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足高城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8604.JPG←Ⅰ郭東側の横堀と物見台
 足高城は、牛久城主岡見氏の支城である。その創築は不明であるが、戦国末期の天正年間(1573~92年)、岡見治部大輔治広が牛久城主であった時に、岡見氏の一族岡見中務大輔宗治が足高城主であったと伝えられている。この頃、岡見氏の領国は下妻城主多賀谷重経の激しい攻勢に曝され、足高城も度々攻撃を受けた。1586年、多賀谷氏は岡見領へ侵攻し、小張城を陥とし、足高城に迫った。しかし必死の防戦と後詰めにより、多賀谷勢を撃退した。翌87年、多賀谷氏は牛久城・東林寺城の西隣に泊崎城を築城し、岡見氏の牛久・東林寺両城と足高城の間に楔を打ち込み、連携を封じることに成功した。多賀谷氏は泊崎城を拠点として、足高城を攻撃したが再び撃退された。更に多賀谷氏は、岡見氏家臣の月岡玄蕃の拠る板橋城を陥とし、次いで岩崎城も落城させ、三度足高城に攻め寄せた。宗治の祖父岡見入道が多賀谷方に内応した為、城内は混乱し、宗治らは牛久城へ逃走して、足高城は落城したと言う。

 足高城は、牛久沼西方の半島状台地に築かれている。城内は宅地化などでかなり改変が進んでいるため、遺構は断片的にしか残っていない。『図説 茨城の城郭』所収の縄張図の曲輪名称に従うと、先端にⅢ郭があり、現在広場となっているが、桜の木が植わっている土壇が残っている。Ⅲ郭の北がⅠ郭で、竹林になっている。北辺に土塁が残り、その北のⅡ郭との間の堀切には横矢掛かりの櫓台が張出している。Ⅰ郭の東斜面には腰曲輪が築かれ、東の八幡神社のあるⅣ郭との間を分断する堀切が腰曲輪側方の横堀を兼ねている。横堀の東側には物見台があり、谷戸を監視している。このことからⅠ郭北東の谷戸は、船着き場からの登城道になっていたことが想像される。また横堀はⅡ郭の東側まで続いており、船着き場からの登城道と合流していることから城内通路を兼ねた堀であったことがわかる。明確な遺構はこの辺までで、あとは宅地化され、1ヶ所わずかに空堀が残存しているほかは大した遺構は見られない。城址解説板もなく、あまり地元から大切にされていない城の様に感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.948377/140.095940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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