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金砂山城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1370.JPG←本殿の建つ岩山
 金砂山城は、佐竹氏の居城常陸太田城の詰城に相当するような城であった。1180年、坂東の武士団を傘下に収めた源頼朝は鎌倉を制圧したが、常陸の佐竹氏は頼朝に帰順せず抵抗していた。富士川の合戦で平家の追討軍を退けた頼朝は、上総介広常らの意見を容れ、同年11月4日、佐竹氏を討伐した。この時佐竹氏3代秀義は、本城の常陸太田城を捨てて、天険の要害、西金砂山に金砂山城を構えて立て籠もり、応戦した。頼朝は数千の大軍で攻撃したが、金砂山城の天険に苦戦し、上総介広常の策により秀義の叔父佐竹蔵人義季を内応させ、搦手に当たる諸沢口から密かに攻城軍を案内させた。不意を突かれて金砂山城は落城し、秀義は花園山に逃れた。頼朝は、佐竹氏の所領を没収して部下の論功行賞に充てたが、後の1189年に佐竹秀義は頼朝に降伏し、御家人に列して、常陸北部の旧領の領有を認められた。しかし鎌倉時代を通して、佐竹氏は不遇の時代を過ごすこととなった。南北朝時代になると、佐竹貞義は終始一貫して足利尊氏に従って北朝方として常陸南朝方と交戦し、再びこの金砂山城の天険に頼って籠城戦を展開した。北朝方に与した結果、佐竹氏は常陸守護職を与えられ、鎌倉時代の不遇から一転、大きく勢力を伸ばすこととなった。室町時代中期に生起した佐竹一族の内訌「山入の乱」では、佐竹氏の当主義舜は1490年、山入氏義に居城の常陸太田城を逐われて、外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は孫根城を攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は勢力を盛り返し、常陸太田城を奪還して復帰した。こうして3度に渡って危急存亡の縁に立たされた佐竹氏を救った金砂山は、佐竹氏開運の山として崇敬された。

 金砂山城は、西金砂神社の境内がそのまま城となっている。神社登り口の前にある方形の高台(現在は畑地)が館跡とされ、その東側にそびえる山は物見台であったらしいが、明確に削平された様子がなく、遺構かどうかよくわからない。また神社の本殿のある山もほとんど自然地形の岩山で、断崖に囲まれた地形そのままで遺構は不明瞭である。参道脇に物見台跡らしい地形が散見される程度である。残念ながら城郭遺構としては見るべきものは少ないが、佐竹氏開運の神社ということでお参りするつもりで行くのが良いかもしれない。
館跡とされる高台→IMG_1387.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.657196/140.451086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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