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大窪城(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1660.JPG←主郭切岸と横堀
 大窪城は、藩政時代に伊達家一族格に列した大松沢氏の居城である。大松沢氏は、飯田八郎左衛門吉実を祖とし、伊達郡宮沢を治めていたため後に宮沢氏を称したとされる。1495年、大松沢郷が伊達尚宗の領地となり、吉実の後裔、宮沢掃部時実を大崎・葛西両氏に対する北方の押さえとして大松沢に入部させ、大窪城を居城としたと推測される(一説には、宮沢氏の大松沢入部は伊達稙宗の時ともされる)。戦国末期、伊達政宗の時の領主は宮沢元実で、大崎合戦や摺上原の戦いで軍功を挙げ、1592年には朝鮮の役に従軍するなど、伊達軍の一翼を担って活躍した。その功により、政宗より大松沢氏を称する様命ぜられ、伊達家一族の家格を与えられた。以後、江戸時代を通して大松沢所に鎮し、幕末まで存続した。大松沢氏15代衛実は、戊辰戦争において白河口軍事総督に任じられて戦ったと言う。

 大窪城は、鶴田川北岸の比高70m程の丘陵上に築かれた城である。現在城址公園として整備されており、山上まで車で行くことができる。東西に長い不正多角形の主郭を丘陵頂部に置き、高さ7~8m程の切岸の周囲に腰曲輪を廻らした構造となっている。主郭の北辺と南辺の塁線は内側に歪んでおり横矢を意識している。南辺だけは斜面の斜度がきついため、腰曲輪が置かれていない。主郭東側には横堀を挟んで土壇を有した曲輪があり、一方主郭の西側はやや広い面積の腰曲輪で二ノ郭とされている。二ノ郭の北側にも土壇があり、北西の台地基部を分断する堀切に対する櫓台であったと思われる。二ノ郭の南西斜面には腰曲輪群が築かれ、その南北両端は両側を竪土塁で囲み防御し、腰曲輪群の最下段には横堀が穿たれている。従ってこの腰曲輪群は、側方を竪土塁で、下方を横堀で囲んで防御した構造となっている。更に腰曲輪同士の横矢掛かりが多数あり、かなり厳重に防御していたことが伺われる。訪城した時は晩夏であったが、ちょうど雑草が伐採されたばかりで遺構が非常にわかりやすく、幸運だった。
南西斜面の腰曲輪群→IMG_1602.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.468223/140.991969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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