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越水城(兵庫県西宮市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7717.JPG←城址碑・解説板
 越水城は、この地の土豪瓦林氏が戦国時代に築いた城である。元々この地では、南北朝時代の観応の擾乱で打出浜合戦が行われた際に、足利直義方の畠山国清・石堂頼房・上杉朝房らが小清水(越水)に陣所を置いたと言う(『太平記』では打出浜合戦とは言わずに小清水合戦と呼んでいる)。一方、瓦林正頼は豊嶋に館を構えていた土豪であったが、応仁の乱が始まるとより要害性の高い鷹尾城を築いて居城を移した。その後、管領細川政元の暗殺に端を発する細川氏の後継争い(永正の錯乱)が起こると、正頼は1516年に越水城を築いて居城を移し、細川高国に味方したと言う。阿波から京に上る細川澄元が越水城に攻め寄せ、高国が後詰めに出陣したが、1520年2月、正頼は澄元勢に開城して堺へ逃れた。同年10月、正頼は開城の責めを問われ、また澄元と内通したとして切腹させられた。その後、澄元の家臣三好氏が入城した。以後、越水城は三好氏の本城となり、阿波本領への中継拠点ともなった。1533年、瓦林氏は一向一揆衆と共同で三好氏を攻めて越水城を奪い返し、瓦林一族が城を守ったが、その後も攻防が繰り返され、後には畿内の覇者三好長慶の居城となった。長慶は、家臣松永久秀を京に留め、自身は越水城で指揮を執ったと言う。1566年、三好氏の家臣篠原長房が城主の時、瓦林三河守に攻められて一旦開城したが、4ヶ月後には長房が奪還し、9月には足利義親(後の足利14代将軍義栄)が一時入城した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、義昭・信長の連合軍が摂津征伐を始めると、長房は越水城を放棄し、越水城には織田方の武将が入ったと考えられる。その後の織田勢力の伸張に伴って、越水城は戦略的価値を失い、廃城になったと思われる。

 越水城は、比高15m程の丘陵上に築かれている。現在は一面の市街地となって民家が所狭しと建てられており、城の遺構は完全に湮滅している。しかし現在でも急坂の上にあり、西国街道の要衝であったことは地勢から窺える。大社小学校の南東角に城址碑と解説板が建っており、その文面からもてっきり小学校敷地が城址だと思っていた。しかし『日本城郭大系』に記載の縄張図と戦後間もなくの航空写真とを見比べると、小学校東側の段丘辺縁部が城の中心部であったらしい。前後の航空写真には西側の土塁と堀がはっきりと確認できる(その位置は小学校敷地より東側である)。従って段丘の南東部を堀で断ち切って、主郭を置いていた様である。主郭後部に天守台が築かれ、主郭内の段差部には石積みもあったらしいが、昭和30年代には全面的に宅地化されてしまっており、今では見る影もない。往時、畿内の覇者となった三好長慶が拠っていた城とは想像できない変わり様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.746682/135.337830/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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