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千本城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1457.JPG←主郭虎口の出枡形
 千本城は、下野の名族那須氏の庶流にして、那須七騎の一に名を連ねる千本氏の歴代の居城である。千本氏の祖は、那須資隆の10男為隆で、那須与一宗隆の兄に当たる。寿永の内乱(いわゆる源平合戦)の際には、光隆ら9人の兄は平家方に付いたが、末弟為隆・宗隆だけは源氏に従って義経の配下として活躍した。屋島の戦いの際、弟宗隆(那須与一)が扇の的を射た故事は世に名高いが、最初に義経から弓の名手として指名されたのは兄為隆であった。為隆は戦後、武功によってこの地域を与えられ、1190年に最初の居館を所草の山口の里(草の館)に構えたと言う。3年後の1193年、九石城を築いて新たな居城としたが、茂木領に近かったことから1197年に更に新たに千本城を築いて移った。以後、千本氏歴代の居城となり、千本氏は戦国期に至るまで那須宗家を支え続けた。10代資持は、千本氏中興の城主と言われ、室町時代に那須宗家が上那須・下那須に分裂して抗争した際、烏山城主の下那須氏を支持し、那須七騎の旗頭として活躍した。1549年、五月坂で宇都宮氏を撃ち破った那須氏では惣領高資と弟資胤との間に内訌が生じ、資胤は千本氏13代資俊を頼った。資俊は、宇都宮氏重臣の芳賀高定と謀って1551年正月、高資を千本城で誘殺した。その後、資俊の嫡子資政は黒羽城主大関高増の娘を妻としたが、嫁姑の関係が悪く離縁し、これに怒った大関氏は千本氏を滅ぼしてその所領を手に入れようと謀略を巡らし、主君那須資晴に千本氏を誅伐するよう進言し、1585年、大関氏は弟の大田原綱清・福原資孝と謀って烏山大平寺において千本資俊・資政父子を誘殺した。これによって那須系千本氏は断絶し、この時千本城も落城した。千本氏の遺領は、資晴によって大関・大田原・福原の三氏と大谷津周防に分け与えられ、残りを茂木義政に与えて千本氏の名跡を継がせ、義政は千本大和守義隆と名乗って茂木系千本氏が誕生した。豊臣秀吉の時代になると、那須資晴は改易されて没落したが、那須七騎は小田原に参陣した功により所領を安堵され、1600年の徳川家康の上杉征伐の際には、義隆の子義定が黒羽城の加勢に赴き、千本氏は徳川旗本として存続した。江戸時代には一時断絶した時代もあったが、幕末まで旗本として存続した。

 千本城は、標高250mの山上に築かれている。大きく分けて主郭・二ノ郭・三ノ郭から構成され、更に腰曲輪や外郭が築かれている。主郭と二ノ郭は公園化されて整備されている。主郭には黒羽神社が置かれ、神社の周りも含めて主郭を取り巻く土塁が良く残っている。主郭内部は、神社部分とそれ以外の平場を仕切るように土塁があるが、これは遺構であろうか?主郭虎口の外には現地解説板に「土塁道」と表記される出枡形が形成されている。これを馬出しとしているHPもあるが、兵を置くような空間はなく、実態としては出枡形の虎口である。二ノ郭は、主郭の南に位置する横長の曲輪で、地元出身の方の寄付により河津桜が植えられ、4月初旬には満開であった。二ノ郭周囲にも土塁が築かれ、殊に東側の虎口部分の土塁は大きく重厚である。二ノ郭の南側には南北に長く広い三ノ郭がある。「屋敷跡」と称されているが、普通に言えば三ノ郭であろう。三ノ郭は上下2段に分かれ、内部は畑に変貌している。南側には土塁が残っている。主郭・二ノ郭・三ノ郭の外周には腰曲輪が数段築かれている。特に主郭東側の腰曲輪では、曲輪内を仕切る土塁と櫓台があり、木戸跡と考えられる。主郭の北側には堀切が穿たれている。外郭は、三ノ郭の西側に堀切を挟んで築かれ、斜面上に何段もの平場が築かれ、頂部は物見台となっている。現在も展望台として整備されており、眺望は抜群である。この他、三ノ郭の南側の給水施設がある辺りも曲輪跡だったとされるが、改変されてしまっている。千本城の遺構はこのような感じで、出枡形の虎口など戦国期の遺構も見られるが、全体としては技巧性の少ない素朴な縄張りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.577240/140.149090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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