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宮沢城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7081.JPG←僅かに残る本丸土塁
 宮沢城は、江戸時代には伊達21要害の一、宮沢要害と呼ばれた城である。伝説では平安時代に藤原秀郷が拠った所と言われるが、「なぜ下野本拠の豪族が奥州に?」ということで、元より信ずるに値しない。室町時代には大崎氏の支城であり、その家臣葛岡太郎左衛門が拠り、次に宮沢遠江、或いは岩崎讃岐義久が居城にしたとも伝えられるが、大崎氏支配時代の歴史は失われており、詳細は不明。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏が改易され、その後に入部した木村氏の圧政によって「葛西大崎一揆」が勃発すると、大崎方の拠点となり、岩崎讃岐父子、岩崎伯耆、鎌田彦右衛門、飯塚次郎右衛門、芳賀蔵人等が宮沢城に立て籠もって、城周辺の河川や堀を堰き止めて城の周囲に水を引き入れ、伊達勢の攻撃を阻止したが、和議によって落城したと言う。一揆鎮圧後、大崎領が伊達政宗の所領となると、宮沢城には伊達氏の家臣後藤康之が一時居城とし、その後、出羽国長井庄小国城主の上郡山常為が宮沢城に移封された。元和の一国一城令で、城の名を去って宮沢要害と称した後も上郡山氏の9代140年間にわたる居城であったが、1747年に長沼致信と所替となり、幕末まで長沼氏が在城した。

 宮沢城は、小河川に挟まれた平地上に築かれた城である。現在は民家や耕地化により遺構の殆どが湮滅している。はっきりと残っているのは、八幡神社が建っている本丸土塁の残欠ぐらいで、あとは道の形にかつての堀や曲輪の形の名残を残しているに過ぎない。非常に残念な状態である。
 尚、城の西にある光岳寺には上郡山民部太夫景為(常為の養子)の墓が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.625823/140.941522/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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