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神明城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0043.JPG←主郭全景、部分的に土塁が残存
 神明城は、武田城とも呼ばれ、常陸武田氏の初期の居城である。常陸武田氏は甲斐武田氏の一族で、上杉禅秀の乱の際に禅秀方に付いて敗北し、その一族の武田信久が甲斐から逃れて常陸南部に移り、隠れ住んだことに始まる。神明城は、この信久が応永年間(1394~1427年)に築いたとされる。その後の1533年、武田氏8代民部大輔通信の時、新たに木崎城を築いて居城を移したと言われている。その後の神明城の動向は不明である。

 神明城は、国道354号線の北側の半島状の微高地に築かれている。北には武田川が流れており、往時は周りを低湿地帯に囲まれた要害であったのだろう。縄張りは、昭和20年代の航空写真を見ると、微高地の上に先端(北)から主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭を堀切を介して連ねた連郭式であった。現在、四ノ郭は民家や畑に変貌し、大きく改変されて湮滅している。現在国道が貫通しているのが、三ノ郭の空堀に当たる。三ノ郭は、前述の航空写真からすると、実質的に二ノ郭の馬出しとなる曲輪で、最も規模が小さい。二ノ郭は全体にクランクした形状の曲輪で、西辺と南辺に張り出しの櫓台を設けて横矢掛かりを意識している。主郭はほぼ方形の曲輪で、やはり西辺に張り出しの櫓台を設けている。また主郭・二ノ郭とも堀切はやや歪んだ形状で、横矢掛かりを意識している。主郭・二ノ郭の周りには一段低く腰曲輪が取り巻いており、主郭の北東にある神明神社付近に、土塁や堀状の溝地形が残っている。これらは北側の低地帯に対する防御であろう。この他、主郭・二ノ郭に部分的に土塁が残存しているが、耕地化による改変があるので、全周に土塁が築かれていた可能性もあろう。各曲輪を分断する堀切はものすごいガサ薮に埋もれていて、その形状を把握することができない。遺構は比較的よく残っているので、もう少し整備されればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.103139/140.490460/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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