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和歌城(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8014.JPG←二ノ郭に残る土塁
 和歌城は、室町時代にこの地の土豪和歌氏の居城である。文明年間(1469~86年)に下妻城主多賀谷氏の勢力が鬼怒川以西にも及ぶと八千代地方の土豪達もその旗下に入った。永正年間(1504~21年)末に和歌十郎が小田原北条氏に通じていることが露見し、多賀谷家植は飯沼城主赤松民部に命じて十郎を討ったとされる。その後、和歌城の管理は赤松氏に委ねられ、徐々に城郭として整備された。この間、北条氏の北総侵攻により、焼き討ちに遭うこともあった。1589~91年には、多賀谷重経の長男三経が和歌城に仮住まいした後、太田城に移り、和歌城は改めて赤松氏に授けられた。1601年、結城氏の家督を継いでいた徳川家康の次男結城秀康が越前に移封となると、秀康の家臣となっていた多賀谷三経も家臣団を引き連れて越前に移り、太田・和歌両城は廃城となった。
 尚、この歴史の中で出て来る赤松氏は、南北朝史に名高い播磨の土豪赤松円心の後裔とされ、足利一族の内訌、観応の擾乱で直義党に属して各地を転戦した赤松佑弁が、駿河薩埵山の戦いで大敗し、この地に落ち延びてきたとされている。その一族の墓が不動院に残り、また和歌城内に佑弁の供養塔が建てられている。

 和歌城は、低湿地帯に囲まれた半島状台地に築かれている。城内は耕地化されて相当に改変を受けている。現地解説板の縄張図によれば、土塁と空堀で囲まれた3つの曲輪で構成されていたらしい。それに従うと、改変されながらも主郭・二ノ郭の塁線は概ね追うことができ、二ノ郭には東西に土塁が僅かに残っているのが確認できる。薮の中にも北辺の土塁と船入場が残っているようだが、夏場だったので確認していない。城内に残る赤松佑弁供養の五輪塔が、歴史を物語っている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.179696/139.905267/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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