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遠野楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3451.JPG←円弧状のニノ郭堀切
 遠野楯(遠野館)は、馬籠遠野城とも言い、奥州千葉氏の庶流馬籠氏の居城である。下総の豪族千葉氏は、源頼朝の奥州合戦による軍功で奥州に多くの所領を賜った。そして1230年、下総千葉氏3代、千葉介胤正の末子胤親が桃生郡深谷に入部した。その子胤次が後を継ぎ、胤次の後は、弟胤氏の二男忠次(宮内少輔を称す)を養嗣子とした。1289年、その子忠広が本吉郡馬籠村に移り、馬籠氏を称した。忠広の嫡子広行が、遠野楯を築いて居城としたと言われ、以後、馬籠氏歴代の居城となった。南北朝期の1336年、3代周防守行胤は葛西高清に攻められ、妹婿の赤岩城主熊谷直光の援軍を得て戦ったが、葛西軍の猛攻の前に当主行胤をはじめ、一族は殆ど討死したが、辛うじて城は守り切った(馬籠合戦)。しかし勢力を弱めた馬籠氏は、行胤の子胤宣が葛西氏に降伏し、以後葛西氏の家臣となった。戦国時代に入ると馬籠氏は志津川城主本吉氏と度々抗争を繰り広げ、1586年の歌津合戦にも一族の歌津城主歌津馬籠氏と共に参戦した。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となると、馬籠氏も没落した。

 遠野楯は、比高40m程の南北に長い丘陵上に築かれた城である。北側に馬籠川が流れており、それを渡渉しやすい部分から渡ると、北東尾根から大手の小道が伸びている。これを登っていくと、主郭前面の独立堡塁に至る。これは実質的な馬出しで、主郭とは堀切で分断され、中央の土橋で連結されている。主郭は僅かな段差で内部が数段に分かれ、中央の上段平場に主殿があったものだろう。上段平場南側は明確な切岸で区画され、その南の平場はやや窪んだ横掘状になっている。更にその南に段差だけで区画された二ノ郭がある。ニノ郭の南に、中央に土橋が架かった堀切、その南に三ノ郭があり、三ノ郭の南にも堀切が穿たれている。これら2本の堀切は、いずれも西側が円弧状になった長いもので、特に三ノ郭堀切は西端部に腰曲輪同士を連絡する土橋が架かり、その先は短い横掘となって終わっている。この他、側方に腰曲輪があり、三ノ郭東側の腰曲輪には堀切(堀底道)に繋がる枡形虎口が形成されている。
 遠野楯は、基本的には連郭式の単純な縄張りであるが、円弧状の長い堀切が特徴的である。藪も比較的少なく、歩きやすいのも助かる。尚、北麓の国道近くに解説板が建っているが縄張図はかなり不正確で、『日本城郭大系』に記載されている縄張図の方が概ね正しい。
三ノ郭の堀切→IMG_3484.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.771183/141.438653/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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