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高清水城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7029.JPG←主郭南辺部の土塁
 高清水城は、江戸時代には伊達21要害の一、高清水要害と呼ばれた城である。天文年間(1532~55年)に大崎氏9代義兼の3男高清水直堅によって築かれたとされる。直堅の長男直隆は、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏が改易となると、城を召し上げられた。大崎領は秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられたが、同年10月、木村氏による圧政によって「葛西大崎一揆」が勃発し、高清水城も一揆勢に攻略された。乱は伊達勢によって鎮圧されたものの木村氏は一揆勃発の責任を問われて失脚した。一揆が鎮圧されると大崎領は政宗に与えられ、1604年には伊達氏の重臣で涌谷城主であった亘理重宗に、高清水城が隠居領として与えられた。1606年、政宗の庶子宗根が亘理重宗の娘を娶って入嗣し、亘理家の名跡を継いで高清水城を居城とした。以後、亘理氏の歴代の居城となり、元和の一国一城令以後は、高清水要害として城の名を除いた。1757年、亘理氏は佐沼要害へ移り、替わって石母田興頼が高清水要害に入り、以後石母田氏の居城となって幕末まで存続した。

 高清水城は、透川北岸の段丘上に築かれた城である。城内は市街化が進んでいるが、部分的に遺構が残存している。主郭には現在、高清水中学が建っているが、校地は主郭の北側半分に過ぎず、主郭南半は畑となっており、南辺部には土塁が良好に残っている。また土塁の内側に水堀の沼が残存している。現地解説板の古絵図にも記載されている沼地で、往時からのものであり、湧水があるらしい。この他、二ノ郭の土塁と堀跡が断片的に残存しており、外濠公園などとなっている。遺構の改変が進んでいるものの、思ったよりも遺構が残されており、地勢も往時のままであるので、城の雰囲気はよく感じられる。
主郭南部に残る水堀の沼→IMG_7038.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.654231/141.015658/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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