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坂越茶臼山城(兵庫県赤穂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6643.JPG←城址とされる山頂
 坂越茶臼山城は、山名持豊(宗全)によって築かれたと言われる城である。1441年の嘉吉の乱で、幕府追討軍の先頭に立って赤松満祐を城山城に攻め滅ぼした持豊は、坂越茶臼山城を築き、赤松氏残党に備えてしばらく駐屯していたと言う。その後、1455年に赤松氏の残党が赤松氏再興を目指して蜂起し、播磨に討ち入ってその一軍が茶臼山城の山名勢を攻めたが、敗退したとも言われる。

 坂越茶臼山城は、宝珠山の西の標高160mのピーク上に築かれていたと言う。しかし現在はテレビ塔が建つ他、石仏が多数置かれており、かなり改変を受けているらしく、明確な遺構は確認できない。強いて言えば、テレビ塔や石仏が建っている部分が一段高くなっており、物見台であったものだろうか。この高台は曲輪と言う程の広さはない。物見台周囲は公園化された平場となっており、ここからは坂越浦を一望できる。城址と言うより景勝地と言う方が適している。

 尚、坂越茶臼山城の北東の尾根には太平記にその名が現れる児島高徳の義父、和田備後守範長とその一族の墓がある。熊山合戦(太平記 巻16)で重症を負った高徳が、茶臼山城中腹の妙見寺に逃れて傷を癒やしたとの伝説がある関係からなのだが、有名な児島高徳も児島・和田一族も太平記にしか記載が見られず、同時代資料に全く記載がない為、その実在が強く疑われているのが実態である。にも関わらず彼らを顕彰する平成7年に建てられた解説板では、後醍醐天皇の治世を「建武の中興」と称し、「国民の福祉を優先する後醍醐天皇の信頼を裏切った足利尊氏」と決め付けている。全く史実を無視した皇国史観という虚偽観念に毒された解説文で、こんなものを現代でも臆面もなく建てていることは、取りも直さず日本が戦前回帰主義に冒され、再び右傾化しつつある証左であり、暗澹とした気分にならざるを得ない。
 ※皇国史観について知りたい方は、拙ブログ「時代錯誤の石碑を建てた日本学協会」の項を参照下さい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.770516/134.429419/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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