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歌津城(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3323.JPG←主郭手前の堀切
 歌津城は、臥牛ヶ館とも言い、葛西氏の家臣で遠野城主馬籠氏の一族、馬籠四郎兵衛重胤の居城と言われている。重胤は馬籠大和守重吉の長子であったが、1564年に葛西氏に叛して討伐された。その後、弟の重長が馬籠氏の当主となっていることから、重胤は罪を得て歌津村に所替えされたと推測されている様だ。その後1586年、かねてより不和であった志津川城主本吉大膳と、清水浜館主の後継者問題を契機として争い、本吉方の大将黒崎兵部を討ち取ったと言う。その後、歌津馬籠氏は本家を凌ぐ勢力を持つようになったが、奥州仕置で没落し、伊達家に迎えられて伊達藩士となった。

 歌津城は、伊里前湾の南に突き出した、館崎と呼ばれる岬状の丘陵に築かれている。この丘陵は、南北2つのピークから成り、広い北のピークが主郭、小規模な南のピークが物見を兼ねた二ノ郭となっている。主郭は広い削平地で、土壇に祠が祀られており、外周を腰曲輪で囲み、主郭の南側の大手虎口には大土塁と堀切が築かれている。主郭から二ノ郭に至る鞍部は緩斜面となっており、曲輪群が広がっているが、一部が畑になっている以外は藪が繁茂していて形状は判別できない。ここから尾根状の小道を南に登っていくと二ノ郭に至る。二ノ郭は背後と西辺に低土塁を築いた比較的小規模な曲輪で、ここから岬の突端まで行くと、眼下には大海原が広がっている。また二ノ郭の北側背面下方には三ノ郭と思われる広い腰曲輪も付随している。
 歌津城周辺は、東日本大震災の津波で大きな損害を受け、防波堤工事など今でも続いている。城のすぐ東下の入江にも、大きな防潮堤が新設されている。以前は城址入口に解説板があったらしいが、津波で流され現在は失われている。このささやかな訪城記が、わずかでも三陸被災地の復興の一助になればと、願うばかりである。
主郭切岸と腰曲輪→IMG_3299.JPG
IMG_3346.JPG←二ノ郭背後の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.709223/141.536543/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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