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江戸崎城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0380.JPG←四ノ郭北側の土塁
 江戸崎城は、常陸南部の戦国大名、江戸崎土岐氏の居城である。江戸崎土岐氏は、元は土岐原氏を称し、美濃の守護大名土岐氏の一族である。土岐光定の子蜂屋定親の子師親を土岐原氏の祖とし、師親の孫の秀成が、関東管領上杉憲方に従って関東に下向し、常陸国信太荘の代官として入部した。この土岐原秀成が江戸崎土岐氏の初代である。江戸崎城の築城は、室町前期の応永~永享の頃(1400年代)と推測されており、秀成の孫景秀によるとされている。以後、5代に渡る居城となった。景秀の子景成が1497年に嗣子なく没すると、十数年間の当主不在の後、土岐原氏は美濃守護である土岐惣領家より治頼を養子として迎えた。その後、美濃では斎藤道三が治頼の兄、土岐頼芸を追放して美濃一国を横領すると、惣領家は没落し、代わって土岐原氏が土岐氏を称するようになった。治頼の子治英の代になると、江戸崎城を中心とした地域と龍ヶ崎城を中心とした地域に分割して、土岐領を二つの行政単位で統治した。その子治綱の代になると、佐竹氏の南下に対抗するため、土岐氏は小田原北条氏の傘下に入った。1590年の小田原の役では、江戸崎・龍ヶ崎両城は、豊臣方の軍勢によって攻め落とされ、土岐氏は没落した。その後、江戸崎城には蘆名盛重(義広、佐竹義宣の実弟)が4万5千石で入部したが、1602年に佐竹氏が秋田に移封となると、盛重もこれに同行し、江戸崎城は廃城となった。

 江戸崎城は、比高20m程の南北に連なる独立丘陵上に築かれている。一番南の台形の台地に主郭があり、南東に一段低い二ノ郭が築かれている。東に向かって車道が降っているが、大手の登城道の跡と思われ、主郭側斜面に腰曲輪が築かれて防御している。また主郭の東から北にかけても腰曲輪が廻らされ、主郭にもこちら側だけ土塁が築かれており、東面と北面からの攻撃を意識していることがわかる。主郭の北には10m程低い三ノ郭があるが、江戸崎小学校のグラウンドに変貌しており、進入も憚られる。三ノ郭の北は四ノ郭で、鹿島神社が鎮座している。四ノ郭北側には大土塁が残っている。その北の車道は堀切の名残であろうか。更に瑞祥院の北東側の小丘陵も出丸で、改変を受けているものの土橋と竪堀が確認できる。市街化の波に飲まれて改変されている割には、比較的旧状を残している。
主郭東側の腰曲輪→IMG_0355.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.954283/140.319185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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