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多賀城(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0353.JPG←政庁まで伸びる南大路の跡
 多賀城は、多賀柵とも呼ばれ、律令国家によって造営された陸奥国府である。奈良時代前半に創建され、国府であると共に鎮守府としての機能も有した古代城柵でもあった。多賀城碑の碑文と発掘調査の結果などから、4期に渡る変遷と次の歴史が明らかになっている。即ち、多賀城の創築(第1期)は、724年、按察使兼鎮守将軍の大野東人による。第2期は762年、藤原朝獦により大改修が施された。しかし780年に伊治公呰麻呂の乱で焼き討ちにあって焼失した。その後再建され(第3期)、802年、征夷大将軍坂上田村麻呂によって北方に胆沢城が新たに築かれると、鎮守府機能は多賀城から胆沢城に移された。869年の貞観大地震で多賀城は破壊を受け、城下には津波が押し寄せて1000人以上が溺死したと言う。被災後に復興されたが(第4期)、10世紀半ばには城柵としての機能を失った。
 古代城柵としての歴史はここで一旦終りを迎えるが、その後の前九年の役・後三年の役でも軍事拠点として使用された。1333年の建武の新政では、後醍醐天皇の命により北畠顕家が陸奥国司・鎮守府大将軍に任じられ、皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、父北畠親房と共に多賀城に下向して奥州府を統治した。しかし発掘調査ではこの時期の遺構は確認されておらず、南北朝期の陸奥国府の正確な所在は不明である。尚、作貫地区では中世の豪族の居館跡が検出されており、建武期の奥州府がここに置かれた可能性もあるのではないだろうか。足利尊氏が後醍醐天皇から離反し、南北朝の抗争が始まると、多賀城は北朝方の激しい攻勢に晒され、1337年正月、顕家は遂に多賀城を放棄して霊山に陸奥国府を移した。その後、奥州探題として入部した大崎氏が大崎地方を本拠とするようになると、多賀城は歴史から姿を消した。

 多賀城は、現在国指定の特別史跡として整備されている。砂押川と加瀬沼の間にある丘陵一帯を城域に取り込んだ広大な城柵で、外周には築地塀の跡が土塁状の高まりとなって延々と残り、北東部には東門跡、南面には南門跡が発掘復元(基壇のみ)されている。また中央には政庁跡があり、やはり基壇などが復元整備されている。そこから谷戸を挟んだ東の丘陵上(作貫地区)には古代の役所跡とともに中世の豪族居館も確認されており、広い城柵内でここだけ、土塁と空堀が残っている。江戸時代にはここに、鹽竈神社の神官の屋敷も置かれていたらしい。外郭南西部には西門もあったようだが、そこは民有地のせいか整備されていない。この他では、城内の石敷き道路や、政庁跡から南門を貫通して一直線に南に伸びる大路も復元整備されている。城内は起伏に富んだ丘陵地で、宮沢遺跡と同様な構想で作られていることがわかる。私は、古代城柵フリークではないので、あまり強い感慨は抱かなかったが、日本古代史好きの人には必見の史跡であろう。日本三古碑の一つである多賀城碑も必見。
外郭北東の隅櫓跡→IMG_8686.JPG
IMG_8734.JPG←作貫地区に残る空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.306574/140.988386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古代城柵
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