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額田城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6897.JPG←二ノ郭の大規模な横矢掛かり
 額田城は、額田氏の歴代の居城である。額田氏には時期が異なる2流があり、最初のものをここでは前期額田氏、後のものを後期額田氏と称する。前期額田氏は佐竹氏の庶流で、鎌倉時代前期の建長年間(1249~56年)に、佐竹氏5代義重の次男義直がこの地に分封されて、額田城を築いて居城としたと伝えられている。南北朝時代には、額田義廉は佐竹宗家に属してその一翼を担い、足利方として各地を転戦したが、京都争奪戦の中で討死し、一族の昌直がその跡を継いだ。1407年、佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉による関東管領上杉氏からの入嗣を巡って、額田義亮は同族の山入与義を盟主として長倉氏らと山入一揆を結成して反発し、翌年、長倉義景が長倉城で挙兵して、ついに佐竹家中を二分する武力抗争に発展した。「山入の乱」の始まりである。額田氏は終始佐竹宗家に反発し、1417年に額田城に立て籠もった。1423年、長期の攻防戦の末に佐竹義憲に攻められて落城し、前期額田氏は滅亡した。その後、山尾城主小野崎氏の一族小野崎通重が佐竹氏から額田城主に任じられ、額田氏を称した(後期額田氏)。通重には継嗣がなく、水戸城主江戸氏から通栄を養子に迎えた。1529年に部垂の乱が生起して佐竹家中が再び動揺すると、1535年、石神城主小野崎通長による「石神兵乱」が起こり、佐竹義篤は石神小野崎氏の同族、額田篤通にこれを鎮圧させた。その後、1547年に額田氏・石神氏は領地争いを起こし、額田氏は石神城を攻め落とした。戦国末期になると江戸氏に内紛が起き、その対応を巡って額田照通は佐竹義宣と対立するようになった。そして1591年、義宣は照通に異心ありとして額田城を攻撃し、落城させた。照通は、かねてより誼を通じていた伊達政宗の元に逃れたが、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、常陸に戻って水戸徳川氏に仕えたと言う。

 額田城は、久慈川支流の小河川の北に位置する段丘上に築かれている。県下でも屈指の規模を持つ巨大な城で、大空堀・大土塁・大型曲輪のオンパレードといった趣である。現在遺構が明確に残っている曲輪は大きく5つあり、丘陵南端に主郭、その北に横長の二ノ郭・三ノ郭、主郭西側には四ノ郭、主郭の南下方には捨曲輪と配置されている。各曲輪の間は規模の大きな堀で分断されているが、低湿地帯に面した湧水が多い土地の様で、主郭や二ノ郭周囲の堀には、水が溜まっている。このことから、城で最も大切な水の確保には事欠かない城だったことが伺え、前期額田氏の長期籠城戦が可能だったのも、そんな城の特性が寄与していたものと推察される。また各曲輪外周には土塁が築かれ、要所に横矢掛かりを設け、堀底に対して櫓台が各所に配置されている。主郭の西側は、堀の外側に大土塁が屈曲しながら南北に走り、主郭西面の防御を厳重なものにしている。この大土塁と四ノ郭の間は、自然地形を利用した大きな湿地帯の堀となっている。これらの主要部以外にも、外郭遺構が断片的に残っている。額田宿をほぼ城内に取り込んだ総構えを有していたらしく、空堀・土塁が広範囲に散在している。これらの巨大な城郭遺構は、戦国期に構築されたと考えられているので、戦国期には常陸太田城の南方を防衛する拠点城郭として、大兵力を駐屯させていたと推測される。
 段丘崖に築かれ、大空堀で曲輪群を分断した規模の大きな佐竹氏の城としては、石塚城前小屋城があるが、額田城の規模はそれらを上回る上、城内主要部ほぼ全域が公園化されて整備されているので、藪漕ぎすることなく遺構を見て回ることができる(三ノ郭北半と四ノ郭は宅地や畑になっているので、探索の際に注意が必要)。更に横矢掛かりも多用され、横矢好きにはたまらない城である。
主郭周囲の堀と土塁→IMG_7014.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.488610/140.522368/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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