って軍功を挙げ、観応の擾乱の際も一貫して尊氏・義詮父子を助けたことから、荻野氏と並ぶ丹波有数の武家となった。しかし室町~戦国時代には、その勢力も衰微し所領も横領されて、明智光秀の丹波平定と共にその歴史を終えた。

 久下氏館は、久下氏の詰城である玉巻城の西麓の山南町金屋の金屋公民館の付近にあったらしい。ちょうど篠山川の支流が直角に折れ曲がっている部分に当たり、館の天然の外堀として機能していたと思われる。遺構は失われて久しいらしいが、地形的にはわずかに館跡らしい雰囲気を漂わせている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.08594,135.034622&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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「こんなはずじゃなかった」と言う羽目になっても、それは「後の祭り」 [雑感]

BLOGOSや新聞の意見広告などを見ていると、安保法制賛成派も必死なのがよくわかる。これだけ多くの国民から問題視されている法案だし、誰がなんと言い繕っても憲法違反であるのは火を見るより明らかだし、賛成派が言い立てる「中国や北朝鮮の脅威」は立憲主義を否定しうるだけの大義などありはしないし、劣勢なのは明らかだ。『日本会議』に注射された工作員が安保法制の必要性を述べたところで、矛盾点が解消されないどころか、突っ込みどころが満載な上、以前にもこのブログで述べた通り「立憲主義を否定する行為を、そうではないと理路整然と反証している賛成派の意見を全く聞いたことがない」のは相変わらずなので、全く論拠に欠けている。

時の政権に戦争決定のフリーハンドを渡すような杜撰な法案を、「戦争を起こさないようにする法案だ」と強弁したところで、良識ある国民が騙されるとでも思っているのだろうか?

それにしても、この賛成派の連中、「中国や北朝鮮の脅威」なんて言葉に踊らされて、立憲主義否定の行為を正当化してしまったら、後で大変なことになる危険性が大きいのがわからないのだろうか?権力の暴走を抑える術を国民が失ったら、あるのは太平洋戦争の破滅の二の舞いである。再び膨大な数の戦死者を出した後で、「こんなはずじゃなかった」と嘆いても、それは「後の祭り」であろうに。殊に、無知をうまく利用されているネトウヨ連中など、見ていて哀れで仕方がない。
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Wifi 5GHzの接続に苦労。 [日記]

先日導入したNURO光だが、
無線LANが2.4GHzだと混線でスピードが出ないので5GHzを選択していたが、
これがどうも不安定で、ノートPCが繋がったり繋がらなくなったりと、
(というよりたまにしか繋がらない)
原因不明の不具合が出ていて、先週からずーっと悩んでいた。

これはNEXUS 7(2013)も同じで、
2.4Gは問題ないのに、5Gだとごくたまにしか繋がらない。

ノートでもNEXUSでも、
Wifiの受信リストにNUROのONUゲートウェイ(F660T)の5Gが出てこないので、
ゲートウェイが壊れてるのかと、ゲートウェイの設定をいじったり、リセットを掛けたりと
いろいろ試してみた。

その中で新たにわかったのは、5Gで問題なく繋がる機器もあること。
嫁のノートはあっという間に繋がったし、同じく嫁のスマホも何の障害も出ていない。
ということは、どうもゲートウェイの問題では無いらしい。
でもそうすると、ノートとNEXUSの5Gの不調か?
でも同時期に壊れるというのも、何か納得行かない。

いろいろ悩んだが、
相手が電波だから、きちんとゲートウェイから電波が出ているのかどうか見えないので、
ゲートウェイが原因かどうかもわからず途方に暮れ始めていた。

しかし気を取り直して更に調べると、
Wifi電波の受信状態が可視化できる「Wifi Analyzer」なるアプリがあるとわかり、
早速NEXUSと嫁のスマホにインストールしてテスト。
5Gで電波状況を見ると、スマホにはうちのゲートウェイがかなりの電波強度で表示されるのに、
NEXUSでは全く表示されない。
なぜ???

今までは、ゲートウェイの型番「F660T」とか「5G」で検索していたが、
今度は「NEXUS 7(2013)」を入れて検索してみたところ、
ようやくそれらしいページにヒット!
http://www.tokumitu.com/2014/07/nexus72013ipad-mini-wi-fi5ghz.html

原因は、チャンネルの設定の問題だった。
5Gには、W42、W43など、いくつかの仕様があり、
それぞれで使えるチャンネルが規定されているらしい。
NEXUS 7(2013)の仕様はW42らしいので、
チャンネルを「36」あたりに固定すると問題が解消するようだ。

そこでF660Tの5Gの設定画面で、
「無線チャネル」の項目を「自動」から「36」に切り替えたら、
NEXUSのWifi Analyzerにうちのゲートウェイの電波がズバッと飛び込んできた!
ノートPCも繋がるようになった!

これが原因だったか!
一時的に繋がるも、すぐに切れてしまうのは、
ゲートウェイが自動でチャンネルを機器対応範囲外のチャンネルに変えていたため、
電波を拾えなくなっていたのが原因だったようだ。

無線LANは、マニュアルで設定しようとすると、本当に苦労が多い。
相変わらず難しいなぁ・・・。
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石龕寺 足利将軍屋敷跡(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6209.JPG←足利将軍屋敷跡とされる平場
 石龕寺は、飛鳥時代の587年に聖徳太子(厩戸皇子)によって建立されたと伝えられる古刹である。鎌倉時代から室町時代にかけて隆盛を極め、慶派仏師の一人、肥後別当定慶が1242年に制作した仁王像(国重文)が山門に収められている。南北朝時代には、足利尊氏が弟の直義と争った観応の擾乱の時、京都から敗れて播磨に逃れた際に、嫡子義詮に仁木頼章・義長兄弟ら2千騎を付けて石龕寺に留め置いたことが、太平記に記載されている。この時に、後に2代将軍となった義詮が逗留したのが、現在石龕寺 奥の院となっている場所と言われている。後には明智光秀の丹波平定戦の際に、石龕寺は仁王門を残して一山灰燼と帰した。

 足利将軍屋敷跡は、石龕寺の本堂付近から山道をずーっと登っていった、奥の院の地にある。この道は、参道とは名ばかりで、ほとんど里山トレッキングの山道で、高齢者ではよほど体力に自信のある人でなければ登るのは無理であろう(高齢キャッスラーなら問題ないが)。地形図で見ると、本堂からの高低差は150mもある。登りついた先には平成6年に再建された鐘楼があり、そこからほぼ水平に北へ道を辿ると岩窟を利用して建てられた奥の院(古の石龕寺本堂)がある。更にそのちょっと先に小さな平場があり、「足利将軍屋敷跡」の石碑が建っている。非常に狭小な平場で、せいぜい小さな小屋掛けぐらいしか建てられる面積がなく、いかに敗軍の将とはいえ、兵2千騎を連れた義詮がこんな所に2ヶ月も逗留したのか、少々信じ難い。何しろ狭いので、身の回りの世話をする小姓数人と仁木兄弟だけでいっぱいになってしまうだろう。ただ、この平場から西にやや降った所に、腰曲輪状の平場が数段あるので、大将の義詮と小姓だけが上の平場に居て、その他の武将や衛兵はこの腰曲輪に居た可能性もある。いずれにしても、この場所に義詮が逗留したのが事実かどうかは別として、石龕寺は足利氏に縁の深い寺であるので、太平記フリークならば必見であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.101478,135.028893&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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岩尾城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6050.JPG←西の丸の石垣
 岩尾城は、織豊期に大改修を受けた近世の山城である。元々は、1516年にこの地の国人領主、和田日向守斉頼が築いたと言われている。その子、作右衛門師季が跡を継いだが、1579年、明智光秀の丹波平定戦で落城した。その後、1586年に近江から佐野下総守栄有がこの地に入部し、岩尾城を近世城郭に改修した。しかし1596年、豊臣秀吉の命によって廃城となった。

 岩尾城は、標高358m、比高258mの蛇山に築かれている。和田小学校の裏から登山道が伸びており、学校に立ち入りのお断りだけ入れれば、比較的楽に登ることができる。岩尾城は比較的小規模な山城で、総石垣の近世城郭的側面と、土で構成された中世城郭的側面が併存した稀有な遺構である。城の南半分は近世城郭部分で、前述の通りほぼ全面的に石垣が築かれている。本丸には小規模な天守台や、古城物見台とされる高台が備わっている。本丸には小さな枡形虎口があって、周りの二の丸に通じている。本丸から二の丸にかけて、帯曲輪や腰曲輪が付随しているが、石垣の残欠がそこかしこに見られる。また本丸西側の西の丸に、岩尾城の現存遺構の中では最も優れた石垣が残っている。西の丸周辺の腰曲輪などにも石垣が残っている。しかし全体にかなり灌木が生い茂っており、あまり良好な整備がされていないので、石垣を一通り見て回るのも一苦労である。一方、城の北側には、本丸の裏に北曲輪があり、ここには石垣が築かれておらず土塁が築かれている。先端は一段高くなっており、その北側には土塁で囲まれた舌状曲輪があり、先端に掘切が穿たれている。一方、北西にも腰曲輪・土塁と掘切が築かれている。この他、城の南西には井戸と竪堀が残り、南端には掘切が穿たれている。南南東に伸びる尾根上には、下知殿丸曲輪・南曲輪・大手門曲輪などが散在し、ところどころに小堀切らしい地形も見られる。中々素晴らしい遺構だが、薮に埋もれつつあり、城内は荒れている。また石垣がなくなった部分も多く、近世城郭的威容にも少々欠ける。城全体の規模としても、中世山城の小規模な結構を引き継いでいるようで、大した居住性をもっておらず、近世城郭化された後も詰城としての位置付けだったものと考えられる。有子山城などと比べると、格の違いというか、城の規模の違いがよく分かる。
薮に埋もれた腰曲輪の石垣→IMG_6030.JPG
IMG_6110.JPG←北端の堀切と土橋
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.099652,134.974819&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:近世山城
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仁木頼章墓所(兵庫県丹波市) [その他の史跡巡り]

IMG_5954.JPG
 仁木氏は足利一門で、元々は吉良氏・細川氏等の一門と同様に足利王国とも言うべき三河国を本拠としていた。仁木氏は一門中では家格が低く、ほとんど家来並みの扱いであったことが『吾妻鑑』の記述から知られる。それが一躍歴史の表舞台で活躍して丹波守護に補任されるまでになったのは、勿論尊氏の挙兵に従ったからである。仁木頼章・義長の兄弟は、丹波篠村での倒幕戦挙兵から観応の擾乱まで終始一貫して尊氏に従って奮戦した為、尊氏から重んぜられ、頼章は晩年の尊氏の執事まで務めている。頼章と丹波の繋がりは、1336年に京都争奪戦に敗れた尊氏が九州に逃れた際、室泊の軍議に基いて丹波一国の軍事指揮官として派遣されたことに始まる。この時頼章は、久下・中沢・荻野・波々伯部ら丹波国人衆を率いて高山寺城に立て籠もっている。この後、瞬く間に態勢を盛り返して再挙東上した尊氏が京都を制圧して幕府を開くと、頼章は丹波守護に補任され、萩野朝忠を守護代とした。しかし尊氏の傍にあって補佐し続けたことを考えれば、頼章自身はほとんど丹波に在府したことはなかっただろう。1343年に守護代の朝忠が突如高山寺城に立て籠もって室町幕府に反旗を翻して討伐されると、頼章は責任を取って丹波守護職を辞し、山名時氏が丹波守護となった。1350年、室町幕府を二分した抗争、観応の擾乱が生起して尊氏・直義兄弟が争うと、山名時氏は直義党の有力者として尊氏に抗して戦い、直義の死後にその養子直冬(実は尊氏の庶子)の挙兵に応じて時氏が京都に進撃した際には(1354年)、途中丹波で頼章が籠もる高見城下を通り過ぎたが、頼章はその大軍を怖れてただ傍観するのみであったと言う。しかし直冬は一旦は京都を制圧したものの結局京都争奪戦に敗れて石見に逼塞し、時氏も本拠の山陰に退き引いた。その後は尊氏・義詮による幕政運営の中で、尊氏の執事となった頼章は重要な役割を果たした。頼章が1358年に病没した時、朝廷の公卿洞院公賢が日記『園太暦』の中で、頼章を「武家随分の重人」と評し、頼章の訃報に接して「武家政道いかん」と頼章亡き後の幕政に一抹の不安を持っていることからしても、頼章が執事として尊氏晩年の幕政に重きを成していたことが推し量られる。

 仁木頼章の墓所は、頼章が築いた高見城の東麓にある三宝寺の境内にある。板状の3つの墓と小さな五輪塔があり、どれが頼章の墓かはよくわからないし、その他の墓が仁木氏一族のものかも不明であるが、南北朝動乱を生き抜きた足利一門の武将の足跡がしっかりと伝わっていることに感慨を覚えずにはいられない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.129614,135.042604&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:墓所
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今回の安保法制に賛成している人達は、近代的な立憲主義や法治主義を全く理解していない人々 [雑感]

 安保法制に反対している人のことを、現実を理解していない理想主義者だとか、厳しさを増す安全保障環境を理解していないとか、或いは、厳しい新3要件を付加した限定的集団的自衛権の行使では戦争は起きるわけがないとか、賛成派の連中がいろいろなことを言っている。

 口汚く罵るだけの連中や、反対派を見下した様な発言をする連中のほとんどは、ネットの世界でしか自己発散できないネトウヨか、『日本会議』に注射された工作員なので、論ずるまでもなく、ここでは取り上げない。
 しかし、それ以外の一見理性的に発言する賛成派は、その意見を私が見る限り、近代的な立憲主義や法治主義を全く理解していない。

 今回、多くの憲法学者やその他の知識人と呼ばれる人々、また映画界などの著名人や文化人も含めた多くの国民が反対している理由は、今回の安保法制で、単に戦争のリスクが激増するだけでなく、この法律制定の行為自体が、根本的に近代的立憲主義・法治主義に反しているからである。
 この点について、理路整然と反証している賛成派の意見を、私は全く聞いたことがない。

 多くの国民が問題にしているのは、一内閣が、憲法の解釈を勝手に捻じ曲げ(或いは拡大解釈して)、憲法を空文化していることである。憲法解釈を勝手に捻じ曲げるぐらいだから、その下位にある法律に至っては、政権の専横に対して全く抑止力にならない。国会答弁に至っては問題にもならない。だから、いくら国会で議論を重ね、アベが答弁を繰り返して「大丈夫です、戦争なんて起きません」と言ったところで、そんな言葉は将来に対して何の保証にもならないわけである。将来、第2のアベが出てきて、「国際情勢が緊迫しているので解釈を変えます」、と言えばそれきりである。

 近代的な立憲主義・法治主義というのは、過去の帝政国家・独裁国家による、破滅的で国民の権利抑圧やその犠牲に全く顧慮しない暴政を抑えるためにできた制度だ。為政者の暴走を抑えるために、憲法や法律で為政者を縛ることがその根本原理なのである。国際情勢が厳しいという理由だけで、この根本原理を放棄する理由にはならない。
 一旦、この根本原理の放棄が認められれば、将来同じことが繰り返されて、為政者の暴走を抑える術は、国民の手から永遠に失われるであろう。
 今は「極めて限定的な行使」と言っていても、立憲主義・法治主義という根本原理を放棄しようというのだから、数十年後にも限定的な行使であることがどうして保証されよう。しかも国会答弁で繰り返されるのは、自衛権の行使は「時の政府が総合的に判断する」という、およそ縛りにも何にもならない答弁で、これは時の政権に戦争決定のフリーハンドを渡すに等しい。

 こうした法制定の行為と国会答弁を信じて、「戦争危機が遠のく、中国・北朝鮮の侵略行為に対抗できる」と考えている人達は、それが大真面目に考えてのことならば、よほどオメデタイ思考回路をお持ちなのだろう。また近代日本が、昭和恐慌以降に急速に右傾化し、破滅的な戦争へと転がり落ちていった歴史を全く理解していないのだろう。


 ついでに申し述べれば、『日本会議』に注射された連中がよく言う、「大東亜戦争はアジア解放のための聖戦だ」などという意見は全く理解し難い。真珠湾攻撃を以って始まる太平洋戦争は、歴代の政権が失政に失政を重ねた挙句に国際社会から完全経済封鎖をされ、やむを得ず南方資源を手に入れるために起こした戦争で(今風に言えば日本の「自爆」)、およそ聖戦の名に値しない。「アジア解放」というのは、自爆した帝国政府の後付けの大義名分に過ぎない。またこれを「自衛戦争」と呼べるのなら、現に経済制裁が行われている北朝鮮が日本を攻撃しても、自衛戦争と呼べることになってしまうだろう。好むと好まざるとに関わらず、歴史を直視できない人間は、国にとって有害無益である。
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高見城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5887.JPG←北尾根の曲輪
 高見城は、佐野城とも呼ばれ、南北朝期に丹波守護となった足利尊氏の家臣仁木頼章が築いた城である。仁木頼章の事績は、仁木頼章墓所の項に記載する。尊氏が建武の新政から離反し、幾多の戦いの末に京都を制圧して幕府を開くと、頼章は丹波守護に補任され、萩野朝忠を守護代とした。高見城はこの頃に築かれたと考えられる。1354年に足利直冬(実は尊氏の庶子)の挙兵に応じて山名時氏が京都に進撃した際には、途中丹波で頼章が籠もる高見城下を通り過ぎたが、頼章はその大軍を怖れてただ傍観するのみであったと言う。その後時代は下って戦国時代になると、高見城は後屋城主赤井家清の持ち城となり、1579年に明智光秀の丹波平定戦で落城した。

 高見城は、標高485m、比高385mの高見城山に築かれている。山頂部に小さな主郭を置き、その北側に3段程の段曲輪群が築かれている。これが主城部で、南側の切岸にはわずかに石積み跡も見られるが、この他にも北東から北西にかけて派生する尾根上に曲輪群がかなり広範囲に存在するらしい。私は登山道が整備されている北東尾根と、城山から北に伸びる北尾根中腹までは踏査したが、段曲輪群が各尾根に散在するだけで、主城とも離れており求心性は乏しい縄張りである。また2つの尾根の中程には物見台が屹立し、北尾根のものは背後に小堀切を伴っている。この他、北東尾根の登山道脇には櫓台を備えた広めの段曲輪があり、薮でわかりにくいが側方に竪堀があるようだ。他の尾根などにも曲輪が残り、山麓には居館跡もあるようだが、時間の都合で未踏査である。亀井戸跡は解説板表示だけで、埋もれていて確認できない。いずれにしても、見た限りでは比較的ささやかな遺構で、戦国期にも大きな改変は受けていないように感じられた。

 尚、現地解説板に『嘉暦2年(1327)に仁木頼章が築いた』とあるのは誤り。少なくとも建武の新政以前に仁木頼章が丹波に居たことはあり得ないことを付記しておく。
登山道脇の北東尾根段曲輪群→IMG_5860.JPG
IMG_5880.JPG←北尾根の掘切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.1257,135.033184&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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古河公方館(茨城県古河市) [古城めぐり(茨城)]

DSC02346.JPG←主郭の土塁と掘切跡
(2007年1月訪城)
 古河公方館は、鴻巣御所とも呼ばれ、古河公方足利成氏の居館である。室町後期の1454年12月、鎌倉公方足利成氏が対立する関東管領上杉憲忠を誅殺して、関東全域を巻き込む「享徳の大乱」が勃発した。翌55年、上杉派討伐のため出陣中であった成氏は、その留守中に室町幕府の命で派遣された駿河守護今川範忠に鎌倉を奪われ、自派の小山氏や結城氏らの本拠に近い古河に奔って、居館を造営して本拠とした。これ以降を古河公方と称し、この時造営されたのが古河公方館である。しかしその後の1457年、成氏はより要害性の高い古河城を築いて本拠を移した。以後の古河公方館がどうなっていたかは明確ではないが、別館として維持されてきたものだろう。1590年に小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、1582年に病没していた5代古河公方足利義氏(北条氏康の甥に当たる)の息女氏女(うじひめ)を古河城から立ち退かせて鴻巣御所に移した。そして古河公方家が断絶していたことを惜しんで、小弓御所足利義明の孫国朝を氏女と結婚させてその跡継ぎとし、下野国喜連川を与えた。国朝は1593年に死去し、氏女は国朝の弟頼氏と再婚した。この間、氏女は一貫して鴻巣御所を居所とし、1620年にこの地で亡くなった。その子義親と孫の尊信も鴻巣御所に住み続け、尊信が1630年に喜連川に移るまで館は存続した。

 古河公方館は、「御所沼」という沼地に張り出した半島状の台地に築かれた城館である。現在、古河総合公園の一部となっており、散策路が整備されている。現在は先端部の曲輪だけが往時の姿を留め、東側は公園化や宅地化で改変され、周囲の沼地もかなり小さくなっているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、もっと広い沼地に張り出した細長い台地で、かなりの要害であったことが推察される。御所とは言うものの、西端から順に主郭・ニノ郭・外郭を連郭式に配した、十分に城と呼べる様な城館であった様である。遺構としては主郭東側の土塁と掘切がわずかに残っているだけであるが、主郭内に残る足利義氏の墓と共に戦国関東の歴史を伝える貴重な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.176509,139.69981&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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