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髻山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3352.JPG←腰曲輪に残る石垣
 髻山城は、戦国時代に上杉甲越両軍の抗争の場となった善光寺平の北端の要害である。上杉謙信による築城と伝えられ、城の東側には中世の主要道路(神代坂)が通っており、野尻城・飯山城から横山城への進軍ルートを結ぶ中継点であった。1561年の第4次川中島合戦では、上杉方の武将宇佐美定行が立て籠もって武田勢と戦ったとも伝えられているが、定行自体の実在が疑わしいので(一般的には、宇佐美定満をモデルにした架空の武将とされる)何とも言い難いが、上杉勢が後方支援部隊或いは予備兵力を控えとして置いていたぐらいはあったであろう。第4次川中島合戦の後は、武田氏が善光寺平をほぼ手中に収め、髻山城も武田方の持ち城となったらしい。これは1564年9月、謙信の重臣直江実綱が堀江宗親・岩船長忠両氏に宛てた書状の中に「敵もとどり山へ小旗4・5本にて、毎日武具致すよし候」とあり、武田方の利用が確認されている事による。長沼城が築城されて以降、髻山城は特に重視されたものと考えられ、1582年の武田氏滅亡後に川中島4郡を支配した上杉景勝にも利用されたと推測されている。

 髻山城は、北国街道の西側にそびえる標高744.4mの山上に築かれている。城は大きく3つの区域から成っている。中心は山頂の主郭を含む主城部で、楕円形をした土塁で囲まれた主郭と東面から北面・西面にかけて廻らされた数段の腰曲輪で構成されている。主郭には東西に虎口があるが、東虎口は腰曲輪に繋がっているが、その先は藪が多く、腰曲輪の形状をはっきり捉えることができない。西虎口は石垣を備えて防御しており、大手と推測される。北に降って2段目の腰曲輪はカタクリの群生地になっており、踏み荒らさないよう注意が必要である。この腰曲輪を奥に行くと、北東角の切岸にもわずかに石垣が確認できる。一方、主郭から西に降っていくと、独立した物見台が屹立している。ここから更に降ったところに2つ目の区域の遺構が現れる。扇状に緩斜面に帯曲輪群を連ね、その外周を竪堀・横堀で防御した区画で、特に最下段の横堀はしっかりと穿たれており、下方からの敵の接近を阻止する塹壕として機能していたことがわかる。謙信が馬を隠したという言い伝えから、「馬隠し」と呼ばれているらしい。3つ目の区域は北斜面にあり、ここにも横堀・竪堀がL字状に穿たれている。ここは藪が多いので未踏査だが、明確な曲輪はあまり無い様だ。一方、主郭の東側はかなり荒れており、斜面が崩落している様である。どうも採石場の跡らしく、崩れた石がゴロゴロし、切り立った崖に阻まれている。髻山城は、大きな城でもなく、また技巧性も無い縄張りなので、あくまで中継点の砦と言った趣である。尚、この城には北東麓から登るのが正で、私は間違って崩落した東斜面からアプローチしてしまい、大変な目に遭った。
馬隠しと呼ばれる横堀→IMG_3457.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.720345/138.243477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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