So-net無料ブログ作成

伊治城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3015.JPG←外郭の土塁と堀跡
 伊治城は、奈良時代後期に律令政府が造営した古代城柵である。『続日本紀』に767年に造営されたことが記載され、初期の造営は三旬(30日間)に満たずに完了したと伝えられている。征夷政策を積極的に進めるための拠点としての造営であった。その後も整備拡張が続けられ、優遇政策によって入植者を募って開拓を進めながら780年頃まで続けられたと見られている。780年、胆沢地方の蝦夷征討の拠点かつ蝦夷南下を阻止する拠点として、按察使の紀広純によって覚鱉城の造営が計画され、伊治城はこの新城造営の基地ともなった。しかし同年、伊治城を統治していた上治郡(此治郡の誤記との説が有力)大領の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)は、伊治城を訪れた按察使紀広純・牡鹿郡大領の道嶋大盾を怨恨によって殺害し、反乱を起こした(宝亀の乱)。反乱軍は、多賀城国府をも攻撃制圧し、略奪をほしいままにして火をかけ、律令政府を震撼させる事態となったと言う。これによって伊治城は中央の手を離れ、蝦夷の郡司の掌中に帰したが、翌年の5月頃迄には政府軍の支配下に戻ったと推測されている。その後の伊治城は、歴史から姿を消してしまうが、796年頃には反乱以前の状態に復旧整備されたと考えられている。

 伊治城は、一迫川西岸の比高10m程のなだらかな丘陵地に築かれている。内郭は宅地や耕地に変貌して地上からは姿を消し、外郭の内、北辺の一部にわずかに土塁・堀跡が残っている。内郭の政庁部分は、発掘調査の結果、東西約55m、南北約60mの広さを持ち、正殿・脇殿・後殿・前殿・南門などの建物群の跡が見つかっている。面白いことにこの城柵では、内郭は城域の南端近くに大きく偏して配置されている。これは北方の蝦夷からの攻撃を強く意識してのこととも考えられる。ちょうど国道4号線脇に城の解説板が建っているのが、内郭の中央付近に相当するが、解説板以外には城柵の形跡は微塵も感じられない。遺構は僅かであるが、古代史の好きな人には歴史的経緯のある城なので、お勧めかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.764708/141.038404/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古代城柵
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

メッセージを送る