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新井田城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9591.JPG←主郭腰曲輪~二ノ郭間の水堀
 新井田城は、新井田新館とも言い、千葉掃部助、後に新井田新右衛門の居城であったと言われる。城主の変遷は諸伝あって俄に判じ難いが、1223年に新田(にいだ)氏がこの地を領し、1283年以前には新田重綱が領有していた様である。これは下野小野寺城を本貫とした小野寺通綱の後裔で、重綱の父重房が、通綱が拝領した陸奥国登米郡上新田を譲られて新田太郎と称し、新田小野寺氏の祖となったとされる。その後、1289年に千葉掃部が入部して新井田城主となり、新井田村を開創し、城の鎮護のために赤城神社を建立したと言う。時代は下って天正年間(1573~92年)の頃には千葉掃部助が城主で落城の憂き目にあったと伝えられる。この千葉掃部助は、千葉信胤の孫と言われ、信胤は主家葛西晴信の偏諱を受けており、新井田氏を称した。掃部助は、新井田新左衛門(新右衛門?)とも称したらしく、奥州千葉氏の出自であるが葛西氏の一門でもあった様である。この辺は系譜が錯綜していてわかりにくいのが実情である。いずれにしても戦国末期に落城し、廃城となったことは間違いあるまい。

 新井田城は、舘集落に築かれている。北西から南東にかけて城域が広がっており、北西から主郭・二ノ郭・三ノ郭と連なり、主郭の周囲には空堀を挟んで腰曲輪がぐるりと廻らされている。現地解説板の表記では、主郭を本丸、その腰曲輪を一の構とし、以下二の構・三の構と称している。主郭と腰曲輪は大半が水田となり、二ノ郭・三ノ郭は宅地となっているが、全体に遺構は良く残っている。城の全周と各曲輪の間は、水路のような水堀で区画されており、水堀はほぼ全て残存している。大手道は城内を貫通する車道として残っており、三ノ郭の大手門と二ノ郭虎口の部分は食い違い虎口の跡が道の曲がりとなって残り、主郭腰曲輪の大手虎口も枡形跡と思われる道のクランクが確認できる。主郭は周囲を囲繞する腰曲輪まで入れるとかなりの広さがある。主郭周囲の空堀はほとんど埋まっているが、一段低い畑となってその後を明瞭に残している。この他、主郭腰曲輪から二ノ郭の北側には馬場とされる帯曲輪が水堀に挟まれて残っている。民家が林立しているのに、これ程水堀をよく残している平城も珍しい。
城の外周の水堀→IMG_9540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.691598/141.243281/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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