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朝日楯(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3598.JPG←主郭の大土塁
 朝日楯(朝日館)は、志津川城とも呼ばれ、葛西氏に属した本吉氏の居城である。元々は、奥州藤原氏3代秀衡が、本吉庄の荘園管理のために4男高衡を派遣し、高衡が根拠としたところとも伝えられるが確証はない。しかし高衡は、元良四郎とか本吉冠者を名乗ったとされることから、この地域に勢力を張っていたことは間違いないと推測されている。源頼朝の奥州合戦の後は、下総の名族千葉氏の流れを汲むと言われる奥州千葉氏の一族がこの地を支配し、本吉氏を称したとされる。南北朝時代以降、本吉氏は葛西氏に属した。その後、1418年、葛西9代太守満信の5男西館重信が本吉郡を与えられ、その孫本吉大膳大夫信胤の時に志津川に本拠を移し、この頃から朝日楯を居城とした。以後は葛西系本吉氏がこの地を支配したが、近隣の遠野城主馬籠氏と度々抗争を繰り広げ、1574年以降は本吉大膳大夫重継が宗家葛西氏に対して度々叛乱を起こすようになった。1586年には、重継は歌津十二人衆との間で兵乱を起し(歌津合戦)、翌年には気仙郡の浜田安房守と衝突した。主家葛西氏は、これら家臣団の統率に悩まされ続けた挙句、1590年、豊臣秀吉によって小田原不参の故を以って奥州仕置で改易された。翌年、葛西氏旧臣たちは挙兵して葛西大崎一揆を引き起こしたが鎮圧され、翌92年には重継が没して本吉氏の歴史は終わりを告げた。

 朝日楯は、水尻川西岸の比高65m程の丘陵上に築かれている。東麓と西麓の2ヶ所に登り道があるが、東麓の方は東日本大震災の津波被害を受けたため、登り口が少々わかりにくい。あまり技巧性のない縄張りで、広大な頂部の平場を仕切り土塁で二分し、東が主郭、西が二ノ郭であったと思われる。私は西麓から登ったが、腰曲輪を見ながら登ると二ノ郭の虎口があり、虎口土塁の一部に石垣が残っている。土塁の北側に櫓台があり、祠が祀られている。二ノ郭は耕作放棄地で藪が繁茂しており、確認が難しい。僅かに仕切り土塁らしいものが見られ、『日本城郭大系』で記載される東西に平場を二分する土塁とはこれのことと思われるが、藪がひどくはっきりしない。主郭の中も大土塁で仕切られており、この大土塁脇に神社が建っている。主郭の東面や南面には綺麗に削平された腰曲輪が2段程付随し、二ノ郭の周りにも腰曲輪が数段築かれている。城の遺構はよく残っており、特に東部の遺構は藪が少なく確認しやすい。
 尚、南三陸町の町役場のあった志津川は、殊の外津波被害が甚大で、気仙沼など周辺地域と比べると、明らかに復興が遅れている。城の麓も被災したままで、以前にあったらしい解説板は流されて、今は見られない。1日も早い復興を祈念せずにはおれない。
ニノ郭虎口の石垣→IMG_3527.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.677520/141.430285/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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